京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

改装、新装開店

2021年12月31日 | 日々の暮らしの中で
「あるがままの事態を受け入れる覚悟はしても、やはり上手に歳をとるのは相当むずかしい」(『わたしの脇役人生』沢村貞子)
年齢を重ねた方の書く言葉には、若い人にはない(異なる)深い味わいがある。亡き母が遺してくれた一冊だが、時折開いては母が追ったであろう言葉を私も味わい、日々の糧としたり指針とするものを見出している。

「ああでもこうでもないと自分を励まし、気力を持ち続ける。それがちょっとした身体の故障でバランスを失うことがある。自分の運に振り回されるだけでは寂しすぎる。自分で自分をなだめ、やりたいことを探して、一生懸命やろうじゃないか。せっかく生きているのだから」

読書を通じて、いくつもの人生を生きてみるのは実に楽しい。と同時に、今年一つ身辺整理をしたので、大きな転換はできないから、ちょっと改装しての新装開店といきたい自分がいる。いけるかな、いきたいなあ。まだ夢を持って!? と笑うなかれ。

「自分の感受性に気づかないまま過ごす人生が、豊かで健康であるはずがありません」(養老孟司) 


ゆく年。そして、くる年に少し思いを馳せながら。
よいお年をお迎えください。
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疲れに思い出し笑い

2021年12月30日 | 日々の暮らしの中で
「人にはもって生まれた運がある。それを下町言葉で『福分』と言っていた」と沢村貞子さんが書かれていた(『わたしの脇役人生』)。
それぞれの居場所で手軽に張り合いを見つけ、それを自分の福分と思っていた、と。

それぞれに、己の分を尽くさせてもらってゆく。そういう命を私たちは誰もがそれぞれに賜って生きているのだ、と思う。
疲れた今日…。疲れた頭で、今、こんなことを思っているのだ。余計に疲れそうではないか?


〈日常の社会派〉と題した山崎ナオコーラさんの小さなコラムが新聞に連載されている。2歳児が自分で靴に足を入れ、急いで靴を履こうとしている。母親が傍で見ていて、2歳児が「急ごう」と考えることに感慨を覚えたりしているのだ。先日の話に添えられていたこの絵を見て、思い出したことがあった。
4歳だった孫に靴を履かせ、次いで私も自分の靴を履こうとしたとき。孫は中腰になって私の靴のかかとに指先を差し入れようとしたのだった。靴を履くために、自分がしてもらうことを覚えて学んで。可笑しくも愛おしくもあった。切り抜いておいた絵を見て今また、クスッと思い出し笑いにつながった。こんな小さな笑いでも気分がほぐれるもの。

明日の大晦日は相当な寒さが予想される。除夜の鐘を撞きにお参りの方に、熱い甘酒を用意させていただく。
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雪なかの観音さまに…

2021年12月27日 | 日々の暮らしの中で

縁先の椿の葉一枚一枚の上に、ふわっとわたのような雪が積もった朝を迎えた。ゴミ出しの集積場所から眺める枯野も、一面の薄化粧。
滋賀県長浜市では71センチ、余呉湖で53センチの積雪だとテレビで報じられていた。こんな時にこそ、あの高月の渡岸寺の観音さまをたずねてみたいと、憧れにも似た思いが膨らむ。
  
     湖北路の十一面観音
        雪なかにこもりてひそと笑み給ふらむ     小西久次郎
          
毎年のことだが、思うだけ…。第一に、足がない。車は10年続けた夜間の仕事を辞めて以降だからもう20年ほど、冬もタイヤ交換せずに暮らしている。雪道は走らないし、走れない。そして電車も止まる。
「湖西線ちょっと春風遅れます」は、どこで見かけた、どなたの句だったか。湖北を訪れるには、春風も、折々の強風、大雨、もちろん雪とあらば、西も東回りでも電車は要注意となる。案の定というか当然この大雪の中、訪ねるにも術はない。

あたりを埋め尽くした雪の美しさを眼裏に描いたのは、坂上是則の歌「…吉野の里にふれる白雪」だったなと思い出す。百人一首にもあるが、私の将来への道案内いただいた恩師の授業での、1回こっきりのひとコマでのこと。
冬はやっぱりどこかで雪を待ち望んでいるのではない?

こんな寒い日は、何もしないでじっとしていたいが、あと何日…。
午後からひと歩きに出た。トンビがいっぱいだった。
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十分な贅沢

2021年12月25日 | 日々の暮らしの中で

イブの夜。ミルクとクッキーと人参を、サンタさんとトナカイのために準備して…。
“プレゼントをありがとう。ちょっとひと休みして帰ってね”というところなのでしょう。

今朝になってLukasから「シモシモ。サンタさん来たよぉ。メリークリスマス!」と電話が入った。
メリークリスマスとは言い慣れないもので、5歳児相手でもなんか気恥ずかしさを感じる。昨日は仏に、今日は神に…。神仏ごちゃまぜの節操の無さも、この時期とやかく言わない。この4年間は孫たちが傍にいたおかげで、ずいぶんと記憶に残る時間を分けてもらっていたのでした。

明日は息子の誕生日。心ばかりのものを贈ろうと用意した。届くのが一日遅れになるが、ごめんしてもらおう。

   自分が欲しいものも一つ。
     『荒仏師 運慶』(梓澤要)を買い求めた。私はこれで十分満足。

未だにつぼみをほころばせ、山茶花の花が咲き継いでいる。
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落ち葉を掃きながら

2021年12月23日 | 日々の暮らしの中で

冬晴れ。外出したくもあったが、お掃除日和かと思いなおして…。

  お背戸にゃ落ち葉がいっぱいだ
    こっそり掃いておきましょか

と、みすゞさんが詠っている。表周りはきれいにしても、家の裏、奥は今ほぼ落ちつくした木の葉でいっぱい。

境内でかき集めた松葉や庭の落ち葉を、かつては、おくどさんや風呂釜の焚口で薪の火付けに使っていた。“焚くほどに風が持てくる…”、なんて以上の枯葉を木箱にたっぷりふかふかに貯めこんで。

「熱うないかぁ?」と湯加減をたずねてくれる義母の快活な声が届くと、一日の終わりにお風呂ぐらいのんびりとお湯につかっていたいと思ったものだ。毎夜の義母の心遣いに遠慮しいしい、ある意味、気重いお風呂だったかもしれない。今ではそんな気重さの感覚などおおかた忘れてしまっている。
薪で風呂を焚くことも覚えたし、燃え盛る釜の中に鬱屈した思いは放り込んで、今は昔。嫁いで数年はこんな暮らしだったな…と思い出す。

年月は自分を育てるし、自分で自分の心を育ててもいけるのだ。

落ち葉は木の根元にも集め、ゴミ袋行きがほとんどとなる。
逆算しながら、年末年始の準備に当たっている。



母の見舞いの帰りに新御茶ノ水駅に近い店で買ったもの。子供たちのためにと買ったのだったが、今年もやはり身近に飾った。
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夏のクリスマス

2021年12月21日 | HALL家の話
昨日、二つ目の荷物も無事に届いたと聞かされて、本当にひと安心しました。
同じ船に揺られて、同じ日に陸揚げされて、配送されていくのでしょうに。ただただ娘は「よくあることだから」と。「どうなってるんですか?}とひと言言いたいくらいでいました。プンプンしったってつまりません。こころはまあるくまあるく。そうは言っても、なにか腑に落ちません。どうして一度で済まないのか、フシギです。

権力のある?姉様のひと言で、またまた彼女が帰るまで荷物は開けられないのだとかでした。
そのためかどうか、残った家族はシティーへ繰り出して、プロジェクションマッピングを楽しんできたと。





学校はすでにお休みです。今日は下二人、髪を染めて。
 

赤っぽいのがyler、Lukasは緑色に。
洗えばとれるんだと聞いて、ホッ。

夏のクリスマスです。
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痛くない死に方

2021年12月20日 | 映画・観劇

「映画でもみない?」 なんの映画を? 「痛くない死に方」でした。
在宅医療のスペシャリスト・長尾和弘著『痛くない死に方』『痛い在宅医』をモチーフに映画化された作品で、アンコール上映となっていたのに出会ったわけです。
   救急車
   在宅医療の
   夢こわす
「知らなかったことたくさんあった。救急車、呼ばんとこ」は、友人の感想でした。

病院であろうと在宅であろうと、自分らしくその人らしく最期を迎えるために、家族や医師、在宅医との関わりをどう上手に作っていくか。「救急車を呼ばない」という選択肢には、自分の“死に方”を近しいものと共有しておく生き方が問われてきそう。
ただ同時に、人生誰にでも唐突は訪れるものです。自宅の畑で栽培した日野菜の漬け物を刻んでいて、頭が痛いといって倒れた弟。脳幹出血で手の施しようがなく、一週間後の12月8日に帰らぬ人となってしまいました。血圧が高いとわかっていたことからすれば、唐突ではなかったのかもしれないですが。

胃癌で手術し、余命を宣告されて入退院を繰り返した母。31年前の11月25日、この世の最後に長いひと息を吐いたまま、二度と息をすることなく逝った母の姿も眼裏に浮かぶのでした。痛みを抱え一人寂しく過ごしたであろう病院での夜々に、亡き後いっそう何度も思い馳せたものです。母が家に帰りたいと言ったとは聞いていない。

多くの場で自己決定が求められる世の中になっています。「断捨離」という言葉をあまり好まない私は、なるようにしかならない、そんな思いを捨てきれずにいるし、「終活」という言葉も遠ざけ気味です。けれど、成り行き任せではいられない。自己決定、これは案外きついことですが、自分が大切にする価値観の反映です。自分の死に方まで…、か。

京都西陣の地で在宅医療の先駆者だった早川一光先生。80歳過ぎて自宅で開設した「よろづ診療所」は患者さんや家族の話を「聞く医療」だったという。10年後、自らの病に仕事を奪われた。地元紙で連載されていた記事の中で心に残るのは、「生きるって受容の連続ですな」という言葉です。。
受容する。時には自分の心と折り合いをつけ、自分の価値観を認めてもらったうえで、最後はおまかせじょうずが大切な姿勢なのかと思ったりするわけです。
もちろん、人任せ、と勘違いしてはならない。うーん、「死に方」、ほとんど真剣に考えたことはないままです。
なんてタイトル!?って思いましたものの、いろいろ考えるヒントをいただきました。


ちょっと書き過ぎたかもしれない。書き過ぎると大切なもの、ことが消えてしまうから…。
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“笑ふてくらせ ふふふふふ”

2021年12月17日 | HALL家の話
10月7日に段ボール2個で発送した荷物が、昨日やっとこのことで娘家族のもとに届いた。
母親たちが外出中で孫娘が受け取り、写真が送られてきた。そして彼女はアルバイトに出かけた。「いない間にあけんといて」と言って。
そんなこんなをLINEでおしゃべりしていると、「あけよーよっ!」って声が入る。Jessieの帰りは夜9時半を回るという。


♪お掃除おそうじ~、そんな楽しくもないが、せっせと掃除をしているところに「今朝、開けましたー」とメッセージが入った。
「ダディはダイエット中で、お菓子食べたらあかんし。ウッシッシ」はTyler。誕生日のプレゼントにバッグを入れたのだが、さっそくこれからTylerとのアート・ミュージアム行きに使わせてもらう、とひと言。
届いて開けるまでのわくわく感。一晩持越しではあったが、あれこれの想像も膨らみ、楽しんだことだろう。“何ごとも笑ふてくらせ ふふふふふ”

ただ、届いた荷物は2個中の1箱だけ。じゃあ、もう一つはどこへ!?と心配するのが日本人? 「別々に届くんやろ」とまあ鷹揚に構えて待っている。結果、今日は届かなかった。。5歳児Lukas君、何度も何度も「荷物一個しか届いてないでー」って。そんなこと向こうで確かめなされ!

風で枝を離れた葉がフロントガラスに当たり、細かい雨が降ったり止んだり。ライトが必要な薄暗さの中を、所用先から逢坂山を京都側へと下っていた。
カーブを抜けた瞬間、真正面に日没前のオレンジ色の見事な太陽があって、目がくらんだ。午後4時43分。
帰りつくころにはお月さんがあがっていた。このあと雪は降るのかしら…。
                           
                        (小林良正さんの ほほえみ地蔵)
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本の中の人も

2021年12月15日 | 日々の暮らしの中で

ブックサンタで本をプレゼントしようというプロジェクト参加を考えて、過日、指定の書店を訪れたのだが在庫がなかった。本日の入荷を待って、『神様には負けられない』を購入し、書店側に預けた。このようなことは黙ってすればいいのだと思うが、こうした試みを広く知ってほしいと思って再度…。

    『明日の子供たち』(有川浩)。2年ほど前に中古書店で目にして、何となく手にしたのだった。九十人の子供たちが住んでいる児童養護施設「明日の家」を舞台に、繰り広げられるドラマ。
「人には人の数だけ事情があり、環境がある」。
虐待する親から逃れるために保護された久志は17歳に。
幼い頃、施設長の福原さんが「ご本を読むのは素敵なことよ。みんな自分の人生は一回だけなのに、本を読んだら、本の中にいる人の人生もたくさん見せてもらえるでしょ。本の中の人もヒサちゃんにいろんなことを教えてくれるのよ。素敵ねぇ」などと話してくれたことを忘れずにいる。
細部の展開は記憶も薄れているが、この部分は私もよく記憶している。

「明日の家」の子供たちは、明日の大人たち。「子供のために大人が手を取り合う社会」でありたいとプロジェクトの趣旨に賛同し、その一助に、本を贈るということは私にもできることだった。

久志が思うように、「誰に何が響くかは読んだ本人にしかわからない」ものだ。
手に取ってくれる人の感受性と触れ合うものがあったなら、嬉しいこと。義肢装具士を目指す若者が、励まし合い、経験と人との出会いを重ね、眼差しを深くし、成長していく。「神様って大したもんだよな」、『神様には負けられない』、「神様にだって勝てる」。彼らの言葉を手渡したい。
本を読むのは、素敵なことです。  
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詐欺は「あざむく」の2乗

2021年12月13日 | 日々の暮らしの中で
人をうろたえさせ、他人のお金をだまし取ろうと悪知恵を働かす、まったく不埒な輩がいるものだ。


昨日12日に届いたSMSショートメール。
携帯電話の使用料金に未払いがある? あるはずがないと思いながら、思いもかけない「利用停止予告」だなんて文字を目にして、少なからず動揺してしまった。この電話番号で検索してみれば、あるわ、あるわ。「詐欺」の文字も。

「詐」の「乍」は、刀で切れ目を入れるさまを描いた象形文字だと漢字源にある。「物を切ることは人間の作為。作為を加えた作り事のこと」。「詐欺」って、「あざむく」の2乗。
〈コトバは口福でなくちゃいけない〉と長田弘さんの詩文にあるように、詐欺だなんて言葉は使いたくない言葉の一つだ。


5歳になって2週間。キンディに4回通って、先週金曜日は修了式?だったそうな。

    でも、いわゆる保育園なので、幼稚園生になるまでは週2回通うらしい。お友達もできて、でもまだ名前を覚えていないと、電話口で。
この笑顔が消えませんように~。
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忘年寺子屋会

2021年12月11日 | 日々の暮らしの中で
 

引き継いでみたいと、その後の会の命名だけは早々に考えついたけれど、未だ思案中…。
今日は宿題の400字文章を持ち寄って、文章仲間の忘年会。

14名の参加とちょっと多いけれど、初めて会場提供をして本堂で開催した。中学生3人、高校生3人を含めて、上は70代…。今日ばかりは合評などない。会場使用の時間制限もないので、用意したお茶とお菓子で間を持たせ、各人の書かれたことにまつわるもろもろの話で好き勝手な方向に盛り上がった。何番目に当たるかはくじ引き後、司会者のみが知る。

中2の女子が夏に読んだ『さよなら、田中さん』(鈴木るりか)の感想を述べていた。確か今作者は中学生で、小学生の時に書いた作品だったと思う。読書好きの彼女は、『ぼくはちょっとイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(プレディみかこ)を私から借りて帰った。娘にと発送したが、国際郵便物引き受け停止で戻された中に含めていた一冊。
高校生には『木を植えた男』(ジャン・ジオノ)を教えられた。将来の進路を農学部と定めている彼は、ミミズの話が好きだ。

