*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。22回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※21回目の紹介
10 孤立無援の被爆者たち
国立病院労働組合の専従として東京にやってきて、杉並区に六畳一間を間借りして住んでいたときのことです。夜中に訪ねてきた人がいました。戸を開けると、男がうずくまっています。私を見上げて、「広島の肥田軍医殿ですか」と小声で聞いてきます。「そうだ」と答えると、少し安心した様子で、広島の被爆者であると名乗り、今日、相談に来たことは絶対に誰にも言わないでほしいと何度も何度も繰り返して、ようやく話し出しました。
「原爆後、職がなく、上京してニコヨンとして働いている。月に16日働けば日雇い健康保険が使えるが、被爆してからずっと身体が悪くて、先月は13日しか働けなかった。医者に行くお金がない。働いてかならず払うから、後払いで診てくれる国立病院を紹介してほしい」
私が国立病院労組の副委員長をしていると知っての頼みでした。ニコヨンというのは、日当が当時240円で、公園の掃除や道路工事などの失業対策事業で働く日雇い労働者のことです。240円の賃金から「ニコヨン」と呼ばれていました。16日働いて手帳にはんこともらうと、日雇い健康保険で無料で医療を受けられますが、一日でも足りなければ日雇い健康保険は使えません。
当時はまだ国民皆保険ができておらず、結局、現金がなければ医者にかかれないのです。被爆者の多くが貧困のなかにいました。それも単なる貧乏ではありません。ひとつ間違えれば、餓死するほどの極限の貧乏です。実際、住む家も仕事もなく、家族をみんな失って一人ぼっちになった被爆者が、餓死したのを診た覚えもあります。
(「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/1(木)22:00に投稿予定です。