「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

小友町裸参り 2016

2016-02-28 17:11:59 | 遠野

 今年で3度目の見学というか取材?となる遠野郷の奇祭「小友町裸参り」に出かけて来ました。

毎年、2月最終の土曜日に開催、弥生3月間近とはいえ氷点下の世界、裸参りに参加する人は上半身裸なので寒いのは当然、厚着で観ている人でさえ、鼻水をすすりながらという感じです。

 

今年で3度目と記してますが、最低3年は通おうと思っての事、そして今年もオヤジ同級生4人組で無料専用バスで出かけました・・・(;^_^A

 

巌龍神社と小友の町外れの石碑までの真っ直ぐな通りを3往復、午後6時半過ぎに神社に行列が到着、いよいよ裸参りの始まりである。

 

 

遠野市無形民俗文化財指定、遠野遺産認定

 

関係する皆さんの努力で参加者はなんとか確保できている印象もギャラリーは少なくなっているような・・・

あまり観客やカメラマンが増えても困るけど、もう少し盛り上がりも必要かな、と勝手な思いも・・・(^^ゞ

 

 

 

 

祈願のための手に持つ灯篭は・・・

「家内安全、五穀豊穣、火災防止、交通安全、学業成就」そして今年は岩手国体開催の年ということで「国体成功」

 

 

 

 

氷点下の世界だったと思うけど昔に比べれば随分と暖かくなったという地元の皆さまの弁

でも終わる頃には雪もチラついてきて、まだまだ季節は冬なんだな・・・と思うシチュエーションでもありました。

 

 

 

ここ小友の町は宿場町の雰囲気が色濃く残る場所・・・

その昔、産金で賑わいがあったと云われているが小友の宿場町を望む山野に奥友舘とも小友舘とも云い伝えられる山城が残されている。

阿曽沼時代後半、舘主を本姓菊池と称する小友喜左衛門が居たと云われており、遠野地方が阿曽沼氏から南部利直の手に移り、世は徳川時代への変革の時代、大坂の豊臣氏を攻める大阪の陣が勃発し、その大阪冬の陣(慶長19年(1614))、徳川方として出陣した南部利直勢の中に総勢152人の遠野の武士達がいたことが記録されており、その中に小友喜左衛門15人とある。

興味ある歴史が語られる小友町、奇祭裸参りのみならず、郷土芸能も数多く残される地でもあり、今後目が離せないことでもあります。

 

 

午後7時半過ぎ、乗って来たバスが遠野駅に出発ということで皆で乗車、少し遅めとはなりましたが姫猫さんが予約した駅前の居酒屋に滑り込み、同級生4人(笛吹さん、姫猫さん、菊しんさん、小生)さらには仙台から参加の24地割さんご夫妻、そして某フォトコンに複数入選されました遠野おぢさん大先生の7名で打ち上げとなりました。

 

どんどはれ

 

 

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松崎ひなまつり

2016-02-24 20:21:27 | 遠野

 毎年恒例、地元松崎町で開催されている「松崎町ひなまつり」も第8回目

松崎町第7区のふきのとうの会が中心となり、つるし雛をメインに展示されております。

場所は松崎地区センター・・・遠野市総合福祉センターとなります。

 

遠野市に関連あるテーマが中心

圧巻・・・遠野郷しし踊りの数々

 

こちらは初登場かな?

宮守町の下郷さんさ

 

けっこう、リアルというか忠実に表現されており、今にでも笛太鼓のお囃子が聴こえ、舞手が躍動する姿が見えてくるような・・・。

 

ところ狭しと色々と飾れており、今までの作品も含めて最高潮という雰囲気

 

かなりの皆様のご訪問を受け、過去最高の人出とか?

確かに素晴らしい作品の数々という印象・・・

3月3日までの展示となります、遠野市街地では「町家のひなまつり」も開催中ですが、こちらも是非にご覧願えればと思います。

 

 

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菊池市、西米良村歓迎交流会(平成27年度)

2016-02-22 19:54:37 | 菊池氏

 平成27年度

熊本県菊池市民交流団9名、宮崎県西米良村民交流団6名、熊本県菊池市区長協議会11名

計26名の皆さまの訪問を受け、その歓迎交流会に参加いたしました。

菊池市と西米良村からの市村民訪問団は毎年、遠野物語ファンタジーが開催される時季に訪問を受けております。

 

昨年は飛行機の欠航があってこちらでの訪問日程の変更があったり、冬の時期としては雨降りに見舞われたりと、お迎えする側としても少し心残りがありましたが、今年はなんとか飛行機も予定どおりということ、雨も降って少し暖かい気候でもありましたが無事に予定の日程もこなされての最後の晩、歓迎交流会の場となったようです。

迎える側としては、過去に菊池市及び西米良村への遠野市民交流団として参加された方、その方々で結成されている「遠野ときめら会」のメンバーを中心に歓迎となりました。

小生も一昨年(2014)、菊池市に於いて開催された「菊池一族の心ここに集う」菊池一族シンポジウム、西米良村での菊池祭に参加いたしました。

菊池市そして西米良村では熱烈な歓迎を受け、思い出深い訪問であったことが印象に残っております。

 

 

九州からの銘酒、そして遠野のお酒各種

特に山葡萄ワインと濁酒はあっという間に無くなってしまいましたし、遠野でもお馴染みの宮崎の芋焼酎「霧島」シリーズ、白と黒、さらに西米良村では定番の米焼酎、白岳とラインナップも揃って美味しい晩となりました・・・(^^ゞ

 

引率の綺麗な彼女に乾杯・・・(;^ω^)

 

改めて乾杯・・・

 

楽しい時間はあっという間・・・!

 

当然、二次会へも移動・・・

でも早めに退散いたしました。

リベンジは来年の歓迎交流会で晴らしたいと思います・・・笑

 

菊池市、西米良村の皆さま、お疲れ様でした。

またのお越しをお待ちしております。

 

 

 

修理に出したカメラが戻ってきた

リコールのような内容、無償修繕かも?と期待してサービスに出したが対象外とのこと・・・

数千円足せばひとつ新しい同機種も買えたかも・・・

でも、長年使用し、手に馴染んでもいるのでこれで良かったかも・・・

もう少しサブ機として活躍させてもらうことにいたしました。

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平田の戦い 

2016-02-17 06:17:04 | 歴史・民俗

 約15年前か?、当時、宮守村の出先に勤務していた時のこと、職場の研修の一環で郷土史関連の講義を受けたことがある。

その際の講師先生は当時、遠野物語研究所の研究員の方で鱒沢在住のТさん、60代半ばで宮守村関連の歴史と上鱒沢の鞍迫観音(白山神社)について語られたと記憶しております。

内容に興味を示していたのは小生ひとり・・・汗・・・何故に郷土史のような研修内容になったかは不明ですが、小生にとってはまさに楽しい一時でもありました。

 

講義も終わり質疑の時間、自分としても郷土史は好きというより得意分野と自負していたので、意気揚々で鱒沢氏のことを聞いたのですが、Тさんはカバンからハガキ大の薄い冊子を取り出して小生に進呈しますとのこと・・・。

 

資料の内容は、鱒沢館主で鱒沢左馬之助広勝没後4百年法要を鱒沢館跡麓の長泉寺で地元民よって執り行ったとの内容が記されていたものでした。

(長泉寺は鱒沢氏によって開基された寺院)

(そのいただいた冊子も大事に取っているはずですが資料に紛れて何処にあるのか行方不明・・・探し出せず・・・汗)

 

Тさんから語られた鱒沢左馬之助の最後、小生を試すかのように、その最後の場所について何かご存知ですか?の問い・・・。

おざなりですが語られる定説ということで釜石平田の戦いで討ち死にでは・・・と普通に、至極当然という気持ちで答えたのですが・・・(^^ゞ

 

Т氏から語られた内容は釜石ではなく気仙の平田・・・釜石は平田(へいた)ですが気仙は平田(ひらた)、その気仙の平田(ひらた)は住田町下有住の平田(ひらた)で、なので長らく云われてきた平田(へいた)の戦いは平田(ひらた)の戦いであるのは史実かと思います・・・とのこと。

当初、このじいさん何を仰せかと理解に少し苦しみましたが、釜石の平田ではなく合戦は住田の平田という場所で行われ、そこで鱒沢左馬之助は討ち死にしたということが理解できました。

Т氏は詳細は自身でお確かめ下さいとのこと・・・おそらく現地に出向いて調べればそれなりに何かしら掴むこともあるでしょう・・・とのこと。

 

まさに目から鱗・・・まっ大袈裟でしたが、それまでは遠野阿曽沼時代の歴史とかは遠野市史や阿曽沼興廃記等の資料、遠野内での内容のみでしたので自分の浅学、自己流というか思い込み優先での考察等、中でも机上での事が主だったので反省しきりでした。

 

ということで前置きが長くなりましたが・・・

その後、現地を訪ね、なんとか平田砦跡を探し出し、現地での伝承さらに地元の自治体史での記述からも平田の戦いとは気仙郡平田(ひらた)の戦い、平田合戦と確認した次第でもありました。

 

平田砦(外根岸館)跡

説明版が真新しくなっていた。

 

 

8年前に城館跡探訪ということで八戸在の同好の士、当時はТ九郎さんと名乗っておりましたが、その方と調査した経緯がありましたが、分け入った山野にこれといった遺構は確認できずでしたが、直線で1キロちょっと東側に位置する上有住城跡も訪ね、こちらの出城、支城という位置付であろうという伝承に納得というところでもありました。

 

久々にその看板の地をチラッとのぞいてみて、過去にも何度かブログで取り上げてはおりますが・・・

平田合戦とは・・・

 

慶長5年(1600)、遠野盟主であった遠野孫三郎(阿曽沼広長)は太守南部利直(三戸南部氏、後の盛岡南部氏)に従って遠野勢を率いて最上(山形)へ出陣する。

中央では徳川家康旗下の東軍と石田三成率いる西軍が激突する関ケ原の戦いが開戦しようとする情勢、東北地方では石田方の上杉景勝(会津)と東軍に属する最上義光(山形)が対峙、最上氏への応援に伊逹氏や南部氏といった奥羽諸氏が最上に出陣する。

遠野の阿曽沼広長が最上に出陣中に遠野の留守を預かった一族の鱒沢左馬之助広勝、広長の弟とも叔父とも語られる(おそらく叔父)の上野右近広吉、小友長野地方を領する平清水駿河景頼によるクーデターが勃発、遠野は鱒沢氏等の手に落ち、最上から帰陣する広長勢は遠野へ入ることができず、部隊を解散して自身は僅かな側近と共に妻の実家、舅の世田米城主、世田米修理広久の許に亡命したとされる。

このクーデターは南部利直の意に沿って行われたとも云われ遠野は完全に南部氏の勢力下に入ったと云われる。

 

 

慶長6年(1601)3月、気仙世田米に落ちた阿曽沼広長は、仙台の伊達政宗の後援を取りつけ、気仙勢を引き連れ遠野奪回のための軍を起こすと噂が立っていた。

気仙郡の浜田喜六(上有住城主)、笹木丹波(竹駒城主)、横田大学(横田城主)、紺野美作(下有住外館城主)、只野民部(越喜来城主)が加担、総大将は阿曽沼広長、旗頭が世田米修理広久、案内役で部隊長は浜田喜六の陣容であったという。

 

南部氏から遠野の盟主として認められた鱒沢広勝は、気仙の情勢を聞き及び、気仙勢の機先を制すべく・・・「気仙郡の境、平田といふ所え攻入、村々の在家へ火を付、鐘、太鼓を打鳴らし、鬨を作りて押し入りけり」(阿曽沼興廃記)

 

 上有住城跡(住田八日町)

 

ちょっと古いですが上有住城跡レポ

 

鱒沢広勝率いる遠野勢は蕨峠から気仙に侵入・・・

今も当時も遠野中心部から気仙に抜けるには最も近距離のルート、戦禍に見舞われた平沢、新切集落は蕨峠麓の気仙側の集落であり、遠野勢がこの方面から攻入ったのは、ほぼ間違いないだろう・・・。

遠野勢は新切川沿いに下有住方面へ進軍、東部の平田砦へ兵力を集中させたことにより、平田砦の攻防戦が熾烈を極め、本城たる上有住城から浜田喜六が手勢を率いて迎撃にでるも伝承では鱒沢広勝の郎党、上台兄弟により落馬させられ、首を討たれたとされる。

 

地理的に平田砦の西方、約1キロか?現在は万福寺という寺院がありますが、その山野には外館城跡があり、当時の城主は紺野美作、紺野氏は遠野奪回軍の気仙勢の将でもある。

当然、異変を察知した外館城からも迎撃勢が出撃したと推測され、新切、根岸、十文字といった比較的狭い地域で戦闘が行われたという印象でもあり、遠野勢が下有住という限定された地域のみに押し込まれ、気仙勢に対して機先を制すといった目的は浜田喜六を討ったことと戦禍に見舞われた集落が焼け討ちされたという恐怖を植え付けたのみか?

しかし・・・

同年秋に遠野奪還に燃える阿曽沼広長率いる気仙勢は赤羽根峠を越え上郷平倉地域に攻入っているが、半年近く待たなければならないほど準備等に時が必要であったことが伺える。

 

赤羽根峠(上郷町)の戦い 1601年秋

樺坂峠(小友町)の戦い 1601年11月

と、平田の戦いと合せて3度の戦いが遠野勢と気仙勢の間に繰り広げられることになります。

 

 

世田米からの援軍も駆けつけ平田の戦いでの遠野勢は、しだいに劣勢となり地理不案内もあって気仙勢の反撃に合い、鱒沢左馬之助広勝、上台兄弟、従者の兵共に深沢に転げ落ちたところを気仙勢の鉄砲隊の餌食になって討たれたとある。

いずれ後の遠野関連の史料に鱒沢広勝の名は出てこないので、この戦いで戦死したのは史実なのかもしれませんね。

 

遠野市史には、この平田の戦いに関して釜石平田での戦いであろうと記しているが、ここ10数年か?気仙郡側の考察から先に記したように気仙郡平田(ひらた)の戦いであるとの指摘がされており、おそらく史実であろうと思われます。

遠野市でもいよいよ約40年ぶり?に遠野市史が編纂され、現代編からはじまり通史編での中世の阿曽沼時代関連は10年後位の刊行か?

阿曽沼時代に関しての見解、考察がどのように記されるのか、たいへん興味を覚えるものでもあります。

遠野周辺の伝承も含み各地域の史料も数多く検証され編さん作業に活かされることを期待したいと思います。

 

 

話変わって・・・

折角、住田町まで出かけたということで少しだけ足を延ばして五葉温泉まで・・・

 

実は今年初となる天然温泉でもありました。

地元たかむろ水光園とか釜石のシーガリアマリンホテルの日帰り入浴は何度か行ってますが、温泉は内陸ではなく沿岸方面の温泉とは、例年の自分の行動とはだいぶ違う方向となっております。

久々の温泉、短時間ではありましたが堪能いたしました?

でも、けっこう混んでいて本音はゆっくりできませんでした・・・(;^_^A

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氷筍再び 2016

2016-02-12 19:10:34 | 遠野

 1月中旬に続いて早瀬観音・・・仙人観音屈の氷筍の「おがりぐえ」(成長具合)を観て参りました。

 

1月中旬は、例年に比べて成長具合がイマイチ・・・

確かに毎年、氷筍のレポをしてますがいつもの年に比べれば小さく、まだまだ早いという状態でしたが、その後、降雪もあったり氷点下二桁連発の遠野らしい寒い日もあって、それなりに「おがってら」と確信してのこと・・・。

 

この日の先行者はひとり・・・

といっても既に観察も終わり途中のしぶき氷撮りをしていた車が一台ということで、その時間帯は小生ひとりのみ・・・

トレースは10名前後か?

積雪は20センチはあると思いますが、トレースというか足跡がそのまま固まって歩き難いのなんの・・・(^^;)

 

サメの歯みたいに垂れ下がる氷柱は皆無・・・

まっ、例年、この時季ならほとんど落下してますがね。

 

まずは、足元を気にしながら最初の場所へ・・・

50~60センチというところか・・・

 

 

その上の石壁の棚は・・・

例年より「おがってねぇ」雰囲気、そして数も少な目・・・

 

自然のことなので、これも致し方なし・・・

 

 

続いて、第2の場所へ移動

 

こちらはさらに数は少ないですが見事な出来・・・

 

途中のモノも・・・

 

岩手では久慈市(旧山形村)の内間木洞の氷筍はあまりにも有名、さらに規模も違いますし、遠野のは子供騙しみたいな内容ではありますが、主要道から僅か200mほど・・・手軽に自然の神秘を体験できるということでは負けてはいない・・・。

無論、立入禁止等の規制もありません。

 

ただ、地元の写真愛好者や古くからこのことを知っている方々が静かに守ってきた経緯があり、その点はご理解のうえ、静に見守って欲しい、このことに尽きます。

ブロガーたる小生がこうしてネタに・・・と批判もあるかもしれませんが、皆さんに知って欲しいですし、しかし、マナーを守りつつ静かに楽しんで欲しい・・・それだけです。

 

もう1週間から10日は、さらに成長しそうな雰囲気もしますが当方の今季のレポはこれでラストとなります。

 

 

携帯電話もほぼ普及の現代ですが・・・

また専用道路も別場所に開通、こちらの旧道の交通量も超激減

でもこうして公衆電話は健在・・・。

この電話が使われないことを祈るのみ・・・ですね。

 

トンネルと峠道を経由して遠野へ帰って参りましたが・・・

釜石のマッターホルンと個人的に思う・・・

片羽山・・・

真冬だとマッターホルンには確かにみえませんね・・・

(^^;)

観る(撮る)角度でも違いますしね・・・笑

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久々の遠野ジンギスカン

2016-02-10 19:47:39 | 遠野

 久々のジンギスカン、しかも街場の専門店にて・・・

2月の某日、某団体の懇親会があってその中身はジンギスカン

 

成吉思汗、じんぎすかん・・・

 

場所は一日市の・・・

これまた・・・

「じんぎす館」というお店・・・。

遠野ジンギスカンの名店のひとつ、まるまん精肉店のジンギスカンということになります。

 

 

ジンギスカンは自宅で昨年の暮れ以来・・・

家では電気のホットプレートでのジンギスカン、娘達が帰省した際に食べましたが、電気だと食べた気がしないというか、なんか焼くというより煮て食べている感じがして美味さ半減という思いがします。

夏とかであれば屋外で炭火と専用鍋でのジンギスカンとなりますが冬は寒くて屋外では無理、家の中では匂いもきつく油跳ねもあって敬遠しがちなので、これも致し方なし・・・

こうして街場のお店で食べるの冬場はいい感じというところです。

 

 

生には最高・・・

 

無論、ハイボールにも最高

 

 

 

街場、そして専用鍋でのジンギスカンは久々、秋以来か?

 

遠野での名物のひとつに数えられるジンギスカン・・・

今や市内のスーパーでも買える手軽さもありますが、実は専用のお店として食べれる場所は数件のみ・・・それほど多くはないのが現状です。

でも本場、北海道に負けない消費量、そして美味い・・・

遠野市民にとってのソウルフードはジンギスカン、これが一番だと思います。

 

たいへん美味しゅうございました、そして効きました

(;^_^A

 

 

その晩・・・

4年ほど愛用したコンデジが・・・

レンズが出たまま戻らない・・・

 

数枚は撮れるもロックした状態・・・

揚句は・・・

C社のコンデジとしては評判の良いカメラ、使い勝手も良くて気に入っていたので残念という感じ・・・。

万単位での修理費なら新しく買った方が良いのかな?

と、思案中・・・

 

来年夏には四角の2を狙っているだけに途中の出費は痛いですねぇ・・・(^^ゞ

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立春も過ぎ・・・

2016-02-07 17:46:15 | 遠野

 1月もあっという間に過ぎ、2月も1週間経過・・・!

六角牛山

(松崎 大柳橋付近から)

 

暦の上では春、しかし旧暦ではお正月ということで、むしろ今が冬真っ只中というところ。

雪もほどほど積もっているし、朝も氷点下二桁や日中も氷点下の世界、本来の遠野の冬という感じではあります。

 

そんな日曜の昼下がり、またまた久々ではありますが、いつもの散策コース、雪上の境内を長靴履いて歩いて参りました。

先月中旬、湿った雪が木々に積り、ようやく融けたというか落雪した雰囲気、その名残が少し見られます。

 

また・・・

その大雪の悪戯・・・

桜の木枝が雪の重みで至る所で折れて、ご覧のとおり・・・

桜の名所の福泉寺ではありますが古木が多く枝ももろく・・・桜の季節がたいへん心配されます。

 

 

その桜の前、春を呼ぶ行事

桜の季節には、まだまだ遠いですが・・・

日曜日ということで吾輩も受付の任の予定

お寺さんの行事としては500名以上の檀信徒さんが訪れるビックイベントとなります。

 

春の息吹も少しずつ

 

一旦、帰宅すると車に乗り換えて近場を廻ってみる

遠野の馬の里

天ヶ森が間近

 

一周約1千メートルの走路

ちょっとした競馬というかレースができそうな施設完備ですが積雪の季節はクローズ。

クロスカントリースキーとかスノーモービルとか冬のイベントなんかできそうな感じですね。

 

 

 

クラブハウス

クラブハウスと繋がっている、かつての宿泊棟

記憶は定かではないですが、数年前まで観光客等に宿として提供していたような・・・

今は休業状態ですが、少し手を加えれば、まだまだ使えるもったいない施設かな?

 

つらら

 

つららの場所は・・・

屋根付き坂路馬場

約700mの屋根付き馬場

雨や雪の日でも大丈夫といことで、これは素晴らしい施設ですね。

 

子供の頃は草地と畑が広がる牧歌的な風景で「遠野馬の里」が出来る土壌、環境は十分備わっていた印象です。

「駒木」という地名からも馬関連施設は相応しいと思います。

一般向けの乗馬体験や乗馬教室もやっていたような?

詳しくは遠野馬の里HPでご確認願います。

 

 

鳥っこ

 

シジュウカラかな?

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懐かしの遠野ラーメン事情 追憶編

2016-02-05 21:58:06 | グルメ食べ物等

 ブログでけっこうラーメン食べたとか冷麺食べたとアップしているので、拙ブログをご覧の皆さんの中には、「とらねこは毎日麺類喰ってらっけ」と仰せの方々も少なくない・・・。

でも食べても週一回程度、小生に比べたら大天狗さんの方が断然多いですし、たまたま外食した際に定食とか麺以外のメニューを食べてないだけなんです。

チョイスしたのがラーメンという具合なんですがねぇ・・・笑

 

懐かしの遠野駅前、遠野農協ビル

 

上の写真の中央辺り、緑の庇があるお店

 

逆側・・・(穀町方面)

 

緑の庇のあるお店、小生が小学生当時はバスチケットの売り場、そしてたばこ屋さん、お菓子等置いてあって奥には食堂もありました。

バス停は「勇町(いさみちょう)」

かつての遠野の豪商の名にちなんでつけられた地名とか・・・。

 

小学生の頃、同級生数人で遠野の町に床屋さんに来て、勇町でバスに乗って帰ることに・・・。

バスの切符を買い、商店なのでガムかチョコを買ったと思う、友達のひとりが「腹減った、中華そばでも喰うが」の声、小生以外は同調して皆で食べることに・・・。

私は遠慮して外のベンチに独り座って皆を待つ・・・

悲しかった・・・食べたかった・・・涙

 

食べ終わった皆がワザとなのか・・・

「あっ~・・・うんめがったじぇ」を連呼・・・涙

 

母親からバス代の往復と床屋賃、ちょっとしたお菓子が買える程度のお金を貰って来たがラーメンまで食べれるお金は持ち合わせていなかった・・・涙

(当時は中華そば一杯120円くらいか?)

追い打ちをかけるように一人が「〇〇、金ねがったべぇ」と馬鹿にされ・・・

確かに家は零細兼業農家、貧乏ではありましたがね・・・。

 

帰りのバスの中で、いつか勇町でラーメン喰ってやると心に誓ったのでした・・・(^_^;)

 

そんな苦い思い出もありましたが、子供頃はラーメンとカレーライスは一番のご馳走、これらを食べれるというのがステータスみたいな時代に育ってましたので、例えインスタントラーメンであっても大ご馳走でもありました。

ましてや町の食堂で食べるラーメン、すなわち当時は親父世代は「支那そば」と言っていたし「、中華そば」とも言っていた・・・。

これは最高の贅沢で年に1度か2度あるかないか・・・

 

冬休みに東映まんが祭りがあって、この時に幼馴染達と映画を観て親に握ってもらったおにぎりと一緒に中華そばを食べる、これが最高の贅沢で楽しみでもありました。

数える程度しか入ったことないけど遠野駅前の三楽食堂さんが定番でした。

他に一日市の佐々徳さんとか・・・

 

中学生、高校生となるとシンプルな中華そばではなく味噌ラーメンとか別なラーメンメニューが好きになっていく・・・

 

五右衛門ラーメン

 

画像は元遠野病院(とぴあ)にあって現在は土淵の谷地に店を構えている喜楽さんの五右衛門ラーメン

遠野人にとっての人気麺の筆頭かな?

 

北京亭もあったし上海、北海屋が懐かしいです、さらに北京飯店は現役です。

 

こちらはラーメンというよりカレー名店と思うけど・・・「うめのや」さん

一頃、緑色した麺の遠野ラーメンというがありましたが最近はほとんどみかけませんね。

画像は7~8年前?です。

 

 

時は移り・・・(;^_^A

ブログをはじめた頃、昔懐かしい醤油味のラーメン、シンプルなラーメンが好きになりましたが、その頃から遠野東西の横綱と個人的に思っていた名店ふたつ

 

東の横綱

塩ラーメンのような醤油ラーメン

何処か甘さも感じ、昔懐かしい中華そばとの感覚とも違う優しく美味い味わい

けっこう癖になりました。

 

今は閉店してしまいましたが・・・

上郷の名店

 

いや~・・・今でも食べたいラーメンのひとつです。

 

そして西の横綱は・・・

こちらもシンプルそのもの・・・

しかし、初めて食べた時は感動したというか、やはり優しく甘みもある美味しいラーメンでもありました。

当時は中年オヤジではなく、まだ20代後半でしたが、このラーメンは何度ても食べたいと正直思っていて、夜勤での夕食でも何度か出前を頼んでます・・・というか出前が出来ないので取りに行ってました・・・笑

宮守は粡町の「たものき屋」さん

当時は宮守村でしたが地元消防団の皆さんが会合帰りに利用してました。

 

画像は平成20年前後か?

懐かしくて食べに行ったのですが、上郷の姫屋とほぼ同じ出汁の味、ラーメン博士でも評論家でもないですが、美味いラーメンは似た感じになるのか?と実は驚いきました。

 

ご年配の女性一人で切盛りされていて、数年前に閉店されております。

 

残念・・・。

 

宮守にはもう一店、良い味のお店があります。

達曽部にある「よねた屋」さん

こちらも美味いです。

 

 

遠野バイパスの老舗

今は「ばんがり」に統合されてますが、シンプルラーメンもいけます。

人気は辛め系かな?

 

 

最近は・・・

数年前から釜石ラーメンにはまってます。

 

当初は・・・

 

画像は半チャーハンとのセット

昇華 平田店

 

嵌ると頻繁ではないですが馬鹿のひとつ覚えみたいに通うタイプ・・・(^^ゞ

 

1年くらい前から日曜日に何度か行くも休み、数回行っても休みだったので定休日は月曜から日曜に変わったものとばかりと思ってまして、最近土曜日に用足しついでに出かけてみますと・・・久々・・・というところ。

でも定休日は月曜日のようです・・・?

 

 

でもここ最近、個人的には一番マッチしているラーメンとくれば・・・

工藤精肉店(工藤食堂)の釜石ラーメン

 

遠野東西の名店に近い味で懐かしさもあるけど・・・

でも美味い・・・

あくまでも個人的感想です。(個々によって味覚も違うと思うし・・・)

 

何度も言いますが小生はラーメン好きではありますが毎日、ラーメンを食べてはおりません、多い時で週1程度です・・・笑

あっ・・・(-_-;)・・・飲み会なんかで親不孝の「つるや」さんや駅前の「さがみ」さんで食べることもありますので週2かな?

 

誰です・・・

「カツ丼だっけだら・・・」と言う人は・・・・・(;^_^A

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遠野の菊池姓探究 壱 遠野士族名簿から

2016-02-01 19:29:42 | 遠野の菊池姓探究シリーズ

 菊池一族の岩手流入、そして遠野への移住については九州は肥後の国(熊本)からの菊池氏落人説が一般的ですが、はっきりいってこれといった文献の存在があるわけでもなく、一部、ほんの僅かに旧家に残された系図とその地域で語られる言い伝えのみという現実でもある。

この乏しい内容からではあるが、識者や研究者により調査もある程度行われ、大方の説等は出尽くした感じさえもします。

そんな状況ではありますが、あえて今一度、じっくりと私なりに調べてみたい、精度は低いかもしれませんが、時間はかかるかもしれませんがシリーズとして今現代に近い時代から遡る方式であれこれ考えてみたいと思います。

 

第1回目は江戸期、(南部藩)盛岡南部家の家臣で遠野地方を知行していた遠野南部家(約1万2千5百石)の家臣団、明治維新後に遠野士族となり、その士族名簿から少し考えてみたいと思います。

遠野士族名簿(コピー)から

 

遠野南部家家臣は所謂陪臣(ばいしん)、盛岡南部家の家臣が遠野南部氏であり、その家臣は盛岡の家臣ではなく遠野南部家の家臣ということで陪臣となります。

陪臣たる遠野の武士達は明治維新の後、奉還禄公債ももらえず、それどころか当時唯一の名誉でもある士族にもなれずでしたが、明治30年(1897)遠野南部家当主の南部行義が男爵となり華族に列せられたことから遠野の旧臣達による嘆願で士族となることができた。

これにより明治33年(1900)遠野士族名簿が編纂されたとある。

 

〇菊池姓家臣は下級家士 

さて、肝心な菊池姓であるが、遠野士族名簿等によると240名の士族中、菊池姓は25名となっている。

全体の1割強が菊池姓、これが多いか少ないかといえば、やはり多いというべきと思います。

菊池の次に多い姓は小笠原姓14名

次に多いのが工藤姓と松田姓それぞれ10名

 

ということは、江戸期から菊池姓の家臣がけっこう居たということになります。

ただし、菊池氏の家々は、ほとんど下級家臣ばかり、30石と20石の遠野でいえば中士クラスが4家のみ、17石が1家、10石が2家で、後は5石以下の家々となります。

ですから内職やら百姓もしながらで生計を維持していただろうと推測されます。

明治の新姓で遠野では、おそらく一気に菊池姓を名乗ったこと、そして広がったことは間違いないのですが、その地域に君臨した菊池姓の武家が存在したという形跡も無く、また肝煎りというべき菊池姓縁の庄屋クラスの家々も数多く存在したということもない雰囲気でもある。

 

ただ、菊池姓そのものを名乗る家々のみならず旧姓を菊池と称する家々の存在の実はあるようで、例えば駒木氏・・・遠野南部家家臣でも駒木氏は6家確認できる。

このことは続編というか江戸期関係の章でご紹介したいと思います。

 

 

遠野の菊池姓は

遠野市小友町

遠野市青笹町

遠野市上郷町

上記の3地域が特に繁華な地でもある、今回の遠野士族名簿では明らかにならなかった感じはいたしますが、その士族達の旧知行地或は出身地、縁のある地域等を調べられれば、何かしら得るものもありそうです。

 

遠野士族、240名と記しましたが最終的には400名近い内容となっております。

中には肝煎りや商人といった遠野南部家に献金等を行い名字帯刀を許されたり俸禄をいただいた家々、人々もあり、この中にも菊池姓関連があるものと推察されます。

ですからこの時代でも菊池姓は遠野に関わりがあり深かったという結論に至るものと私は考えております。

 

参考図書  遠野市史1~4  遠野士族名簿   遠野南部家物語・新遠野物語(吉田政吉)

 

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