クリスマスにはそれぞれにご予定が。で、早めの“クリスマスケーキ”を寺の本堂でいただくことにした。
気楽に集えた、好い日でした。


孫のルーカスの読書
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理由は、あったりなかったり

2021年12月09日 | 日々の暮らしの中で
「理由はない。そこへ行きたいと思った。それだけだった。そして、引き寄せられるようにして、そこへ行き、…・」(長田弘)
紅葉の盛りはもちろん過ぎたが、そういうことはどうでもよかった。数珠だけは忘れず持って。

周山の山国にある常照皇寺を目ざした。途中、今日は了徳寺で大根炊きの日で、持ち帰りのビニール袋を手にした数人を見かけた。


誰も参詣する人はいない。いつものように受付にも人の姿はなく、箱のふたに500円を納めた。南北朝時代、ここにようやく安住の地を見つけた光厳天皇が、寺の裏山で眠っている。


鳥の声。木々の梢の葉擦れの音も梵音(仏の声)と聞こうか、北の寺。静かだ。こうした人の気配のない静寂を求めたのかもしれない。裏を見せ表を見せ、落ち葉が散っていく。
こうした場所に住んでみたいものだと思いに浸ってみても、さて、買い物はどこへ行くのだろう、映画はどこで見る? 病院は、本屋さんは??? まったく、所詮、分が過ぎた欲で心はいっぱいだと思い知るだけ。

でも、私、サンタサンになろう! 今年は「ブックサンタ」で本を贈ろうと思いついた。自分で読んだ中から選びたい。そこで高校生を念頭に、『神様には負けられない』を選んでみた。何をするにも、生きていくことだって辛い世の中、それを承知でみんな生きている。自分の道を見つけて、学んでいくのだ。
三人(義肢装具士を目指すさえ子、博文、眞澄)との会話を楽しみ、時には悩み、苦しんで、豊かな時間を過ごしてほしい。そう思って。
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2か月、まだ着かない

2021年12月07日 | 日々の暮らしの中で
まだ着かない。
10月7日に、船便でオーストラリアに住む娘家族に向けて荷物を出したが、今日でちょうど2か月が経過。まだしばらくかかるのだろうか。早く届いてほしいものだ。


あちらとは時差が1時間。こちらでそろそろ夕飯にという7時になると電話が入って、カメラをオンにしたりしなかったりでの長話。
「ねえねえ、梅干し、入れてくれた?」と先ずジェシーだった。 
「Did you …?」英語できたのはタイラーだ。聞き取ってやらねば…。「うん!? スナックね!! 入れた、入れたよ」「砂糖がついた、かたいお煎餅は?」「ピーナッツ入りの…タイラーが好きで…昔からあるみたいな…」(想像がつく)
「あれはうちらで食べような。ダディは、食べるけど“食べてる”だけだから。うちらとおいしさの感じ方が違うからな」
「羊羹も入れたよ。うんうん、けんぴネ、入れたよ」うわあ~い!!と歓声が上がった。

        11月24日に、2週間ほどかかって彼らからは
Merry Christmas  Happy New Yearのカードが届いた。ルーカス作の、三角形の紙4枚でクリスマスツリー。小さな子供もいない今年は、孫たちからのカードだけれども「メリークリスマス」ってどうなん?と、やはりちょっと不思議な気分になる。

「朝ね、キンディ行きたくないなあって思って涙でそうになってん。でもがまんして、泣かなかったけどな」
素直な気持ちを話してくれるルーカス。何を読み取ればいいのか。涙を我慢したけど、行けたんだ。この言葉、心に、何を書き込んでやればいいのかな…。
月曜と金曜日の週2回。言葉の壁につまらなさでもあるのだろうかと思いながら、その中で楽しさを見つけたら、通う喜びが得られるのだろう。なあんて思っている。体験が広がれば言葉も豊かになるし、思考も深まるものだ。気長に待とう。
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新井 満さん

2021年12月06日 | 日々の暮らしの中で
日曜日のこと。新聞で新井満さんが亡くなられたことを知り、著書との縁をいただいたところだったので、深いひと息をつくことになった。
昔、友人が「千の風になって」をダビングして送ってくれたことを思い出し、繰り返し聴いていた。

                

誕生秘話。原作に「風」は1回だけだが、翻訳で6回繰り返し使ってあること。いのちは、風に、雪に、光に、雨に、鳥に、星に姿を変えて生き続ける、循環している、と捉えられること。法然院貫主や西本願寺門主さんが、「お墓が要らないなどとはけしからん」と見解を示されたという話など…、思い出す。

先ごろ、『十牛図』の内容を1話ごとに思いを展開されたブログに出あって、ずっと拝読していた。それを機に私も、夫の蔵書にあるというので新井満さんによる『自由訳 十牛図』を手にしたばかりだったのだ。


【十枚の牛の絵。失われた牛を捜し求めて、世界の果てまで。牛というのは実は自分の心のこと。自分探しの旅、悟りへの道のり。それを段階的に描いたのが「十牛図」です】(「はじめに」より)

   第一図 尋牛  牛を捜しにゆく
             ある日、私は気がついた
             心が……、ない
             身体の中にあったはずの心が
             どこにも見当たらない    
              (後略)

装飾を省いた、シンプルでやさしい言葉の選択。だが、奥は深い。原文と、その書き下し文も付されてあり、私は昔から漢文の書き下しのリズムが好きなもので、氏による書き下し文も音読する。そして1話ごと、音読で通した。両方のページをめくり返しながら。音読はいい。目で字面を追うだけで終わりそうなとき、私はいつも音読することで、先ず心をその世界に近づけていく。

原作者のコンセプトを厳守することを自らに課して訳されたそうだ。言葉は人格を映す。死をも考えたという苦悩の体験から生まれ出る言葉に、魂は宿る。読むたびに言葉は、自分の心を内に向けさせてくる。
「賜った座に坐し…周囲の人たちと連帯し すべてと共に実りゆくいのち…」 勝手に頂いてある出雲路氏の言葉に思いがいく。

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♪君は一人じゃないよ

2021年12月04日 | 映画・観劇

部屋の窓から外を見て、
♪窓をたたく僕に 誰か手を振り返して!
誰もいない世界ってわかる? 友達がいない、居場所がない…と孤独感の中で殻にこもる高校生エヴァンが歌っている。

彼はセラピーを受けていて、その宿題で書いた自分宛の手紙を同級生のコナーに持ち去られてしまう。コナーは妹からも「クレイジー」と言われるほど言動は不安定で問題多く、周囲から浮いているような存在だった。そのコナーが自ら命を絶った。折りたたまれた“Dear Evan Hansen”と書き出された手紙をポケットに入れたまま。
エヴァンを息子の親友だったと思い込んだ両親を悲しませないようにという思いから、友達のふりをして思い出の作り話をする。優しさから出た嘘だった。作り話は反響を呼び、やがては思いがけない方向に進んでしまう。そしてエヴァンは勇気を振り絞って…。

素の自分を隠して、匿名で生きている子は多い。明るい笑顔を見せたあとで、うつむく子がいる。
♪「君は一人じゃない」 You are not alone.
   まわりを見回してごらん 手を挙げてごらん
 「誰か、見てくれる人がいるよ!」 You will be found!
 孤独じゃない場所があるよ。


若者に限らない。歳を重ねるにつれても、語る相手、語る場所がないというのは誰の老いにも訪れうること。健康でいればなおさらのこと、寂しさ度は高まるに違いない。
素のままではいずらくもあり、お付き合いの中で多少は装いながら、名もなき人生を大切に生きている。誰かが見ていてくれる。背中を支えてくれる、そんな手の温もりが感じられれば、それぞれの居場所で心を尽くして生きていけそうだ。人の心を汲みあう、やさしさを持って。
空也上人ではないが、「善友(ぜんぬ)の交わり。お互いに心を結び合って生きていこう」
  
  ♪君は一人じゃないよ
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