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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

1986年

2006-02-28 18:51:57 | その他
 「おしょすはなすだども、2月28日は、ごしゅぎすたしでがんす・・・」汗

 ということで、共に休みということで、ささやかならがランチでも美味いものを・・・ということで盛岡に出かけて来た。

 まずは妻の趣味であるパン作りの小物、材料の仕入れに付き合い、さらにその他諸々の買物・・・ランチくらいは少し美味いものを・・・しかし贅沢な話しながら何が美味いものなのか・・・寿司か・・それとも洋食か・・・いやいや盛岡なら盛岡冷麺と焼肉だっ・・・おっと蕎麦だって老舗がいくつかある・・・蕎麦にしよう・・なかなかまとまらない、結局、普通のドライブインに入って天丼と蕎麦のセット・・・ひとり千円にも届かない・・・結婚記念日を少し豪華に・・・も結局はごく普通の外食でのメニューとなってしまった・・・。



盛岡からみる岩手山


 さて1986年・・・出会いがあって翌87年2月28日に結婚式、披露宴を行い今年で満19年・・・「えらすぐねおなごだっ」「いづがらこんたなきかねおなごになったんだべ」・・・とか結婚は人生の墓場・・・だとかよくも言ったものだ・・なんて思う反面、良いこともあったような・・・とにかく均衡を保ちつつ、早19年かもしれません。

 出逢った年の今時期、よく耳にした曲が画像の曲・・・



 渡辺美里の「マイリボリューション」・・・金曜の夜に放映していた学園ドラマの主題曲だったはず・・・このドラマのはじまり、つまりテーマソングが流れたと同時に出会いが逢ったこと・・・私は鮮明に記憶しているが、今や一家の主婦は記憶がないらしい・・・笑

 忘れられない曲、思い出のひとつの曲であるのは間違いない・・・。
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博物館講座「清心尼公」

2006-02-25 20:28:10 | 歴史・民俗
 遠野市博物館講座の最終講座「清心尼公」の講演を聴講いたしました。



 てっきり多くの市民向けの講演会で、入場制限等があるのではと思い、事前に問い合わせますと、入場制限なし、しかも当日受付、入場は無料とのことで安心して出かけてまいりました。

 画像は図書館博物館

 今回の講師先生は仙台の聖和学園短期大学助教授・菊池慶子先生・・昨年秋の八戸での講演でも「清心尼公」関連の講演を行った先生で、前回は当方の都合により参加できず、先日八戸へ行った際にこの時の講演会資料をいただいた経緯がございます。
 いわば中世、近世の女性史、女性と政治についての研究者では東北でも屈指の先生とのことでもあります。

 さて、先生の女性史研究において清心尼公は重要な位置を占めているそうで、今回の講演の内容でもその研究成果も十分に感じられましたし、中世から近世へ・・近世初頭の女性と政治の関わり、さらに八戸時代の清心尼公に関しての見解もなかなか的を得ていたように私は感じました。

 今回すばらしい内容ながら感じたこと。
○博物館講座での講演会であり、4月から受講されている会員が主でもあったことで、限られた人員であったこと。(当日受付含み受講者約30名くらいか)

○私が今回も最年少と思われ、皆さんご年配の方々がほとんどであったこと。

○このようなすばらしい講演、すばらしい講師先生をお迎えする講演会、もう少し市民へのPRが必要ではないのか、歴史分野は興味の有る無しに左右されますが、それにしてももったいない感じは否めない。

○青森県史等で八戸氏関連の研究成果が加速しているにも関わらず、以前からの所伝を正史のように伝えていること、また受講者の中でもこれらの成果を全く知らない、情報がほとんど入っていないこと。

 と・・色々と生意気なことも書き込んでしまいましたが、こういった講演会は是非に継続していただきたいですし、もっと広く市民への聴講の呼びかけも必要ではないのか・・と思います。

 折角の「清心尼公」という全国でも稀な女殿様が居た遠野、その歴史もすばらしいことでもありますので、まずは市民がそれを身近に感じる、歴史を知る・・これが必要でもあります。

 今回、昨年秋に「遠野女大名」での清心尼公を全国区へ・・そういったプロジェクトを立ち上げるべく、その発起人の方、私と同じ行政区にお住まいのご夫妻も聴講しておられました。
 私はたぶん来るだろうと予期してましたが、やはりみえてました・・・笑

 これで今後、少しは加速するかもしれません・・・。

 最後に、こうして清心尼公の講演会を聴講したことで、私の中では何かがそうさせたものと思いますが、知らず知らずにバイパスを走行しておりました。
 向かった先は松崎町光興寺の「清心尼公の碑」・・・まだまだ日陰ですから積雪があって、スニーカーの私は辿りつくのに難儀しましたが、画像収集と共に手を合わせて参りました。


 いずれ今回のような講演会、機会と都合がつけば聴講したいと思っております。
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話題2つ

2006-02-23 18:58:15 | その他
 職場の同僚同士で結成されている親睦会で、冬場の体力練成とさらなる親睦を図るため、冬季スポーツ大会がこのほど開催されました。

 
 
 冬季スポーツ大会という意味合いでは、スキー場に出かけたり、室内でのインドアスポーツで汗を流すといったことが行われておりましたが、今回は軽めの運動、あくまでも親睦に主眼がおかれたようでもあります。
 画像はビリヤード・・・初心者に近い腕前・・・それでもなんとかマグレ・・偶然にボールが入ったりと楽しい一時を過ごしました。

 

 ひきつづき行われた懇親会・・・今回は画像のお店「T・T」
 2時間半、ひとり3千5百円、飲み放題プラン・・蟹、ステーキ、マグロを目玉にパスタ、ピザ、その他お酒のつまみ類充実、日本酒、ビール、ワイン、サワーカクテル各種・・・全部料金込み・・・結構満足しております。


ふたつ目の話題

 昨夜は早めに帰宅、二日酔いもなくまずまずの目覚め・・・。
 かねてよりの計画で山田町へ出かけるも、笛吹峠頂上付近で車がエンスト寸前、力が「ガクッ」と落ちるもなんとかクリア、釜石側の下りで計器類のいくつかが付いたり消えたり・・・間もなくハンドルが重くなりブレーキの効きも悪い、なんかおかしいなあと思っているとエンストしておりました。
 
 サイドブレーキを何度か引いて無事に停車、こんなところで・・と不安が過ぎる。
 エンジンをかけてみる・・・セルが回らない・・あせる・・冷静に考えてみるとギアのレンジがドライブになっている、直ぐにパーキングにして再度エンジン始動・・一発でかかるも、このまま向かっていっても途中でまたこんなことがあったら大変でもあり、ここは再度トラブルがあっても遠野側の方が何かと都合がよいと判断して引き返しました。

 その後はトラブルもなくいつもどおりの愛車です。

 その帰り道で遂に撮影・・・「さんかげつ神社」・・笑・・三ヶ月神社
 みかづき神社なそうです・・・石碑群

 

雪もだいぶ融けて春近しといった感じ・・です。

 

 土淵町か松崎町か・・・とにかく道路脇に積み上げられた雪・・・実はこの場所は吹雪が特に強い場所で、この間までは片側通行に近い道路幅でした。(雪のため)
 吹き溜まりの雪を除雪した結果、画像のようになったようでもあります。
 道路の反対側は雪はございません。
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南部首長会議

2006-02-22 13:51:59 | 遠野
 最近は寒暖の差が激しいですが、皆さん体調管理には十分お気をつけてください。
 
 さて、お題の「南部首長会議」・・通称「南部サミット」・・・第22回目の南部サミットが遠野市を会場にこのほど(去る16日)開催されました。



 南部サミット・・・いわゆる南部藩(家)縁の市町村で構成される会であるが構成市町村は・・・
「青森県八戸市」(南部師行以来八戸根城を拠点とした根城八戸南部氏の地、江戸期に遠野へ移る、さらに盛岡南部藩より分封、八戸藩)・
「青森県七戸町」(根城五代、南部政長が七戸を拝領、八代政光が七戸城主となる、盛岡南部支藩七戸藩)・
「青森県南部町」(初代南部光行が築城したと伝えられる地、陸奥南部氏発祥の地)・
「青森県三戸町」(南部町から三戸城を築城し三戸南部氏が本拠とした地)・
「岩手県盛岡市」(言わずと知れた南部藩の藩都・盛岡南部氏居城)・
「岩手県二戸市」(九戸政実の乱後、南部信直が居城を移した地)・
「山梨県身延町」(根城、遠野南部氏の祖と語られる南部実長が本拠とした地、身延山久遠寺開基)・「山梨県南部町」(南部氏発祥の地)・・・
そして「岩手県遠野市」(八戸根城の八戸氏が寛永年間、遠野へ移り、以後遠野南部氏となる)

 ということで、山梨県、岩手県、青森県の南部氏に縁ある9市町で毎年持ち回りで会議が開催されております。
 遠野市では過去第3回、第8回、第15回、そして今回の第22回の開催地でありますが、既に22年が経過、その交流もマンネリ化とも囁かれますが、それでも22年も歴史つながりを主軸に何らかの交流なりが行われてきた、これは今後も大いにつなげていってもらいたい、そう希望しております。

 今回は、近年全国各地で平成の大合併が成っておりますが、バーチャル合併「平成・南部藩」が発案され、なかなかユーモアもあってなおかつ9市町がさながらひとつの自治体かのように連携、協力して町づくりに取り組む、またさらなる南部氏縁の地域として共に発信すること、今後の交流も大いに期待できる内容でもあると思います。

例・・
「一日国替え」各首長がそれぞれ別の市町の首長(殿様)になる。
「参勤交代」各市町のイベントやお祭りに翌年の幹事市町の首長が一日藩主となる・・・等

 他にもありますが、なかなかいいアイデアと私は思いますし、平成南部藩
 「石高1千万石」9市町の純生産を基に一石10万円として計算
 「領民約69万人」「面積鳥取県を超える」・・・とあります。

 私としては、過去に何度か歴史的つながりで各地の郷土史家の先生方との交流も何かしらイベントとしてあったようですが、南部氏研究の一翼を担っていく会議やらシンポジウムがもっとあってほしいと願ってますし、構成市町で開催のこのようなイベント等ももっと市民に知らせていただきたい、私は行政側の人間ですから少しは情報は早いですし、入りやすいですが、まったく南部サミットとは何をしているのか、単なる文化、スポーツ、イベント、物産の交流のかけはし的な位置付けではないということ、もっと市民そして民間主導の何かがあってもいいと思いますし、PRもさらに必要と考えます。

 さしでがましく他人事のような記述、さらに自分の希望を記述してしまいましたが、南部サミットの益々のご発展を切に希望しておりますし、構成市町との交流も盛んになることをご期待しております。

 

 構成市町のバンフレット(一部)

 一応、ほとんどの市町を個人的に訪ねてますが、山梨県南部町だけはまだ未訪問です・・・機会を捉えて南部氏発祥の地、是非に見てみたいそんな思いです。
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2006-02-20 16:29:24 | 遠野
 少しずつ春の匂いが感じられる雰囲気である遠野、だいぶ大地を覆っていた雪も融けだしている。
 あと一ヶ月・・・間もなく春が訪れます。

 さて、「馬」・・・東北の馬産地として有名な遠野、その中でも駒木という地名で馬に縁ある土地柄、なおかつ当地方でも馬に関わっていた地域でもある駒木に生まれ育ちながらも、実は馬とはほとんど関わりがない。
 ましてや乗馬はおろか触ったことすらない。

 小学生の頃、近所に馬を飼育しているお宅はあったけど、よく柵から逃げ出して中走り回り、捕まえるのに苦労していた記憶がありますし、後ろ足を跳ね上げて逃げ回る姿をみて、あれに蹴られたらただでは済まないだろうな・・馬とは「おっかねえ動物」といった印象がありました。



画像は海上のT橋さんの牧場・・・一段高いこんもりとした場所に、一頭だけ上がり、まるで自分はここのボスといわんばかりにいる姿を時折見ております。



駒木駒形神社・・・馬産地駒木を色濃く残す名残でもありますが、隣接には現代の馬産地の代名詞「遠野馬の里」がございます。



遠野馬の里と駒木地区
 ここはすべて牧草地と畑が広がっておりました。次から次へと馬の里関連施設が立ち並び、昔の面影は無くなってしまいましたが、何故か私にはここが駒木といった感覚が無くなっている・・・・。

 余談ですが、盛岡に「馬っこ本舗」という菓子店があります。
 盛岡銘菓「馬っこ最中」が有名で、遠く遠野に住んでいる私もその名は知っておりましたが、実は創業者で現会長さんは飯豊のご出身、なんの因果かはわかりませんが、妻の実家の出、つまり妻の大叔父となります。
 馬はあまり得意ではないですが、馬刺も馬っこ最中も大好きです・・・汗
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二日酔い

2006-02-19 22:02:06 | 遠野
 本日は二日酔いの症状・・・夕方まで寝たり起きたり、それでも何処か本調子ではないっ、ようやく夜も更け始めた頃にいつもの調子が・・・・

 24時間前、伊達藩からのお客様と地元の方々含めて懇親会・・・遅く参加したため、また昼にも少しアルコールを入れていたため、ハイペースで飲んでしまった。
 無論、効きも早い・・・久しぶりに0時を回ってからのご帰還・・・やはり歳のせいか、翌日は具合が悪い・・・汗



 昨夜の面々・・・遠野関連キーワード「ふしぎの郷、遠野」・・まさしく皆さんそういった雰囲気を持ち合わせている方々ばかり・・・



 二次会へ移動・・・遠野夜の名物・・・「親不孝通りへ突入の場面」
 二次会で「遠野物語」を唄ったような・・・夢であったのか未だにあやふや・・です。
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初大師・懐かしの食

2006-02-18 19:09:42 | 福泉寺・伝承等
 この時期恒例の福泉寺行事「初大師」が行われたましたが、遠野市内の壇信徒約250名、土曜日に重なったこともあって盛大に執り行われました。


法門山福泉寺護摩堂兼客殿内の襖・・・建物内部の襖全てに先代住職、宥然和尚の自筆の書が入っております。


護摩焚き・・・

 さて、250名分の昼食、開山以来ほとんどその賄い料理は変わらず、この日炊いた米は40キロ、これぞ直火焚きで炊いたご飯・・・・昔ながらの釜によるものです。

 
四升釜で8つ
 
 今はほとんど電気やらガスが主流、我家でも近所でも直火での炊飯は、この福泉寺にての行事のみ・・・ですが、昔とった杵柄、ご年配の方々は飯炊きもプロです。

 
 こび・・・これがおまけといったことで、実はこれが美味いのなんの・・・熱いこびに醤油をたらしていただく・・・皆さんこれ目当てでもありました。

 さらに・・・
 

 味噌にぎり・・・味噌おにぎり・・・子供の頃は海苔が巻いてあるおにぎりが食べたくてしょうがなかったけど、今はこちらの方が好きです。
 余ったご飯にて賄い方と役員の檀家さんのみの最後の楽しみでもあります。

 

 福泉寺名物「お平汁」・・・まめふ、油揚げ、豆腐、こんにゃく・・・醤油仕立てで片栗粉にてとろみをつける。
 伝統の味で、その味、極秘の作り方を代々継承するお平係りが存在いたします。
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乾餅、乾葉

2006-02-17 13:40:09 | 遠野
 乾餅「ほすもづ」・乾葉「ほすっぱ」・・・・
 子供の頃の今時期、毎日食べておりました。

 

 「ほすもづ」・・・我家でも祖母が存命の頃は、画像のように軒先に長方形に切った餅を紙に包んで紐や縄で吊るしておりました。
 早いもので12月から、大概は正月過ぎに吊るして今時期が食べ頃、おやつ代わりに毎日食べていた「ほすもづ」・・・「ポロポロ」と欠片や粉がこぼれたり、咽たりと・・結構大変でした。
 時折、ストーブの上に乗せて焦げ目がつく程度焙って食べたりもしました。醤油に漬して焼いて食べる、これもまた「こでられねがったす」。

 我家では食紅を使って赤や緑色の「ほすもづ」が主流でした。

 

 画像はいただきものの「ほすもづっこ」・・・少し焙ったものです。

 
 乾葉「ほすっぱ」・・・大根の葉を乾かしたものです。主に味噌汁の具に使いますが、おにぎりの海苔代わりに使うお宅もあります。
 我家では、やはり少年時代、今時期は朝昼晩の三食、ほぼ毎日「ほすっぱ汁」でした・・。
 朝作って食べ、昼に食べ、夕食では乾葉を足して豆腐か油揚げなんかも加えておりましたが、流石に毎日食べてましたので、高校生の頃は食べたくありませんでした。
 いいオヤジになった昨今、何故か無性に食べたくなる「ほすっぱ汁」・・・しかし、「ほすもづ」と同様、なかなか遠野でも軒先に吊るし自家食として両方を作っているお宅はそれほどない・・・。
 たまたま車で走っていて松崎界隈のとあるお宅に発見して画像に収めました。

 

 シンプルですが手間のかかる昔の食物、今や贅沢な食物になっていると実感しております。
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祖父の勲章

2006-02-15 14:58:46 | その他
 祖父・・・昭和18年1月2日・ガダルカナル島にて戦死・享年38歳

 男系が短命だったりと女系家族の我家だったそうですが、祖父は昭和元年、20歳で下閉伊郡小国村(現川井村小国)から婿養子として我家の当主となった人でもありました。
 生業は大工さん、腕のよい大工さんとして評判だったとかで、また家業の農業もよく働く人だったそうです。(子孫の私とはえらい違い・・汗)

 私の生まれる以前の人でもありますから、記憶も何も、私などが語れることはほとんどありませんが、もの心つく頃には床の間の上に額に納められた勲章が飾られておりました。
 
 祖母の話では、この辺から出征した人達の中では階級も上で、しかも頂いた勲章もその数もなかなか無いと自慢げでもありましたが、祖父のことを語る祖母の眼の奥はいつも潤んでいたに違いないと思っております。



上段左右は「勲六等単光旭日章」中央は「功六級金鶏勲章」
下段左は「支那事変(昭和14)記念章」右は「勲七等青色桐葉章」

 祖父は中国戦線に徴兵により一度従軍、退役後の昭和17年再度徴兵され陸軍工兵曹長として南太平洋へ・・・ガダルカナル島にての戦死とされますが、祖母の話ではガダルカナル島に米軍が上陸、孤立の日本守備隊への補給及び援軍として輸送船に乗り組んでいた祖父は島近くで米海軍の攻撃を受けて船は沈没、ソロモン海戦と祖母は言っておりましたが、海底深く眠っているのだと語っておりました。

 勲章・・・戦死した際に中央の「金鶏勲章」左上の「勲六等単光旭日賞」と共に金2,500円を下賜されたようです。
 また右上の「勲六等単光旭日賞」は昭和43年に頂いた勲章なようです。

 戦争を知らない世代である私、当然のように戦争はない方がよいに決まっている。
 また勲章を見せびらかしているつもりではないが、我家でも戦争という歴史に関わっていたこと、遺族であること、それを実感しているところでもあります。
 靖国問題やらまだまだ社会でも問題視にされる先の戦争、少なくても祖父も含めて多数の犠牲もあって成り立っている現代社会、これらを今一度考えてみてもよいのかな・・と思います。
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きっつ

2006-02-14 10:54:32 | 遠野
 春先のような気候、昨夜からの雨とプラスの気温で、だいぶ雪も融けたようでもある。
 しかし、まだ2月、これで直ぐに春が来るものでもないっ、あと数回は寒波と大雪もありそうな予感・・・・。

 さて、恥ずかしながら我家の小屋を画像にてご紹介いたします。
 昭和初年の築で、屋根は萱葺、外壁は土壁でありましたが、私が小学高学年の頃、今は亡き親父が真っ赤な顔をして憤慨している光景が思い浮かばれます。



 近所の知人達に「みやほらの○○、小屋もたでれねば、屋根もふげねえんだがありゃ・・」(宮洞の○○(親父の名)、小屋の建替もできなければ、屋根も葺けないぞ・・)と何かの会合で馬鹿にされたとかで、凄く悔しがっておりましたが、一念発起して萱葺屋根をマンサードのトタン葺に改装、数年後には黄土色で萱等がむき出しになっていた土壁を白壁に塗り替えた経緯があり、現在に至っております。

 

 あまりにもみすぼらしく汚い我家の小屋ですが、画像の部分は昔は馬屋(まや)部分でして、馬が居たとは聞いたことがございませんが、牛が入っていたとか・・。
 南部曲屋に関しては私の小学生時代、あるにはありましたが、ほとんど建替えのピークでして、地域からだいぶ消えておりましたし、残されていても屋根はトタン葺に改装といったことも結構ございました。
 曲屋はいわば富裕な農家、農地等を沢山持っている農家といった印象が私にはございます。無論、全部当てはまることではないかもしれませんが、我家のように小屋や馬屋は別棟にある・・・しかも曲屋のお宅は別棟に大きな小屋も、さらに蔵もあるといった印象でもあります。

 昭和はじめに建てられた我家の小屋、当時は曲屋も随分とあった聞きますが、小規模農家は我家のようなスタイルだったようです。

 

 これまた「ふっつらがってますが」(散らかってますが)小屋の内部・・・壁面には祖父が造ったといわれる「きっつ」がございます。
 幅3間・・・板には七福神が全て描かれておりますが、物置と化した内部、全部直ぐにみることはできません・・・汗

 

 板に漢数字とひらがながございますが、これは板を上から入れる順番を表しているものです。
 上から板を抜いていく、無論中は精米前の米が今も昔も納められております。

 当然ながら板の順を間違えると絶対板は入りません・・・。
 昔の人の技術と知恵、単純ではあるかもしれませんが、凄いと思います。

 それにしても、そろそろ小屋を取り壊して車庫兼簡易な農作業小屋を建てなければと思うも、この「きっつ」壊すにはもったいないと考えております。

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