Good News Ministry

聖書的観点から見た世界の社会的、政治的、文化的、地域的現実を捉え、祈り備える。

ママ友連続自殺

2015年07月31日 | 家の教会
栃木ママ友連続自殺 地元でマスコミに漏らした犯人探し

 栃木県南西部に位置する田畑が広がるのどかな一帯。児童数わずか70人あまりの小さな市立小学校に異変が起きたのは4月中旬だった。この小学校に子供を通わせる母親が相次いで命を絶ったのだ。最初に亡くなったA子さんとB美さんは親友ともいえる「ママ友」だった。B美さんはA子さんの葬儀で友人として弔辞を述べたわずか数日後に自死した。

 連続自殺の背景には、ママ友によるいじめがあったと7月3日に読売新聞の栃木県南版が小さく報じた。ともに子供がいじめられたA子さん、B美さんが改善を訴えると他の母親から「母親失格」などとなじられ、LINEで陰口を叩かれたという。

 その後、本誌が詳報すると小さな町は一変した。有志の警備員がいたるところを巡回し、町内会長や小学校の校長名で 《記者等が訪問した際、わからない事には、はっきりと 「わからないです。お引き取りください。」とお伝えください》との紙が一軒一軒にポスティングされた。ある地元住民は震えが止まらない。

「町内会関係者が町中を回り、“誰がマスコミに喋ったか、学校や同級生の母親が必死に探しているんです”と吹聴しています。町中から“お前、絶対に喋るなよ”と脅迫されているようで本当に怖い」現場の喧騒とは裏腹に7月中旬以降、事件に関する報道は沈静化した。遺族名で「取材と報道の自粛」を求めるファクスが報道各社に届いたのだ。

 もちろん、愛する人を突然失った遺族の意思は最大限に尊重されるべきで、本誌もいたずらに遺族のプライバシーを侵したいわけではない。だが、今回の件では、学校側の姿勢に大きな疑問が残る。別の地元住民が話す。

「私たちが“真実は何なのか”と問い合せても、校長や教頭が“もう解決している”と言うのみ。彼らの頭にあるのはマスコミ対策だけではないでしょうか。報道陣へのファクスも学校側が主導して作成し、遺族に署名してもらったと説明された。小学校から送ると送信先がわかって都合が悪いので、教職員らが手分けして複数のコンビニから送信したとも聞きました。遺族の心情が置き去りにされているような気がして、納得できない気持ちです」(女性セブン 2015年8月13日号)

  
  


アタシは以前、子供の公園デビューの問題とか、ママ友間に歴然と存在している厳しい階級制度などについて、何度か相談を受けたことがある。

「マジですか!? 少し被害妄想では..」と、正直最初は半信半疑だったが、それらは彼女たちの心(霊)を確実に蝕む闇だった。ハメネイ師のツイートも、ママ友たちの噂ラインも、本質的に何ら違いはない。

だから、世間が何と言おうが、教会がどんなに世間ズレしていようが、彼女たちを救う方法は、“家の教会”しかないとアタシは考えている。

1千万人救霊!とか、年間洗礼者10人!とか、そういった旗を上げるのもいいが、その前にこういった現実が身近に存在していることを知り、彼女たちの重荷を自分の重荷とするクリスチャンが、一人でも家の教会を立ち上げてくれることを願っている。こういった人たち対してアタシは尽力を惜しまない。  

リバイバルの雨 Part 3

2014年06月12日 | 家の教会
わたしの名によってわたしに何かを願うなら、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:14)

初代教会が、熱心の行っていた第四のこと、「祈り」。

「主は祈りがなければ何もされない」と、ジョン・ウエスレーは語ったが、確かに主は、ご自身の働きが表わされるために、クリスチャンが祈らなければならないという法則を、御国の原則としても設けられた。そして、それを証明するかのように、聖書は祈りは確実に聞かれると繰り返し訴えている。主の願いと私たちの願いが一致する時、それは必ず成就するのである。

ところが、多くのクリスチャンは、何故かそれを実行していない。私たちが祈らないのは、祈りの力を信じていない、または、祈りの力についての認識が曖昧だからである。誰でも祈りによってそれが叶えられるという確信(信仰)があれば、人は競ってでも祈るはずだからである。もし、私たちが祈りの力を知っていたら、私たちは今迄如何に祈るべき重要な事柄が数多くあったことに驚き、それについて祈らなかったことに愕然とするだろう。

