「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

雨音はショパンの調べ・Ⅱ

2007-05-31 19:31:10 | その他
 早いもので今年も半年が経過、ついこの間にお正月を迎えたと思ったら、暖冬だの桜が遅いだの、桜も終って田植も終了・・・・。
 そんな半年が終ろうとする今日は雨の一日、どこへ行くでもなく、ただ家でひきこもりながらのんびり過ごす一日、多忙を極める皆さんには悪いと思いながら・・・・汗

 小林麻美

 こんな日は、20年以上も前の曲、小林麻美の「雨音はショパンの調べ」

 別に思い出の曲といったことではありませんが、当時は私なんかには手の届かない存在といった印象の小林麻美、雨の日ということで久しぶりに聴いてみました。

 しかし、聴いているうちに・・・・



 猫と一緒に寝入ってしまった・・・・汗



 野暮用といいますか、遠野物語ゼミナールにて武蔵野へ出かけてまいります。
 1日から3日夕方まで留守となります。
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ウワサは噂

2007-05-30 17:51:35 | ファイヤー
 薄曇の空、朝食と昼食兼務の食事を摂ったら、眠気が差し、そのまま眠ってしまったらしい・・・・。
 目が覚めたら雨がポツポツと降り出していた。


5月28日の画像から・・・・


天ヶ森


上松崎橋から猿ヶ石川



 さて、本題・・・・

 まずはお断り、一部表現にブログで公開される内容としては相応しくないこと、仕事での裏話的な内容も含まれますが、考えようによっては、笑い話みたいなことに最後は収まるものと考えますので、そのつもりで本気にならず気楽にお読みいただければと思います。


 最近は、全く無いといいますか、死語になりつつあり、忘れかけていることですが、十年程前までは、たまに、時折、訪ねられたり、このことで少し口論となり得る場面がございました。

 それは、噂話・・・・その内容は・・・。

 某日、某場所で、男女の※!♯¥中に、○○(○○に入る文字は釣り馬鹿日誌で御馴染み)したまま重大事件が発生、いわゆる、ヌ○ナ○なった・・・というもの。

 その場面に白に赤線車が出動、そそくさと重なった男女を収容して、静かに走り去ったというもの・・・・ここまではよく昔は噂話として語られることでもありますが、親不孝に出かけた際に、とある人物から、この噂話について、具体的に説明を受け、その白赤車で出場したのが私だったということ、さらに後輩の名まで登場・・・・笑

「職業上知りえたことに対する守秘義務はあるだろうが、ここだけの話で、少し聞かせてくれないか、お前行ったんだろ」・・・こんなニュアンスで問いただされた。

私「はっ、なんのことですか?」
相手「またまた、隠しちゃって」
私・・・余りにもリアルでその場を見ていたかのような話ぷりで、思わずニヤケテいたのが悪かったのか・・・相手は、「いいから、誰にも言わないから」・・・。
私「そんな事実はございません」
相手・少し切れ掛かって「隠しても無駄だ」・・・こんな繰り返しが、しばし続く。


 さて何処から私の名前が登場するのか、しばらくしたら別な同僚の名に変っていた噂、最後は○察のワゴン車に変ったり、それでも暫くは飲屋さんでまた同じことを聞かれたりと随分と噂とはいい加減だと思ったことではあります。

 本気になって否定しないのがいけないのか、いやいや、本気で否定すると、その裏にやはり何かあってのこと・・・と変にとられたり・・・・。

 しかし、これだけは言っておきます・・・。

 このような事案に私は出食わしたことは一度もございませんし、先輩方から聞いてもこういった事案に白に赤線車の出場は一度も無いということ、少なくても記憶にはないということは言っておきます。

 火の無いところに煙は立たず・・・・ながらも、我々は無関係です・・・笑








 変なお話しの後は、お花で〆ました。

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ブログな日々

2007-05-28 14:46:44 | 遠野
 朝からスッキリと晴れ渡る。
 長男を高校まで送っていった帰り道、オリンパスブルーを求めてシャッターを押す。





 露出補正を修正、二枚目になんとかオリンパスブルーが出た!

 その後、雲が広がりだし、一旦家に戻って、昨日エントリーの「遠野孫次郎」関連を再アップしてから、高清水目指して家を出発。


 この時期、定番の「トォヌップ」





 太古の遠野は湖だった・・・・をイメージできる今時期の景色ながらも、休耕田も目立ち、毎年、緑の大地やら建物が増えている。


 以前から気になっていた天ヶ森、ちょっと登ってみようということで、車で行け付ける所まで行って、駐車・・・しかし、ラフなスタイルであるし、単独で熊公にでも出くわしたらタダでは済みそうにない、急に恐怖心が湧き上がり、中止。


 天ヶ森頂上までは、あと僅かながらも、初冬の頃にでも再チャレンジということにして、附馬牛町石羽根へ下る林道を使って附馬牛へ・・・・。


 桑原方面


 沢ノ口方面


 遠野七観音のひとつ、笹谷観音堂入口

 スキーのストックが置かれている。
 参拝者の為の杖代りであろう・・・。


 バス停待合所


 ブログ「遠野な日々」管理人まるとさんが遠野ブログの先駆でありますが、当時、見慣れた景色、いつも通る風景を毎日エントリーされておりましたが、なんの変哲もない、いつもの風景を見るにつけ、正直私は面白みがなく、なんの為に発信されているのか、わかりませんでした。

 というよりブログというものに否定的でもありましたが、自分でも日記風のものを、さらに身近に郷土史やら民俗的な何かを感じていただければと考え、私もブログを始めてみました。

 当初は、仕事上の話やら日々のことを飛び飛びにエントリー・・・半年後には、遠野関連ブログが一気に加速するきっかけとなった、たま千代さんのブログが登場、ほぼ時を同じくして今や遠野ブログ界のリーダー「くさぐさ」も登場し、てずからさんの「遠野てずから紀行」も浮上、極めつけは遠野ブロガーを戦慄させた山猫さんの「山猫を探す人」が発信されると、遅まきながら、私も遠野という土地そのものをさらに身近に感じ、見慣れた風景と思っていたところが、実はよくわからなかったことや、数十年ぶりに訪れたとか、とにかく新発見が多くあったこと、いわば遠野再発見といっても過言はありません。

 今やブログ仲間も増えだし、共に遠野を各分野にて発信、日々のブログのネタ探しがライフワーク化してますが、これもまたさらなる新発見があったり、再確認することしばしば・・・・ますます生まれ育ち現在も暮らす遠野が好きになっていく自分が感じられる今日この頃でもあります。



 ○まん精肉店のネコ

 以前自転車のカゴに仲良く入っている二匹のネコの画像をアップしたことがございましたが、その後、度々目撃、どうやら自転車のカゴが休憩所らしい・・・。




 寝ているようで寝ていない、というか起こしてしまったようだっ。
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孫次郎岩谷堂の陣

2007-05-27 21:52:42 | 歴史・民俗
 遠野阿曾沼時代、伝承によれば大きな戦乱がいくつか伝えられますが、その多くは守勢にまわる戦いであり、他領からの侵略であったと語られます。

 そのひとつは、永享9年(1437)の室町初期に気仙の豪族、岳波太郎、唐鍬崎兄弟に率いられた気仙勢と阿曾沼支族といわれる大槌孫三郎の大槌勢が呼応して横田城に押し寄せた戦い、永享事件(三戸の南部守行が援軍として遠野勢に加勢して侵略軍を大いに打ち破ったと伝えられる)。

 さらに、同じく室町時代の宝徳2年(1450)には、葛西氏の武将といわれる金成右京太夫政実に率いられた気仙勢が宇夫方氏の篭る綾織谷地館を急襲、しかし、鱒沢氏、宮森氏、達曽部氏といった遠野西側の館主達が来援し、葛西勢を退けたと伝えられる。

 他に葛西勢と語られるが、弘治3年(1557)宇夫方一族の主館である西風館が突如として夜襲され、館主一族が壊滅的打撃を受ける戦いがあったとも伝えられます。


 このように伝えられる戦いは他領、しかも葛西領から攻め込まれた内容であるが、遠野から撃って出た戦いが数度とあったとも伝えられ、そのひとつに遠野阿曾沼第13代とされる遠野孫次郎こと阿曾沼広郷の江刺岩谷堂攻めがあったと伝えられている。

 広郷は遠野歴代でも英傑と伝えられ、遠野郷内の半独立的な小領主達を服従させ、遠野における封建君主制を本格的にもたらした惣領とも思われますが、ただひとつ、一族である鱒沢氏を服従させるには至っていなかったようでもある。

 
 鱒沢氏との対立については、別の機会にエントリーする予定といたします。


 さて、天正年間、隣接する江刺領は、岩谷堂城主、江刺重恒の時代で、江刺はふたつの江刺氏が存在していたが、当初の江刺領主は千葉氏の流れを汲み、葛西宗家と婚姻等を重ねるうちに葛西氏の一族化が進み、葛西七党に組み込まれるほどの武威を誇っていたといわれます。

 天正年間当時の領主、重恒は伊達家の後盾で葛西宗家を継いだ葛西宗清の系統で、天正年間に江刺郡の惣領となったといわれますが、阿曾沼家乗で記述されるように「葛西の族江刺重恒、政を失して境内擾乱す・・・」すなわち民心は離れ、家臣となっていたかつての江刺氏族の館主、小領主達の多くが離反していたことが伺われます。

 また住田町史では、江刺重恒は女癖が悪く、家臣である菊池右近に命じて気仙世田米の姫君を室と迎えたいと下命し、室としたが1年もしないうちに世田米の姫を疎んじ、実家に送り返す所業があり、右近が諌言するもかえって右近は疎んじられ、右近の面目が丸つぶれとなり、世田米氏と共に遠野孫次郎を江刺領に引き入れ江刺重恒を討つ段取りをつけたとも言われます。

 このことが遠野にあまりにも多い菊池姓の遠野流入のひとつとも考えられますが、結局は、気仙、遠野連合軍は江刺勢に破れ、菊池右近は江刺に居ることが叶わず遠野へ落ちたことになっている。





 阿曾沼主家が抑えていた松崎地域・・・・昨年同時期の画像です。(耳切から)


 江刺郡内の争乱、これは葛西領内で頻発した各郡内の勢力争いのひとつと考えられ、遠野孫次郎は期を逃さず、領土拡大の目論みとあわせ、江刺菊池一族の離反、そして気仙世田米の呼応を得ての侵攻戦と考えられていたが、葛西領内の秩序を乱す江刺重恒の態度が葛西宗家の逆鱗となるも、葛西領内の各郡内でも肥大した家臣団同士の争乱が相次ぎ、宗家による鎮圧は難航を極めていたことが想像される。

 遠野阿曾沼氏と葛西氏は親密な関係があったことは、資料等でも若干明らかになっているが、葛西宗家との内密な交渉があって、気仙勢の一部との共同作戦にての岩谷堂侵攻が決定され、葛西宗家から江刺領の一部を遠野へ割譲する条件にて、遠野孫次郎は岩谷堂に攻めいったものと推測いたします。

 結局は、阿曾沼家乗にあるように「広郷、弊に乗じて岩谷堂城を攻む、克たずして還る」・・・敗戦だったことが伺われ、多くは語られていない。

 
 この岩谷堂攻め、大義名分は、放蕩無頼で政を失して民心を失った江刺兵庫守重恒を討伐して、郡内の治世回復をと江刺配下の土豪達からの出馬要請を受諾しての侵攻であったものと推測されます。

 遠野市史では天正13年から15年と考察されているが、この頃と思われます。 
 遠野勢、気仙勢の連合軍が江刺領に入ると、政を失し、民心、家中が離反したはずの江刺重恒は、家中をまとめ、迎撃戦を演じる、遠野勢に見方するはずの土豪の一部は、重恒に降り、逆に遠野勢に攻撃を加え、その勢いは郡内各地に波及し、遠野勢は敵地で四面楚歌の状態に陥りかけ、撤退を余儀なくされ、夜陰に紛れて陣を引き払い、遠野へ帰還したものと推測されます。

 この時、上郷在の細越氏は殿軍となり、敵の反撃を引き受け、最後は手兵と共に討死にと伝えられる。




 敗戦で撤退となったが、遠野領内に入り、早池峰山を再び見た孫次郎以下の将兵はどんな思いだったのだろう・・・・。
 
 
 この後、江刺氏や気仙郡内の土豪による仕返しと思われる遠野領内侵攻が語られますが、天正7年ともいわれ、先の岩谷堂攻めが天正13年以降とする説との矛盾点もあり、このことは本編サイトにて詳しく考証記述の予定です。
 

 
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松崎会

2007-05-25 23:52:49 | その他
 職場関連の懇親会が土淵町のたかむろ水光園で開催されました。


 折りしも同会場で隣町の土淵会も催されるらしい・・・・。


 OB含め40数名の会員ながら今回は半数の20名弱・・・若い連中の欠席が目立つ・・・怒り。


 水光園の濁酒


 料理は最高


 奇しくも隣の宴席は土淵会・・・我松崎会の倍の人数、しかも松崎会の会員も居る、どうしたことか・・・・汗


 土淵会の様子



 
 アルコールも回りだした松崎会の様子・・・こうなると隣の土淵会へ乱入したり、来たりと入り乱れての宴席なるも松崎会は平静を保ちなんとか午後9時にお開き、土淵会は地元の強みで帰れといわれるまで宴会は続くそうです。


 午後9時に送迎バスにて街へ・・・・。

 
 今回は聞くことによると5年ぶりの開催とか・・・・松崎会といっても駒木、松崎、光興寺の3地区の職員のみで構成されている会でもあります。

 白岩地区は大所帯の白岩会が存在している。

 松崎に在住の職員、出身者、現在住む地が松崎ならば有資格者、さらに現役を退いた方々も会員と門戸は広くしている。

 
 たまにこういった集まりも新鮮で楽しいものです。

 
 二次会は・・・



 ぶれんどで御馴染みのお店・・・・皆さん顔が広く、往年の親不孝徘徊歴が、只者でないことが伺われます。


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定番 水車小屋

2007-05-23 20:41:47 | 遠野
 いいお天気ながらも、青空が薄く、雲が多い一日。

 市内の田植も終盤といったところ、水が張られた水田、青葉の山々、大地の緑と原色の花々・・・これらを一緒に画像に収めたいと考えていたが、なかなか暇がなくて今日になってしまった。

 まずは、山口の水車小屋へ・・・・


三連発







 残念なのは、青空の青・・・オリンパスブルーが出なかったこと・・・そして市内の別場所に移動するも、田植作業盛ん、早池峰山もどこか霞がかかったの如く、薄い感じ、近日中に晴れ渡ったときがラストチャンスか・・・それとも躑躅の季節到来、こちらに主眼を置くべきか・・・・写真も考えると難しいですね。
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八戸一族新田氏

2007-05-22 21:34:38 | 歴史・民俗
 新田氏、八戸根城初代、南部政長の次男である新田政持が祖と所伝では語られ、主家八戸氏を支え、八戸氏に後継無き時は、新田氏から後継が入って主家を継承する家とされる。


 


 八戸氏歴代をみると、八戸氏13代政経・18代政栄・22代直義(遠野南部)は、新田氏出である。

 また、江戸期は遠野にあって、代々遠野留守家老、鍋倉城代と重きをなし、歴代は小十郎を名乗り、遠野南部家第一の家でもあった。


 
 話は江戸初期における八戸家の遠野村替(遠野転封)の頃となりますが、今から3年程前、青森県八戸市で開催された「南部氏と根城」でのシンポジウム「中世糠部の世界と南部氏」での講演のひとつ、西野氏による八戸一族新田氏を中心に・・・で、遠野村替は伊達領との領域警備、そして八戸家の独立的な権力を削減する目的の為に太守南部利直が本貫地八戸から引き離し、遠野への村替を断行したと八戸家(遠野南部家)の立場から今までは考察されていたが、その真実はいかにといった講演だったと理解している。


新田城跡・・・・八戸市新井田大館



 新田八幡


 帯郭跡


 新田氏は新田城にあって3千石を領し、八戸家中第一の家に相応しい武威を誇っていた。
 
●新田城時代の家臣団
 一族・馬場、作田、杉岡、目内澤田、西村、飛内、脇山、福田
 家士・水越、是川、川原木、松橋、類家、猪岡、江刺家、石橋、七戸、島森、小笠原、奥寺、木村、高橋、浅沼
 寺院・対泉院、成就院

 遠野にもみられる姓名があると思います。


 さて、遠野村替に関しては、寛永4年(1627)南部利直から八戸直義に発給されたあの例の「拾戸遠野村付目録」・・・・と記述された知行目録が存在しますが・・・・

 横田城廻、白岩村、綾織村、上宮森、上宮森の際(下宮森の内)、附馬牛村、駒木村、青笹村は八戸弥六郎直義の蔵入分(直轄)

 一方、新田家当主、新田因幡義実の知行地は・・・
 小友村、鱒澤村、光興寺村、釜石村(綾織新里)、みさ崎(綾織)、白岩とありその中には「右之村者新田因幡」とあるように、太守南部利直から遠野は八戸直義の知行地として書かれた土地全てが一括与えられたのではなく、新田氏をはじめとして、中館氏、岡前氏、沢里氏等の一族、重臣の知行地の指定がされていた。

 これは盛岡南部家(藩)の八戸家(遠野)への介入がしやすい結果ながらも、一方では遠野主家である八戸家が遠野家臣団に対し、盛岡南部家の絶大な権力によって統制と知行権維持を可能にすることができる内容ともいわれます。

 新田氏に関しては、伊達領との境に知行地が定められ、小友、鱒沢に・・・岡前氏や中舘氏は上郷方面に定められている。

 各番所勤番も当初は、上記の家々の家臣達が配置されていた。

 後の寛永19年、新田家当主、新田義実(直義弟)が30歳で死去、後継たる男子が無く、子女が3人のみで正保3年、2千石の内、1千5百石を取り上げ、5百石となり、家臣団の多くも主家八戸家に吸収された。






 画像は2005年7月と2006年10月のものです。




 おまけ・・・・

 ここ2日程、晴天に恵まれている、そして今時期は田植時期、水田に水が張られ、山野の緑と空の青、花々の黄、赤・・・とまさしく美しいコントラスト・・・遠野ブロガー達もこぞってすばらしい画像をご披露しておりますが、昨日は勤務、本日は系統(まぎ)の火葬、葬儀、忌明法要と一日が費やされ、今時期しか撮れない画像収集ができず・・・・・涙

 なんとか近日中に画像収集したいと思います。
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春の宴

2007-05-20 19:39:26 | 遠野
 雨で一日順延した末娘の通う中学の大運動会、なんとか出来そうな雰囲気、嫁様は朝早くから起き出して弁当作り、俺はというと昨夜開催の秘密会合が深夜遅くまで行なわれ、少し寝不足と軽い二日酔い、それでも叩き起されるように起き出して、一応運動会観戦の仕度・・・・・。


 曇り空ながら、なんとか天気は持ちそうと考えたが、傘は準備、案の定、運動会開始直後から雨が降り出すも、にわか雨、しかし、西からの冷風が吹付け、鼻水タラタラ、足はガクガクさせながらもなんとか観戦いたしました。



 昨年までは四組での対抗戦、今年は三組ということで、私が中学生の頃の半分、少子化と叫ばれて久しいが、このような行事がなければ目に見えない、実感できないといいますか、もう少し社会情勢の変化にも気を回さなければ・・・・と思いましたが、私がこれからもう一人、二人、子供を作っても大勢に影響なしかな・・・・それよりもそんな余力はないかもしれない・・・・笑


 午後一番は・・・・女生徒全員による踊り・・・・。
「火の国太鼓と遠野音頭」


 昼食もそこそこに浴衣に着替えて、いざ出番・・・・。




 
 子供達に昼食を食べさせたら、午後は家の田植作業という知人も数人、この時期は農家にとっては忙しい時期でもありますが、先週から来週にかけては市内小中学校の大運動会が集中、しかもその翌週は町民運動会と続きます。




 別話題・・・・こちらが春の宴かな・・・。

 遠野の春の風物詩「瀬ざっこ」の話題をこの間、エントリーしましたが、遠野ぶれんどでざっこ食いを提案、ぶれんどとしての写真展企画の打ち合わせもしなければならず、兼ねての春の宴を親不孝にて開催いたしました。

 ぶれんど仲間8名の参加をいただきました。




 ざっこ食い(じゃっこ食い)が一応メイン、今が旬の瀬ざっこ(ウグイ)がいいのですが、瀬ざっこよりはヤマメが良いというお話しもチラホラ、そこで嫁様の知人にお願いして、ヤマメを確保いただきました。

 魚を受け取りに行くまで、生きていた新鮮なヤマメ、味見程度ですが、家族の分として3尾確保・・・・。残りはぶれんど秘密会合の場へ・・・・。




 何やら怪しい雰囲気、鈴木か穂積か・・・・超古代の謎解きか、はたまた二人だけの秘密会議の打ち合わせか・・・・笑・・・誤解なきよう、おそらく真面目なお話しだったと思います。



 一応、炉辺で海産物を焼いて食べるお店、ホタテとイカをオーダー、アルミホイルの魚は、ぶれんとの宝飯爺さんからいただいたナメタカレイ含みの三陸のカレイ・・・・ナメタは正月ですと数万円で取引される高級魚でもあります。


 じゃっこ食いは、川、海共に満喫といった雰囲気で、夜も更けた23時に解散、その後、魚がダメな私に気を遣っていただいたのか、焼肉と麺で〆・・・帰宅は25時近くとなりました。

 ご苦労様でした。


 写真企画展も大よその骨格が決定、間もなく、そうですね、来月初めには皆様にお知らせできる段階かと思います。

 その際は、どうぞご参加も含みで、色々とよろしく御願いします。
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花見は酔いどれ

2007-05-18 15:04:55 | その他
 本編サイト遠野松崎じぇんご弐「遠野の城館跡」に附馬牛町の大萩大館、小館を追加いたしました。

こちら


 本日は職場の花見会、花があるわけでもなし、また花となる女性が居るでもなし・・・。



本日もバスで遠野の町へ・・・・200円でした。



上組町で下車、親不孝を通って会場へ・・・



花見の定番、ジンギスカン・・・・本日はまるまんのジンギスカン・・・美味かった。





結局午後9時には帰るつもりが23時となってしまった。

明日は晴れれば末娘の運動会、そしてブレンドの懇親会、よろしくお願いします。
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幻の大沢松雲寺

2007-05-17 20:13:58 | 歴史・民俗
 晴れてもなかなか良いお天気が続かない、天気予報通り、雨に濡れた遠野となっております。

 さて、地元の古老達が語る寺屋敷、上駒木妻ノ神にその場所はあるという・・・ 今は亡き父親も、かつて古い寺があった場所で寺屋敷だったか寺沢だったか、そんな呼び方をしていたことを思い出す。

 松崎町の歴史や伝承を紹介する「まつざき歴史がたり」に寺屋敷と呼ばれていた場所に、松雲寺といわれる事績不明の寺が存在していたこと、また幻の村、大沢村があったことを記している。

 確かに、妻ノ神と広く呼ばれる地、その一部は大沢とも今も呼ばれているし、まつざき歴史語りで紹介されているとおり、かつては寺屋敷の松と称される古木も存在していたようだ。

 今から5年程前、この松雲寺の痕跡を求めて、車で牧道を探索、途中藪道に入ったり、それらしき雰囲気を探し求めたのですが、空振り・・・・。

 ただ、こんな山奥に似合わない角柱石といいますか、人的に加工された雰囲気の石を発見、さらにテーブルのように平たく、大きい板状の石も確認・・・石があったからどうだというわけではないが、かつての山道等の階段に使われていたのか、そんな想像をした記憶がございます。


 山中で発見した角石・・・今は何処にあったか忘れてしまい探し出せない・・・笑


 まつざき歴史語りには、阿曾沼時代の創建と書かれているが、なんの記録もなくその事績も不明という点では、これも致し方なし、さらに「まつざき歴史語り」が出される数年前に駒木地域に全戸配布された駒木地域の歴史、民俗、伝承等を記した「駒木」には、天台宗の寺院と記され、こちらも阿曾沼時代初頭の頃に存在していただろうという推測がされている形跡でもある。

 松雲寺という名が長らく伝えられている点、しかも「松雲」という文字までも・・・・・・。

 この妻ノ神には土淵の栃内、西内に通じる山道があり、海岸方面との交流もあったと伝えられる。
 そして寺跡とされる場所の上方には大沢不動があり、修験の場でもあったともいわれております。

 寺の門前にあったとされる集落、大沢村に関しては、その事績全てが皆無、不明でもある。




 話は余談となってしまうが、駒木という地域の歴史を語る上では、阿曾沼時代、その初期に代官宇夫方氏が最初に拠点を置いた地、すなわち阿曾沼時代の第一歩を築いた地と古老達は語り、私もこの考え方には一応賛同している。

 そして仮館の東北に建立されたであろう八幡社は遠野で最初の八幡社で、後に宮代の八幡社、そして遠野郷八幡宮へと繋がる遠野最古の八幡社であったこと、さらに愛宕社にいたっては、東に建立され、この愛宕社は我先祖が江戸期中期辺りには別当であった旨の記録も存在するという、現在は福泉寺境内にあり、一応私が別当となっている。

 また、加茂神社も実は当初は駒木にあって、阿曾沼氏が横田城を築いて本格的に遠野統治に乗り出した頃に現在の地、白岩に遷宮したものともいわれる。

 このことから阿曾沼時代初期における何かしらの関わりが駒木という地域にあったことを伺わせ、古老達が目を輝かせて語りますが、史実は置いておいても、浪漫といいますか、興味を感じる地域が駒木であること、今さらながらも気付いた自分がそこに居ります。
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