美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(五十六)

2016年09月28日 | 偽書物の話

   無念そうな口ぶりを拭うように、水鶏氏は言葉を続ける。
   「では、これまで引き合いに出して来た我々の現世界に起きる事象とは何でしょうか。これは私がややこしく考えてしまうからなのですが、見えないところどころに陥穽がありながら滑らかな連なり以外の何ものでもない道、というイメージが頭に浮かんで来ます。就眠とか心神喪失とかの状態(陥穽)に陥っているときは別状の世界を生きており、その陥穽の前と後とでは須臾の隙なく連結する意識が間断なく敷きつめられて現世界を形成しているのだとは、夙に言い古されてもいることです。
   夢遊の雰囲気に包まれどんな活動をしたにせよ、現世界は時間の黒暗の中で点々と飛び石じみた尖端を林立させているものなので、尖端から尖端へと踏み繋いでいく意識にとっては、尖端以外の事象はほとんど無きに等しいことになります。裂け目の前後における日の傾き、月の満ち欠けの差異を捉えて時間の経過を揣摩臆測することはあり得ないでもないし、また、夢の残り香となって暫く胸にたゆたい後髪を引かれつつ消えていく心象があるにはあるでしょうが、知覚によってその間に起こった出来事が確かにあったと明らめることはできない。その間は、我々は別状の世界に赴いていて、我が身はここでの我が身ではないのですからね。これは異世界を想定するなどの段ではない、現世界のあれこれの認識や心理に起きている現象です。

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