聖書の神は語る神である。問題は、神が語っているか否かではなく、私たちが聞いているか否かにある。勿論、安易な気持ちで祈ったことや、自己中心な祈り、また、結果的に本人のマイナスになることや、必要でないことに神は応答されないが、いずれにせよ、全ての祈りは神に届いており、祈り続けていく時、必ず神は何らかの応答をされる。

5つの祈り

感謝

願い

悔い改め

御心を聞く(人間の理解力では、私達は自分が何を祈るべきか知ることは出来ない)

執り成し(自分の身体を聖霊の祈る器とする)

4つの答え 

No! 自己中心的、不信仰な祈りに対して。

Slow! 待ちなさいという答え(忍耐とタイミングが必要なとき)。

Grow! 予期しない別の答え (答えに気付かない、求めている答の的がズレている)

Go!! 直ぐにその通り、またはその祈り以上になる。

現代の教会が初代教会のような力を失っているのは、「今までこうしてきたから」、「この方が便利だから」、「お金と人材のことを考えると」、「この方が問題がないから」等ばかりで物事が運ばれ、「聖書はどう言っているのか?イエスならどうされるのか?」という最も重要な事が問われないことにある。

人間の計算可能な行程を歩くことを信仰とは言わない。「主の山に備え有り」祈りは人生の崖渕に立った時、神を信頼して、そこから一歩踏み出した時に初めて聞かれるのである。私たちは先ず、聖書に記してある通り、初代教会が熱心に行っていたことに習うことから始めようではないか! ハレルヤ



リバイバルの雨 Part 2

2014年06月11日 | 家の教会
私たちが神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それは嘘をついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Ⅰヨハネ1:6-7)

初代教会が、熱心の行っていた第二のこと、「交わり」。

交わりのもともとの意味は「共有」。2章44-45節に、「信者となった者たちは皆一緒にいて、一切の物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた」とある。

それは、当時のイスラエルは、ユダヤ教社会が人々の生活を支配しており、ユダヤ人がユダヤの会堂から追い出されると言うことは、収入の道が断たたれるばかりでなく、社会からの追放を意味していたからである。

だから教会は、ユダヤ社会の迫害によって生活のすべを失った人々を支えるため、比較的裕福なクリスチャンたちが財産を差し出し、互いに助け合う必要があった。

こういったクリスチャン同士の交わりは、クリスチャンとキリストとの交わりの上に成り立っている。キリストによって罪赦され、その赦しによって私たちも互い赦し合っていく、それがクリスチャンの交わりのベースである。

初代教会のクリスチャンたちが、このようなことを実践することが出来たのは、目には見えないが、この世の富とは比較にならない天国の宝を共有していたからである。そこには「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」霊的な交わりがあった。


初代教会が、熱心の行っていた第三のこと、「パン裂き」。
これは聖餐式と礼拝のことである。ペンテコステの日にキリストを信じてバプテスマを受けた人々は、それから日ごとに家々に集まって、賛美し、礼拝をし、聖餐式をした。洗礼と聖餐は、キリストが世の終わりまで守り続けるように言われたことである。

私たちのために自らの体を裂き、血を流されたイエスの十字架を心に刻み、その罪の赦しを受け、その赦しを他の人に分け与えることによってキリストを人々に示すという具体的行為。それが聖餐式である。

私たちが心を開いてイエス・キリストを受け入れるなら、イエスは私たちと共に食事をしてくださる。罪赦され、聖められ、キリストとの交わりの中で、私たちはキリストに満たされて行くのである。  (つづく)

リバイバルの雨 Part Ⅰ

2014年06月10日 | 家の教会
彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒2:42)


初代教会が熱心に励んでいたのは、「使徒たちの教え」、「交わり」、「パン裂き」、「祈り」の4つ。


つまり、教会で第一になされるべきものは「教え」である。


新約聖書がない時代、人々は使徒たちを通してイエスの言葉を聞いた。つまり、「使徒たちの教え」とは、「聖書の教え」のこと。


「教え」という言葉には、「ケリュグマ」と「ディダケー」と言う2つ意味があり、ケリュグマとは、「宣べ伝える」、ディダケーは「教える」。この二つはクリスチャンに対するイエスの命令である。

