京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

おじいさんやめます、か?

2023年06月30日 | 日々の暮らしの中で

平日だったが先日の梅雨の晴れ間をねらって尼講さんが寄り合い、お講さんを炊いた。
5月は毎年お休みとなるために、月に一度皆さん楽しみに寄る日を待たれる。

当番さんでお汁を炊いて(そのための具材を切りそろえなくてはならないが)、家から持ち寄られた漬け物や煮豆を器に分けて、昼の膳を共にした。いたって質素な献立は知る限り何十年と変わらない。
食事の前には住職による法話もある。法話と言えば…。

「加賀の三羽烏」と言われたお一人の大船師は法話中に居眠りをしているお婆さんを見つけると、「そこのババア、眠るなら出ていけ!」と一喝されたとか。暁烏敏師は法話がお上手で眠る人などいなかったという。藤原鉄乗師は「仏法は眠っておっても毛穴から入るもんじゃ」、と淡々と法話を続けられたのだそうな。三者三様、はてこの日は…。

お参りは尼講だけに女性ばかり。
「男の老人はおおむねせっかちだ」と津野海太郎氏が何かに書いておられた。そして森毅氏が、過去にこだわらず、ゆったり生きるおばあさんに感心して「もう自分が男であることにこだわる必要があまりないのだから、おばあさんのように生きよう」言われていた。
愉快なことだと時々思い出す。


〈女が弱いとは、多分、もう誰も思わないですよね。死と向き合っても、強いです。なので男は年の取り方を考えなきゃいけない。おばあさんならこうする、というふうに生きていこうと、僕は思っています。変に頑張らない。〉
これは永六輔さんが「わたし、おじいさんやめます」、と『男のおばあさん』の中で記していた。「のどかに、ゆっくり、…転ばないように」とも。

あらあら。やっぱり“おおむね”女性の方がおおらかに生きるパワーを秘めているということなのですかねぇ…。「そりゃあ~」って尼講さんの意見はまとまりました。

いくつになっても、いつの代でも、女の集まりは朗らかです。
天候を見ながらいつもより1時間早く、3時には家路についていただいた。
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サンキューハザード

2023年06月28日 | 日々の暮らしの中で
車を運転中、状況はいろいろあるが、前に入った車が短くハザードランプを点灯させることに、いつからか「なんや~?」と思うようになっていた。なんで?と。


今月初めだったか(5月だった?)地元紙の読者の投稿欄でのこと。
市バスに道を譲ったら運転手がハザードランプを点灯させた。それを不思議に思った投稿者は、後日それが「サンキュ―ハザード」であることを知ったという。しかし危ないので余計な操作は不要ではないのかと意見が述べられていた。


これを読んで、ようやく私の疑問は解決したのだった。
(ちなみに、市バスの場合はハンドルの近くにレバーがあるので操作はたやすいことが交通局からの返答として掲載されていた。)

渋滞の最後尾に着いたときなどはハザードランプを点灯させる。これは「ねばならない」だ。そうそう、リバースハザードを場合によっては使う。
私は一度も点滅させたことがないのだが、もちろん謝意は極力見える化しているつもりでいる。

どうぞ。相手の様子も何となくわかるので十分なのに、さらにサンキューと点滅されて、そんなに丁寧にしてくれなくてもと思ってしまう。
無理に割り込まれるとムッ!としてしまう私には、この「ま」がいいのかもしれない。「ありがとう」と言われて不愉快になる人もいないだろう。
他人同士が少しばかり譲り合って共に生きるところに意味があるはずで、また、人に譲るという行為は気持ちのゆとりを生む。

気づけばやたらとサンキュー、チカチカが目につく。軽く手を挙げ、会釈をしたりだけでは、何か心苦しいような気にさせられる。


〈うれしさを もっと言葉に 表情に 態度に〉
ってのは榎さんだけど、倣うほうがいいのかどうか。どうすりゃいいの?
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ベニシアさん

2023年06月26日 | 日々の暮らしの中で

ベニシア・スタンリー・スミスさん。
イギリスの貴族の出身で、19歳で祖国を離れ、日本には1971年に来られたのだという。
96年から大原の古民家に家族で移住された。

かつて、山里での暮らしぶりなどが地元紙に連載された時期があった。またNHKのEテレで放送された「猫のしっぽ カエルの手」は、日曜午後6時からの楽しみでもあった。
画面に見るベニシアさんのお顔に、亡き義母が二重写しになるほど似て見えるので、そんなことも長く番組にひかれた要因かもしれない。
あの番組、いつ終わったのかしら。

視力がかなり衰えているようで、「ほとんど見えない」と話されていた。両手を広げ、庭の敷石の上を手探りされていたのを覚えている。
祖国を想う日もあるだろうし、人は老いて、病む。歳を重ねてゆく人の姿も、知恵も、拝見し味わせていただいてきた。
昨夜ネットニュースで訃報を知り、今朝の新聞ではお顔があった。6月21日逝去 72歳。

   人は毎日が平凡な日々であることを願って暮らす。
   だが、いろいろなことがふりかかる。
   でもそれが人生のすべてではない。
     毎日をせいいっぱい生きて、夢を持ち続けよう。

番組の最後をこう結んだときがあった。
彼女への敬意、人柄への思慕が、訃報に接した寂しさの芯となっている。

「…それが人生のすべてではない」。
そんだ、そうだ。頑張れる気がしてくる。



ベニシアさんと地元の方々との間にも、たくさんの実を結んできたに違いない。
(ヤマボウシの実)
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連鎖を止める力

2023年06月24日 | 映画・観劇
プロテスタントとカトリックの対立が長く続いた北アイルランドのベルファストには「平和の壁」と呼ばれる分離壁が存在し、大まかには平和が維持されているが武装化した組織が今なお存在して若者の勧誘に余念がないのだという。

宗教的、政治的対立の記憶と分断が残る街の男子小学校では、哲学の授業が行われている。
かつて暴力で解決を図ってきた後悔と挫折から、新たな憎しみの連鎖を生みださないためにケヴィン校長が導き出した一つの答えが哲学の授業だったのだ。


哲学的な思考と対話で問題の解決を探ろうとする挑戦のドキュメンタリーが上映される。
上映開始日(23日)を待っていたところ、その前日に「行かへん?」と友人から打診があった。75歳になる彼女は、不登校の子供たちのカウンセラーとして現役でいる。関心の向かう先がどこか似ているようだ。どちらからであっても、誘い水には即反応が常。

「どんな意見にも価値がある」.
校長先生の教えのもとで、子供たちは異なる意見に耳を傾け、自分の思考を整理し、言葉にしていく。どんな小さなことでも言葉にすることが大切だと励ます。
喧嘩やもめごとは日々絶えない。そのたびに先生たちは共感を示し、対話へといざなう。
そして、自らの内にある不安や怒りをコントロールする方法を教える。それが生徒たちの身を護る何よりの武器になるとケヴィン校長は知っていた。


「暴力は暴力の連鎖しか生まない。それを止める力が君たちにはあるのだ」
根気強く、真剣に子供たちの心を耕し続ける。

「たった一粒の花の種が地中で朽ちず、ついに千本の梢に満開の花を咲かせることもある」
「人の心は種である。果てしない未来を拓く種である。」
こんな言葉に触れたばかりだ。(『穀田屋十三郎』磯田道史)

紛争、対立を越えて共に生きる社会の実現は、気が遠くなる道のりかもしれない。けれどそんな中にも生きる意味がひそみ、余韻が生まれた。子供たちは未来を託す希望なのだ。


 
   プレスリー大好きなケビン校長の車のフロントにあったのは、これかもしれない?




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人の人生をいただく

2023年06月22日 | こんな本も読んでみた
「公は民を守るどころか、民をおびやかす存在になっている」
永代のうるおいになるようなことをして、仙台藩の黒川郡にある吉岡宿に暮らす人たちの地獄のような困窮を何とかしたい。
穀田屋十三郎は、茶師の菅原屋篤平治が同じ様なことを考えていたことを知り、互いに心を堅めた。


お上は、お手元、不如意。つまりは金がない。そこで「吉岡の民が殿様相手に金貸しをやって、殿さまから金をむしりとる」。利子は村民に配分して吉岡町内の民を救済する。そんな奇策を菅原屋は考えていた。
三人以上がひそかに寄ってご政道について語れば徒党、謀反同然の行為とみなされた江戸時代。
9人の同志は口も堅め、慎重に策を練りつつ、お上が金に窮してにっちもさっちもいかなくなる時を待った。(「穀田屋十三郎」『無私の日本人』収)

この9人の篤志家たちについて、個人で調べて『国恩記覚』としてまとめた人がいた。
そうしたことを磯田氏に知らせ、本に書いて後世に伝えてと手紙を書いた吉岡に住む人がいた。
調べてみると、一人の僧侶が詳細にこつこつと書きためた記録もあった。


濁ったものを清らかなほうにかえる力を宿らせた大きな人間たちがいた。
「変化というのはまず誰かの頭の中にほんの小さくあらわれる。そして時折それが驚くほど大きく育ち、全体を変えるまでに育つ。」
無名の普通の江戸人に宿る哲学。史伝を書いて、子供に彼らの生涯を見せたいと磯田氏は記していた。

歴史は無名を生きた多くの先人、先達の物語によって継がれているともいえる。
思い出すことがあった。
「相続とは死んだ人の人生をいただくのです。亡くなった人の物語、いのち、魂を受けて渡していくのです」
夏目漱石の『こころ』もそうした相続の物語だと、2014年度だったかの高野山夏季大学で姜尚中氏がお話になったこと。

無名の先人の物語の相続。
孫たちにも、たくさんの物語を読んで他人の人生から学んでほしいといつも思っている。

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等伯の墓に参る

2023年06月20日 | こんなところ訪ねて

本法寺さんを訪ね、長谷川等伯の墓に参った。
お墓は建て替えられていることを知ったので、見落とさないように細い参道を進むと、比較的入り口に近い場所ですぐに見つけることができた。


右側面に両親、左には二人の妻と長男の法号(日蓮宗の寺なので法号というのが正しいのか)と没年がそれぞれ刻まれていた。「久蔵 二十六歳」。
墓の裏にも回った。

 

地下鉄の鞍馬口駅から歩いたが曲がり損ねて遠回りとなって、20分ほどかかってしまった。
腰を下ろして涼みたいなあと思うのだけれど、適当な場所もなく、またどこかよそよそしい。まだ等伯の物語を知らず、自分の中で膨らむ思いがないせいだ。
そう、司馬さんの言われる「精神の酔い」みたいなものが欲しい。


三条にある中古書店の文庫本の書架に、磯田道史氏の『無私の日本人』がささっていた。
目次には穀田屋十三郎、中根東里、大田垣連月の3人の人物の名前が並ぶ。
磯田氏による蓮月尼の評伝を読んで見たくて買い求めた。110円よ。

「人の優しさというものはどこから湧き出てくるのか。幕末に生きたこの女性を想うとき、そのことを考えずにはいられない。」と始まる。
「本当に大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。」
この確信をもってこの本を書いた、とあとがきに記していた。

蓮月尼は桜の大樹の根元に葬られている。(’14.4月)

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文ちゃん

2023年06月18日 | 日々の暮らしの中で
滋賀県出身の日本画家・小倉遊亀(ゆき 1895~2000)の展覧会で買い求めておいたポストカードで、姪っ子家族に宛ててひと言ふた言、三言ほどしたためた。

言葉がなくても物語が伝わる。
楽しくあれこれ思い巡らすことのできる「径」と題したこの絵がとても好きだ。


犬は鼻先で女の子の背中をちょんとついて、足取りのなんと軽やかなこと。お母さんに合わせるかのように傘を高く掲げて足並みをそろえ後に付いて歩く女の子も愛らしい。
こうした時間がいつまでも続くといい。でも家族として過ごす時間は少ない。日常のささやかな幸福感を受け取りながらも、ちょっとしたさみしさも覚えながら眺めてしまう。
どれだけ見ていても見飽きることがない。

弟の3人娘の末っ子は、大学受験を控えた12月初旬に父親を亡くした。農学部を目指す娘だった。結婚と同時に夫の実家のある関西圏で暮らすようになったことから、行き来に今までにはなかった親密さが生まれた。

「なんとなく女の子が生まれそうだったでしょう?」
義妹の朗らかな声が思い出される。
初孫を抱くことができなかった弟に、私は家のお内仏で手を合わせた。
「おめでとう。また女の子でしたね」

この子は小学校2年生となった。下もやっぱり女の子で、幼稚園の年長さんだ。
この絵を見て、どんなおしゃべりをしてくれるだろうか。

一人ぐらいはお父さんと同じように文章を書く人になってほしい。そんな思いを込めて義妹が “文ちゃん”と名付けたと聞いている。
思い出したときに、格別な用もないのに、私は文ちゃんに文を送っている。
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風が吹く

2023年06月16日 | 日々の暮らしの中で
「曇りふたがる」日々も中休み、雨上がりのわりに風が爽やかに吹き抜ける。
大物の洗濯をしている間に本堂も庫裏も窓や戸を開放してまわる。はては押し入れや戸袋にも手を広げるから「茂るままなる」草などには当然目をつむる。
洗濯物を庭に広げ、掃除機をかけて拭き掃除。

こんな日の営みは、代代の女たちによってきっと同じように繰り返されてきているのだろう。
梅雨明けを待つ心持ちなど、昔も今も変わるものではないと思いながら、いただきものの田中長さんの奈良漬けを噛みしめお茶漬けをすする昼餉。


夕飯の時間になると「とーふ とーふ」とラッパが聞こえてくる。「こだわりのおいしいおとうふはいかがですか」
と、ああ今日は金曜日だと必ず思うのだ。

豆腐屋さんのラッパに乗って、葉室麟さんが『豆腐屋の四季 ある青春の記録』(松下竜一)について書かれた、読んで間がないエッセイを思いだした。
松下竜一さんは大分県中津市で家業の豆腐屋を継ぐかたわら作歌を始めた。

「松下さんの短歌は根底に何ごとかへの怒りを内包している」
「短歌として洗練され、研ぎ澄まされた言葉はたとえ、ささやかでも風なのだ。風はたゆむことなく世の中を変えていく。だから、一人の若者が言葉によって何ごとかを成そうとした勇気を大事にしたいのだ」

この世はさまざまな風が吹く。
風を通して、家空間の肌触りもよくなった気がする。
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二歩目は本法寺へ

2023年06月14日 | こんなところ訪ねて
長田弘の「最初の質問」という詩の冒頭はこう始まる。
 〈今日、あなたは空を見上げましたか。〉
夜半過ぎの雨は止んで、明るさは戻りつつも空には黒い雲が見える。散々迷って日傘を持った。

秀吉、利休、大徳寺三門のこと、果たして『等伯』の展開は、とすべてがこれからのことなのだが、気の早いことに本堂前に立つという等伯像を一目見てみたいと本法寺に向かった。


能登の七尾の武士の息子、信春(のちの等伯)は絵仏師である長谷川家の養子になり、都に出て日本一の絵師を目指していた。
ゆかりのある本法寺の塔頭に妻子とともに住んだ。



故郷を出る等伯だという。左手にあるのは、本阿弥光悦翁手植えの松だそうな。

もう一つ、墓地に等伯の墓があるとのことだったので訪ねたかった。。運よく出会ったお寺の方らしい女性に聞くと、「入って、少し右に、永代供養塔がある…、等伯と背中合わせに本阿弥家のお墓がありますよ」と丁寧に教えて下さった。
わかった気がしたが、狭い場所に、似たような古い墓石。そこにポツン。雨が一滴。
狭い参道をたどって探し回るが、どうにも雨が気になりだした。結局わからなかった。

出直しと決めた。一度で済まないんだからなあ、間が悪いこと。
まあ、こうして等伯への関心を一歩、また一歩と高め近づいていけばいいのだし。


日傘はたっぷり雨を吸い、判断の甘さが災いした。午後から傘マークはなかったんだけどね。
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私の人生を変えた

