京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

たのしむとは

2023年09月30日 | 日々の暮らしの中で
夕刻になるといまだに小さな星の形をしたハゼランの花が開く。
こぼれ種から後追いで花茎を伸ばしたものも多く、お米のとぎ汁をかけ回していたら、ガマ夫(茶色の蛙)が飛び出してきた。
このところさっぱり姿を見せなかった秋の蛙クン。
昨夜は虫の音を伴奏に、中秋の名月を見あげただろうか。素晴らしい月夜だった。



コオロギの鳴き声を聞きながら、4歳前頃の孫のLukasが「虫からの電話」とつぶやいたという話を思いだした。
虫の音に3歳の心を傾けて、楽しんでいたか。

「マミィちゃん、でんわだよ~」
「るーちい、代わりに出てちょうだい」
「もしもし・・・」
なんだって?

〈こころは感じることをたのしむ〉か、いいなあ。


 「静かな日」  長田弘
   目は見ることをたのしむ。
   耳は聴くことをたのしむ。
   こころは感じることをたのしむ。
   どんな形容詞もなしに。

   どんな比喩もいらないんだ。
   描かれていない色を見るんだ。
   聴こえない音楽を聴くんだ。
   語られない言葉を読むんだ。

   たのしむとは沈黙に聴きいることだ。
   木々のうえの日の光。
   鳥の影。
   花のまわりの正午の静けさ。


           
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萩花咲けり見に来ませ

2023年09月28日 | 日々の暮らしの中で
  わが宿の萩花咲けり見に来ませ
      いま二日だみあらば散りなむ


〈私の家の庭の萩が、花をいっぱいつけました。見にいらっしゃいませ。もう二日ほどしたら散ってしまいましょう〉(訳・伊藤博)

秋相聞の部に入る歌。きっと、待ち人はなかなかおいでになりませんのですね。萩の花が散ってしまう前には、懐かしいあなた様にお目にかかりたい。
そんなはるか古の万葉人の心情も、ようよう今に酌めます。


「萩、すすきに曼殊沙華も添えて瓶に挿し、月の出を待つ」前登志夫さんに倣ってみたいという気持ちはある。そして、月光に二つの椅子を並べ置こうか。
曼殊沙華を十数本束ねて花瓶に挿すなど私には経験のないこと。
「あら、死びと花なんかを家の中に飾るの!?」

そんな感覚が変わったのは、奈良の志賀直哉旧邸を訪れたときだった。行くところ部屋部屋に曼殊沙華が飾られていた。花の部分だけだったり、ほんの数本を茎は短くして。ちっともいやではなかった。

月に群雲だったが、周囲を群青に染めながら見事な輝きを放つ月が顔を見せた。
明日は中秋の名月。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちぐはぐな一日

2023年09月26日 | 日々の暮らしの中で
縁の階段を背もたれにして、ぽかーんと雲を眺めていた。
鐘楼と大門の間に秋らしい雲がのぞけた。
こんな時、何も考えていないかと言えばそうでもなくて、常に何か胸の内を思いがよぎるもので、…要は情報過多なのだろうか。
昨夜は深夜2時まで本を読んでしまった。
眠気を催す午後だったが、約束もあって時間を気にしいしいで居眠りは妨げられた。




〈欲ふかき人のこころと降る雪は 積もるにつけて道も忘るる〉
出典は? どなたの言葉?
聞かされて、ハハハなるほどなるほど!とうなづきあった。

   ※幕末の三舟の一人・高橋泥舟の言葉だとコメントで教えていただきました。
        (三舟とは勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)




6日に出した孫のTylerの誕生祝のカードが、ようやく今日届いたという報告をもらった。
10日もあればよかったかと勘違い。2週間と少しかかるのが常だった。
来月2日は姉のJessieの誕生日。これまた失敗で、忘れた頃に届くからと先を越して伝えた。
その彼女が、伊根町の舟屋の写真を見たらしく、行ったことはあるかと尋ねてきた。行きたいのだろうか。嵐山で抹茶のスイーツばかりじゃつまらなかろう。


