京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

あなただけの心の新学期

2021年08月31日 | 日々の暮らしの中で

八月が終わる。酷暑を惜しむ気持はなく、夏は往くの思いが勝る。秋のわずかな気配にも乗っていきたいものだ。

期待するから失望も味わう。これからの自分の進退を決めかねて、重い気分を胸の奥底に沈めたままの“夏休み”が明ける。なんとこの緊急事態宣言下に、9月例会開催の知らせが届いた。参加不参加はともかく、いつまでも重ったるい気分のままではいたくない。一新したい。

「もしも、何か一つは気がかりなことに決まりをつけ、何か一つは新しいことを始める決心がついたら素敵。帰りには、あなただけの心の新学期をスタートさせた記念に、見知らぬ町で、小さな買い物をしよう。形のいいお醤油さしとか、持ちやすいマグとか、毎日の生活の彩になるものを。」

家にいる時間が増えた今夏、初めてとなる作家の作品を手に取る機会もできた。その中の一人、熊井明子さんのエッセイに、こんな言葉が記されていたのだ。
経験を積んだ方の言葉は、生きる指針となったり、背中を押してもらうこともあれば、一つの方向を手繰り寄せる力となることもあった。
自分の深いところにある希望を友として、前向きに更新しよう…と思い始めている。こうして書いてみるとまた、自分の気持ちに落ち着きが生まれつつあるのを感じたりもする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

動詞だ、野球は

2021年08月28日 | 日々の暮らしの中で

掴む。滑る。倒す。倒れる。どよめく。沸く。燃える。ギュッとくちびるを噛む。苦しむ。焦る。つぶされる。どこまでもくいさがる。どこまでも追いあける。どこまでも向かってゆく。波に乗る。拳を握る。襲いかかる。陥れる。踏みこむ。真っ二ツにする。盗む。奪う。
刺す。振りかぶる。構える。投げおろす。打ち返す。叫ぶ。叫ぶ。跳びつく。駆ける。
駆けぬける。……後略

(動詞だ、
 野球は。
 すべて
 動詞で書く
 物語だ。)
あらゆる動詞が息づいてくる。
一コの白いボールを追って
誰もが一人の少年になる
夏。

括弧からあと4行分けされた言葉が続いて終る、長田弘さんの「夏の物語―野球―」。
詩の中には73の動詞が使われていた。
チームのチャンスもピンチも、サインの交換、緊迫の瞬間、スタンドの歓声…。一つ一つの動詞の積み重ねに、ゲームの展開が重なる。
そうか、こういう風に書ける、…と言葉力の乏しい者には刺激も大だった一編。

近畿大会みたいだなどと耳にしたが、夏の高校野球準決勝が放送されている。どこへ行った帰りだったか、野球部が練習している近江高校のグランド脇を通りかかったことがあった。すでに甲子園で見知った学校だったので、単純にブルーのユニホームに親しみを覚えたものだ。
雨が上がれば厳しい暑さが戻ってきた。第一試合の智弁和歌山―近江戦。
5回表智辯和歌山の攻撃は2アウトで満塁!…ファーストフライにし止めピンチを切り抜けた近江高校。
1点差を追いかけて、頑張れ!!

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別な「靴下」

2021年08月25日 | HALL家の話
4歳児を連れて小学校のプレイグループに行ってきた、と写真を添えて伝えてくれた。

 


「なに描いてるの?」と聞いたところ、
「おやじのくさい靴下」という返事が返ってきたそうだ。
「適当に描いたものが靴下っぽく見えたから言うたんやと思うけど」って笑う。

それにしては、〈おやじのくさい〉というお飾り付き、特別限定枠での靴下。彼の言葉に隠された情報を探れるものだろうか。言葉は過去の体験から表出されたもの?

想像力というのは、言葉の発達と関連があるという。彼の中には〈おやじのくさい靴下〉という言葉が潜在していて、イメージを絵にした。と考えることができる。
また、聞かれたことが刺激となって、ひらめき(思いつき)の連鎖で〈おやじのくさい靴下〉が出来上がった。言葉より絵が先、と言っていい?

ラスコー洞窟の壁画を思い浮かべてみよう…。言葉が先か? 絵が先か?って。
何らかのイメージ(言葉)が内にあって、絵はその具現化、だと考える。じゃあ、4歳児のこの絵は??
頭をフル回転してみて、結局、娘の説明が一番わかりやすい。そういうことにしておこう。


だけど…、どこから〈おやじのくさい靴下〉なんて言葉が出てきたのだろう。聞いてみたい。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えっちらおっちら

2021年08月23日 | 日々の暮らしの中で

散歩道にあるお宅の塀沿いに確か毎年咲いていて、花の名前を今になって知ることができました。
見落としてしまうかもしれないほど小さな花。外塀の周辺はきれいに掃除も行き届き、きっと大事にされているのだろうと推察がつきます。


新聞に掲載される〈しゃがんで見る道端の植物〉で確かめたところです。
はぜたように花が咲くことから「ハゼラン」の名称。その小さな花は、「星のしずくか花火か」といったところ。そして午後3時に開く習性があるとか。そこで、「星のしずく」「サンジカ」といった名も持ち合わせるのだそうな。

このところ天気の様子を見計らって3,4回ウォーキングに出るようになった。疲れて疲れて、体力が落ちてるとはこういうことか。億劫になるのをだましだましの小一時間。川べりで風に吹かれてひと休みの時間が長い。雨続きだったから…。
子供と同じに上を見ずして下ばかり見て、それでこんな気づきがもたらされたのだけれど、足元の心もとなさ気をつけなくちゃ。
日中の日差しは強かったのに、雲が多くて星も月も見ることができません。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰かを思って 花を摘む

2021年08月21日 | 日々の暮らしの中で

朝の散歩で花を摘む。
何かを思い、誰かを思って。
母は自分の誕生日に子の心を受け取って、
コップに挿した。
立派ないけばなになった。

無心な行為の中に四歳児の“子なり”があらわれる。
子供時代を振り返ったとき、この日のことを思い出すことがあるだろうか。
あってほしいなあ。


でもねぇ、今、僕は“走る人”で夢中なんだー。
Tylerが自転車買ってもらったから、まだ乗れない僕は走って一緒に遊びに行くんだ。僕も自転車欲しいけどね。あと何年待てばお古が回ってくるのかな?

子供のこうした無邪気な、一生懸命さは何よりの輝きだと思う。

子は宝。だから、どの子もどの子も、幸せに…。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一瞬、明るく軽やかに

2021年08月20日 | 日々の暮らしの中で

ようやく朝から日差しに恵まれた。

今年は種をまかなかったのにこぼれ種があって、一つ芽が出たようで双葉に気が付いた。本葉が出てきて、いよいよ見ぬ振りもできず、プランターの空きスペースに移植して3本の支柱を立てた。ツルの先を空に泳がせ、どうにか巻き付いた。

       雨が続くし、どうなんだろうと思うも忘れていたら、今朝初一輪。やっぱり4センチほどと小さいのだけれど、一瞬、明るく、清新な喜びをもたらしてくれた。
青い花の中には、孫のLukasとの思い出がひそむ。
二人で公園に遊びに出て、フェンス際で見つけたタネ。てっきりアサガオだと思った。
8粒だったか、集めとっていると「虫~い?」と後ずさりしたので、「お花が咲くんよ」って言ったんだったなぁ。
「平凡な一日をお祭りにしてしまう花」。ごめんよ、ほっといて。

今日は娘の誕生日。5日前の彼女の夫の誕生日と合わせて、焼き肉パーティー(外食)だそうな。よい一日を、と祈った。
  あちらの空は…

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出会いもん

2021年08月17日 | 日々の暮らしの中で
この二日、雨は小康状態でしたが、今日また朝から激しい雨が断続的に繰り返されました。
ひと降りのあとは空も明るさを少しなりと取り戻すのですが、小止みにセミの鳴き声も弱弱しく、徐々にまた暗くなっていきます。軒低く瓦屋根が張り出し、南北に廊下が通る庫裏の部屋は昼でも夕暮れ状態。手元にスタンドを置いて、読書に励めましたこと幸いでした。

ナス、キュウリの頂き物は多く、炊いたソフトニシンの煮汁の中に素揚げしたナスを入れ、味を含ませいただくことにした今夕。この組み合わせも「出会いもん」といえるようです。
異なる食材を一緒に調理すると、味が交流しておいしさが増す組み合わせのことを「であいもん」と呼ぶのです。

家族で食卓を囲んでいるCMに目が留まったことがありました。もう何年も前のことでしたが、改めて再現してみます。
 イカと子芋を炊き合わせたのが小鉢に盛られて4つ。
 「おかあさん、イカとおイモが同じところに入ってる」
 「お皿、けちったん?」
 「二つの材料を合わせると、お互いがますますおいしいなるんや。であいもん、言うんや」

食材も人も、異質の二つのものが取り合わされて相乗効果が生まれる。味は染み合い、より深い味わいを増す。


これから孫娘の選択科目・日本語の宿題を添削をしなくてはなりません。
言葉の使い方を見てほしいとメールで添付してきました。どうなんだろうとは思うのですが、添削の観点からずれて私の作文にしなければ、いいか~。少しでも良いものに仕上げたいという思いの表れにほかならず、二人の味を組み合わせてみることにします。



コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆の中日が終戦記念日

2021年08月14日 | こんな本も読んでみた
【広島と長崎の「原爆の日」がいつも立秋を挟み、月遅れのお盆の中日が終戦記念日に重なることも仏教徒には重大な意味を孕んでいるように思える。】

インターネットからプリントアウトしてあった玄侑宗久氏の新聞連載記事に目を通していた。2015年9月の掲載だが、8月8日の立秋の晩に書いていると記された「立秋とお盆」という文章に上記の言葉はある。問われているもの…。

氏の小説の中で特に好きな『四雁川流景』は、もう何度も何度も読んでいた。
朝から激しい雨が断続的に続き、寺を訪れる人もない。なんとなくごそごそ調べものらしきことをしていて袋入りにしてあった印刷物に目を通すこととなり、その後、この一冊を取り出した。


しみじみするのだ。ともすると内に向かうタイプの私の中にある“何か”が、物語と対立したり仲良く打ちとけてみたりしながら、共振するからだろう。
それぞれに違ったテーマで、様々な人生を見る。苦悩の日々を一見平凡に見える日々を生き抜く、妙なる姿があって、しみじみするのだ。赤色赤光 白色白光などという言葉を思い浮かべては、またしみじみ。
そしてラストの描写がどの物語も好きだ。余韻が思いをいっそうふくらますことになる。

雨のやみ間に、ヒグラシが夕暮れをつげていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盆月の一期一会

2021年08月11日 | 催しごと・講演・講座

下鴨神社糺(ただす)の森で納涼古本まつりが始まった(~16日)。
開催は2年ぶりになる。お盆前、しかも明日からは雨模様の天候が続くようで、行くとすれば今日しかない。相田みつをの〈やれなかった やらなかった どっち〉という言葉を下敷きにして、今日の自分を思い返してみるが、〈がまんできなかった がまんしなかった〉さて、どっちになるだろう。

「蝉の声が鈴のように降ってくる」(『無暁の鈴』)森の中は、まさに涼みどころ。
ただ、どうしても不安を一つ抱え込まなくてはならない。なるべく時間をかけずに、馴染みのある好きな店舗を中心に回ろうと心がけた。…わけだけれど、なーんか、あんまりだった。品ぞろえ、よくなかった。

ある店の会計場所で、「3分ごとに、『ありがとうございました』って言うんだよ」と店の主人と思われる男性が若い女性たちに教えだした。「遺言なんだから」と聞こえてきた。店の繁盛が周囲に伝わるのだろうか。購入せずに去っても、そう声をかけてもらえれば気分はいい。
「3分ごとに『ありがとうございました』だよ」。店主の「ありがとうございましたぁ」の大きな声が何度も何度も放たれるのを、クスッとしながら聞いていた。さっそく会計係さんたちが口にしだしたのも面白い。
今年の収穫はこれだ。

「活字に飢えている」と言ってきた娘のために、書籍(印刷物)のみ2キロまで、という条件での小型包装物で文庫本を送る算段を整えていたところ、帰国のために出した船便が着いたと知らせてきた。未読の本を入れておいたので、当座は間に合うという。
希望のものをそろえ、喜びそうな作者のシリーズものなども買い足した。さらに何かあればと、今日は頭の片隅に置いたが、収穫はなし。自分に文庫本1冊だけを買って帰った。100円。

本との出会いも、人との縁も、一期一会だから…。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盆月の出遇い

2021年08月10日 | こんな本も読んでみた

特設ワゴンに平積みになっているのを見て、概容を確かめることもなく手に入れた『無暁の鈴』。

家族に疎まれ、寺に預けられた武家の庶子・行之助だったが、寺を逃げ出し、村を捨てた。そして出会った同い年の万吉と江戸に向かう。夜明けをひたすら待ち望んだ子供時代の自分と決別する思いで〈無暁〉と名乗り、13歳になっていた。
波乱万丈。19歳で八丈島へ遠島の刑を受け、22年間の島暮らしに赦免が叶うと、出羽へ向かい羽黒山で修業。その後、湯殿山での千日行から即身仏を目指すという展開に、本を閉じるのも惜しいほどの思いで読み継いだ。

貧困、飢饉、疫病、土地や身分に生涯縛られる理不尽、災害に地震、…。人の力ではどうにもならない辛い苦しみの中にも、わずかな希望を見出し、忍耐からくる粘り強さで生きるしかない人たちは、無暁の厳しい行の姿にわが身を重ねるのか。己の生にあえぐ渇きを満たす対象として帰依し、強い感謝の念を持つ。わが身を惜しむ生への執着が生まれたり、選んだ道の険しさ、深さに疲れ、迷い、心を揺らしながら、理解し、分かり合えるものがあることを無暁は感得していく。

あがき、もがき続けた人生の果てに、手には何もない。財も技も子もなすことはなかったと、醜悪ともいえる姿の即身仏と向き合い惨めな心の内をさらした。〈それでよいではないか。それがおまえのあたりまえの姿なら、それでよいではないか〉
人は様々な環境に生き、見るもの触れるものが異なれば、導き出す答えには差異がある。自分にしか出せない答えがある。「いまあるものを有難いと享受することがなければ、どんな幸甚すら輝きようがない」。

入定塚に収まった木棺の中から聞こえてくる鈴の音は、生きている証。外で聞き届ける弟子二人が打つ鈴の音。「ちりん ちりん」「ちりん ちりん」
心を通わすあたたかな出会いもあった無暁の一生が、鈴の音の響きと共に心に余韻を残した。
盆月の出遇いの一冊。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盆月に

2021年08月07日 | 日々の暮らしの中で

草むらになりかける庭の草を刈り、境内の砂利の隙間に生える草を抜く。今日は立秋。
遠方からの里帰りがなければ、ご門徒の土産話で本堂に花が咲くこともなく、今年も訪れる人はまばらだろうなと思っている。それでもすっきりお盆を迎えたい。

仏具の磨きものを小人数で、女性陣の協力を得て済ませた。従来は昼餉を取って帰っていただいてきたが、この時期会食は見合わせて折を用意させていただくことにした。これから日をかけて本堂の荘厳を少しずつ…。

日々コロナによる感染者数が増加の一途をたどり、さすがに外出には用心をし始めた。
用事など不要不急ではないことが実は大方の日常で、何かと用足しに外出したり、自分の楽しみごとのために出ることは多い。
家にいて、さあて何をしようか。

      
浴衣の帯をほどいて袋物にリメイクしようと準備してあったのを思い出した。経年による色あせが上下でできているのが工夫のしどころか。念頭にあるのは孫娘か娘用の普段使いで、丈夫な生地、鮮やかな色、柄を生かして、しかも簡単に、更にはちょっといい感じのものを作りたいと欲張る。
読書や書き物以外に気持ちが向かうものを持たないと、ついふらふら外に足が向くから…。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無になれと?

2021年08月04日 | 日々の暮らしの中で

名前はリトープス。
5月26日には2.5センチだったのが4センチまでに成長しています(左端)。
6月からは夏季休眠中でして、月の半ばと末に水やりをするだけ。寝る子は育っています。
全体にすっきり見え出したのは、周りをかこっていた果肉?が、かたくしぼんで姿を消しているから。

「なにごとも じわじわがよろし 季節の移ろいゆくがごとし」

いつもそばにいる?置いておくと相棒とはいかなくてもオトモダチ的な親しみがわいて、みつめている。ちょっとなでたりして。
ひそやかな命の気配。無音の中に、ふと仏さまの声を聞かせていただきますか…。ちょっとざわついた気持ちにも、心落ち着く存在です。

  
  (左から5月、6月、7月。上は今日)

追記:気持ちが穏やかでないとき、それを見た夫は「無になることだ」と口にするのでした。そんな聖人君子みたいなことをよく言えると反発もしたものでした。「無心」など程遠いですが、なんとなく感じるものがあるようになってきた心境です。歳を重ねたせいです。自分の都合、自分にばかりこだわる自分を意識できるようになったからかも…。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

癪、癪、癪という字を

2021年08月02日 | 日々の暮らしの中で

孫たちが暮らすブリスベンでは、高校生の家族間から感染が広がり、6人の感染者が出たことで7月31日午後4時から3日間のロックダウンとなり、学校も火曜日まで休みになっていた。
そこにまた今朝はさらに13人と増えて、8日午後4時までの延長が決まったという。
10キロ圏内なら健康管理を目的とした外出も認められているというから、子供たちも近くの公園で体を動かすことぐらいはできるようだ。(くもの巣につかまった子)

自分の考えが間違っているかもしれないと振り返ってみてはいるが、所属する会の代表とのやりとりで失望感を抱き、不快感がおさまらない。
考え方の相違、意識の違いはもう仕方がない。いまさらという感があり、そこは前提に認めようと思っていたが…。ひと言が、言葉を失わせた。まあ、失望したということだ。
料簡が狭いのだろう。考え方が間違っているのかもしれない。求めすぎるのかもしれない。
この気分の悪さの出口をふさぎ、押さえつけてしまうことをしたくない。西野文代さんのこんな句を詠んだら押し出せそうだわ。

     癪(しゃく)ちふ字を書き散らかして心太(ところてん)    


青い稲田のふちにかがんで、足元を跳ねる小さなカエルを見ていた。姿を消したオタマジャクシは、みんなカエルになれたのだろうか…。
あっちこっちから姿を現すこの小さな生き物。そう言えばカエルの世界に子育ってないなあ、と思った。

この会の8月例会はコロナ禍で中止。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする