京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

好い日だった

2023年02月28日 | 日々の暮らしの中で
良い天気だったのでおにぎりを作ってお茶持って、風に吹かれ陽を浴びに出た。
帽子が吹き飛ばされるほどの風も吹いたけど、あたたかなニ月尽の午後を楽しんだ。
枯草の中に草の芽ばえが色鮮やかで、足元近くには小さな花を見るようになった。


今日は娘も朝からシティの図書館へ出向いたようで、「今、ボタニックガーデンにいる」と言ってきた。初めて連れて行ってもらったのは孫娘がお腹にいるときで、歩けるようになってはパープル系のワンピースをひるがえしてはしゃぎ回った日のことなど、一緒に懐かしんだ。
韓国料理店で行列し、食べたら帰ると。午後は子供二人の迎えが待っている。

仕事のない日に、わずかな時間だけれど一人の時間を楽しんでいた。興味や好奇心が突き動かす「ひとりあそび」は、いくつになっても女の人を若々しくするって、田辺聖子さんがね。
そして、「なるべく、人生、〈いそいそする〉ことが多いといいんだけどな」ってよ。
さまざまな生き方があり、人生の楽しみ方も人それぞれにある。

日に日に春めくこれから。楽しみごとを一つでも多く見つけていかなくっちゃなあ。何もする気がしなくて、無駄に過ごしたと思える日もあるけれど、きっとそれも意味がある一日に違いない。


青い空に映える、みごとな紅梅を見あげることもできて、今日は好い日だった。

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奇跡と呼ばれた映画

2023年02月25日 | 映画・観劇
「SNSで話題になり異例のヒットを続けたが、共産党大会を目前にした昨秋から突然上映されなくなった、と欧州メディアが伝えている。真相は不明だが、貧しくとも正直に働いて人を思いやる者が搾取され、不平等が拡大する「近代化」の現実への批判だと睨まれたのか。」


中国映画「小さき麦の花」を見た。館内の掲示物に、このようなことを伝える記事があった。
中国の若年層にヒットした映画のようだ。

家族から厄介者扱いされていた二人が結婚させられた。妻の方には手と足に障害があった。
いいように利用され、こき使われて、それでも抵抗することなく寡黙で、すべてを受け入れて生きている。しかし彼は勤勉で正直者だった。
言葉少なだが心を通わせ、いたわりあい慈しみあう。彼らに表情が生まれてきた。たくましさもあった。
貧しくとも慎ましい喜びのある二人の暮らしに、誰かがやってくる。車が近づく…。
もう、疫病神でしかない。

「農民は土を離れて生きていけない」と妻に話す。土地を耕し、小麦の種を蒔き、トウモロコシやジャガイモを育て、収穫に励む。命をつなぐために働くしかない日々の忍耐の強さ。
選択肢などはなく、そうやって生きるしかないとわかっているだけに、見ている側には重くもあった。

町のアパートに入居希望の申請をするのも言われるがまま。そんなある日、妻は川に落ちておぼれ死んでしまった。
国の政策で、空き家を解体するとお金が入る。収穫物も一切を売り払い、二人で造った家を壊す。町での入居が決まっていた。

農民が土を離れ、災厄を一人で抱え込まなければならない日々に、つかめる希望があるだろうか。





古木の白梅はようやく蕾。空洞になってしまっている幹だが、全ては根から得る滋養のおかげ。
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夢中でプレーする子が

2023年02月23日 | HALL家の話

学校の先生の推薦(必須)があって、孫のタイラーは一昨日、ブリスベン北部のAFL選抜チームメンバー選出のトライアルに参加した。

日本で練習してきた“ラグビー”とは少し異なり、昨シーズンからの加入でもあって経験は浅い。クラブ内から数人のグループでの参加者が多いようで、周りは見知らぬ顔ばかり。
「上手くゲームに入り込めず、プレーに参加できていなかった」と母親はブンセキする。
そして、持っている力が発揮できていたらなあと残念がった。「特別にうまくて目立つというより、夢中でプレーしていた子たちが選ばれていたわ」

それだ!って思った。ラグビーの経験なら相応に積んでいる、経験云々ではないのだ。
緊張、気後れはあるかもしれないが、がむしゃらに、夢中でその場に飛び込んでいくひたむきさを表に出せない、出さない。
関係ができていれば問題ないだろうが、それでも周りを見て、どう動けばいいか、立ち位置を考え言動に移すところがある。もちろん、彼の良い一面だと理解している。
「性格が出てるね」と母親と笑った。

環境や関係の中で経験を積んで、一つステップがあがれば新しい輝きも見えるのだから、しり込みしないで次に生かしてほしい。
3月にはサッカーでのトライアルに推薦してもらっている。何年振りかの推薦者(選出されるには容易ではないけれど)だという話だから、たじろがずにガンバレよー。
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けじめなく売る

2023年02月21日 | こんなところ訪ねて
「なにもかもけじめなく売る」弘法市へ。


夜来の雪に積雪が見られ、早朝は大きな雪がしきりに降り続いていた。
東寺の弘法さんに行く約束の日だった。
市内でも南と北で雪の降りようには差がある。案の定、風は強かったが雪はみられなくて、青空が広がっていた。
初めてだという友人は、大阪からにこにこ顔でやってきた。見歩く楽しみ心を持てば十分だと思う。

大正の終わりから昭和の8年まで京都に住んでいた柳宗悦。
彼はその在住の折、朝市にはずいぶんと心が誘われたという。ただ、もう当時すでに物の質は落ちていたようだ。




「大体こういう朝市には、何も名のある立派なものは出てこない。だから、評判などに便(たよ)ってものを見る要もない。こういう所こそ誰もに自由な選択を求めているのである。」と『京の朝市』で書いている。

欲しいものがあれば買い求める。掘り出し物としての値打ちを持つかどうかは、ものとのお付き合いの日々にかかると思えば気楽ではないの。

「この股引どうやあ。町で買うたら1000円はしますえ。390円安いよ。日本製だからねー。のびるよ」
腰をかがめ、誰にいうともなく老店主が声を上げていた。婦人物のタイツみたいだったけどなあ…。肌着に古着、帽子もある。
店主は5枚で薦めるが、一枚だけ、400円で小皿を買う男性がいた。


大玉の津軽林檎を手に持って、どう店主を振り向かせればいいのかわからない外国の女性。お連れさんが「スミマセン」と教えている。「スミマセン」と呼んだら振りむいた。
3種類のうちコーラ味を選びたがっていた外国人家族。店主はひたすら手のひらを差し出し代金を要求…。なんかちぐはぐだけど、なれているのかな。見ていてちょっと不安になった。
こうしたやりとりを見聞きし歩くのは楽しい。


南門の下に店を広げた餅屋さんで、黒豆入りの餅を2袋買う。
友人は中鉢を一つ買っていた。すぐき、干し柿も。餅を一袋、重くなるけどおすそ分け。



なにもかもけじめなく売っていた。
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キャンバスにイメージを

2023年02月19日 | 日々の暮らしの中で
文章仲間の集いに場所を提供し、中高生は欠席で大人ばかり11名の参加があった。
正面や背後で阿弥陀さまも聞いておられる。義母の言葉を借りれば「ほとけさんはお見通し」で、受験生の辛さも努力も見ていてくださるよ。
喜びの春は待ち遠しいが、この先の人生はまあだまだ長い。

地元紙に掲載された公立高校入試問題から国語の大問「一」と「二」を切り貼りし、拡大コピーされたものが目の前に置かれた。解くのではなく文章を読み合わせようという。
【一】の出典は李禹煥(りうふぁん)「両義の表現」より、とあった。文中から画家であることを知る。

「原始時代は洞窟壁画に見られるように、絵は自然の暗い岸壁に描かれた。そして農耕時代では神殿の壁、時が下ると教会の壁そして宮殿の壁になった。その後産業社会が興り、住居の概念が変わりつつ移動する壁つまり板や布、紙などによるキャンバスが登場し、幾度の変化を経て今日のそれに至っている」

出だしはよかった。空間と絵が一体化して場所性を持っていたのが、フレームに閉じ込められ、現代になってはフレームも外された。
“絵は三次元の物体”。“しかし単なる物体ではない”。・・・こうなると…。
先ぎ頃“異次元”って言葉を耳にしたが、あれはどこへ。
根気を失い、半ば思考停止。で、どう締めくくろうというのかと、こっそり最後の部分へ飛んでいた。
時間制限がある中では文章をじっくり味わう必要などないが、孫娘の日本語力ではチンプンカンプンだろう。

「人は誰しも、有形無形のキャンバスを用意している」。在りよう用いようはさまざまだが、「無形の想像の野から出発して、有形のキャンバスにイメージを表す」…。
原稿用紙を用意して、「書く」という行為もイメージを「一層鮮明に」させ、輝きを広げる。「輝きを広げ」「想像の羽をもつ」、かどうか。
ただ、画家の手順と似たような道を私たちも辿っているのだな。
書くことも〈SHOW and TELL〉ですねと言われたかつての師の言葉がふいに思い浮かんだ。


深く考えることもないままに京都国立美術館で開催中の「甲斐荘楠音(かいのしょうただおと 1894-1978)の全貌」展に行ってみた。

 

彼の作品を〈美醜を併せ吞んだ人間の生〉と表現している言葉に引かれて。
人は誰しも他人には見せない顔を持つ。単にそこから発した興味だった。

 


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愛のこめられた声

2023年02月16日 | HALL家の話

「声は触覚的だ」

生まれた瞬間から赤ん坊をあやす母親の声は、スキンシップとしての喃語で、脳と同時にからだ全体に働きかける。愛のこめられた声によって言葉を知り、言葉を覚えていく。
「声は触覚的だ」と谷川俊太郎さんが言われていた(『声の力  歌・語り・子ども』河合隼雄 阪田寛夫 谷川俊太郎 池田直樹)。

言葉を音として、声として、耳と口を通して覚える。わらべ歌も昔語りも、声にその源をもつ。
声の持つ不思議な力。
アメリカでは、「読みきかせ」よりも、自分の体が覚えた話の「語り聞かせ」の方がはるかに聴衆を捉えるという話もあった。

              かわいいお口をあけて
               
「人間に生まれてきて誰に教わらないでも一緒に歌えるのがわらべ歌だ」とは阪田寛夫さん。
日本で生まれ、3年半近くを日本で暮らした孫のLukasが知るわらべ歌は何だろうか。「かごめかごめ」など歌っていただろうか。
   ♪とんぼのめがねは みずいろめがね 
     あーおい おそらをとんだからー とんだからーーー
保育所に通うようになって、大きな声で歌っていた。
一緒に歌うと「えっ!? 知ってるの?」と驚かれたものだ。

そんな彼が1年生になって合唱部に「はいった」と言った。確かに言った。
「そうなん、合唱部に入ったのね? そりゃいいわあ、いいねえ」
すかさず母親の声が聞こえてきた。
「えっ、はいったの!?」って。

昨年末の合唱祭で壇上で歌った楽しさもあったのだろうが、クラスで一人声を上げて歌っていることがあるらしい。
なんでもいいの、いろいろ体験してほしいなあと外野は勝手に望んでいる。
「合唱部のルーカス」を楽しみたい。

              あちらにピアニカはないという。
                  

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興味と忘れ物の同居

2023年02月14日 | こんなところ訪ねて
今、NHK Eテレの番組・100分de名著では、昭和5年9月に20歳で入院し、23歳で亡くなった北条民雄の著書『いのちの初夜』を取り上げているので、テキストなしで聞いている。昨夜が2回目だった。

ハンセン病と宣告された人々が、どのような苦難の道をたどったのか。
世間と隔絶された施設で自分の居場所を見つけ、生きるしかない。「ライ病患者になりきって生きる」とは。

先週1回目を聞いたあとだった。


佛立ミュージアムで開催されている「社会福祉と仏教展」に足を運んだ。北野天満宮から少しだけ南にある。
日本の最初の「福祉」とされる光明皇后・聖武天皇による悲田院、施薬院の創設。行基等の社会活動。
そして本門佛立宗が担ってきた福祉活動として、ハンセン病患者の施設の様子や、入所している児童、中高校生たちの詩、俳句、短歌が紹介されていた。内容はさらに近代福祉と仏教の関係へと及んでいた。

光明皇后や行基のことは、最近歴史小説で読んでいたこともあって関心を持って掲示物を拝見して歩いた。
そうした中、葉室麟さんの小説のタイトルがどうしても思い出せず、それにくわえて、ハンセン病の話題もどこかで最近聞いたなあ…と言う始末で、終ぞ思い出せずじまいだった。
なんということ!?
それに、この日まで「本門佛立宗」を知らずにいたし…。

 ヤマボウシ

北条民雄の作品集が創元社の岩波文庫本に並んでいたのを見つけたが、性急に買わずに機会を待とう。
先ずはあと2回、中江有里さんの解説、伊集院光さんの感性豊かな読みに耳を傾けてからのことにしよう。


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初雛のまま

2023年02月12日 | 日々の暮らしの中で
飾り台を組むのに手間取ってしまったが、真っ赤な毛氈で覆うと仏間は華やかな座敷に一変し、やれやれの思いだった。
雛のハレの日だから、この時季だけは仏さまには後方から見守っていただくことになる。



桐の箱から一体ごと取り出して、顔を包んでおいた薄紙をはずす。一番わくわくするのが、この瞬間だろうか。

   箱を出て初雛のまゝ照りたまふ  

(きれいなお顔ですねぇ。またお会いしましたね)
年に一度、渡辺水巴の句が口にのぼる。



“京都式”は男雛が向かって右とは承知の上で、両親が孫の初節句にと贈ってくれた吉徳さんの飾り方に倣ってこれまできた。
桃の花を飾り、雛あられを供えよう。雪洞に明かりを灯して。

飾りつけの進み具合を確かめるように何度も姿を見せ、「きれいやなあ。きれいやなあ」と口にしていた義母の声もない。
遠く離れて暮らす娘と孫娘Jessieの幸せを願って、三月三日は華やかに彩ったばら寿司をそえましょかね。
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空から、土から微かに動く

2023年02月09日 | 日々の暮らしの中で

こんな小さな芽を見ていると、必ず思い浮かべる。

「『土』という漢字の縦に下ろす垂線は、逆に下から上に突き上げるようにして書かなければつまらない」
この榊莫山独特の思いがこもった発想に、土中から春の光を求めて蠢く力のほとばしり、エネルギーを感じ取っている。

昨日2月8日は長塚節忌だった。農民文学として名編の『土』を残した。
貧しい農民の暮らしぶりが自然とともに克明に描かれているが、その中に、「春は空からさうして土から微かに動く」の一文がある。
毎年この時季、この好きな一文を最も身近に置いて過ごしている。

グンとひと伸びしそうな陽を受ける日があるかと思えば、今日は肩をすくめる風の冷たさだった。近づいたかと思うと遠のく春の気配。それでも季節は巡る。
目を凝らし耳を澄ませ、…今日も小一時間歩いた。

       桜が咲くにはまだたっぷりと時間がかかる。
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思い通りにならない

2023年02月07日 | こんな本も読んでみた
    

「『虫養い』、いう言葉が大阪にはあるんや」

年の瀬に、駅のホームにある立ち食い蕎麦店で働く祖父を、東京から中学生の孫が突然訪ねてきた。理由は言わない。
仕事は虚しくないのかと尋ねる孫に「ムシヤシナイ」という言葉を教え、「とりあえず何かを食べて腹の虫をなだめ、力を補う」役目を大事に思うんやと話して聞かせた。
親子の関係がうまくいかず、「親父を殺すかもしれない」と深刻だったが、晴れやかな顔つきで帰って行く。


高田郁さんの短編集『ふるさと銀河線 軌道春秋』の一編にある。
一家を養う夫のリストラ。15歳少女の進学問題。息子を亡くした夫婦の悲しみ。突然病魔に襲われる…。慎ましい暮らしに生じる問題は身近だった。
読み終えた余韻の中、東京にある存命寺住職・酒井義一氏が書いておられたことが思い出されるのだった。

「人間がこの世で感じる苦しみを一言で表現すれば、『思い通りには生きていけない』という言葉で言い尽くされるのではないでしょうか」

だが、思い通りにならない現実だからこそ、思いもしていなかった言葉や人との出会いがあり、大切な気づきも与えられる。

浄土真宗本願寺派の勧学を勤められた山本仏骨氏が、死の直前に病床でつぶやかれたという
「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」という言葉が引かれている。
― たとえどような状況に身を置いたとしても、いつでもどこでもどんな時でも、み仏の光は人間をけっして見捨てずに、照らし続けているということです。

翻弄されながらも、幾多の言葉や人との出会いに息をつき直し、生きる力を貯め、みっともなくても生きようとする姿に安堵し、感動する自分がいて、生きるって、こういうことの繰り返しだと思ってみたりする。
そして、静かに自分の暮らしの隅々を見つめていく…。
                  (少しずつ濃くなる色味に、開花が待ち遠しい)

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種まきせよと

2023年02月05日 | 日々の暮らしの中で

週末はともすると人の出入りがあって家をあけられない。事情を知る友人が訪ねてくれた。なかば押し付け、置いて帰ったのが『住井すゑ対話集』全3巻のうちの「1 橋のない川に橋を」だった。

『橋のない川』(住井すゑ)を全巻単行本で読んだのは、ずいぶん昔のことで、黄ばんだ本を処分してしまって久しい。先日、新潮文庫の新刊本が書店に並んでいたのを見つけたとき、もう一度読みたいと思っていたことを友人に漏らしていたのだ。

「おもしろい本ばかりを読んでいては、本をおもしろく読むことはやがてできなくなるだろう」
古井由吉さんは「森の散策‐『老境について』キケロ著」と題したエッセイでこう書き始めていた(『読む、書く、生きる』収)。

「あれはおもしろいの、おもしろくないの、と人は気安く言う。それでその本の値打ちはすっかり踏めたかのように。しかしそれよりも先に、自分のほうの読解力や感受力や、事柄への関心の厚い薄いを、ひそやかに踏んでみるべきなのだ。今の世の人間は自分の知らない事柄へとかく憎悪を抱きやすい。残念ながらこちらの興味が湧かなかった時には、本とも淡々と、悪声を放たずに別れたいものだ」


そして、『老境について』を読んだときのことに話は及ぶ。
―自分に間もなく来るはずの老境なのに、読んでいて役に立たない、おもしろくない。
どうして古代の賢人の言が自分に用をなさないのか。それを虚心に思ったという。すると、
「今の世に生きる自分の年の積み方の取りとめなさがかえりみられ、そうなる訳も眺められ、やがてさかさまに身につまされ、おいおい面白くなる」「身にいたくこたえる言葉につぎつぎに行きあたる」。

「おもしろいのだか、面白くないのだか、よくわからず辛抱して読むうちに、読む側の関心のありようを教えてくれる本はあるものだ」

友からの思いがけない一冊には、同じ方向ばかり見ていないで、もっとやわらかく耕してといった心遣いがひそんでいるに違いない。
固くなった土壌。春だから種まきをしてみようか。






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懸想文を売る

2023年02月02日 | こんなところ訪ねて

聖護院に近い須賀神社では、節分の日に(その前日と)「懸想文」という独特のお守りが、
烏帽子に水干姿の懸想文売りによって授与される。

平安の昔から京の町々で買い求められたという。
肩に掛けた梅の枝に恋文をつけて売って歩くと、若い娘が飛び出してきたとか。
古くは、祇園社に仕える「絃指」、「弦召」(つるめそ)と呼ばれた人たちが、弓の弦を「つる召そう」と言いながら門付けをして歩いたようだ。
弓の弦をはじくって、神事でもあり、正月のめでたさにも重なるのではなかった?

 

一時途絶え、江戸の前期から、後期には復活したが、ふたたび明治になくなった。
それが今、須賀神社で行事として行われている。
この文を鏡台やたんすの引き出しに隠して入れておくと、顔・形が一層よくなって良縁が早まり、着物も増える、というご利益があるそうな。


古代から中世、近世と、都にはさまざまな職能でもって祝福芸能を担う人たちがいた。
1676年刊『日次(ひなみ)紀事』の正月の項に、

【 此の月初め、(中略)西宮傀儡師・万歳楽・春駒・鳥刺・鳥追・猿舞・大黒舞、人家に往て芸術を施す、(中略)
清水坂の絃指(つるめそ)、赤布を著し、白布を以て顔面を覆ひ、わずかに両眼を露して、紙符を市中に売る。是を懸想文といふ、俗間男女これを買て、男女相思する所の良縁を祈る、(後略)】

といった記述がある。
京都の年中行事が詳細に記されてあり、信用度は高いと聞いた(講座:都の祝福芸能者たち ーその集住地と職能)。

前回来たときほどの人出はなかったが、氏子さんや関係者が広くはない境内にたくさん詰めておられた。
見るだけ~。興味本位丸出し。多くはみんなそうだろうと思いながらも、もろにカメラを向けるのが申し訳ないような。
で、ささっと数枚撮らせていただいた。
縁起物、買ってみればよかったのかな…。
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