黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

この10日間

2009-06-17 05:10:56 | 近況
 10日間この欄に新たな記事を書けなかったのは、以下の事柄が集中して起こり、そのために時間が取れなかったからです。
 まず、書評の仕事が「1Q84」(村上春樹)の後2つ続いたことです(現在一つは書き終わり送稿しましたが、もう一つはいま読んでいる途中です)。「1Q84」については、北海道新聞に載った拙文を最後に掲載しますが、果たして拙文は「道新読者」を名乗る人が言う「あらすじだけじゃないか」に該当するかどうか、読者諸氏に判断していただきたいと思います。言い訳ではないのですが、「書評」というのは(北海道新聞の場合)「750字」という制約の中で如何にその作品の内容を紹介し(ある程度内容=「あらすじ」めいたものを紹介しなければ、その作品の概要が理解されない)、なおかつどのような点が問題なのかを(評者なりに)明らかにすることが如何に難しいか、「1Q84」の場合、2100枚を超える長編作品である、どのような形でこの村上春樹の最新作について「書評」すればいいのか、もし良い方法があったら是非「道新読者」氏にはご教示願いたい、と思っています。「1Q84」の後、週刊読書人から「安達征一郎 南島小説集 憎しみの海・怨の儀式」(川村湊編・解説)というA5版357ページの本の書評を依頼され、ようやく昨日送稿でき、一段落ついたという状態にあります。
 二つめの理由は、私事(というより、本当は「公」的なことに関わる事柄なのだが、とりあえず「私事」としておく)に関して「嫌なこと」があって、気分転換のために庭の片隅に信じられないほど実を付けた「ユスラウメ」(ユスラゴとも言う)のジャム造りに挑戦し、二度にわたってジャムを作り、勢い余って近所の畑に放置された桑の木にたわわに実っていた「桑の実」を採集し、そのジャムも作ってしまった、ということがあります。両方とも大量にできたので、友人や娘たちにもお裾分けをして喜ばれました。
 もう一つの理由は、前記した「書評」のことに関係するのだが、何年か前に商標を頼まれた本と似ている本が著者から送られてきたので、それを眺めていたら「増補改訂版」ではないのに内容が前著と酷似しているのを発見し、こんな本作りもあるんだと「嫌な気分」になり、かなり長い時間考えさせられた、ということがあったからです。この本については、「参考文献」の使い方にも問題があるのではないかと思いました。よく知っている著者なので、どう対応したらいいのか、今も苦慮しています。
 更にもう一つ、いよいよ拙著「村上龍論」が今月末に出ることになりましたが、そのことに関して対応を考えていて、「余裕」を無くしてしまいました。昨年は翻訳以外の本が出なかったので(今年の4月に出た「三浦綾子論」は増補版なので)、「村上龍論」は久しぶりの「書き下ろし」ということになり、少々興奮しているのかも知れません。
 以上です(が、「元図書館情報大学教授」を名乗る御仁、「先輩」風を吹かせるのであれば、堂々と本名を名乗って欲しいと思う。お為ごかしの「匿名」は卑怯です)。
「1Q84」の書評を以下に転載します。

 著者が一九九五年に起こった阪神・淡路大震災とオウム真理教事件から、この世の中には理性や常識では解決できない「魔」としか呼びようのない何ものかが潜んでいると覚知し、以後追求すべき文学的主題を転換させてきたことは夙に知られているが、五年ぶりの新作である本作品は、ジョージ・オーウェルの「逆ユートピア」を描いた近未来小説『一九八四年』からヒントを得て、「1Q84年」という「もう一つの年」に顕在化したカルト教団をめぐる様々な出来事を描き、本質的な存在である「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとしたものである。
 両親がキリスト教系の教団「証人会」信者であり、自分もその布教活動に連れ回されていた「青豆」と、父親でない男に乳を吸われている母親の姿を記憶の原点とする「天吾」は、一〇歳の時にお互いを必要な存在と意識するようになる。しかし、その後二〇年間二人は会うこともなく、青豆は今ではスポーツジムのインストラクターをしながら「女の敵」を抹殺する裏の仕事もやり、天吾は予備校の講師をしながら小説を書いている。本長編は、この二人のついに邂逅することのない物語が交互に展開する形で進行する。物語を彩るのは、例えば学生運動であり、体制に背を向けた「コミューン」や「カルト教団」の分裂、現代版「駆け込み寺」の姿であり、「父子(家族)」の物語である。
読者は、この小説の大切な要素でありながら意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とは何かなど、について思いを巡らしつつ、いつしか必死におのれの「思い」に忠実な青豆と天吾の「恋愛」成就を願うことになる。しかし、「魔=悪」はそんなに甘くなく、青豆は天吾と邂逅するまえに自死を選択せざるを得ず、物語は終わる。(「北海道新聞」2009年6月14日号)

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24 コメント

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アンケートもパクリのくせに参考文献とかよくおっしゃること! (ネット小僧)
2009-06-17 21:21:04
ネット上で匿名を選ぶか、実名を出すかなどは本人の自由であって「卑怯」と言われるような話しではないでしょう。「こんな本作りもあるんだと『嫌な気分』になり」などとよく自分のことを棚の上にあげて言えますね。
先生こそ誰のどの本についてどのような理由でそのようなことが言えるのかまったく立証もせずにそんなことを書くなんて卑怯者以下です。友達だと実名をあげて批判しないのはどう考えてもおかしいでしょう。
知らない人は実名で論拠も示さず批判し、友人は名前もあげないのは文学批評の不毛性を如実に示すいい証拠でしょうね。
私が匿名であるから相手にしないという理由で逃げをうつのはかってですが、私の目はゴマかせませんよ。藤井著の縮約パクリ版である王「論文」を本文に組み込まれた「付録」として藤井省三を利用して紙幅を稼いでいるのを見るとこちらこそ「こんな本作りもあるんだと『嫌な気分』にさせられ」ますよ。
あとがきで藤井省三の著書を批判して書誌学的だと批判していますが、大学のサイトを見ると書誌学は先生の専門ではないですか。どれだけ業績があるのか知りませんが、これでは自分の研究分野全体をけなしているというか、看板に偽りあり、つまり不当表示ではないですか。
しかも王「論文」の一「村上春樹文学の受容」は中国での出版状況、図書館の所蔵状況研究、中国研究者の研究状況、となっていますが、これが書誌学的でなくてなんだというのですか?以前のエントリーに書いておられた「藤井省三に対するやや詳しい批判」というのはこのあとがきだけでしょうか。全く詳しくない自分棚上げの罵詈雑言の間違えではないですか。
書誌「学」的とまではもちろん言えず、王「論文」の三分の一いや全体的に単に藤井著などを適当にパクりまくっただけの断片的書誌情報とでも言うべきものではありますが、いずれにせよ藤井を批判できる内在的批評などどこにもありはしませんよ。
大学教授、批評家を自負するのであれば論文とは何か、書評とはなにか人に教えを請うのではなく、自ら実例をもって模範を示すべきではないですか。
また先生は「『参考文献』の使い方にも問題があるのではないかと思いました」と書かれていますが、たとえば先生のご著書のP.275にある「言語の問題」では林小華の翻訳の文体についての論文をあげていますが、藤井省三もp.211以降でやはり林が翻訳の文体について論じていることを書いています。先生が藤井著を読んでいるのであれば、これも参考文献としてあげるよう指導すべきではないですか。というかむしろそれはわざと示し合わせて伏せたのでしょう。
つまり、林小華がすでに中国で大学生に村上春樹についてアンケートをやっていることから目をふさがせるためにわざとそこからの引用はしないわけです。それでいかにも自分のアンケート調査が独自のものである風をよそおって王海藍で検索すれば分かるように何べんも新聞社にこの論文を売りつけたのは非常に問題があります。福原愛姫についてもウォンカーウィについても四方田犬彦のコメントにいたるまで全部藤井著に書いてあります。
またアンケート調査を基にしたとされる「孤独感」について王論文では「改革開放政策」などと結びつけて論じていますが、そんなことはアンケートをしなくても国籍に関係なく誰が読んでも村上作品に感じることで藤井著でもp.164などで何べんも論じられているではないですか。
そんなわけでまず自分が指導したはずの王「論文」からまず再検討すべきではないですか。これで学位をとろう、あるいはとったなんて全くもって信じられない話です。
ちなみに先生が指導教授になってる葉恵という人はすでに村上も翻訳している人ですかね。以前にも筑波に留学したことがあるようですが、すでに翻訳を何冊も出している人になにを先生が指導することがあるのでしょう。また赤川次郎が大学で研究あるいは翻訳するに値するとは全く思えません。
留学生は国内での労働時間に規制があるはずですが、すでに海外で翻訳で活躍している人が何歳か知りませんが、実態のない留学で生活費を浮かせ、金儲け翻訳に日本で従事していたなど納税者としてひどく腹が立ちます。
先生が返事もしないのはかまいませんが、みんなにたようなものなので大学が独自に調査する意思もないようですからこのパクリの実態をあらためてマスコミでぜひとりあげてほしいものです。
先生が共感を示してらっしゃる小森陽一の著書では村上春樹がネット上の批判を封印しかけていることに対する批判もあることもお忘れなく。
http://book.asahi.com/clip/TKY200708010143.html
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逃げるな! (烏丸御池)
2009-06-17 22:23:20
黒古さん、
元図書館情報大学教授氏が指摘したとおり、貴方の態度はズルイ!
前回のブログ(6月6日付『泡立つ日々』)に対して寄せられたネット小僧氏の核心をつく反論を真正面から受け止めて、貴方の反論を述べる義務がある。
もし、ネット小僧氏に指摘された諸事項に反論も回答も無いまま逃走するのであれば、貴方は学者としても言論人としても「姑息な人間」だと評価されても仕方がない。
貴方にとって、どのような「嫌なこと」「嫌な気分」があったのか知らないが、その事とネット小僧氏の反論に回答しないこととは別問題であり、回答を怠る理由にはならない。

尚、貴方の『1Q84』の書評は、書評ではなく、単なる「あらすじ」と「登場人物の説明」に過ぎない。中学生の夏休みの読書感想文でさえ、これでは「並以下」だと言われるだろう。
北海道新聞から依頼された書評が、750字という制約をかせられ、そのことで満足のいく書評が書けないというのであれば、その時点で、書評の依頼を断れば良かっただけの話だろう。
自分自身の能力の無さを北海道新聞のせいにするのは、北海道新聞の編集者と読者に対して「失礼」であり「不誠実」だ。
貴方の親しい物書きに「パクリ屋」が見受けられるのも、貴方の生き方と無関係なのだろうか。昔から「類は友を呼ぶ」と言うではないか…。
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あまり・・・ (ななし)
2009-06-17 23:04:02
ここでのコメント欄でのやり取りはともかく、黒古氏が引用した『1Q84』の書評の内容は、新聞書評としてなんら違和感を感じない。短い字数ながら、同著と時代との関連に触れ、村上の全体像の中に同書を一応位置づけながら、作品の全体の流れを描いており、世に出ている同書の様々な書評の一つとして、許容できるものだと思う。この書評を読んで、『1Q84』を読んでいない者にも作品のおおまかな輪郭はそれなりに思い描けるし、この前出たばかりの小説を、すぐさまに鋭い視点で<これぞ批評>のように論じることを求める方が、ないものねだりな願望ではないのか。

このBLOGを拝見していると、黒古氏の無邪気さや無防備さがやや際立っている見えることもあるが、そういった点を責め立てるばかりというのも、見ていて気持ちがいいものではない。

少なくとも今回の新聞書評にかんしては上のように感じた。
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こんなもん (Unknown)
2009-06-18 01:49:34
 北海道新聞の書評に関しては、「ななし」さんと同じように感じました。750字じゃあ、こんなもんでしょう。朝日が特集を組んだ鴻巣友季子の書評だって、大したことなかった。黒古先生と違って、言葉づかいは洒落ているが、結局何を言ってたのか、内容に関しては全然覚えていない。あっちが字数で恵まれていることを考慮すると、黒古先生、奮闘したと思う。
 ネット小僧さんの追及には意味があると思いますが、「ななし」さんの指摘のように、みんなで寄ってたかって、黒古たたきをするのも、集団ヒステリーみたいで、何だかなあ。黒古たたきの若者を、やたら持ち上げてみたり(あの青臭い若者論の一体どこがいいのか、全然わからなかった)。
 こんな風に、黒古たたきの流れができあがっているなか、あえて冷静に自説を主張した「ななし」さんの勇気に拍手。
 
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許容範囲を超えています (豊崎由美)
2009-06-18 11:27:25
わたしは黒古さんの『1Q84』評はまずいと考える者です。それは粗筋に終始しているからではありません。わたしは見事な粗筋紹介は立派な批評になりうると考える者だからです(その小説をしっかり理解できて書かれた粗筋と、ろくに理解もできていないまま書かれた粗筋を並べて読めば、その意味がわかっていただけるかと存じます)。
わたしが黒古さんの評を「まずい」と考えるのは、ネタばれゆえです。青豆が××することまで書く必要があるのでしょうか。新聞書評を読むのは取り上げられている本を未読の方がほとんどです。青豆と天吾の関係やラスト(わたしはこの小説には絶対続きがあると思いますが)を知って驚いたり、悲しんだりする読者の初読の快感の権利を奪う書評を、わたしは良いとは思えないのです。
物語の勘所に触れなければ批評的な書評は書けないという意見に対しては「それはヘタだから」とお答えしておきます。この黒古さんの評を含めた『1Q84』評については、光文社のPR誌「本が好き!」でわたしが連載している書評論「ガター&スタンプ屋ですが、それがなにか?」で書くつもりですが、「それはヘタだから」の理由もこれまでの連載分で述べてありますので、わたしに反論のある方はご不便おかけしますが、そちらのほうを読んでいただければ幸甚です。読んでいただけた上での反論にしかお応えしませんので、あとはよしなに。
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あざとい (Unknown)
2009-06-18 20:02:12
 豊崎さんまで参戦ですか。おもしろくなってきました。
 しかし、黒古先生が「ヘタ」なのは、最初から知れたこと。そんな人に書評を依頼する北海道新聞の学芸がどうかしてるんですよ。とはいえ、黒古先生は、確かに決して才能のある方じゃあありませんんが、このレベルの人は、アカデミズムの中にもたくさんいます(さすがに筑波大学教授になられたのは、望外の幸運だったと思いますが)。そんな方々が、お互いに才能がないのを庇い合い、どんぐりの背比べよろしく、仲良くやってきていたんですよ。その結果が、現在の文芸批評の、この凋落ぶり。
 豊崎さんも、他人のブログのコメントで、自作の宣伝をするようなあざといことをせず、ちゃんとこの場で持論を展開してくださいよ。これから書く予定のものを読め、なんて、現在書かれていないものを一体どうやって読むの? それに他人が書いた『1Q84』の書評を批評するのではなく、ご自分が見本となるような、「ヘタ」でない『1Q84』の書評をお書きになってください。そのほうがよっぽど生産的です。日本には、なぜだか、文学作品の批評を書く(書ける)人よりも、他人の批評を批評する批評家が多いんですよね(比較的最近では、漱石の批評を批評した大杉重男とか)。
 ちなみに私は黒古先生にかつて「訳知り」呼ばわりされた者ですので、黒古先生の書いたものを評価しない点では一貫していますし、擁護するつもりも、義理もありません。ただ、黒古たたきのきっかけを作ってしまったかもしれない者の、なけなしの責任感から、一言言っておくと、黒古先生がこれほど叩かれてしまうのは、ご自分が読めないことのコンプレックスや心の弱みを、無防備にさらけ出しすぎてしまうからだと思います。「ななし」さんの指摘する通りです。
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書きます (豊崎由美)
2009-06-19 00:44:30
まずは「本が好き!」の締切が切羽詰まっているので、それをちゃんと書いてからですが、黒古さんと同じ字数でわたしも『1Q84』レビューを書こうと思っています。
ただ連載仕事などの締切がいろいろあるので、すぐにはできないと思います。書いたら、こちらと自分のブログのほうにアップしますので、少し気長めに待っていただければ幸いです。

あと、わたしは黒古さん叩きをしようと思っているわけではありません。わたしが関心のあるのは「書評」です。「書評」がどんな人にどのように書かれているのかに関心があるだけですので。
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ちゃんと読んで下さいね (豊崎)
2009-06-19 00:52:15
あと、Unknownさん、わたしは「これから書く予定のものを読め」なんて書いてませんよ。逆。「これまでに書いたものを読んで下さい」という、もっと不遜なことを書いているんです。
もうひとつ。これまでの「本が好き!」連載をお読みいただければわかるかと思いますが、わたしは匿名書評を(一部の例外をのぞいて)認めていません。黒古さんの書評は匿名でないだけマシです。小説に対する愛や敬意はまったく感じられませんが。

Unknownさん、あなたは一体誰なんですか?
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なんだかなあ (Unknown)
2009-06-19 02:05:47
プチ有名人まで現われて、なんかどんどん収拾付かない方向に向かっていますね。黒古氏の書評は「道新読者」さんや豊崎さんが言うように、ネタバレにかんしては問題かと思いますが(ただ、書評対象の本を読んでいない読者にとって、書評に書かれた大まかなあらすじなんて、読書の楽しさを阻害するほどしっかりと記憶に残るものですか?私の記憶力が悪いだけかもしれませんが)、こんなふうに寄ってたかって黒古さんを罵倒して何の意味があるんでしょう。特に豊崎さんがわざわざ現われて、鬼の首を取ったようにしたりげに語る。本が好きで小説に対する愛や敬意を持っているのかもしれませんが、ちょっと趣味が悪すぎやしませんか。あと、なんとか小僧っていう人も、ほとんど脊髄反射で彼を人格否定するばかりで、妄想力に富んでいますね。

これは黒古さんを擁護しているのではなくて、場を支配している変な連鎖をもうやめにしたほうがよいんではないんですか、という提案です。まあ、どうでもいいんですが。
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あ、 (Unknown)
2009-06-19 02:11:17
「なんだかなあ」を書いた者ですが、前のUnknownさんとは別の人物です。
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