2023年06月12日 | こんな本も読んでみた
芥川賞受賞作品はほとんど読まないが、『乙女の密告』(赤染晶子)と『苦役列車』(西村賢太)を単行本で読んだ記憶ははっきりしている。
いつのことだったか。調べてみると『乙女の…』が2010年の上期、『苦役…』は下期の受賞だった。しかもそろって二人ともが既に亡くなった。
昨年の2月、西村氏の訃報記事を目にしてドキッとしたものだ。
『苦役列車』の内容はさておき、「この文体好きだ」と思ったのを覚えている。


「昭和58年3月に中学校を卒業したあと、その月末には親元を離れ、鶯谷のラブホテル街の中にあった木造アパートで一人暮らしを始めた」
「中学の馬鹿のくせして、読書が何よりもの娯楽となっていた」
ろくに働かなかったという。
それでも昭和62年、欲しかった田中英光の『我が西遊記』1万5千円の古書を、日雇いの港湾人足仕事を二時間ほど残業した一日分の賃金で購入している。再読なのに面白くてたまらない。「バイトを終え、外で酒を飲み飯を食べ、三畳間の部屋に戻ってくると、すぐに寝っ転がってこの書を取り上げる」

西村賢太が藤澤淸造を師と仰ぎ、没後弟子を任じていたことは、なにかで読み知っていた。
29歳の頃、「無理な借金をして売価35万円の書(抄録などでなく原本『根津権現裏』)をすがる思いで手に入れた」。
「この書は、間違いなく私の人生を変えた」「これを読んでいなかったら、それが幸であったか不幸であったかは別として、私小説というものを書いていなかったに違いない…」と書いている。


自身の敬する物故私小説家を引っ張り出して、極めて個人的な偏愛書録だが、順次筆にのせてみよう。拙文、見向きもされぬ駄文、マイナーな名が連なる、人様へのオススメの意味合いも含まない。そうした意味を題名『誰もいない文学館』にこめたのだそうだ。
「文豪ばかりが作家ではない」という。

氏の「人生の惨めな敗北」、読書遍歴、書物へのこだわり、思い入れなどを知るにつれて、亡くなられたことを惜しみつつ、なんとない悲しささえ味わってしまった。氏の横顔をじっと見つめる。

食べるために売った本、トレードに出した本、どんなに窮しても手放すわけにはいかないと思った本の類。氏の蔵書はどうなっているのかしら。余計なお世話だけれど、興味が…。
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はじめの一歩

2023年06月10日 | こんなところ訪ねて
  梅雨晴れ間  無沙汰の寺社を回りけり

無沙汰も無沙汰、40年を優に越す時を経て東山七条、その東側に広がる智積院(ちしゃくいん)を訪れた。
真言宗智山派の総本山で全国に3000の末寺があるのだとか。


秀吉が亡くなった嫡男・鶴松を弔うために祥雲寺という寺を建てたのが始まりで、家康が豊臣家を滅ぼした後、寄進したのが現在の智積院。
本堂や客殿などに飾られていた障壁画は、何度も大火に見舞われて多くを焼失したという。



この日の目的は、幸運にも運び出されて保存された長谷川等伯、嫡男の久蔵(26歳で早世)、等伯一門の障壁画を宝物館で拝見することにあった。

地元紙連載の「文学の舞台を行く-50」で『等伯』(安部龍太郎)が取り上げられたのを読み、なにやら心惹かれ、こうしてさっと行動に移せたなんて、まことにしなやかな心の〇歳(と妙さんに褒めていただけそう -と自画自賛)。

(入館時のパンフレットより)
         
好奇心はあっても、あれこれと無理して間口を広げる力もなく、本当に狭い穴からのぞく自分の興味関心事から入っていく人間で、好き嫌い、いや、好みがはっきりしているタイプで…。ただまあ、抜けた先には何か新たなものが待つこともあって、枝葉が茂る。そうやって根から得る滋養を行き渡らせたい…。

とにかく書評や案内にとどまらず自分で読んで、心で考え、作品と対話してみることでしか始まらない。
歴史の授業で習っただけの「等伯」から「読んでごらんなさい」と促された『等伯』へ。何年たったかしら、まずはこれが私の一歩。
そのうち本を探して、そうそう本法寺さんで等伯像と出会ってくることも忘れないでおこう。
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花よりもなほ・HANA

2023年06月08日 | 映画・観劇
外国人のための日本名作映画上映会が国際交流会館で催されていて、友人と「花よりもなほ」を見た。会場はほとんどが日本人。無料でもあるし、とってもお得なんだけど…。


是枝裕和監督作品の『怪物』が、先ごろ行われた第76回カンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞(坂元裕二)を受賞した。「花よりもなほ」は同監督による2006年の作品だった。タイトルに覚えはあったが、内容を知らないでいた。
数えてみれば17年も前の作品で、出演者には故人となられた方々がいる。主演は岡田准一。

元禄15年。父の仇討のために江戸にやってきた若い侍・宗左衛門が、人との触れ合いを通して人生の意味を見つめ直す姿を映し出した人間ドラマ。
様々な背景を持って長屋で暮らす人たちと、貧しいけれど笑いが絶えない暮らしを共にするうちに宗左衛門の気持ちは変化し始める。
父の仇は、近くに居た。けれど、仇討ちをせずに名誉を守ることを考えた。

なんともたくさんの登場人物で、彼らが笑って怒って泣いて。次々と事が起こり、出入りの多さに追い付けず、不確かな部分を友人に確かめる帰り道だった。

英語版タイトルは「HANA」となっていた。
“ようやく花が咲いたと思ったら、変な実が生った”と、誰かが言っていたのだが…。

「恨みは恨みで静まらない。自分が恨みを捨ててこそ静まる」(法句経)といった言葉があるようだが、憎しみや不平の嵐には、人本来がもつ美しい花も散ってしまう。

元禄15年。この作品には赤穂義士の仇討、切腹の話が挿入されていた。当時、仇討は 慣例、当たり前で、仇を報いることは時代の「花」だった。
が、時代の殻を破って、自己を開いた宗左衛門。
Sozaemon realizes the existence of life without revenge.
縁あるままに長屋の人々と親しみ、これからを生きていくことだろうと思わせる。
物質的には貧しい生活でも、生きる喜びを見いだしたようなラストの笑顔から、ほのぼのとした幸せが心に沁み込んでくるのだった。

エンディングになるとそこかしこで一斉におしゃべりが始まった。珍しい状況だと思った。感想なり言い合っているのだ。


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名前を呼ぼう、カラスムギ

2023年06月06日 | 日々の暮らしの中で
よく見かけていると思うのだが名前を知らない植物だった。
ダンプカーが走り去る風圧で、横並びにぶら下がった小さな白い羽のようなものが軽く揺れた。


この白いものは〈小穂(しょうすい)〉と呼ぶとあとで知ったが、形が珍しく、一見するに愛らしくもあって、顔を近づけてみた。
どうなっているのか。種がはじけたあとなのか、中は空っぽで、乾いていた。中心から黒くて細いものが1本、伸びて残るものもある。

「カラスムギ」だった。
イネ科の、カラスが食べる麦だから、この名がついたらしい。白い穂は芸術的な形状にも見えるが、もとをただせば、ひいき目に見てもただの草(? いや、れっきとした麦?)。
繁殖力旺盛で、その除去となるとかなりやっかい者らしかった。

佐伯一麦氏がカモガヤのことを書かれていたことを思いだしている。
広げた花序の枝先につく小さな穂が、4、5個の小花をまるで鳥の指のような形にひらくので「Cook’s-foot(おんどりの足)」の英名があり、それが鴨と間違えれてカモガヤ(鴨茅)の和名になった、ということだった。氏は喘息を患っておられ、花粉をとばすイネ科のカモガヤに対するアレルギー反応は激甚なのだそうだ。
この、小さな穂に小花を咲かせ…、という生育状況を、白くカサカサになるまでの穂に重ねてみたのだった。

気付かずに、そして名前を知らずにいれば、路傍の繁茂した草ぐさの中で埋もれてしまっている。けれど、一度注意して名前を覚え知ると、風景から浮かび上がって目に飛び込んでくるという体験は何度もしている。
ただ、「名前というものは五感を働かせて、具体的なものとして実際に自分の中を通して見なくては身につかない」と佐伯氏。


「名前は個人所有、単品限りのブランドである」と榎さん(榎本勝起)が書いていた。
一つ、身近な小さな命の名前を知った。
名前を呼ぼう、カラスムギと。
目を凝らし耳を凝らして、次の新たな気付きはなんだろか…。
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真如堂のボダイジュ

2023年06月04日 | こんなところ訪ねて

僧栄西が中国の天台山で修業を積み、帰国の際に苗木を持ち帰って各地に植えたと伝える菩提樹。お釈迦様はさまざまな困難の中で修業を積み、菩提樹の下で悟りを開いたと言い伝えられている。
ただ本物のインドボダイジュは別物で、日本では生育しない。そこでこの菩提樹、別名シナノキを代用しているという。真如堂にある木もその子孫かもしれない。
      
       天蓋のごとく菩提樹咲きにけり    那須茂竹


本当のインドの菩提樹は蔓性の植物で、他の木に絡みつき栄養を奪いながら、芯の木を締め付けていく。最後には元の木を殺してしまうので別名シメゴロシノキ…だと『絞め殺しの樹』(河﨑秋子)にあった。
根室の狭い集落の中で、傷つけ合い、踏みつけ合い、絡み合い、枯らし合い、それでも生きた祖父母、両親、地域の人々、血のつながった人々の物語を読んだのだった。

ちょうど今朝、地元紙に月一で掲載される「文学の舞台を行く」では安部龍太郎氏の『等伯』が取り上げられた。

利休が秀吉から切腹を命じられたとき、等伯に言う。
「筋の通らぬことに屈して生きるよりは、己の生き様を貫いて命を終えた方がええ」
「内側は自分の世界や。命をかけて守らんでどうする」お前にその覚悟があるかと、利休は等伯の顔を真っ直ぐに見つめた。

この引用箇所を読んで、ぼんやりと思いを巡らせていた。
自分一人の幸福を求めて終わる一生は、ちっぽけ過ぎて虚しいというのなら、苦労も我慢も、ましてやそこに点る明かりは人生の宝物かもしれない。
心にふたをしさえしなければ、自分の人生の値打ちを教えてくれる人との出会いもある。
どのように生きるも個々が賜った道。如来は大悲をもって迷えるものを哀れみくださる……のかな。




「『等伯』読んでごらんなさい」
高野山夏季大学の三日間を終えた帰りのバス車内で隣り合わせた高齢の女性と話がはずみ、その折にこう薦めてくれたことがあった。
なにか今になって読んでみたくなりました。

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よい呼び名は

2023年06月01日 | 日々の暮らしの中で
今朝六月。


2階の高さにゆうに達した高木に積雪かと見まがうヤマボウシ。
白く見えるのは苞というものであって、花は中心の黄緑色の玉のような部分。法師の顔を白い頭巾が包む…、で、ヤマボウシという名を頂戴したらしい。
もう少し「花」らしい呼び名はなかったのかしら。

所用で外出の帰りに京都御苑内を南から北へと歩き抜けた。
木偏に「夏」と書けば「榎」。この木大好き、御苑に見事なエノキがある。

良覚僧正と申し上げる天台宗の大僧正がおられました。宿坊に大きな榎の木があったので、人は「榎の僧正」と呼んでいたようです。
この僧正、「腹あしき人」だったらしく怒りっぽい。自分をそんな名で呼んでほしくない、けしからん! と怒って木を切ってしまったそうです。でも根が残りました。すると人は「きりくい(切り株)の僧正」と呼んだそうです。ますます腹を立てた僧正は、切り株を掘って捨てたそうで、するとその跡が大きな堀になって残りました。そこで人はまた…。

『徒然草』に榎の僧正の話があったことを思いだしたわけです(岩波古典文学大系 45段)。

いくらなんでもひどいではありませんか、と兼好さんは紹介している。
同情ではなく、ひんしゅく気味に。
西国武者が京に多く住む地域ができつつあって、思いやりが行き届かない人が都に増えている。都人はこんな呼び方をしませんよ、と抗議でしょうか。
時代が変わりつつあることの現れでもあるようです。

ところで、問題です。
良覚僧正は自分のことをどう呼んで欲しかったでしょうか。
怒りんぼさんは、どう呼んだら怒らなかったでしょう。(本名を呼ぶことはタブーなのです)

そう言えば私もまだ答えを出していなかった。



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