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネタタキが鳴く夜

2023年09月24日 | 日々の暮らしの中で
我が宿の杜鵑草が咲き出しました
  見においでませ まだしばらく楽しめます


キバナホトトギス、タマガワホトトギス、ヤマホトトギスなどの種類があるようだ。
花の紫斑が鳥のホトトギスの胸の斑紋に似ていることから、その名がついていることはよく知られるところ。

〈草の名は鳥の名に紛らはしければ、句には草の花なることの確かなるようにありたし〉
『俳諧歳時記』には実作上の注意が記してあるという。なるほど、「杜鵑草」。

玄関の縁先に腰を下ろして、境内の上に月を見あげた。
ちょっと肌寒いけれど、大きな闇を独り占めというのも悪くない。
カネタタキの鳴く声に合わせて、経文など唱えようか。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火床

2023年09月22日 | こんな本も読んでみた
【筑豊炭田はほぼ1世紀に近い年月にわたって日本最大の火床として繁栄を誇ってきた。
我が国の資本主義化と軍国主義化を推し進める重工業の歯車が、この黒い熱エネルギーによって廻転した。三井・三菱をはじめ大小諸々の財閥が、この地底から富をすくい上げ今日の基礎を築き上げた。
(このあたりは、学校の授業で習った記憶がある)


そして、地下王国を支えてきたものは日本の資本主義化と軍国主義化のいけにえとなった民衆の、飢餓と絶望であった。
言語を絶する野蛮な搾取。奴隷的な労働の質。飢餓賃金、飢餓生活は、哀れな労働者たちの逃亡を防ぎ、使える限り奴隷としてつなぎとめておくための最も効果的な足枷でもあった。
抗夫たちの前に明日がない。それゆえ彼らは絶望も持たなければ希望も持たない。

自分が語らずにおれないのは、炭鉱の合理化問題や失業問題などではなく、虚しく朽ち果ててゆく抗夫たちの歯を喰いしばった沈黙、組織されずに倒れてゆく抗夫たちの握りしめた拳なのだ。】
…と、みずからも炭坑夫として筑豊に生きた上野英信は著書『追われゆく抗夫たち』で書いていた。


同時期に偶然に中古書店で見つけたのが、エッセイが収められた『上野英信集』だった。
ここで、漱石の『抗夫』を知った。


あまりの圧制。
読んでいて胸はふさがり、腹はふくるるばかり。さて、私はどう自分の人生の中で消化していけるだろう…。読んだこともいずれ忘れ去るのだろうか。
いくつかを選んで読んできたが、ここらで小休止と決めた。やたら気分は重く、疲れた。


 〈こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜〉  エアコン不要で、窓を開けている。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこの誰が摘み取った?

2023年09月20日 | 日々の暮らしの中で
見上げなければ目に入らない棗の木。上を向いて歩こう。
         なつめの実青空のまま忘れられ  友岡子郷


『詩経』に出てくるという棗は、早くから日本にもわたってきていたらしい。

鶏のトサカを想わせる花、鶏頭も奈良時代にはすでに渡来していたようだ。
万葉集の巻第七に収められた歌、

   秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍(からあゐ)の花を誰(た)れか摘みけむ

に、花泥棒みたいなことを単純に詠んでいるのかと想像しクスリとした。
「さらば」は「去ったら」ではなく、「…になったら」の意。「韓藍」は「鶏頭」の花の別名。

〈秋になったら移し染めにでもしようと私が蒔いておいたけいとうの花なのに、その花をいったい、どこの誰が摘み取ってしまったのだろう〉(伊藤博訳)
こうして素直に訳は整うわけだ。が、実はこの歌は譬喩(比喩)歌だった。
だよなあ。誰かが花を摘んでしまった、では終わらないだろう…。
「移し染めにしよう」とは「或る男にめあわせようとすること」だったわ。
つまり、あらぬ男に娘を捕られてしまった親の気持ちをうたっているのだった。

ま、それだけの話だけれど、
よろず(万)の歌(葉)を集めた書だと、早合点はどこへやら、やはり文学だなあと早わかりする。

彼岸の入りを前にお花を立て、堂内を清め…。
その合間に、『万葉集』から秋の歌を拾い読みのひと休み。

一雨あった。秋の空気には程遠い。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「てえしたことだねのさ」

2023年09月18日 | 催しごと・講演・講座

「みちのく いとしい仏たち」展が龍谷ミュージアムで始まった(9/16-11/19)。

 岩手県立美術館での開催を知って5月には行ってみたいと思ったものの、あまりにも遠方だった。巡回されると知った8月下旬から、楽しみの一つになってきた。

江戸時代。仏師の手になる金箔輝く端正な仏像が各地の寺で祀られる一方で、東北各地には、寺の本堂にではなくお堂や祠、須弥壇の脇に、民家の神棚に、仏師でなく大工や木地師といった人たちの手で刻まれたカミさま仏さまが祀られ、今に守り伝えられてきたという。そうした「民間仏」134点が紹介された。
欠損部分があったり木像に亀裂が入っているものもあるが、素朴、簡素であるがゆえの美しさも感じさせてくれる。
美しさ、やさしさの奥には、厳しい風土や暮らしの中からの人々の祈りが、時に嘆き、ため息も、どれだけ沁みていることだろう。
何でも聞いて欲しいと思って手を合わすカミ仏には、せめてやさしいお顔で受け止めてほしい。

「てえしたことだねのさ」_たいしたことじゃないさ。
この言葉は、みつめた先の微笑みが返してくれていたのだろう。そして心の支えとして辛く寂しい日々も乗り越える…。


左から①「みちのく一のやさしい像」十一面観音立像 ②山の仕事に出る前には必ず手を合わせ、見えない力で守られている実感を林業従事者は語る。如来像と男神像が合体していて、いかなみちのくと言えどこの一体のみ、と ③地獄の裁判官も、鬼も、微かな笑みを含んで 
④賽の河原で「ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせて泣いて謝る童子。


六観音立像。〈無駄を省けば省くほど本質に迫る〉とは、なにかどこかで読んだ記憶だけれど、簡素でありながら、衣の襞を見てもとても美しい彫で素晴らしい。
足の部分を除いて一木で作られているという。薄い薄い像で、6体並んだこの空間、迫るものがあり圧倒された。うち4体は憂鬱な表情を浮かべているが、それも意味のあることだと解説されていた。もう一度前に立ちたい。

かつて東京藝術大学大学美術館で「びわ湖・長浜のホトケたち」を拝見し、できればお堂でと願い、湖北路にその機会を重ねたことがあった。
今回だって、できたら岩手県の宝積寺に六観音立像をというように暮らしの中にその姿を拝観したいものだが、おそらく叶わぬこと。せめて今一度展覧会場へ足を運んでみようと思う。



事情が許せばぜひ、とお勧めいたします。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意のままにならぬこと

2023年09月16日 | 日々の暮らしの中で
先月末、地元紙に川村妙慶さんの寄稿があった。

〈人間がこの世で感じる苦しみをひと言で表現すれば、「思い通りには生きていけない」という言葉で言い尽くせるのではないか。〉
こういったことを、妙慶さんは平易なことばで私たちに語ってくださった。
思い通りにならなくて当たり前と思っていれば、苦難を乗り越えたときの喜びは味わい深いものになる、と。また、記事の中には清沢満之師の言葉もあった。

そしてそれを読まれた方の投稿文(62歳・女性)が、今朝掲載されていた。
「意のままにならぬことについては、如来にまかすほかない」「逃れられない現実にぶち当たったとき、合掌しましょう。阿弥陀さんはあなたを深く受け止め、大悲の心で包んでくださる」
の部分を引用し、今後苦難に合ったら心を落ち着かせて合掌しようと思うと書いていた。

「天命に安んじて、人事を尽くす」と清沢満之師は言われた。
〈どうにもならないことは、どうにもならないまま。いただいた生命は、そのままに、その上で、なさなければならない仕事や、賜った命を精一杯完全燃焼して生きていく〉
…と思いは広がる。


同じ記事に心を留めた人がいた。この人も同じようなことを感じていたんだ、と思えることを今朝私は体験した。自分の考えを根こそぎひっくり返される気づきはなかったが、人って本質的に変わらないものを持っているのだろうなと思った。
人は何を大切に生きているか。そんな気づきをちょっと話してみることのできる人がいることは嬉しい。

そう言えば来週には彼岸の入りを迎える。それにしては、いつまでも厳しい暑さが続く。




12歳の誕生日を皆に祝ってもらう孫のTyler

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Good Chemistry

2023年09月14日 | 日々の暮らしの中で
Yさんは、娘のところにもうすぐ赤ちゃんが生まれるのを心待ちにしている。息子のところは嫁のお母さんがいるからと遠慮が先立つぶん、抱っこしまくるのだと楽しみは自然とふくらんでいく。
Gさんは、生まれ育った富山県に帰ろうかと、もう何年と前からの話題をいまだに繰り返す。
人は決断を迫られる時があるものだが、差し迫った問題ではないのだろうと聞き流す。

久しぶりに3人で顔を合わせたが、ちっとも変わらずで、人の話は面白くないのかねえ…。
めんどくさくなるので私も勝手に話題を振った。「ついこの間ね、誘ってもらったので滋賀の里山の風景を撮った今森光彦(滋賀県大津市出身の写真家)さんの写真展に行ってきたわ」。興味無さそう。
予定日はいつだった? 準備進んでる? 適当に話を合わせることになる。いつだって話は嚙み合わない。噛み合わないまま話は続く。

「Good Chemistry」、よいコミュニケーションがはかれているとは到底思えないのに、何が引きあうのか。
20年来の友、特殊な化学反応が起きているのかもしれない。
〈草いろいろ おのおの 花の手柄かな〉ってところかな。


        見とるるをどんな顔とや花のゑみ  季吟
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取り合わせの妙

2023年09月12日 | 日々の暮らしの中で
ちょっと足を延ばして、先日は思いがけなく葛の花と出会った。


クサギの花も、いつしか“青い真珠”と呼ばれるまでになる実を結び出していた。
あざやかで、深い色味の青い実は、草木染の染料となる。
実を集めてみようとしたとき、小さな蟻がいっぱいたかっていて腕を伝って上がってくるのに震えが来て、やめてしまったことがある。

芝木好子の『群青の湖』の主人公は染色を仕事としていたし、また佐伯一麦氏の小説でも、お連れ合いが草木染めをされるということで、数々の場面に反映されている。
描かれるのは、幻かというような一瞬の色の変身。掛け合わせて生まれる色のマジック。

人と人との出会いも、時に面白いものを生み出す。
一冊の文庫本を3人で分担して点訳に当たってきたが、校正までを終えた。
親しく長いお付き合いをいただくが、普段は全く異なる日常を送っているので、こういう機会でなければ揃って顔を会わせることが少ない。

昔はフロッピーディスクにデータを納めて受け渡しした話に、時代だねぇと懐かしんだ。
今回、初めて時代小説の点訳の機会を持ったのも、年長者からの誘いがきっかけだった。二人の経験者の中に初心者として加わり、一歩踏み出せたかな。

どなただったか ー自分の価値観を強く揺さぶってみたり、思いがけない可能性を感じさせてくれる機会は、いつも会う人間からではなく、まれにしか会わない人間からしか得られない ものだ、とか。


梅、桜、カタクリ、キブシ、ヨモギ、小鮒草、桑の実、キハダ、枇杷、クルミ、セイタカアワダチソウ、ゲンノショウコ、赤いレンゲソウ…。
さまざまに、それぞれの風合いで存在し、取り合わせの妙味が相乗効果を生む。

烈しい夕立があった。境内の闇の中で、心なしか今夜の虫の音はか細い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の心は

2023年09月09日 | 日々の暮らしの中で

きのう初めて狐の剃刀(キツネノカミソリ)をみた。

       ぽっと日の当たるきつねのかみそりよ    石田郷子

あたりの草がきれいに刈り込まれたガードレールの向こうに、オレンジの色をした花だけが残っていた。よくぞ! 一律に刈り取ってしまわなかった配慮を思った。

ヒガンバナ科で、葉はとうに枯れている。その幅1センチ、長さ3、40センチの葉が剃刀のようだというところからの命名らしい。
横倒れして、すくっとした花茎が目に入らなかったが、この色。歳時記で写真を見てから日も浅く、もしかするとという程度で帰宅後確かめた。


       名を知りてよりのきつねのかみそりぞ    大石悦子


もう「白露」だ。冷感をもたらす字面も、響きも、美しい言葉だ。
あまりに冷ややかな空気に、開けた窓を閉めた朝。
今日は重陽の節句。もうずいぶん前になったが、上賀茂神社で節句の神事とそれに続く小学生の相撲大会をのぞいたことがあった。もちろん「相撲」も古来より神事である。

この日はナス料理を食べて、不老長寿や無病息災を祈るのも定番の習わしだそうだ。「中風」(発熱や悪寒、頭痛などの病状)にならないという言い伝えもあると。
好みのナス料理はいくつかあるが、主菜に油を使うので、半分に切って切れ目を入れたものをさっと湯がき、冷やしておいたものに作り置きの山椒の甘だれ、あるいはニラの万能ダレを好みでかけていただいた。

暮らしの中の小さなことにも心が向いて、丁寧に過ごせる季節になっていく。
またボチボチ歩きに出られるようにもなる。それだけで嬉しい。
そうして、しみじみくつろぐ秋の夜には、前登志夫のエッセイに手をのばそう。
 
夜ごとに増してくる秋の虫の声。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日に日に若返る

2023年09月07日 | 日々の暮らしの中で

今朝の涼しさは格別だった。

読書三昧の日々など夢のようだが、読書を楽しむにはそのための時間をやりくりしなければ生まれない。
今年5月に娘に送った本の中から『桜風堂ものがたり』(村山早妃)が好評だったので、改めて中古書店で購入。朝のするべきことを手際よく済ませたあとを読書にあてて、長くかかったが読了。
著者の作品は初めてだった。続編2冊、単行本の新刊とは考えてしまったが娘のところへ送ってやりたいし…。


彼女のためにあれこれ物色するせいで、思いがけない出会いにも恵まれる。

周囲の草木に巻き付いて巻き付いて、旺盛な繁茂を見せる葛の木。
    葛の花ちりがたになりてわが側に茂るもかなし幾日か見ざる


恋がらみの茂吉の歌だと杉本秀太郎氏に学んだ。
憶良の旋頭歌よりのち、秋の七草に数えあげられているという葛の花。


「老年はわれわれの顔よりも心に多くの皴を刻む」
〈心の老化を防ぐのはビタミン剤ではない。言葉の力によって、考える力、想像する力によって、私たちは何よりも心の艶を保つ〉
モンテーニュの箴言を引いた編者(『声に出して読めば 日に日に若返る100の名言』)の読みかたを、前登志夫氏が著書の中で記していた。

暑さが幾分和らいで、身体をほぐすためにも夕刻歩きに出た。適度な運動も脳を活性化する一助だろう。読書も楽しみ心つやつや、老化は先送り…といけるかな?

『星をつなぐ手』のページを開くと、冒頭は
「年をとると、慣れ親しんできたはずの我が身にも、いろいろとびっくりするようなことが起きるものだ」
の一文で始まっていた。

夜に入って降り出した雨音を聴きながら。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「髭を買いに…」

2023年09月05日 | HALL家の話
「髭を買いに行こう」
幼いころのTylerは、髭はどこかで売っているものだと思っていたらしい。

 

 「えのころぐさの穂をぬいて」、「みどりのおひげをつけた顔」を作ってみました。
   (「えのころぐさ」 真田亀久代)
                
2016年春には家族で住まいを大阪の地に移し、年中さんから幼稚園通いが始まった。
「小学生になるのに自転車も乗れないなんて」という姉のひと声で一念発起、練習の成果はすぐに出た。交通事故を危ぶんだが次第に独り立ちするとともに、小銭王は「お財布買ってぇ」といい出した。
ディズニーの空き缶に千円札と小銭を入れている。そこから100円出して、友達と買い物に行く楽しみを覚えた。
仲良しのハル君と自転車を駆って、“おばあちゃんがいる駄菓子屋さん”に向かうのだ。
このハル君はNHkの朝ドラ「カムカム…」何とかで主人公の弟(の子役時代)をつとめた子。1,2年生では同級で、一番の仲良しだった。

オーストラリアでは自転車でお菓子屋さんへ、などといった体験はできそうにない。
空手、ラグビー、サッカー、ボクシングとスポーツに明け暮れ、暇さえあれば友人との公園あそびの日々を過ごして2021年6月、オーストラリアへもどっていった。


「あのシャイボーイが」と母親は笑って言うが、6年生となって学校行事ではリーダー役を務めるまでになった。
毎年6年生だけのユニフォームをつくるそうで、アボリジニの図柄に、背には友達の名前が入っている。これを着る機会ももうあとわずか。

2011年9月15日生まれ。まもなく12歳になろうとしている。


ちょっとこれに手を加えて私自身が楽しませてもらいながら、お祝いのメッセージを添えて贈ろうと思っている。


風呂場でツルッとしたはずみでどこかにぶつけたらしい。むこうずねの真ん中が青じんで、ぷくっとふくれるという大失態。
笑って暮らそ ふふふ・・アイタタタ。
コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨嵐山の地の果てで、定家が西行が眺めた月を見ながら

2023年09月02日 | 催しごと・講演・講座
中古文学会関西部会の例会でピーター・J・マクミラン氏が「心ときめく古典の世界 - 外国人から見た日本古典文学」と題して講演され、会員以外に一般にも公開されると知り参加させていただいた。一度お姿拝見、お話を拝聴したい思いをかなえる機会を得た。


地元紙の月曜日には、氏による「不思議の国の和歌ワンダーランド 英語で読む百人一首」が連載されている。楽しみに拝読後は、とにかくこうして切り抜いて保存…。

わたしには5行分けの英訳より、そこに至る過程も含めて鑑賞の解説などが大変に興味深いのだった。時に辞書を引いて、和歌の英訳はただ“読む”(素通りも多くなってきていた)のだが、今日、氏は和歌の原文と英訳のものとを吟じて下さった。


英語が押韻、韻を踏んでいるのか!? 一行一行の音韻が、英語であるのにだ、余韻となって響き、鐘の音を聴いているようだった。
ただ読むのとはわけが違った。こうして詠うのか!と目が覚めた。

芭蕉の句には、例えば『伊勢物語』を下地にした句がある。「腕の見せどころ」と口にされた。
思えば『源氏物語』も『枕草子』も、『徒然草』だって、古今東西の言葉を引用している。
たくさんの本を読んで、「いい言葉を見つけ、それを引用していくのが随筆の根本にある」と川本三郎氏が言われることが、もっともだとうなづける。引用によって文章を作るのだ。

日本の古典文学を現代社会にどう生かすか。
発展途上国の留学生たちが日本の文学を学んだことで自国の文学に思いがいくようになった。それを世界に発信することで関心を持ってもらい、ひいては自国に招き寄せる。
ジャイカで講師を勤めるなか、彼らの発想は大きな喜びになったという。

西欧における美は普遍的なのに対して、日本の美は、いうなら“無常”だろう、他国には類を見ない様相の中に美を見いだすところに驚きを覚えられたと。アイルランドから日本に来られて30年。和歌こそ日本文学の原点と、自分の生きる道を見つけたと話された。
それは若い院生たちへのエールともなっていた。

これからのビジョンなどお聞きしながら、現代社会にどうなどとは今の自分に縁遠くはあるが、学生時代に「中古文学」にのめり込んだ自分が思い出されるし、それが私の文学への嗜好の端緒であり、今もって枯れずに脈々と流れ続けている。若かった自分を懐かしみ、とても楽しい時間を過ごした。



あのとき…。
もし卒業後すぐに社会に出ず大学院に進んでいたら、何か変わっていただろうか。しかし、思い描きようもないこと。
あの時別れた自分があって、今の自分がいる。ただ、いくつもの自分と別れてきている。
今日はそんな自分の一人と出会えたことになるのかもしれない。



コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする