黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

対米従属度を強める安倍政権

2013-03-01 06:24:47 | 近況
 昨日(2月28日)の安倍首相の国会における「施政方針演説」の「安全性が確認されたら原発を再稼働させる」という言葉を聞き、また夕方のニュースで「オスプレイの訓練、本土で開始」というのを聞いて、先の日米会談において安倍首相がオバマ大統領への「手みやげ」としたものの正体が、具体的になったと実感した。――再三言っていることだが、決してナショナリストではない僕でさえ、先の日米会談は、外見上は「対等・平等」な互恵関係に基づくものだと言いながら、内実は飼い主の下にしっぽを振って近づいていく犬を思い出させる、何とも奇妙な光景であった。相も変わらない宗主国への「就任のご挨拶」、思わず安倍首相を強力に支持する「ネトウヨ」の皆さんは、あのアメリカ大統領に異常にへりくだったような安倍首相の態度に怒りと情けなさを感じなかったのだろうか、と思ってしまった――
 しかし、前民主党政権でも同じだったが「安全性が確認されたら原発は再稼働」という言葉、またしても「安全性」、あるいは「安全性の確認」であるが、フクシマによって原発の「安全性」は「神話=信仰」で葦か亡かったことが実証され、そして停止中の原発に対する「安全規制庁」によるその後の点検によって、東通原発(青森県)や敦賀原発(福井県)など多くの原発敷地内に、地震の原因となる「活断層」が走り、如何にこれまでの「安全性の保障」がいい加減なものであったかを明らかにしたが、またぞろ「安全性が確認されたら再稼働だ」と言う。このような「安全性」が、吉本隆明が亡くなるまで主張し続けてきた「科学神話=科学は永遠に進歩し続ける」に象徴される「科学絶対視」、これは段階的に原発を亡くしていくのがいいと主張する立花隆や寺島実郎などの考えの基になっているものであり、原発輸出を肯定する連中の「日本の原発技術は高度であり、安全は確保されている」という立場に連なるものであるが、いずれにしろ「原発の安全性」を主張する輩の頭からはフクシマの現実が全く抜け落ちていることだけは、確かである。
 フクシマで働く原発労働者が、原発労働が必然としている元請けー下請けー孫請けーひ孫請けという労働構造によって「ピンハネ」され、あまつさえ被曝線量の記録もろくに行われない状態で働かされ、また放射能除洗も「形式」的・杜撰な状態なまま避難民が何時故郷に帰れない状況にあること、このことに関して「再稼働」賛成・「原発の新増設」賛成を唱える人たちは、何を考えているのか、と思わざるを得ない。
 考えられるのは、原発を維持・推進したい保守派の政治家(安倍首相はその代表格と言っていいだろう)や税界の一部にの中に根強く存在する「原発を安全保障の武器に」によって原発の再稼働も新増設も主張されている、ということである。つまり、原発を動かし続けることによってそこからの使用済み核燃料を再処理して、原爆の材料である「プルトニウム」を確保し――現在日本は、長崎型原爆を数千発製造するだけのプルトニウムを国内外に保持している。IAEA(国際原子力監視委員会)が国内に常駐して日本の「核」を監視している現実を僕らは知るべきである――原発を稼働させれば、それは増える一方である。これも前に書いたことだけど、日本の科学技術を持ってすれば、早ければ3ヶ月、遅くとも6ヶ月で数十発の原爆を製造することが可能であるという。
 そのように考えれば、原発再稼働が極めて「政治的」な意図の下で発言されたものであり、中国や北朝鮮、あるいはロシアを牽制するために「日本の核(プルトニウム)存在」を必要悪と認めざる得ないアメリカの「苦渋のアジア戦略」が透けて見えてくることだろう。アメリカのパートナー・シップ(国際協調・国際協力)というのは、伝統的に「自国の利益」のためであって、決して相手国(他国)のためではないことを、私たちはもっと深く思い知るべきである。
 そのことは、「沖縄」問題についても言えることで、自国内で訓練さえ思いのままにならなかった「危険」なオスプレイを沖縄普天間基地に常駐させ、そして岩国を皮切りに今後は本土の各地でオスプレイの「低空飛行訓練」を行うという。それを防衛省(政府・安倍首相)は認めるという。安倍首相が日米会談で、普天間基地の辺野古沖移転を、地元の沖縄が全体で反対しているにもかかわらず、確約してきたのも、アメリカへの「忠誠」ぶりを示しただけではなく、何を取り戻したいのか(「戦前の日本」なのだろう)「日本を取り戻す」ことが、日米軍事同盟の強化と不可分だと、確信しているからだと思われる。
 そんな「危険な宰相」が率いる安倍政権に「60~70パーセント」の支持を与えるこの国の国民、その国民が同じ割合で「原発ゼロ」を表明しているのだが、この「矛盾・アンビバレンス」を僕らはどう解釈すべきなのか。ぼくは、ここに日本人のフレキシビリティ(柔軟性)を見たいのだが、安倍首相が「憲法改正」を言い出した現在、その「柔軟性」が用法校に向かうことを祈るばかりである。

 なお、私事であるが、3月3日(日)からまたしばらく中国(武漢)の大学に戻って、大学院での仕事を再開することになった。武漢からは、「新武漢便り」ということで、このブログを続けるつもりである。
 よろしく。
 なお、あと2週間ほどで拙著『文学者の「核・フクシマ」論』が発刊される。是非お読みいただければ、と思う。