黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新・武漢便り(5)――「題名」なんて、何だっていいけど……

2013-03-16 09:45:13 | 仕事
 昨日、必要があって学生とネット検索しようとしたら、ニュースとして「村上春樹の新小説、タイトルは何と20文字!」と見出しにあるのを見つけた。早速中身を見たら、何と言うことはない、村上春樹の新しい小説の題名が、題名からは内容が全く類推できない「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だという。
 さらに、同時に村上春樹のコメント(?)――単に編集者に話した伝言のようなもの――として、「『1Q84』がいわばジェットコースター的な物語だったので、それとは違うものを書いてみたいという気持ちがありました。それがどんなものなのか、書いてみないと分からなかったけど」が、付けられていた。
 タイトルにしろ、村上春樹自身のコメントにしろ、この新作の内容がそこから類推できないことには変わりなく、『1Q84』の時がそうであったように、最近の村上春樹の在り方は、どうも出版社主導の「売らんかな」精神が見え見えの、何ともおぞましさを感じさせるものになっている。何ヶ月も前から「新作が出るぞ」と、読者の欲求をあおりにあおって、それで中身ではなくその評判だけで「売りまくる」、そこにベストセラー作家村上春樹の「驕り」がないだろうか。
 どうも最近の村上春樹は、エルサレム賞の受賞記念スピーチ「壁と卵」にしても、またカタルーニャ国際賞の受賞記念スピーチ「非現実的な夢想家として」(いわゆる「反核スピーチ」)でも、実作と結びつかない、いかにもノーベル賞狙いであるとしか思われないような、ご都合主義的な思想(考え)――たぶん、本人はそんなこと全く思っていないのだろうが、そのように思わないほどに、現在の村上春樹は今この「現実」とは無関係に「夢見る人」担っているように思える――を、その場限りという感じで披瀝してきた。
 このような村上春樹の在り方に対して、僕の教え子で『村上春樹と中国』(2011年 アーツアンドクラフツ刊)の著者王海藍は、僕に「2000年以降の村上春樹は、ニュー・リアリズムの方法を取り入れているのではないか」と言ってきたが、確かに『1Q84』などはアメリカの現代文学で流行っている「ニュー・リアリズム」(僕の理解では、高度に発達した資本主義社会の現実と人間との関係を見直す、ことを主眼とする文学方法である)による創作、と言っていいかもしれないと思う。しかし、果たしてそれは成功しているか、すでに僕は『「1Q84」批判と現代作家論』の中で、『1Q84』は壮大な失敗作だと批判し、また今度の本『文学者の「核・フクシマ」論――吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社刊)の中では「反核スピーチ」を彼の迷走する作風と共に批判したが、例えば、日本の戦後における反核運動や戦後文学の中において収容名意味を占める原爆文学(反原発文学も含む)の歴史を無視して――あるいは、それらに対する知識がなく、つまり「無知」をさらけ出して――「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」とする発言は、これまでの反核運動や林京子さんなどの被爆作家に対する「侮蔑」であり、何とも許し難いものであった。
 『1Q84』がそうであったが、オウム真理教の事件などを下敷きにして、いかにも日本の現実に基づいて作品が書かれているように見えながら、実は主人公の一人(青豆―女)が「必殺仕事人・藤枝梅安」のような「殺し屋」であるという設定は、銃社会と言われるアメリカの社会にその発想の根があり、あるいは自爆テロが頻発するアラブなどの現実(人間心理)を借りてきた、余りに「非現実的」な作風になっていたこと、このことの意味するものを僕らは考えなければならないのではないか、と思う。
 僕が、新著『文学者の「核・フクシマ」論』の「あとがき」で、村上春樹の新作に対して「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」と大見得を切ったのだから、何らかの形で村上春樹の「反核」思想や「反原発」思想が反映したものになるのではないか、と「皮肉」ではなく期待したのも、彼の可能性を信じたからであった。
 果たして、村上春樹の新作は、僕の期待を満足させてくれるものになっているだろうか。早く読みたいものである。