この「宣べ、教える」という行為こそ、教会が存続する最も大きな理由であり、初代教会の人々は、ただ、このイエスの命令に従順に従っていただけなのだ。

ちなみに、私達クリスチャンにとって、最も大切なイエスの命令とは・・・

互いに愛し合いなさい (ヨハネ13:34、15:17)
出て行って福音を伝えなさい (マルコ16:15)
出て行って全ての人を私の弟子にしなさい (マタイ28:19)

この3つは、 聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22、使徒1:4-5、8) という命令に従うことによって、はじめて可能となる。


極論を言えば、クリスチャンは先ずこの4つの命令に従うことだけを考え、実行すれば良い。

この4つをないがしろにして、いくら他のことに時間をかけたところで、それは全く意味がないのだ。


日本宣教の先頭に立たれておられるのは聖霊様ご自身。


私たちは失敗するが、聖霊様は決して失敗されることはない。


つまり、私たちの使命は、聖霊の導きを求め、如何にそれに従うかだけなのである。 (つづく)



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「家の教会」を3カ国で支援 Good News Station 田中啓介牧師「初代教会の姿に戻り、聖書の原点に帰る」

2014年05月20日 | 家の教会
 「無牧教会の人や教会に属していない人、クリスチャンではないけれど聖書を知りたい人たちのためにメッセージを届けたい」。その言葉どおり、田中啓介牧師は日米中3カ国の「家の教会」を巡るミッションを続けている。「聖書解釈は芸術だ」「牧師はハングリーアート」の持論そのままに、発せられる言葉には強い情熱がこもる。

 田中牧師はウェブ教会「Good News Station」の創設者にして巡回伝道師。聖書を解き明かすメッセージの音声や動画をユーチューブなどに投稿し、サイトでは「お招きがあればどこにでも行きます」と発信している。日本国内にとどまらず年に数回米国の集いにも出向き、さらに中国の「家の教会」でも聖書講解の働きをしてきた。

 「中国伝道は命懸けです。地下教会として信仰を守っている彼らと接していると、初代教会そのものの姿とリバイバルの現実を見ることができます。政権が変わって以来、取り締まりは厳しくなり、ここ1年ほどは中国に入ることができません。私たちのウェブサイトは中国では開くことができなくなっています」

 岐阜県出身で現在56歳の田中牧師は、浄土真宗の寺の長男として生まれた。21歳で米国に留学し、卒業後はロサンゼルスの日本語放送局や新聞社などメディアの仕事を経験してきた。聖書に触れて33歳の時にウェストロサンゼルス・ホーリネス教会で受洗した。

□米アナハイム市の「家の教会」での聖書講解

 その後、マタイ10章から召命を受け、JTJ宣教神学校、カリフォルニア神学大学院を経て、2003年に南部バプテスト連盟所属の牧師に。ロサンゼルスを拠点に牧会していたが、日本のリバイバルのため2011年に帰国した。現在は関東・東北地区を中心に、弟子訓練と「家の教会」の成長支援のため各地を巡回伝道している。

 「数年前に米世論調査会社が行った調査によれば、日本には約6%のクリスチャンが存在するという結論でした。つまり、教会には属していないが自分はクリスチャンだと考えている人たちが多いということです。その人たちのために正しい福音を伝える必要を強く示されたことが、3年前に帰国して『Good News Station』を始めた理由です」

■ 救われた人々を育て、世に派遣するシステムを

 「家の教会」が日本にほとんど存在していないこと自体が課題だとする。現在日本で田中牧師が関わっている「家の教会」は、「集い」の段階のものも含めて7カ所。出席の平均は5、6人だが、多い時には15人ほどが集まる。田中牧師がこれまでネット上で公開したメッセージ音声や動画は100本ほどあり、それを用いて聖書研究する「集い」が少しずつ増えているという。

 「私の知る限り、日本の教会の霊的覚醒の兆しはほとんど見ることができません」と厳しい評価を語る。その理由を「加工場がない港に船は着けない」と例える。東北の被災地で路傍伝道していた時、復旧が進まない港の姿から閃いた。「せっかく魚を獲っても港に工場がなければ魚を腐らせてしまうだけです。魚を加工・配送するシステムがないのと同じで、救われた人々を教え、育て、世の中に派遣するシステムが日本の教会になければ、リバイバルは起こせないのです」

 さらに、「現代の教会に力がないのは、教会が聖書の教えから離れ、聖書の真理をないがしろにしているからではないか」と指摘する。「前例がないから」「予算と人材を考慮して」といったの理由ばかりが優先され、「聖書は何と言っているか? ということが充分に審議されていないのではないか」

□岐阜芥見キリスト教会の日曜礼拝でメッセージを語る田中牧師

 「求められているのは『改善』ではなく『革新』です。新しい方法論や従来の改良ではなく『原点回帰』。初代教会の姿に戻り、聖書の原点に帰ることです。初代教会の人たちの生活(使徒2:44~45)に倣うことができるのか? 彼らのような祈り(使徒4:29)ができるのか? しかし、聖書に真に忠実であるとは、そういうことなのです」

 地域教会に属している人にも、「家の教会」は人々が教会につながるために必要なステップとの認識を持ってほしいと呼びかける。また、地域教会に属さずに、新しい教会構築のビジョンが与えられている人に対しては、霊的リーダーとともに弟子訓練の学びを続け、家の教会の活動を進めてほしいと言う。

 「Good News Station」のサイトには「家の教会」を作りたいと考える人たちに向けた解説ページも設けられている。田中牧師は、求めがあれば世界中どこへでも謝儀なしで出向くとしている。(5/19/14 Christian Today)

■ Good News Station
http://goodnewsstation.com
http://goodnewsstation.com/ienokyokai.html(家の教会を始めよう!)
http://goodnewsstation.com/lets-cell-list.html(Let's Cell)
http://bit.ly/1qMtAsE (YouTube)

日本でリバイバルが起きない理由 (Welcome to Good News Home !!)

2013年08月13日 | 家の教会

 黙示録の世界は、本当に存在するということ。

 真の「絆」は、聖霊の介在によってのみ、存在し得るということ。

 被災地に行く度に、色んなことを主から学ばされています。

 しかし、今の日本は、震災前と同じ状態に戻ってしまいました。

 いや、もっと悪くなっています。

 日本という国は、もしかしたら「回帰不能点」を超えてしまったのかも知れません。

 にも係わらず、私の知る限り、日本の教会の霊的覚醒への兆しはほとんど見ることが出来ません。
 
 私はそのことについて、ずっと祈り、考えさせられて来ました。ですが、その答えは実に簡単なことでした。

 それは、3-11の伝道旅行の時に、水産業に係わっておられたある男性が、三陸の海を見ながら一言、こう言われたのです。

 「加工工場がない港に、船は着けないんですよ….」


 世界三大漁場の一つである三陸沖に、魚がいなくなったわけではありません。

 ですが、魚を獲って来ても、港に工場がなければ、魚を腐らせてしまうだけです。

 今の日本の教会は、復興が立ち遅れている被災地の港と同じ状態です。

 折角、魚を獲って来ても、その魚を加工し、配送するシステムがないのです。
 
 私はそれを、 「弟子訓練」、「家の教会」、「The Church(新生したクリスチャン同士のネットワーク)」と考えています。

  つまり、救われた人々を教え、育て、世の中に派遣するシステムが日本の教会にない以上、日本でリバイバルを起こしたくても起こせないのです。


 「組織が決めたことだから」、「前例がないから」、「予算と人材を考慮すると…」等のことだけで物事が運ばれ、「聖書は何と言っているか?」ということが、全く審議されていない…。

 現代の教会に力がないのは、教会が聖書の教えから離れ、聖書の真理をないがしろにしているからに他なりません。

  今、主が私たちの教会に求められているのは、「改善」ではなく、「革新」です。革新とは、新しい方法論の模索や、今までのやり方の改良ということではなく、原点回帰。教会に聖書以外の価値観を持ち込まない。つまり、初代教会の姿に戻ることなのです。

 聖書の原点に帰る。口で言うのは簡単です。しかし、私たちは、初代教会の人たちの生活(使徒2:44-45)に倣うことが出来るでしょうか?彼らのような祈り(使徒4:29)をすることが出来るでしょうか?しかし、聖書に真に忠実であるとはそういうことなのです。

聖霊を受けなさい。(ヨハネ20:22)」
互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:17)」
出て行って福音を伝えなさい。(マルコ16:15、マタイ28:19-20)」

 私たちはこの主の3つの命令に従うべく、以下の御言葉を実践して行きます。

 彼らは家ごとに集まり、喜びと真心を持って「使徒の教え(聖書の学び)」、「食事会の交わり(信徒同士の交流)」、「パン裂き(聖餐・礼拝・神との交流)」、「賛美」、「祈り」をしていた。その結果、癒しや伝道の業が自然に現れ、民衆全体から好意を寄せられた(使徒2:42-47)。

 福祉やボランティアという言葉も発想もなかった時代、政府や社会に代りそれを実践していたのが教会でした。社会や他人には無関心、自分たちだけがハレルヤでは、教会存続の意味はありません。

 リバイバルは、私たち一人一人が、イエス再臨へと確実に向かっている時流の変化に適応して行こうとする意志と、神によって変えられる覚悟があるかどうかにかかっています。日本のリバイバルは、先ず、私たち一人一人が聖霊によって変えられるところから始まるのです。

 私たちは、この主旨に賛同してくださる新生したクリスチャン同士の方々との協力関係を求めています。以下の項目に該当される方は、このアドレスまで是非、ご連絡ください。全世界何処へでも、田中牧師が参ります! info@goodnewsstation.com (この記事にコメントしてくださっても結構です)


教会にまだ属しておられないクリスチャン
 一度、田中牧師と懇談と集会の時を持ちましょう。それで霊的一致を見出すことが出来れば、私たちの教会メンバーとして、定期的に礼拝・集会を持つべく、共に主の計画を進めて行きましょう。私は今、この部分に最も力を注いでいます。

教会に属しておられるクリスチャン
 日本の霊的覚醒のためには、教派・教団・地域の教会の枠を超えた「The Church」としての新生したクリスチャン同士の協力体制が必要です。互いに伝道する教会、主に祝される教会になるため、教会(牧師)の了承の元に、田中牧師が「弟子訓練」と「家の教会の構築」のお手伝いをさせていただきます。

まだクリスチャンではないが、聖書を定期的に学びたいと願っている人
 一度、田中牧師と聖書の学びの時を持ちましょう。それで、定期的な学びの場を持つ必要性があると判断された場合、それを実現すべく計画を共に進めて行きましょう。聖書は真理です。どうぞそのことに気付いてください。 God Bless !!



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Good News Home

2013年08月05日 | 家の教会
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

教会は、聖書の真理だけを行動の価値基準とする天国の領事館である。「組織で決められていることだから」「前例がないから」、「予算と人材を考慮すると」等で物事が運ばれ、「聖書は何と言っているか?」ということが、全く審議されていない。現代教会に初代教会のような力がないのは、教会が聖書の教えから離れ、聖書の真理をないがしろにしているからに他ならない。人生は常識を土台とするか、聖書を土台とするか二つに一つ。常識を土台にしているクリスチャンに聖書の真理は理解出来ない。

聖書では、教会が建物や組織を示している箇所は一つもない。教会の語源は、「エクレシア/Eclecia」と言い、 「主に呼び集められた者たち」という意味。イエスの名の元に集まれば、たとえ2人でもそこが教会である。キリストが頭である教会には上下関係は存在せず、あるのは役割の違いのみ。家の教会にこそ教会の原型がある。

「聖霊を受けなさい」、「互いに愛し合いなさい」、「出て行って福音を伝えなさい」。教会とは、このクリスチャンに対する主の3つの命令を実践する場所である。

礼拝は、クリスチャンだけが成し得る地上で最も崇高な行為であり、救いの根拠である。礼拝は、祈り(天への扉を開放)、讃美(信仰告白)、メッセージ(神様からの応答)、献金(神様への応答)の4本の柱によって行なわれる。

「褒める」、「励ます」、「赦す」、「礼を言う」 。これが出来れば人間関係のトラブルの8割は解消すると言われている。クリスチャンが光の子らしく、喜びを持って歩めば、教会には自然と人が集まってくる。GNHの交わりはこの4つの実践が基本である。

日本のリバイバルに必要なことは、新しい方法論の模索ではなく、原点回帰。つまり、初代教会に戻ることである。彼らは家ごとに集まり、喜びと真心を持って「使徒の教え(学び)」、「交わり(食事会)」、「パン裂き(聖餐・礼拝)」、「賛美」、「祈り」をしていた。その結果、癒しや伝道の業が自然に現れ、民衆全体から好意を寄せられていた(使徒2:42-47)。私たちの教会も、ただこれに習うだけで良いのである。

 福祉やボランティアという言葉も発想もなかった時代、政府や社会に代りそれを実践していたのが教会であった。社会や他人には無関心、自分達だけがハレルヤでは、教会存続の意味はない。教会は何らかの形で社会と繋がりを持っているべきである。教会の成功は変化に適応する意志と、神によって変えられる意志があるかどうかにかかっている。社会を変えるには先ず自分自身が変わらなければならないのである。


群集が飼い主のように打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(マタイ9:36-38)

 日本における伝道は、ある意味売り手市場であった。もし教会が、買い手の必要や需要に応じた伝道をしていたとしたら、0.2%の状況はもっと変ったはずである。戦後67年、日本宣教が結果的に実を結んでいない現状を見る時、この反省は必要である。 

 今、世界が終末に向けて動き始め、日本の社会システムや価値観も大きく変わろうとしているこの時代に、教会が幻も熱意も学びもないまま活動していて良いはずがない。社会の動向や人々の需要を知らずして、日本宣教は不可能である。

 本音と建前が交差する弱肉強食の比較競争社会に疲れ果て、多くの人々の身体と魂は深く傷付き、それを何処へ持って行けば良いのか分からないでいる。GNHは、リーダーが人々に仕えるサーバントリーダーシップを基本とし、人々の喜びを喜びとし、哀しみを哀しみとする透明な人間関係の中で、福音の真理を伝えて行く使命がある。

 クリスチャンの交わりにおける霊的バロメーターの指針は、「学び」と「笑い」にあり、それは教会の成長と質とに深く係わっている。祝福されている教会には必ず技能があり、そして笑いがある。喜びと魅力ある場所に人々は集まって来るからである。

サーバントリーダーシップ (柔和な人/(Ⅰテモテ3:2-5、Ⅱテモテ2:24-25)
1).ブレない信仰(Ⅱテモテ3:14,4:2) --規制概念や人の権威に囚われない--
2).情緒が安定している(Ⅰテモテ2:2&8) --オープンマインド--
3).言い訳しない(Ⅱテモテ2:3) --責任転嫁せず、途中で投げ出さない--
4).親切(Ⅰテモテ3:2) --人に対する思いやり--
5).公平(Ⅰテモテ5:21) --人をえこひいきしない--
6).潔癖(Ⅰテモテ5:22,610&17) --神の国と神の義を第一に求める--
7).勉強家(Ⅰテモテ4:7-16) --絶えず成長を心掛け、停滞しない--

家庭集会(週一)は、未信者の立場に立った交わり・祈り・学びが中心。
家庭礼拝(月一)は、神様を中心に、主を賛美し、祈り、主の御声を聴く。
礼拝は単に形式を守ることではなく、キリストとの生きた交わりを深めて行くこと。
人が集まる‐集まらないに係わらず、開催日を決め(例えば第一火曜とか)、その情報を対外的に定着させる。
GNHリーダーは定期的(月一)に集まり、各教会の課題と協力事項等を分かち合う。
GNHリ-ダー育成と教会の活性化は、何人キリストの弟子を育てるかが鍵となる。

人々は、あなたによって祝福される

2012年09月01日 | 家の教会
1).あなたは神に問われています。

誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分の都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方に反れて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。(Ⅱテモテ4:3-5)

 世の中は、弱肉強食の競争社会にヒューマニズムという偽善のオブラートで包まれています。その結果、人々は物事の軽重が判断できず、些細なことに必要以上の力を置き、本質的なことから目が離れてしまっています。目先にある現象ばかりに時間と労力をかけ過ぎ、真に大切なことをするためのエネルギーが残らないのです。

 自分の視線がこの世のことだけに固定され、周囲のごく狭い世界しか見ていないと、おのずと人の考えや言動は、自己中心になります。クリスチャンでさえ、キリストの証人になって誤解され、苦しんだりするよりも、自分の身を守ることを考えるようになるのです。しかし、人は自分の保身を考えている時、物事に対する判断を誤ります。

 多くの教会が、自分たちの信仰を守ることだけで手一杯で、時流に翻弄され、誤解を恐れ、キリストの証人として立つことをしていません。しかし、私たちは、時の権力や常識、流行や先入観等に囚われることなく、この世を動かしている闇の力を洞察し、時代の波に奔走されることなく、キリストの証人として生きることが要求されています。


2).あなたは聖霊の力を受けなさい。

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、その時には、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒2:17-21/ヨエル3:1-5)

 イスラエルの気候は、4月と10月の滝のようなどしゃ降りの雨季と、5月中旬から10月中旬の、ほとんど雨が降らない乾期の二つに分かれています。種蒔き時に土地を柔らかくし、発芽させるために降る雨を『前の雨』と言い、豊かに実を結ばせるために降る収穫の雨を、『後の雨』と言います。

 このイスラエルの気候に喩えられたヨエル書の預言は、今から2千年前に起きたペンテコステにおける聖霊降誕(前の雨)と、現代における最終的な世界リバイバル(後の雨)のことを指しています。今、私たちは、今迄限られた人物にしか与えられなかった霊の賜物が、求める者全てに与えられる時代に生きているのです。

 イエスが十字架に架けられた時、イエスを置いて逃げ去り、部屋に閉じ篭って震えていた弟子たちが、突如として180度違う人間へと変えられました。この劇的な変化は、彼らが聖霊の力を受けたからに他なりません。この体験を経なければ、私たちも教会の中に閉じ篭ったままのクリスチャンで終わってしまうのです。


3).あなたはキリストに会う準備をしなさい。

あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。(ローマ14:22)

 もし、あなたにとってイエス・キリストが、聖書の中だけの存在、自分の頭の中だけの存在、また、自分が死んだ後に会う存在であると考えているのなら、それは大きな誤解を犯しています。あなたにとってイエス・キリストは100%、しかも、それほど遠くない将来、必ず会うことになる存在なのです。

 初代教会と、現代の教会の力の差は何処にあるのでしょう? 初代教会の信徒たちにとって、イエスは死後に会う存在などではなく、またこの地上に来られ、再び自分たちの目の前に現れる存在でした。この燃えるような再臨への熱い思いが、初代教会の原動力だったのです。初代教会にとっての『終末』は、論議の対象などではなく、信仰生活の指針そのものでした。

 今、GNSメンバー一人一人に霊的覚醒が求められています。以上のことを総括し、今年GNSに与えられた御言葉は、創世記22章18節です。

地上、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。



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霊的盲目

2010年06月14日 | 家の教会
 岸師が秋元師の集会に参加したと聞いて、大川師が、「勇気あるよねぇ」と、言ったそうである。そして、此間大川師が秋元師を大和カルバリーに招いたと聞いて、今度は岸師が、「勇気あるよねぇ」と言ったそうである。

 確かに、前回秋元師を招いて集会を行なった時も、興味津々だけど、ビビッテ来なかった人が実際に何人かいた。その秋元師とはいったいどんな怪物なのか?実は、アタシの右隣にいるどこかの会社の経理部長さんみたいな人がその人である。

 彼はこの写真通りの、おっとりと飄々とした人である。その彼を、何故日本の教会(牧師)が、それほどまでに恐れているのか? そういった本質以外のところで労費されているエネルギーの無駄使い。つまり、霊的盲目が、日本のリバイバルを阻んでいる大きな要因の一つであることは確かである。


〔写真:6/14/2010 LAで開催された主の十字架主催の集会にて〕



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仏教講座 付記

2010年05月17日 | 家の教会
 今回の『仏教講座』は、結果的に日本リバイバル集会と相成った。未信者の方が何人も足を運んでくれ、トータル2時間の小難しい講義に居眠りする人もなく、途中で帰る人もなく、思わぬ助け人も現われ、単なるクリスチャンイベントに終わることがなかった。

 一つ驚いたのは、講義中、「あなたが家族の結婚式の日取りを決めるとして、大安と仏滅2割安と、どっちを選びますか?」という質問に、何の迷いもなく「大安!!」と答えていたクリスチャン(?)が何人かおられたことである。

 「一度、自分の信仰を見直した方がいいですよ」とは言っておいてたものの、彼らは私の言っていることが、ピンと来ていないようであった。

 地球上に存在する200の国家、3000の民族中、大安だ仏滅だと騒いでるのは日本人だけである。「それはどちらがおかしいと思いますか?」と聞かれれば、「それは日本人でしょ」と答える人が、実際の生活においては、2割高くても大安を選ぶのである。「やはり問題はこういったところにあるのか」と、改めて考えさせられた次第であった。



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