「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

彷徨える虎猫

2007-01-30 15:44:58 | 歴史・民俗
 一面の濃霧、天気予報では晴天で本日も春を思わせる気候とか、そんな中、今年初の城館跡探訪を実施、上郷の方々には失礼な言い方ですが、熊出没地帯という印象の上郷、それも細越地域、春先やら晩秋の頃の探訪となりますとかなりの確率で出くわす確率が高いと判断して、まずは森の下へ・・・・・。

森の下からの六角牛山

 森の下館と思われる山野から・・・

観音堂



平野原館跡




 平野原館
 菊池将監吉武(平野原備後)故あって遠野に至り、阿曾沼広郷に仕えるも、慶長5年(1600)遠野の政変で主家阿曾沼氏没落、浪人となる。
 後に南部利直に召しだされ菊池吉成(平原助左衛門)旧領平野原村に35石。
 遠野南部氏が八戸より入部の際に遠野を離れ南部藩士として存続・・・・。

 比高10mの平山城で空掘跡や稲荷社、姫森といったものが残されていると資料には記述されますが、現地にてご年配のご婦人に声をかけて聞いてみますと、いつの頃か不明ながら、大水が出て、館跡は鉄砲水で流されてしまったとか、さらに家人がトラクター等で整地して畑としてしまったらしい・・・・とのこと。

 背後の山野が気になるところでしたが、森下館、平野原館共に空振りといいますか、彷徨っただけで終りましたが、いずれまた再調査が必要と考えております。


 さて、彷徨ついで、しかも不完全燃焼ということで、笛吹童子さんや山猫さんとこのエントリーで気になっていた象坪山(土淵)へ・・・・。

土淵町大楢方面


 愛宕社のある場所から山登り開始、まあ正規な道順かと思いましたが、まずはこの山が館跡だったのか、柏崎館であったのかの検証が第一でもあり、頂上に着いたらそのまま北西側をくまなく探訪といいますか山野徘徊となりました。

頂上



 勝軍地蔵といいますか、愛宕さんがあった証でもあると思います。

 頂上、その周囲、結論からいえば館跡らしい形状は皆無でした。
 また、もしかつて館があったとしたならば、北西側、すなわち小烏瀬川方向に何かしら遺構が展開されている可能性があると判断、それは海岸方面からの街道といいますか交通や軍事的な要衝という位置づけが考えられ、正面をこの方面とするのではと考えてのことですが、早速北西側を探訪、しかしこれといった形跡は皆無、さらに水の便などを考慮すれば、居舘とするのは無理があるのではないかと判断いたしました。

 北西側の下部には土塁らしき形状も確認できましたが、これはその中央が整地された形跡があって近年であろうという雰囲気も感じられ、この山に館があったとしたならば水光園側の南東側ではないのか、また愛宕社で地元のご年配の男性と話をしたが、柏崎館は水光園から山口へ抜ける途中の高い山だと聞いたことがあるが忘れてしまったとのこと、さらに柏崎在住の同級生が柏崎館は自分の家の近くの共同墓地のところだということ、このことから柏崎館はもう少し南東方向にあった可能性が高いという結果となりました。

 今年初の館跡探訪は、山野を彷徨った割には目当てのものに出会うことがなかった館めぐりでした。


 ちなみに郷土史家の先人、故菊池春雄先生、故荻野馨先生のお二人は年に何度もこの象坪山に来られて色々と調べていたそうです。
 館跡じゃなくても何かしらあったものなのか?
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風の丘だじぇ

2007-01-29 18:22:54 | 遠野
 春のような気候、庭先で蛍族となって一服していても、陽射しが暖かく柔らかい・・・間もなく2月となりますが、1月も2月もそして3月も同じ気候ってことはないですよね・・・・汗


遠野風の丘


 山の神さんも休みだったので、久しぶりに昼飯にラーメンでも・・・となり、野菜サラダ食べ放題のところが良いということで、他に候補はありましたが、トイレ利用以外は滅多に寄る事のない遠野風の丘へ・・・・。

 東北の道の駅ではトップレベルの集客を誇る「遠野風の丘」・・・ゴールデンウイークやお盆の頃は駐車場は毎日満杯、しかも路上駐車が路肩を埋め尽くし、出入りにも難儀するほどの混雑、流石に今時期の平日は混雑はない。


夢咲き茶屋

 地元綾織町の女性のグループによる事業を展開、こちらも成功例として高い評価を得ております。


店内



 キティちゃん関連商品

 全国の観光地にはその土地のキャラに扮したキティちゃんグッツがありますが、遠野にも勿論ございます。


河童


座敷童子

 他に盛岡版、花巻版、三陸海岸版もございました。


レストラン


 何をオーダーしても「じぇご太郎」には嬉しい野菜サラダ食べ放題のサービス



 「こんじょカメ、くれてす」の、じぇご太郎・・・オーダー品がテーブルに届けられる前に野菜で腹いっぱいになってしまった、でもきちんと注文したものは食べました・・・汗


味噌ラーメン


 大徳ラーメンと名付けられておりましたが、大盛りといったことで徳であるという意味合いではない、市内の味噌、麹専門の商店で作られている味噌を使用しての味噌ラーメン・・・・その名も「大徳ラーメン」


辛し味噌炒め定食


 「けいらん」も付いている嬉しい定食。
 山の神さんが注文しましたが、私も味見をしましたところ、どこか懐かしい味がいたしました。
 若い頃、大好きで時折食べていた「川重」の辛し味噌炒め定食の復刻といった感じ、ご飯がすすみますよ・・・。


 六角牛と猿ヶ石


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠野学会

2007-01-27 20:29:19 | 遠野
 遠野物語研究所が主催する第11回遠野学会へ出席してきました。

 今年で11回を数えるということですが、私は3回目の出席、昨年は勤務の為、出席できませんでしたが、毎年ひとつは郷土史やら歴史関係の発表もあり、何よりも遠野学と称する地元に関する内容が充実しており、自分が知らない活動或いはもう少し詳しく知りたいという活動や発表があるので、毎年楽しみにしておりました。


受付風景





 昨日からの当直は宮守勤務、宮守は雨でしたが遠野は降雪があったとか、雪も午後には雨となり、足元の悪い中、約30名程の出席か・・・。




 まずは、昨年11月でもお馴染み、遠野物語研究所長の高柳先生のご挨拶後、地場産業を生かしての間伐材を使っての木の絵本を商品化し、高い評価を受けている「もくもく絵本研究所」の発表、次に一集落一農場を目指して地域ぐるみで農業生産、加工、販売を展開する上宮守の宮守川上流生産組合の活動発表、さらに遠野緑峰高校生徒2組による発表、将来は日本一の肉質を誇る牛を育てたいという少年の夢とヤーコン栽培に取り組み、ジャムや加工品を苦心の末に作り出したグループの発表、そしてグリーンツーリズムに関する発表と遠野ことばの研究発表の5つの内容でもありました。




 もくもく絵本・・・組み合わせにより物語が色々と変化する、なるほど・・・と感心いたしました。


 皆さん、すばらしい発表、そして市内でも色々な分野でご活躍されている方々がいること、今さらながら頭が下る思いでもあります。




 画像は徳吉氏のグリーンツーリズム関連の発表・・・・

 この中で、各団体やらサークルによる草の根ツーリズムというものがありましたが、遠野でもよく耳にし、その活動展開も語られるグループが挙げられますが、よく考えてみれば、個々の内容が前面に出ているとはいえ、遠野市発信、関連のウエブサイト、ブログの管理人で俄かに立ち上げた「遠野ぶれんど会」も一役買っているとあらためて思った次第です。

 個人のサイトやブログによるところは大きいかもしれませんが、人々の出会い、交流は決して負けてはいないこと、むしろ今の時代には必要不可欠であり、これらを見て遠野へ行ってみたい、行って来た、情報豊富で助かったということが絶対あるはず、グリーンツーリズムで遠野へ、遠野物語で遠野へ・・・しかし、その接触の第一歩はインターネットによることも大きいものとも思いました。

 遠野ぶれんどの集いで当局、或いは其処に席を置く人々の参加はおろか、反応も皆無といった内容もございましたが、個人的にやっていることとはいえ、やはり何かしら少しで良いからアドバイスなり励まし、せめて一個人としてでもコメントのひとつもいただきたい、そんな思いも今回はいたしました。

 会場では、物語研究所以外の方々とは面識はありませんでしたが、声をかけていただいた際に、少しびっくりしたかのようなお顔で、「毎日ブログやHPを見ております。館跡も記事も見ましたよ・・・」といただいたこと、これはかなり嬉しかったです。

 こうしたことでもかなりの励みに私はなりますし、取り組んでいて良かった、今後も続けようと思う単純さはあります。


 最後に市立博物館・図書館館長の石井先生が仰せでしたが、今回の発表等、もっと外部に向けて発信すること、インターネット等も活用する、他地域との交流も含めてこれからはさらに必要とのご見解でもあります。
 
 ちなみに夕方からは懇親会が予定されておりましたが、諸般の事情で不参加となりました。
 こういった機会に皆さんに知っていただく、交流のきっかけをつくる、これが必要ではありましたが、次回ということで・・・・・。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海上の寺(大慈寺と西教寺)

2007-01-25 16:59:16 | 遠野
 海上の寺(ケショのお寺)としては、現在、浄土真宗大谷派寺院「西教寺」がありますが、現在の寺院隣接の場所に大慈寺があったといわれております。


大慈寺跡・・・松崎町駒木海上




 大慈寺とは現在大工町にある福聚山大慈寺(曹洞宗・遠野八戸家菩提所)のことで、寛永4年(1627)八戸氏の遠野入部に伴い、大慈寺9世寿心和尚が八戸直義に従って遠野入り、駒木の海上にあったとされる無住寺に入ったとされております。

 後に松崎町光興寺の興光寺跡(光興寺となったのは後年)に入り、万治年間(1657~1660)に現在の地、大工町に新寺を建立し現在に至る。

 海上の大慈寺跡には、山伏の一明院という者が入っていたが後に空家となったとのこと。

 角助の墓がある中野に住まいする人物が、住まいを野火の為、失ったのでこの寺跡であった空き家に入ったとのこと。


 空家には一明院のものとされる墓石があったそうで、現在は福泉寺大観音堂のある高台に移され現存しております。

 権大僧都前一明院宣常
 権大僧都前一明院音寛   安永三甲午年 三月初八日

一明院の墓



 休城山西教寺(真宗大谷派)

 一説には元亀元年(1570)の開基ともいわれますが、寺伝によると天文2年(1533)の開山とも語られております。

 阿曾沼氏家臣の駒木氏の居舘、駒木館と共に建立されたともいわれ、天台宗の寺院であったともいわれますが、創建に係る内容は不明でもあります。


西教寺


 大慈寺と並んで寺があったわけではなく、西教寺は旧消防屯所の裏辺りにあったといわれ、元禄年間(1688~1703)4世諏訪教了和尚の時に火災に遭い、八戸氏家臣、澤里氏の寄進により宝永3年(1706)に現在の場所に堂宇が新築されたものといわれております。

 また、一方では元亀年間の開基といわれますが、当時紫波郡彦部にあった本誓寺(盛岡本誓寺)の出寺として初代行正の開基ともあります。
 いずれ元亀年間からの歴代住職等がはっきりしているということで、この頃に浄土真宗に改宗されたものとの見解でもあります。

 2度の火災に見舞われ、開基に関る記録等は失われたとされますが、天文年間に駒木氏との関りの中で開基されたという伝承が気になるところで、事実、伝承の館跡として駒木館は現存しており、館下の中野にはもうひとつの海上というべき集落が形成されていたとも伝えられ、後に八幡沢館に居た本姓を菊池と称する駒木氏とは別系の駒木氏が居たこと、こちらの考察もまたひとつの課題といったところです。

それと大慈寺が入ったとされる廃寺跡とはなんであったのだろう・・・。

 館跡と寺院、そして集落・・・地域の歴史の謎を解き明かすキーワードがチラホラと垣間見えますが、これがまた難解なんです・・・・。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憧れのセド・グロ430

2007-01-24 18:54:10 | その他
 自動車免許を取得してからサニークーペ、コスモ、セドリック、デリカ、と乗り継ぎ現在の1300㏄の白濁酒スッケ号を愛車としてますが、若い頃は車の為に給料の大半を費やすといった所業・・・・とはいっても走り屋といったことではなく、カッコ付けたがりとでもいいましょうか、とにかく車が第1であったことはその通りでもありました。


日産セドリック4ドアハードトップ430


 いつかはクラウンではありませんが、画像の430に憧れるも、どうしても手が届かない、展示会なんかに行ったはいいが、営業マンに全く相手にされず、挙句はお前みたいなチャランポランな若造が乗れるような車ではないっ、とまで言われたこともありました。

