美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

天地を閉す闇のくらさを想像したまえ(永井荷風)

2017年02月05日 | 瓶詰の古本

   いつ暮れるとも知れぬ穏な明い初夏の午後、動かぬ池水の面に長々と静にその影を浮べてゐる藤の花ぶさを、突然吹起る暴風が情(なさけ)も用捨(ようしや)もなく揉み散して行く光景を思ひ見よ。
   また風もなく唯しんしんとふけ行く梅雨の夜、墨よりも黒く、壁よりも厚く、天地を閉す其闇のくらさを想像したまへ。そして其闇の中に鬱々として繁茂する樹木の気勢(けはい)を想像したまへ。吾々この民族の間に遠いむかしから言伝へられて来た荒唐無稽の怪談がいかに事実らしく今だに吾々の精霊を戦慄せしめるか。北齋や國芳の制作に見られるやうな妖怪は梅雨の夜の暗黒を見詰める時、今だにありありと吾々の眼の前に現れて来るではないか。これこそ日本の夜にしか見られない恐怖の影であらう。
   戦争は異なる文化を中断して其間に牆壁を築いた。僕達が明治と称する前の世と、海の彼方とから学び覚えた諦念(あきらめ)と追憶(おもいで)との慰(なぐさ)めは今や慰めではなくして徒に悲哀と絶望とを深めるものに過ぎなくなつた。忘却と虚無とを求めるより外に道がない。

(「問はずがたり」 永井荷風)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする