京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

良いお年を - 「思いの架け橋」

2017年12月31日 | 日々の暮らしの中で

【私にも架けられる橋がある。思いの架け橋だ。
いつ、いかなる時にでも即座にかけられるのがこの橋の特徴である。
必要があればどんどん延ばすことができる。
用がなくなってしまえば、即座に外すこともできる。

あるとき、気がついた。
ほんとうの専用道路にしたければ他人様に通ってもらえる道路にもしなければ駄目だ、と。

開放して壊れる橋もあれば壊れない橋もある。
渡ることができるものと信じて架けた橋が、じつは渡れない橋であったと知る時のわびしさは耐え難い。
それでもなお、あきらめることなく架け橋を繰り返しながら、浮き沈みの多い日を過ごしている、
どの橋にも名前はない。】

全容はわからずですが、竹西寛子さんの文章で、もう何十年も前に中学生と読んだ一節でした。
「橋は、木の橋だった。」と始まり、これはその抜粋ではありますが、ふとしたことから今更ながら読み返しています。

   心の灯消さじと抱き年暮る
 
良いお年をお迎えください。
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「年取り」

2017年12月27日 | 日々の暮らしの中で

朝から白いものが舞う、寒い一日でした。
新年の本堂の荘厳のことを思っていたのでしたが、つい先ほど、我が家には木で作られた搗臼と杵とがあったのだ、と思いだしました。

私が嫁いだ年の暮れ、義母の計らいで夫と3人での餅つきを楽しみました。へっぴり腰で頼りない餅つきでしたが、笑いは充分だった。外は雪でした。あのとき1回きりの出番で、子供たちと一緒にしたこともなかったのはどうしてだったか。年を経て、孫たちもいるというのに、と思っても、今や遅し。お祝いの餅、鏡餅、おけそくさんも、すでに注文済みです。蔵のどこぞで眠っているにしても、古くってほったらかし。所詮、使い物にはならない代物でしょう。

おけそくさんとは、ちょうど親指と人差し指で輪を拵えるほどの大きさで、薄い小餅です。華足に盛ってお供えします。聞くところでは、井戸の神さん、火の神さん、おようじ(トイレ)の神さんと、家中の神々に二つ重ねのおけそくさんを供えて回る家もあったようです。(写真はこの秋にテレビでの画像を映したもので、左右に盛られたおけそくさんがみられます)

「十二月三十日の夕刻に…年取りをすることにした」。『還れぬ家』(佐伯一麦著)で、とても興味深く読んだ個所がありました。
入院中の母親に代わって「私」はしぶしぶでも引き受けねばならず生家を訪れます。「年取り」のための「お正月一式」が、風呂敷に包んで奥の床の間に置かれてありました。「私」は、藩主だった伊達家の影響なのだろうか、と飾り付けながら思ったりします。

【〈大國主神〉〈事代主神〉〈五穀豊穣〉〈大年神〉と半紙に刷られた縦長の御神像を長い棒に画鋲で留めてから、踏み台に上がって神棚の右上の横柱の2カ所に引っ掛ける。〈奥津神奥津姫神〉は去年のものと貼り替える。
神棚の載った棚板にはだるまが5個。そのだるまの前に寿の字に海老などが描かれた玉紙を、小さな鏡餅を重しににして飾る。
神棚の扉を開けてお神札を新しいものに取り替える。
神棚には、白皿2つに米と塩。蓋つきの瓶子に酒、水玉に水を用意し、左から水、酒、米、塩の順に並べる。
その両脇に榊を差した榊立。
その手前に蝋燭を立てる。
輪飾りを十ほど作って、注連飾りを玄関の上に飾っ】て、「お正月一式」は飾り終えられました。


私の実家には仏壇と神棚がありましたが、神棚はずっと簡素なお飾りでした。新年を迎えるにあたって、家々に伝わる習わしにもいろいろあることでしょうね。

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句会ライブに

2017年12月24日 | 催しごと・講演・講座

『京都ぎらい』の井上章一さんの京都新聞での連載コラムです。

今年、ある高僧(確か真言宗)のコラムで「孫のために我が家ではクリスマスツリーを飾っていますよ」という一文に触れました。「なんやそうなんだ~!」と私はこの時初めて「お寺のクリスマス」がどうなのか、内々のことを知ったのです。
我が家でも、子供たちのためにプレゼントとケーキでクリスマスを楽しむことはずっと続きました。ツリーを飾ることはなかったですが。よそさんがどうされているのか、私から誰にも聞くことはしませんでしたから、なんやなんやというばかり…。
今年もサンタさんの役目だけは引き受けて、子や孫に心ばかりのプレゼントを用意しました。

         

午後から、誘われていた「夏井いつきのクリスマス句会ライブ」に4人が連れ立って参加してきました。テレビの画面を通すより断然素敵な女性で、お話の楽しいこと。「マネージャ―という名の夫」さんがはたで静かに助手を勤められ、よいコンビの俳人ご夫婦です。教え上手に、俳句の種をたくさん蒔かれて、あっという間の2時間でした。
私たちは“すそ野チーム”に属すメンバーですが、何としても景品をと前席に陣取る腕に自信ありのご一団まで。先生には、昨日〇〇の句会で会った、俳号に覚えあり、といった参加者もたくさんでしたが、上からすそ野まで、平等に楽しめる場づくりはさすがです。
今年やれたこと・やれなかったこと、をテーマに5分で一句を投句。結果はともかく、楽しかったです。

また行こうねと誘われましたが、まあ、もういいかな。
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「泣きながら歩いているうちに…」と

2017年12月23日 | 日々の暮らしの中で
         

昨夜は、『洟をたらした神』について友人たちと語った後だったせいか力が入り過ぎた?感想でブログにアップしてしまったかと気恥ずかしいことです。それでも私と同じようにまだの方には、この機会にいかが?とお薦めしたい。そんな一冊ではあります。

夫の混沌が特高に連れていかれ、ふいにぽっかり穴が空いた家。母親を一本の柱にして、それとなく子供たちは力を出し合って支え守ろうとしている。【その強さを、がっちり受けとめねばならない勇気を、私は自分の胸から手足から探さねばならなかった。でもふつふつと心の中で、私はここでというひらめきを感じた。自分たちの生きる場所はここより外にない。世界中の空間にここより外にない決して間違いない道だ。それははがねをきたえるように強く熱い思いだけれど、気がつけばその上を、どこからくるか知れないが、ほてりをさます爽やかな風にも似たものが吹いて流れていた。】(「赭い畑」 昭和10年秋のこと)ここには、混沌の「人間ちゃ泣きながら歩いているうちに、ほんとうの自分をみつけてくるもんだよ」と言う言葉も。


夫・混沌の詩の一つを、全身蒼白の思いで読んだ、と思いを記している。
【なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。静かであることを願うのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。】(「老いて」 昭和48年秋のこと)

       
【私の目がひどくかすんで見えないように、今は往古も遠い彼方に消えかけている。何だかあてもなく寂しいけれど、でも人間の生きる自然路を迷わずにためらわず歩きつづけられたというこの生涯を誇りもしないが哀れとも思わない。】【この空の下で、この雲の変化する風景の中で、朽ちてはてる今日まで私はあまり迷いもなかった。それは、さんらんたる王者の椅子の豪華さにほこり高くもたれるよりも、地辺でなし終えたやすらぎだけを、畑に、雲に、風に、すり切れた野良着の袖口から突き出たかたい皺だらけの自分の黒い手に、衒いなくしかと感じているからかもしれない。】(「私は百姓女」 昭和49年春のこと)
1899年(明治32年)に生まれ1977年(昭和52年)に亡くなるまで、一代を生き抜いた人間の発する言葉の力が眩しいほどです。でも強く心に触れてくるのでした。
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『洟をたらした神』

2017年12月22日 | こんな本も読んでみた

「エッセイ 麗しの磐梯」で吉野せい著『洟をたらした神』を教えていただいていたことで、立ち寄った書店で平積みされた文庫本に目が留まった。16篇が収められたエッセイ集と言ってもよいのだろうか。〈詩人である夫とともに、阿武隈山麓の開墾者として生きた女性の年代記〉は大宅壮一ノンフィクション賞、田村俊子賞受賞作品であった。

何か嬉しく手に取った。1作目の「春」は、息の長い、肺活量がどれほど大きいんだ?と思わせる1文の長さで書き出されていく。あれまあ、とページを繰って、【ノボルはかぞえ年六つの男の子である。】で始まる表題作「洟をたらした神」を開いて少し立ち読みした。これほどタイミングよく書店で見かけるとは思ってもおらず、また、知らなければ上滑りしていたに違いない一冊で、購入を決めた。1889年福島県の小名浜町に生まれた吉野せいさん。没後40年、私は今になって初めて出会いを得た。

力強い言葉が読むものにリアリティを実感させてくれる、素晴らしく豊かな表現、語り口の厳しさ・強さ・ぬくもり。鮮やかな描写。人間性の発露があり、体験したこともない時代、環境、現実が目の前に立ち上がってくる…。魂の発露を感じさせてくれる作品だった。

【生涯憤ることを慎んだ木偶坊のような】夫・混沌。【いくら働いても追いつかないような生活の困窮が、お互いの性格をひびいらせ】【ひいては憎悪の烈】【無言のたたかいがあった。あるときは…猛りほとばしり、あるときは…身のほどをふり返りながら悲しく悔い合う】、そんな一日が描かれてもいた「水石山」。生後8ヶ月の娘・梨花の死の前後を綴った文章が組み込まれている「梨花」。可愛い娘が死に向かうく一刻一刻の描写。眠るように死んでいった梨花。教えもしないのに上の二人の子が【小さな花畑に眼をすりつけて、一輪咲きはじめたパンジーの紫色を見つけて、小皿にのせてお前の枕元に手向けたよ】、と語りかける。【梨花、さようなら。土にかえれよな】。切なくて、鼻の付け根がジンとくるのだけれど、潜むせいさんの強い愛が迫力をもって胸を打つ。


【母が持つ愛に頼れる安心は、子供たちをあたたかい日向でたわむれる犬ころ同然の愛らしい姿に変える。】、玩具を買って与える余裕もない、子供は買って欲しいと言い出す言葉も持ち合わせない。だからノボルはいつも何かを作り出すことに根気よく熱中する。それを母は誇りに思っている。心まで凍れそうな暮らしと「吉野せい」という人間の魂が織りなす骨太なあたたかさ強さに惹かれた。

今日は図書館で借りていた3冊を返却した足で、図書点訳のメンバーとの会食の場に向かい交流を深めた。個々が家でパソコンに向き合っての作業となるため、そろって出会う機会は少ないのだ。この一冊、点訳してみたくなったことを話してみた。
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年末に一つ、

2017年12月19日 | 催しごと・講演・講座

昨年までの『奥のほそ道』に続き、「『徒然草』その真実」の講義を担当してくださる光田和伸先生は、短歌をご専門とされます。今日は、連歌がどのような文化を作ったか。兼好はそれをどう受け入れたか、といった視点からお話がありました。

もともと「片歌」の倍のものだった「短歌」。心通わすために、一つを半分ずつ受け持つことが日本の文化だった、とお話です。言葉の意味をずらし、解釈を変えて、一緒に歌う。連歌の楽しさ面白さを説かれる先生は終始にこやかでした。
ただ、兼好は連歌を文芸として評価していなかった。時代の新しいものに目は向かず、「なぜ流行るのだろう」と考えることがなかったあたりに、兼好の限界があると思う。(兼好の死後10年ほどで現代の文化の原型ともなる室町文化が花開くわけですが)兼好は新文化が誕生することの予感も持ってはいない。――と。

武家文化が強くなり、上方の奥行きのる表現に疎かった東人が素直に読んでしまったことなどもあって、無常観の文学という強い思い込みがある『徒然草』。ですが、「一つずつでは見えないが、恋愛体験の告白と思える段が互いに支え合ったときに、恋の面影が現れる」「『徒然草』は、そんな連歌の手法を散文に応用した最初の例だった」とのお説。1月の休講後、いよいよ「書けない恋を書く」のテーマに入る。その前にと、今日はこの連歌の手法に触れて下さった、のか。何層にもなる兼好の考えの深さ…。やはり興味深い作品です。

(孫のTylerからうつったのか)少々風邪気味でしたが、昨日は京都での文章仲間からの誘いを受けて懇親会的な良い時間を過ごさせてもらいました。
考えあぐねていても一歩踏み出せず、自分のスタイルを貫けばいいことかな…と思うに至り、来年の春からという約束で加わることに決めたことがあります。年末の一つの思い切りに、少しばかり余韻を引きずっています。時間は作って、過ごそうと思うのです。

                            烏丸今出川にある同志社大学の校舎が夕日を受けて。
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「アーアーッ」

2017年12月16日 | 日々の暮らしの中で

孫の第三子Lukasの面倒を見て欲しいとの頼みで、娘宅へ。
家のちょっとした大事な所用に、子供たちの学年末行事、夕刻からの空手やサッカーの練習等々がここ二日間に重なってしまい、母親である娘が一人でまさに東奔西走で対応。その間、三番目を預かって留守居をしていたというわけです。

私が洗濯物を干している横で、ルーカスはボールを転がしては追いかけたり、手首のスナップを効かせて庭帚を地面にこすりつけ、“おそうじ”をしてくれています。
カラスが「カァー カァー」と鳴きました。
「あ、ルーくん。今、カラスが鳴いたね。カァー、カァーって。カァー、カァー」。
ルーカスは、「あーっ、あーっ」と言って空を見上げました。
そこで私が言いました。「ルーくん、『あーっ』ちがうよ、『カァー』だよ」って。

このやり取りを思い出して一人ニヤニヤしているうちに、何かが浮かんでくるのですが、はっきりしませんでした。なんだったのか、気になります。たどり着いた先は、「言葉はないから『アーアーッ』」でした。
「言葉のもとは音だから」と言われていたのは羽黒山伏の星野文紘氏でした。(『感じるままに生きなさい-山伏の流儀』)
【本来、祈りは音でやったんじゃないかな。言葉はないから「アーアーッ」と。
 そのうちに、物をたたいてやるようになった。
 音が出ると、今度は踊りたくなるだろう。だから舞も祈りだ。】
と、こんな一節がありました。

たたくと音が出て、メロディーを奏でるオモチャがお気に入りです。リズムに乗って、体を左右にゆするようにもなりました。足踏みをトントントン。
それに、口をまあるくすぼめ、独特の抑揚をつけて「お~~~~~~っ」と驚きを表現します。
【祈れば自分に勢いがつく】【昔の人は、感じたそのままを表現するから。】【魂のまにまに】。

何の脈絡もなく孫話からの思いつきなのですが、小さな子と触れ合う機会をもって、人間の成長過程の霊妙さをふっと思ったりしたわけです。それだけです。

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「逃げ道はないと…」

2017年12月09日 | 日々の暮らしの中で

報恩講を勤めさせていただいております。

私自身が身をおく現実の中で、長い年月にわたって常に内心に持ち上がってくる迷い、疑問、矛盾。払いのけてしまいたいとあがいてみても(あがいてきたわけですが)、自己のそうした内心と向き合うことなくして道は開かれない。
好きなこと、興味ある事、楽なことだけに心を向けて紛らわせ、これこそ天職だとばかりに虚しさを他の道で埋め合わせもし…、しかし、そんなことをしていても決して解決などされはしないのでした。

