「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

西之宮(矢崎神明神社)

2007-02-28 17:30:45 | 歴史・民俗
 相互リンクいただく、遠野発信ブログ「遠野なんだり、かんだり」様の影響ではございませんが、当方としても住まいする地域の社、祠等は少ないながらもご紹介したいと思い、エントリーいたしました。


神明神社・・松崎町松崎(矢崎)

 

 正徳3年(1713) 祭神 天照皇大神

 矢崎鈴木氏の先祖は法師であったと伝えられ、鈴木家先祖が矢崎西之宮から遷し祀ったといわれている。

 棟札
 6、7枚現存するそうですが、判読できないものもあるとのこと。

○ 正徳三年発巳 ○ 正徳三年発巳 中御門天皇
○ 宝暦四年申戌中秋詳日 妙泉寺   
○ 宝暦四年申戌中秋吉祥日 妙泉寺 桃園天皇
○ 鈴木六良衛 文久三年癸亥九月十九日 長右エ門 
   権大僧都正一僧祈喜楽院剛完
○ 大正八年九月 遷宮

 ここでも「遠野なんだり、かんだり」様のところの数々のエントリーで登場の喜楽院の名が・・・・。


 西之宮

 昔は神明神社を西之宮と矢崎の人々は呼んでいたそうですが、その来歴は不明としながらも、一説には、阿曽沼時代、代官宇夫方氏が当初居た阿曽沼館の東西南北の守りとして、西の地、すなわち矢崎に宮を配したものと伝えられる。
(東は愛宕神社(現福泉寺)・北は八幡神社(現稲荷社)・南、不明)

 阿曾沼氏が横田城を築いた折、或いは宇夫方氏が谷地館を築いて移動した際に廃止されていたものを、後に鈴木氏が復興して今の社となったものとされている。

 勧進された当初は、現在の矢崎公葬墓地前(附馬牛町安居台への山道)に配置されたらしいが、度々遷され、いつしか母也明神と合祀して、現在の山野に遷し神明社として御祀りしていた。

 昭和56年、母也明神を巫女塚の場所に新築遷座して、神明社は現在に至っている。



 矢崎神明神社縁の鈴木氏、なにやら物部氏関連に詳しい方々には、なんともいえない鈴木姓、穂積につながりそして・・・・?。

 この矢崎地区は鳥屋部姓と海老子川姓がそれぞれ半数ずつ、両姓で集落の9割以上を占める地域柄、その中での鈴木姓、これは、もしや・・・・笑






 おまけ・・・・

 おまけとしながらも2月28日は結婚記念日、そして満20年の節目でもあります・・・・汗

 独身でおられる方々には、目障りなエントリーかもしれませんが、実は独身の方々に対しては、うらやましいと思うことしばしば・・・なんとも複雑な心境です。
 
 10年の節目の年には新婚旅行で訪れた香港再訪とか、20年では西欧旅行とか、色々と当初は思いもありましたが、未だ実現もしておりませんし、その気もないに等しい・・・汗・・・。

 今はただ、長女のチャランポランさに振り回され、長男の高校受験をやきもきしながら見守り、しかも毎日PCは開き放し、歴史史料やら書籍を広げて「あ~でもない、こ~でもないと」と独り言をつぶやくオヤジとなっている有様・・・。

 昨年夏までは白髪も無かったが、ここにきて一気に白髪が増えだしている・・・オレも職場では「ワゲスタズ」と未だに上司に言われるが、実はオヤジなんだよな・・・といつも思っております。

 結婚20年の節目、楽しいこともあるけど、辛いことも実は多いと感じているのが現実です。



 結婚当時の写真を見てみましたが、自分も山の神さんも若かったなあ~・・・。
コメント (21)
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伝承の館・駒木館

2007-02-27 18:58:41 | 歴史・民俗
「伝承の館・駒木館と駒木氏」

 私の住む遠野市松崎町駒木、この駒木地区にも館跡と称する史跡が残されていること、特に駒木館を知ったのは、ここ10年に至っていない。
 
 地元郷土史小冊子に掲載の内容では、7段からなる平場が展開し、南の八幡沢館よりも立派であると記載されていたが、併せて地元でもほとんどの人がその存在を知らないとも書かれていたことを思い出します。

 これは、見つけなければ・・・・、林道を行けば見つかるだろうとタカを括っていたが、これがなかなか見つからない、余程小冊子の著者や郷土史に詳しい古老の教授を受けようとも思いましたが、ちょうど城館跡探訪の面白さが分り始めた頃でもあり、是非に自分の力で・・・・そんな思いが強いものでした。


 主郭背部の土塁跡

 林道となっている部分は、かつて空掘跡を道とした雰囲気がある。


 高楢山テレビ中継塔への道、悪路が待ち受けており、乗用車では侵入不可、ベストはバイク、車なら軽のジープタイプ、軽トラック、或いは小型ボディの普通車ならなんとかなるだろう・・・しかし、四輪駆動車が条件だろう・・・。


 駆け下る空堀


 二重の竪堀跡


 
 概略図


 今回で4度目の探訪、地元としては少ないかもしれない。
 今回の探訪で、西側の突端に4重の空掘跡を発見、他の館なら段状の平場を数段配置しているが空掘によって峰を断ち切る遺構を見、驚きが隠せなかった。

 今回は館域東西南北のあらゆる方向を探訪、なんとか図面を書くことができました。

 いずれ、ここもすばらしい館跡、これらが知らず知らずに消えていくことだけはなんとか避けたいものと思いました。


 帯郭



 伝承の館・駒木館

 伝承の館とされるが、なんの伝承があるのかは不明。
 先人郷土史家によれば、安倍時代の築と考察がなされているが、ここもどう見ても戦国的な館跡という印象でもある。

 館主は駒木氏と語られますが、八幡沢館に居た菊池姓駒木氏との関係も不明といったところです。

 ただ、館下の集落にある寺院、西教寺(現存)の開基に関り、天文年間とも一方では語られ(元亀年間説有り)、この天文年間説では駒木氏の開基と共に駒木館が隆盛を極めていた頃から寺があったともいわれている。

 駒木館に居た駒木氏は何処へ行ったのだろう、そしていつ頃隆盛を極めていたのだろか・・・・。

 鎌倉時代に代官として遠野へ入った宇夫方氏は、下駒木下村に仮館を築いたとされますが、宇夫方氏は綾織谷地館を築き移動、後に遠野入りした主家阿曾沼氏は横田城へ・・・・駒木地域はまさに空白地域となり得ますが、ここには然るべき武家が入っていたものと推測されます。

 その拠点がここ駒木館、そして駒木氏か・・・・前回の同地域八幡沢館の考察、その関り含めまして、本編サイトにて考察を展開する予定です。


駒木館主郭部から遠野方面



 駒木館が機能していた頃から、駒木と海上との境、中野にはひとつの集落が形成されていた。(明治初年、大火で集落は焼失)
 古の駒木館下が抱える主な集落だったと推測がされますが、今は中野と呼ばれる場所の下部に僅か3戸が存在しております。(明治以降別家となった家々)


中野


 駒上げ野、小牧と、馬産関連にて「駒木」の名がついたといわれます。
 その時代は阿曾沼時代からと考察もされますが、まさに中野はその駒上げ野、小牧が設けられていた場所でもあります。
 阿曽沼配下の馬関連に携わった一族があったとしたならば、それは駒木氏なのか、駒木館の駒木氏・・・こちらも大いに気になるところです。


 なお、駒木館跡含みの高楢山、八幡座山は、駒木地区でも名うての熊出没地帯でもありますので、単独での探訪等、特段の注意が必要です。


 
コメント (6)
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本姓菊池、駒木氏

2007-02-25 14:14:51 | 歴史・民俗
 青空が広がるも風は冷たい、そんな中、近所に存在する八幡沢館を探訪してまいりました。

 近くなのでいつでも行ける、そんな思いとは裏腹に何故かまだ3度しか探訪していない場所、しかも初探訪では、笹藪から飛び出した黒い塊と遭遇、斜面を丸くなって駆け上がっていく動物を目撃、姿も見えなくなった頃に恐怖心が沸きあがり「ギャー・・」と大声を出しながら来た道を取って返して来た記憶が蘇る、そんな場所でもありました。

八幡沢館・・・馬場跡?


 今回で4度目、午前中一杯をかけて探訪、なんとか図面もとることができました。


帯郭




 天正年間といわれる江刺菊池一族の遠野流入、その中の一族、駒木氏もまた同時代に移って来たものなのか・・・・。

 この八幡沢館は、空掘は確認できないが、広めでよく切岸された帯郭が、はっきりくっきり残されており、天正年間に築館された館といわれれば、そんな感じがしないでもない。

 また馬場跡もあるということで、それらしき広めで奥行きがある帯郭も確認できる。

土淵町似田貝方面・・・主郭から


 小烏瀬川を挟んで南、東側は土淵町、駒木氏とほぼ同時代に遠野へ来たとされる本宿氏の居舘は同じ山野が連なる東側僅か300mのところにある。
 

主郭跡に建つ稲荷社

 古の八幡沢館とは関連無いものと思いますが、主郭跡に稲荷社が鎮座している。
 昭和8年に建てられたらしい・・・・。
 北へ約200mの高台に駒木氏が勧進したと伝えられる八幡神社があるが、一方では前九年合戦での八幡太郎義家に由来する神社とも云われている。
 この八幡沢館含み、この界隈は義家伝説が語られる地でもある。


 天正年間、菊池豊前広道なる武将が阿曽沼氏に仕え、駒木村5百石を拝領し、駒木を治めていたと伝えられる。
 駒木の在名にて、豊前は駒木氏を名乗ったとある。

 嫡男隼人広三は、慶長6年、遠野の政変での赤羽根峠の戦いに遠野方上野広吉旗下として従軍、盲目の17歳の軍師として武功を挙げたといわれるが、17歳の軍師・・・・?

 後に南部利直より旧領を安堵され、八戸直義(遠野南部)が入部した際に遠野を離れ以来南部藩士として命脈を伝えております。
 駒木隼人広三には弟有り、広安といい、こちらも南部藩士の家系である。

 遠野南部家に仕えた駒木氏もございますが、此処八幡沢館と関りある家かは不明ですが、何かしら関連はあるものと考えられます。


八幡沢館・・・松崎町駒木海上



 
 八幡沢館の北東約1キロの山野に駒木館跡がある。
 安倍時代といわれるが、その造りは戦国的で、仲間内でいう遠野規格型館でもあります。
 駒木氏開基といわれる西教寺の存在、天文年間まで遡る伝承もありますが、天正年間に遠野入りしたと伝えられる八幡沢館の駒木氏とは年代が合わず、私は別系の駒木氏が居たのではと考えております。

 駒木館に居た前駒木氏、八幡沢館の後駒木氏、ふたつの駒木氏の謎も取り組んでみたい、懸案ばかりが増えてますが、まずは地元から・・・・です。



 おまけ

 海上舩瀧不動



 いつの頃から存在するかは不明・・・地元古老によると、現在地より北側の沢伝いにお堂はあったといわれ、大水が出た際に流失、さらに別場所に移されるも人家が上方へ移るに従って遷され、今の場所には昭和の初め頃に遷されたといいます。

 明治初年までは、福泉寺五重塔や大観音堂が見える南側の平地(元祖角助の墓)に、集落があったそうです。
 しかし、度々の大火に遭い、家々のほとんどは海上へ移動・・・その当時、防火祈願として不動明王を祭ったのが最初ではないかといわれております。

 6月28日祭礼、地元のご婦人方によるご詠歌がこのお堂で催されます。



 お不動さんということで、福泉寺と何かしら関連があると思っていたが、やはり関係が深いことがわかった。

 宥尊とは福泉寺初代住職
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フライデーナイト

2007-02-24 10:04:00 | その他
 昨年の今時期にも同じようなエントリーをしておりますが、職場の同僚達と冬季間の運動不足解消、体力練成、そして何よりも親睦を図るという目的にて、冬季スポーツ大会が開催されました。
 (大会というほどのものではございません)

 参加者は10名程、種目はビリヤード



 以前は赤羽根スキー場でスキーやら体育館でフットサル、バレーボールなんかもしていたのですが、人数不足やら、怪我の心配もあり、年齢差の関係がないボーリングやビリヤードが最近の主流となっております。

 体力練成にはなりませんが、ある意味ではストレス発散となり得ることでもあり、皆さん楽しんでおられました。


昔話村方向

 2月23日(金)生憎の小雨模様となりましたが、画像は午後5時頃のもの。
 随分と陽も長くなりました。

 午後5時半、親不孝に移動・・・
 夜の帳も降り始め、いよいよ懇親会の開始です。こちらは人数も増えて13名の参加となりました。

隠れ家・・・








 遠野ぶれんどの影響で「赤タレ」を頼んでみました・・・笑


 金曜日の夜ということなのか、3月の異動やら卒業時期間近のちょっとした合間の時期なのか、かなり遠野の街は人出がありました。
 親不孝通りや駅前、ほろ酔い加減の人達が結構歩いておりましたし、二次会のお店、三次会のお店、ほとんど満席に近い状態、活気のある夜の遠野を久しぶりに感じることができ、少し嬉しくなるのは何故なのだろう・・・?




 遠野ぶれんど会、二次会定番のお店に先日のお礼方々、お邪魔してきました。
 知り合いの方々が結構来店されていて、その中のお一人様から、ぶれんど会へとボトルをいただきました。・・・・感謝・感激・・・でした。
 ありがとうございました。


※ボトルをいただいた方と画像は無関係です・・笑・・・別の知り合いの方から御厚意をいただきました。
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鱒沢氏の残影

2007-02-22 22:12:11 | 歴史・民俗
鱒沢館・・・宮守町上鱒沢上町(館跡の残される山野)


 さて標題の件・・・・

 遠野の謀反人三人衆・・・鱒沢左馬助・上野丹波・平清水駿河のことを大概は指すことで、遠野の歴史上、実在の人物としては、これほど後々まで不義不忠の輩と呼ばれ、その後裔の人達までも近年までは「系統・まぎ」が悪いとか、血筋が悪いと陰口を叩かれ、その方々の家に何か凶事が起これば「それみたことか、先祖がしたことでの天罰だ」・・・・なんていうこともあったそうです。

 平成の世になってからはナンセンス極まりないことでもありますが、この三人衆、慶長年間(今から約4百年前)に主家である阿曾沼氏をクーデターにより没落させた張本人であり、南部利直から大封を得て、遠野の盟主となったことが語られております。

 鱒沢左馬助は鱒沢氏第4代、鱒沢左馬助広勝といい、鱒沢氏は室町時代中期辺りに本家阿曾沼氏から上下鱒沢と小友の半分、約1千石を分知され分家した家でもあります。

 鱒沢氏は分家ながらも遠野家中随一の大身であり、本家御舎弟鱒沢殿と呼ばれ、代を重ねる事にその力は近隣に響き渡り、主家をも凌ぐ名声と勢力を誇るまでになったといいます。

鱒沢氏関連記事こちら


鞍迫観音・・・荒谷前・・遠野七観音4番鞍迫山福滝寺

 鱒沢歴代にも崇拝され、隆盛を極めていたと伝えられる。

 
 鱒沢左馬助は、遠野の政変での主導者であり、謀反に加わらない諸氏を電撃的に攻め滅ぼし、遠野を手中収めると、気仙世田米に亡命したかつての主家、阿曽沼広長が気仙勢を借り受け遠野奪還の兵を繰り出すとの風評を得ると自ら総大将となって蕨峠を越え、気仙へ攻め込む。

 序盤は気仙勢の大将格、浜田喜六を討ち取る強さを発揮するも、深追いしすぎたのか気仙勢の反撃に遭い、自らも討ち死にしてしまう。

 広勝亡後は、嫡男鱒沢忠右衛門広恒が跡を継ぎ、名を浅沼忠次郎と改め、父広勝の功により、南部利直より2千石を賜り、一躍南部家中の大身となった。

 旧主、阿曽沼広長によるさらに2度の奪還戦を退け、遠野は名実共に南部領となるが、金山経営による嫌疑をかけられ、忠次郎は出奔、太守南部利直の命により、共に遠野盟主となり大封を得ていた上野氏、平清水氏が追ってを発し、遂に捕縛されて切腹、忠次郎の子、千代松も処刑され鱒沢氏は断絶となる。

 後に平清水駿河も嫌疑をかけられ切腹、上野広吉のみ残るも失意のうちに病死とされる。


長泉寺・・・上町

 鱒沢広勝開基、臨済宗寺院・龍興山長泉寺(天正2年・1574)
 はじめ、高館跡(下鱒沢)に開基されるも現在の地へは江戸期の文化文政年間といわれる・・・・東禅寺末寺


 
 鱒沢氏は主家を追いやった謀反人と長らく語られてきた。
 しかし、一方では、南部氏により旧主の阿曾沼氏関連の事績は闇に葬られた痕跡もみられるも、何故南部家側に加担した鱒沢氏等が悪と後の世も語られてきたのか少なからず矛盾も感じられますが、遠野の政変が三人衆のみで行なわれた謀反という理由付けを南部家側が転嫁したものか、さらに鱒沢氏等の事績も闇に葬られたものだろう・・・。

 鱒沢氏は南部氏の策動に乗せられ、主家を追いやるもやはり南部氏によるあらぬ嫌疑をかけられ絶家となる運命を辿る。

 
 2000年4月9日、開基であり大旦那、鱒沢左馬助広勝4百回大遠忌が長泉寺で地元民によって執り行われたようでもあります。
 おそらく、左馬助が討ち死にした際に盛大に葬儀が行なわれたものと思いますが、その後、法要なるものは皆無であったろうと推測され、それこそ4百年余の時が流れての法要だったものと思われます。

 鱒沢左馬助には彼なりの遠野を守る何かがあったのだろう、それが南部家による策動に乗せられたとしても、頑なに守る何かがあったのだろう、その思いは今に生きる地域の人々により新たな息吹を受け、さらに古の領主の事績を偲ぶ姿として永久にその名は語られるのだろうと思います。


下町堰

 隣接の領主、上野広吉と共に鱒沢広勝が築いたといわれる下町堰。
 4百年の時を経ても今もなお上鱒沢地域の美田を潤す水源となっている。


 ※「遠野文化誌5・6・7」遠野物語研究所 千葉氏 著 小冊子一部参考
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宝徳合戦(谷地館跡)

2007-02-20 17:57:14 | 歴史・民俗
 室町時代の宝徳年間(宝徳2年・1450)、鎌倉時代以来、阿曾沼氏の代官として遠野の統治を担っていた宇夫方一族の牙城、綾織町二日町の谷地館(館主・宇夫方守儀)が、金成右京太夫政実率いる葛西の軍勢数百の突如の攻撃を受ける。

谷地館跡



 谷地館八幡


 忽然と現れた葛西勢、その攻撃は凄まじくも、当時遠野でも富強の家とされる宇夫方氏、家臣郎党も多くなんとかその攻撃を凌ぐと、鱒沢館主、鱒沢守綱、宮森館の宮森主水が手勢を率いて宇夫方側の援軍として駆け付け、葛西勢も攻め倦んだ。

 葛西勢は窮余の策として山谷川を堰き止めて谷地館を水攻めとすると城方、大いに困惑したと伝えられる。

 落城も時間の問題かに見えたが、達曽部民部、さらに稗貫郡の大迫掃部が大兵を率いて葛西勢に攻めかかると城方も大いに力を得て、門を開けて攻撃に転じる。 

 敵総大将、金成政実は宇夫方郎党、強弓で知られた大野十郎が放った矢を受けて討死、葛西勢は散々に打ち破られ、大挙して敗走したといわれる。

 この戦いで寄せ手の大将、金成政実の子、13歳で初陣であった松千代も陣中にあったが、敗走途中に討ち取られ時の人々が哀れんで弔ったと伝えられる。
 後に松千代の母親がこの地を訪ねたが、悲しさのあまり淵に身を投げたと伝えられる。




 谷地館は、現在は水田地帯と化し、当時の面影は皆無であるが、谷地館八幡が静かに鎮座し、古に遠野郷に武威を誇った一族の館があったことを偲ぶことができる。
 
 鎌倉中期か?宇夫方広治或いは広治の弟広光が築いたといわれる。
 鎌倉武士団特有の平城といわれ、谷地の名の如く、当時は周囲は谷地といいますか湿地帯が取り囲み、外堀には山谷川の水を利用して水堀とし、土塁等も設けていたものと推測されます。



 宝徳合戦については本編サイトに掲載しております。
 参考までにこちら


 宝徳合戦での疑問

○何故に葛西氏は宇夫方氏の綾織谷地館を攻めたのか?遠野を我物とするならば主城の横田城を攻めるのではないのか。
 或いは上郷や小友の境をまずは侵攻して葛西領に組み入れるのではないのか。

○葛西勢数百の大軍は、どのルートを辿って綾織まで来たのか。

○横田城をはじめ遠野東側からの援軍がないのはどうしてなのか、主家阿曾沼氏は何をしていたのか。

 以上ですが、遠野の歴史を今後も精力的に探求する過程で色々と見えてくるものと思ってます。
 今回の宝徳合戦もまたしかりです。



 以前、この石碑を撮影したことがありましたが、自分の姿が石に映し出されてはおりましたが、黄色の上着にて撮影、しかし、画像には真っ赤な上着となって写っておりました。
 
 以来、一応我が身には何も起こってませんが、遠野でも大合戦といわれる戦いが繰り広げられた古戦場跡でもあり、今回も八幡様含み石碑にも手を合わせて参りました。


 なお、宇夫方氏は後に新里に西風館を築いて移動しておりますが、宇夫方一族の誰かが後も居たものと思います。
 西風館が急襲され西風館一族が没落すると同じく宇夫方氏も没落、谷地館は阿曽沼一族、上野広吉に与えられ、南部時代となり上野氏没落後に西風館氏末裔である西風館大学が谷地館に帰参という伝えとなっている。

 以来、その末裔は宇夫方氏を名乗り遠野八戸氏(遠野南部家)に仕えている。
 遠野古事記、旧事記、八戸家伝等・・・・の古書は宇夫方氏代々によるものです。
 まさに遠野の文官といったところですね。



おまけ

 本日も快晴・・・午前中は国土調査関連の図面閲覧と確認ということで、近所の古老を車に乗せて共に行ってまいりました。



 あれれ、以前の登記よりも面積がだいぶ減っているぞ・・・少し説明を受けるも反論のしようがない、頷くことのみ・・・・一緒に行った近所の古老は逆に面積が増えたと喜んでいる、しかし、耳が遠いので何を言おうとも通じない・・・愚痴のひとつも言いたくなったが残念・・・・笑
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おもいで岬

2007-02-19 19:03:48 | その他


 春は 焚き火の 燃え残り
     消えた流氷 飛ぶカモメ・・・・

 「おもいで岬」 大船渡出身の歌手、新沼謙治さんのデビュー曲
 当時中学3年生で卒業間近だったが、新沼さん本人が何かの思い出話しでのトーク番組で、面白みのない、つまらない曲と第一印象を話していた記憶がありますが、子供心に私も地味な曲といった印象がございました。



 今の歳になり、しみじみと伝わるすばらしい曲、大ヒットした「嫁に来ないか」や「ヘッドライト」も良かったけど、私の大好きな「津軽恋女」と共に新沼さんのすばらしい曲のひとつとして「おもいで岬」私のレパートリーに加えさせていただきます。


最初の画像は碁石岬に立つ記念レリーフ

碁石岬からの太平洋





 さて、天気も上々、予てより山の神さんの休みに合わせて一緒に大船渡に出掛ける約束をしておりましたので、快晴の遠野を後にいたしました。

 所用を終え、海でも見るかということで碁石海岸へ・・・・

椿館(大船渡市碁石岬)








 春を告げる花、椿・・・当ブログで花等の綺麗系を掲載ということは稀で似合わないのですが、甘い香りと赤、白、ピンク・・・と親父の私も少しだけ癒された気がいたしましたので、あえて掲載いたしました・・・・汗

 大船渡もいい天気、しかし風は冷たかったですね、積雪は皆無・・・続石、岩手の湘南・・・?



おまけ

ミニ海鮮丼セット

 山ノ神さんの分・・・私は海鮮関連は食べれません・・・。


メタポを吹っ飛ばせ「とらねこ定食」



 少し時間があったので南下して陸前高田へ・・・米ヶ崎城跡でも探訪と密かに考えていたが、言い出せず・・・そのまま広田半島の黒崎温泉へ・・・。

 浴場からも休憩室からも太平洋が目の前に広がるすばらしい景色、温泉もなかなか良い湯加減・・・・ただ、サウナ好きの我身、サウナが完備されていないということで少々ガッカリ・・・・・。

 陸前高田の広田は俳優の村上弘明さんのご出身地、さらに同市は歌手の千昌夫さんも・・・そして先出の新沼謙治さんはお隣の大船渡市・・・気仙三人衆を輩出したすばらしい気仙地区のプチドライブの巻でした。




 本編サイトに城館関連追加、更新

 西風館こちら

 森ノ下館こちら
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謎、内城館

2007-02-17 16:38:32 | 歴史・民俗
 日中には青空が広がり、雪もだいぶ融けたようでもあります。

定番スポット・・・早池峰古参道跡の鳥居


伝承園と天ヶ森



 雪がちょっと多めに降ったとしても、また吹雪になろうとも、2月も下旬、春の足音が徐々に聞こえてきております・・・というより昨年の12月から足踏みをしていた音がしてましたからね・・・・笑


 さて、本題・・・謎の内城館

 内城とは盛岡南部藩士、内城氏が遠野時代に居舘としていた内城館のこと・・・
 資料には上郷細越村内城館、50石とあり、伝えられる人物は内城治兵衛とあり、遠野阿曾沼氏旧臣と思われ、本姓は菊池氏・・・・。
 後に盛岡へ移り盛岡藩士として家を残し4系があるとのこと。

 遠野阿曾沼氏旧臣の中には盛岡南部藩に仕え、遠野を離れて盛岡藩士として命脈を伝える多くの家がありますが、内城氏もそのひとつ、しかし、細越村の内城館とは、全く以ってどこなのか不明でもあります。

 また遠野市内の城館跡を調べ上げたお二人の郷土史家(荻野馨先生、菊池春雄先生)共に遂にわからずと報告しております。

 お二人は調査に当っては深く地域に入って聞き取り調査やら怪しい箇所も探った雰囲気もみられますが、不明のままです。
(それは、ないじょ(ないしょ)だて・・・・汗)

 これは何を意味するものなのか、おそらく遠野に居た期間が短かったのか、或いは本姓を菊池氏と称するように上郷の菊池一族から分家した一族なのか、とにかく内城という苗字もなければその館跡も不明、これはまさに謎でもあります。
 
 しかし、その子孫は南部藩士として内城姓のまま時代を生きている現実がありますし、若干のその伝えも残されている。

 まさに要課題というべきものが山積といったところです。


 松崎館、真立館と天ヶ森


 八幡館と六角牛山


 八幡館

 雪と融けた部分の地肌で段状の形跡が確認できると思います。

 この雪が融けましたら早期に八幡館の縄張図作成に取り掛かりたいと思います。


おまけ

 ちびまる子ちゃんのクラスメート「ながさわ君」

 末娘が書きました・・・・笑

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幻の遠野柵

2007-02-15 17:22:37 | 遠野
 なんとか冬らしい遠野の風景となりました、まさに吹雪乱舞です。

 愛車「濁酒特区スッケ号」もスミ(凍って)でしまった。





 本題・・・幻の遠野柵

 吹雪の一日、このまま春にまっしぐらかが暗転、既に陽気に誘われて例年より2ヶ月も早く市内の城館跡探訪もはじめておりますが、中休みといったところ、本来は画像の姿がホントのところなんですが、ここは外出もままならず先人が調べ上げた城館跡の郷土資料なんかを眺めつつ、今後の探訪予定でも考えますか・・ということで大人しくしておりました。

 さて、以前から気になっていたこと、標高が高く、山猫氏くらいの意思の強さでもあればなんとかなると思うのですが、物見山の探訪が最大の難関という位置づけでもあります。

 物見山というくらいですから、物見すなわち見張りという観点から名付けられたものと思われますが、どうやら先人の見解では南部藩政以前、阿曽沼時代よりも古く安倍時代か・・・いやっ蝦夷時代なのかもしれないという考察でもあります。

 遠野柵という表現は私は初見でもありましたが、館跡調査をされた二人の郷土史家は標高の高い貞任山(小友・土淵)と呼ばれている2箇所と鳥海(上郷町佐野山)も調査、砦跡のような高台と石を集めた痕跡を確認したともいいます。
 この高山で古の人々は何をしようとしていたのでしょう、また何をしたのでしょう・・・。

 小友貞任山、土淵貞任山、上郷鳥海の三点から遠野盆地が見下ろせ、3点を結ぶ三角形の中には遠野物見山も有り、北上川方面を遥かに見渡せる小友種山の物見山もあって、物見山とは下界から付けられた名称ではなく、山上から付けられた名称に他ならないものとしております。

 小友種山の物見山は胆沢城からの連絡を直接受ける場所、高台が築かれ狼煙等で連絡を取り合っていたものと推測されます。

 また遠野物見山は、数箇所の高台を山に築き現に2段の物見台跡が残されているといいます。

 すなわち胆沢城方面の北上川流域に何かがあれば直ぐに遠野にもその異変が知らされ、逆に遠野に何かがあれば逆のルートで異変が知らされるシステムが構築されており、遠野盆地そのものは山々を防塁となした柵、つまり城塞であり、このシステムによって盆地内の館にいる人々は皆連携が取れる体制を構築していたといわれる説でもあります。


 これはなかなか興味ある内容でもあり、実際に遺構やらその痕跡が認められるということでもありますから、山猫氏にお願いして共に探訪してみたいと考えております。

 無論、熊さんとかが出歩かなく、しかも雪が少ない時期となりますが、これもまた難しいですな・・・・。


 それにしても一気に冬になりました。




 おまけ

 綾織町新里の西風館の図



 まずは物見山も大いに興味ありますが、麓の館跡調査が先決でもあります。

 
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雪の日

2007-02-14 21:30:03 | 思いで
 久しぶりの積雪、遠野では湿った雪ながらまとまった雪が降る中、野暮用で盛岡へ・・・・。

 盛岡は、さらにシンシンと降り積もるといった感じ、盛岡を出て家路に着く夕方には20センチ程積もり、スニーカーでは「あるげだすかげでながったす」

 大迫からは雨、雪もほとんど無し、遠野も雨、雪は融けたのか盛岡の3分の1ですかね。

盛岡駅西口から


 さて、盛岡西口のアイーナ内の運転免許センターに用向きがあったのですが(当方は運転手)、1階の免許センター、コンピューター化が進み、しかも対応する職員、事務をとる職員のほとんどは女性の皆さんで親切で丁寧、私が普通自動車免許を取ったうん十年前とは偉い変貌ぶり・・・・びっくりいたしました。


マリオス


 高校3年の冬休み、雪の早朝、バイクで転倒しそうになりながら遠野駅へ・・・駅で同級生と落ち合い、朝一番の釜石線上りで盛岡へ・・・途中、市内他校の同級生数人も運転免許学科試験ということで、列車内で合流、午前8時前に盛岡駅に降り立つ。

 遠野のじぇご太郎ゆえ、タクシー乗場でのマナーも知らず、タクシー待ちの列があるのも気が付かず、来たタクシーに乗り込もうとすると大人達の罵声を受ける・・・汗・・・なんとか列の後尾に促され、ようやくタクシーに乗り玉山の一本木試験場へ・・・・受付終了時間5分前に到着、速攻で受付に滑り込むとカーテンを閉められる・・・涙・・・小窓をノックして開けてもらうと中年の男性係官「何時だと思ってるんだ、皆、遠いところから来ている人達は泊まっているんだ、今頃来て・・・」タラタラと文句を言われたが、なんとか皆手続き完了、頭にきたというより怖かったが印象でした。

 試験は無事合格しました。


 そして中年の仲間入りをし、大型普通自動車免許の交付、沿岸の運転免許センターへ・・・・。
 対応したのは定年間近か?男性職員、大型免許特有の適正検査、目の焦点が合わない、「おいっ、お前目が悪いんじゃねえか、よく教習所修了出来たな」ときたもんだ。
 「いやっ、そんなはずはないっす」「だって全然ダメじゃねえか、釜石の町へ行って眼鏡買って出直して来い」・・・これには少し切れた「なんだあんた、その言い方は、あんたらいつもこんな感じで此処に来る人達にそんな言い方してんのか」と言ってやりましたよ。
 
 適正検査のやり直しでなんとか合格いたしました。


 昔、こんな対応を受けていたことを思わず思い出してしまいましたが、今はこんなことは皆無であろうと思います。
 皆さん、親切な女性がほとんどでしたから・・・・・。


おまけ・・・

 本日は聖バレンタインデー

 家族以外からいただくことは皆無、寂しい人生ながら我家の女性達に手作りチョコをいただきました。

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