読書ノート  

主に都市、地域、交通、経済、地理、防災などに関する本を読んでいます。

敗者としての東京—巨大都市の隠れた地層を読む 吉見俊哉 2023

2024年01月27日 | 教育・歴史(文部科学省・文化庁)

古代から戦後の時代まで、東京にまつわるいろいろなことが書いてある興味をそそった、東京の地誌に関する記述の要旨をノートする。

◇寺と神社
幕府成立から100年の18世紀初頭に、江戸には1800もの寺院があった。寺院は宗教的な機関であると同時に庶民が学習する文化機関であり、幕府が死者を管理する機関でもあった。寺院は宗派ごとに組織化され、人々は宗旨と檀那寺を定め、出生婚姻死亡の際に檀那寺から証明書をもらわねばならなくなった。参勤交代により江戸に住む大名や家来のために全国諸大名それぞれに国元の寺院の分室が江戸に建てられ、その結果1800にもなった。
城の拡張や新たな武家の開発の度に、寺院は周辺へと移動させられた。西本願寺は日本橋から築地へ、東本願寺は神田から浅草へと移され、広くなった。
寺院は檀家として武家との関係が深く、地縁的秩序にはあまり依存していなかった。一方、神社は町衆などの地縁集団に支えられていたから、神田明神は大手町から神田に近距離移転したが、神田から移転することはなかった。

◇無宿人、下層民
江戸中期以降、天明や天保の大飢饉など天変地異により困窮化した人々が難民化し、無宿人となり、一部が都市に流れ込んだ。幕府による無宿人狩りに捉えられ、佐渡に送られるか、乞食、遊女、あるいか博徒になったりした。
さらに、江戸から明治への体制転換の混乱の中で、東京にはあらゆるタイプの無宿人、雑業民、困窮した人々が流れ込んできた。人別帳による宗派ごと、身分ごとのデータベースに代わるものとして、新政府は1871年に戸籍制度を導入し、同時に身分制度を撤廃した。
幕末、都市周縁部に散在していた貧しき民は、明治20年代になると浅草や上野の周辺に集中していった。明治初期のジャーナリズムの多くは旧幕府系で、彼らは下層社会をルポし、言論で政府を批判した。日露戦争後には近代産業が発達し、都市下層は工場労働や日雇い労働者として吸収され、下層民の生活も貧民窟ではなく家族化していった。

◇賊軍から英霊へ、忘れられたままの上野の彰義隊
明治政府は、薩長軍こそが「官軍」であり、彰義隊など幕府側は「賊軍」であるという認識を定着するように新聞や書籍だけでなく碑文までも検閲した。しかし明治中期になると旧幕臣や会津戦争で敗れた者たちの名誉回復運動が、敗者であった旧幕臣たちや地元に人々によって行われた。その形態は出版物やローカルな口承伝承であり、小栗上野介や会津は、維新の敗者から近代日本建設の英霊へと変身していった。
しかし、上野における敗者の記憶は忘れられたままだ。徳川慶喜も北白川宮も敗色濃厚になると身を引き、その後高い地位で活動を続けた。最後まで忠誠をつくした会津の白虎隊や上野の彰義隊は惨殺され、自死した。上野はその後博覧会の会場になり、公園となった。彰義隊の魂は、近代の強い光に押しつぶされたままだ。誰でもよく知る西郷隆盛像の後方にひっそりとある彰義隊の墓はあまり知られていない。地方都市ではすでに観光資源としても活用されている維新の敗者たちの記憶が東京ではまだ必要ともされていないということか。

日本の都市では、征服された者たちの痕跡が様々な仕方で残っている。東京は、1590年の徳川による占領、1868年の薩長による占領、1945年の米軍による占領という3度の占領を経ながらも、その凹凸をなす地形と結びついて過去の敗者たちの記憶が地層をなし、それが都市の魅力となってきた。


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