【よく「ありのままの自分を受け入れる」などと言うが、ずいぶん甘っちょろい。本当に自分を肯定するのはかなり困難であり、稀有なことである。「どこにも逃げ道はない」と自分の人生を本気で引き受けねば成り立たないのだ。そして、何度でも同じ人生を引き受ける覚悟を持ったとき、「この一瞬をよりよく生きるしかない」という扉が開くのである。】と、釈撤宗氏の言葉に打たれた日。

お参りに寄り合う方々と一緒に聞法の二日間。

   真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり    正岡子規

好きな一首を身が引き締まる思いで味わいます。

                (ひっそりと地味な枇杷の花が咲いていました)






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コレクター「夢石庵」

2017年12月05日 | 催しごと・講演・講座

「末法/Apocalypse -失われた夢石庵コレクションを求めて」に誘っていただき細見美術館へ。この展覧会を催すスタンスが興味深かった。

「初公開」「新発見」「〇〇万人動員」あるいは「国宝・重要文化財指定」などとの指標だけで美術が語られる展覧会が次々と催されている。一方で、個性豊かな美意識・鑑識眼をもって美術品を蒐集していたコレクター・数奇者と呼ばれる人々が姿を消しつつある、と。これは美術にとってある種の末法の世ととらえている。その状況に戸惑いを感じる立場から、個人の美意識に基づいたコレクション展を催し、〈いいも悪いも、一人称で語り、評価する世界を楽しんでみて〉、と一石が投じられた。…と今展を理解してみた。

作品リストの一覧によれば、前・後期で多少の入れ替えがあるが展示作品は80点あまり。その中に国宝、重要文化財は一点もなかった。展示品の名称、時代と、中には所有者、伝来までが添えられたものがある。作者名がわかるのは長谷川等伯、与謝蕪村、丸山応挙、酒井抱一による絵画作品だけ。

見て回る際、少しでもいいから解説が欲しいと思ってしまった。いつも何がしかの説明を頼りに見ることが習慣づけられてきたせいか、物足りない。一見しただけでは、一つひとつの作品の奥がわからないのだ。けれど、そここそ個々に美の鑑賞が委ねられた部分でもあり、そこを楽しむのですよ、と投げかけられていたわけだろう。そうは言われても、語るほどのものを持ち合わせず、こういうのが身近にあったらいいのになと思うくらいで情けないこと。とは言え、で、いいなあと思うものからは、しみじみとした平安さ(?なんて表現があるかしら)、豊潤なぬくもり感(?などと言うかな…)で気持ちよく充たされる。この感覚、まさに個人的な好みの問題と言えそう。迦陵頻伽像(覚園寺伝来 パワーズ旧蔵)、金銅十一面観音懸仏(平安時代 藤田青華蔵)、薬師如来懸仏(鎌倉時代)などはとりわけ印象に残った。

見終わって出口を出たところに用意されてあった1枚の印刷物。そこから、この展覧会のちょっとした仕掛けを知って、「夢石庵って??」「えっ、どういうこと?」って、ワインを傾けながら友人と語り合う。その種明かし、ここではできない。この作品展の会期が終わるまでは、胸の内に収めておくという約束に…。語ってしまってる? いませんよね。


道路を挟んで東にあるロームシアター京都では「吉例顔見世興行」が開幕している。南座が改装工事中のためで、ここに掲げられたまねきの看板だけを見て帰ろうと立ち寄った。
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白い月が

2017年12月02日 | 日々の暮らしの中で

午後4時半過ぎ、比叡山の上方に白く大きな丸いお月さまが上がっていました。
冷たい空気を吸い込んで、ゆっくりと仰ぎ見ていました…。



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