 全くその通り、新車はおろか中古でも買える代物ではなかった。

 そんな中、チャンスがめぐってきた、ディーゼルの430の中古を発見、年式の割には安い、1ケ月考え抜いた末に遂に憧れの430オーナーに・・・・。
 確かセドリック白の430GLXだったかな?・・・が、購入して一週間でエンジントラブル、しかも白の430と思うも実は茶色を白くしたものと判明、それからは月1ペースでトラブル続き、かなりの金額が修理費に飛んでいく・・・涙・・・結局、2年我慢して乗ったが、遂に手放すことになりました。
残ったのは1年残りのローンと新しく買った車の二重ローン・・・涙

20代中盤までは車の為に生きていたようなものでした。



おまけ

「無頓着」
 無頓着とは物事に対してあまり気にかけないとかを表す言葉で、対象となる物事やその場の使われ方と良くも悪くも使われる馴染みある言葉かと思います。

 しかし、本来は「無貧著」と書かれていたそうで、貪り(むさぼり)や執着がない仏陀の境地とされ、最高の表現といわれているそうです。
 
 何故に「貧著」が「頓着」となったかは不明ということです。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

M39年八幡宮祭り

2007-01-22 18:58:20 | 遠野
 遠野物語研究第6号 2002年11月(遠野物語研究所)の記事から・・・

 明治時代末期、遠野新聞というものが月2度発刊されていたそうですが、その中での記事

「郷社八幡宮」
 八幡宮のお祭りは、例年9月14日と15日の両日行なわれていたが、この年は農作物が案外の豊作だったので、1ヶ月延ばして10月14日、15日の両日行なわれることになった。
 各村からは太神楽、獅子踊り、町内からは屋台、内囃などの出し物がでることになっており、近年稀な賑わいをみせるだろう。
 なお、引き続き鍋倉神社のお祭りが行なわれるので、町内の若者は張り切って走り回っている。
(明治39年10月5日付け)



遠野南部流鏑馬・・・2006年9月17日(遠野まつり)


 「解説」
 明治39年は久々の豊作であったため、八幡宮のお祭りは1ヶ月延ばされて10月14日、15日の開催、さらに引き続き鍋倉神社のお祭りが開催され、若者達は張り切っているという内容ですが、遠野八幡宮の祭典は9月14日、15日とばかり思ってましたが、昔は事情に併せて対応していたんですね、また春祭りとなっている鍋倉神社のお祭りも当時は秋祭りだったようです。


 「八幡の祭典」
 郷社八幡神社の祭典は、去る14日と15日の両日賑やかに行なわれた。
 14日は神輿が八幡神社からお神明神社まで町内を渡御したが、この行列には松崎村のお神楽、附馬牛・青笹・上郷・小友・土淵等の各村からの獅子踊り、町方からは鎧武者20騎(上組丁)・警護の騎兵25騎(六日町)・内囃手踊り(新町)・屋台宝の入船(一日市町)楠公の銅像(穀町)蛸の屋台に内囃手踊り(裏町)等の出し物が賑やかに加わった。
 日がようやく没せんとする頃、六日町の神明の社に入御され、同夜はここに安置し、翌15日神輿は、再び前日の出し物を従えて新張の八幡神社へ還御した。

 「八幡の境内」
 15日の馬場巡りも大変な賑わいだった。
 町方よりは勿論、近郷近在より大勢の人が集まり、流石に広い神社の境内も一杯になった。向うの桟敷で弁当を開く者があればこっちの筵では兎の耳で踊る者があるなど、まことめでたい限りであった。

 ※なお、鍋倉神社のお祭りも引き続き17日、18日開催されたが、あまり浮かれないようにその筋の注意があり、出し物は一日だけで2日目は前日に比べて盛り上がりに欠けていた・・・とある。
(明治39年10月20日付け)


南部囃子・・2006年9月17日 遠野まつりにて(馬場めぐり)



 「解説」
 松崎村の神楽とは太神楽、町方からは屋台(山車)が出たようですが、町方の出し物に内囃手踊りとあり、町方の代表的な芸能である「南部囃子」の名が見えない。
 さらに内囃手踊りが南部囃子なのか、しかし、新町や裏町からしか出ていないのは何故なのか・・・・とありますが・・・・。

 14日に八幡の御神輿に付いて行く芸能団体、松崎村の太神楽とは?八幡神楽とばかり思っていたが?、また寛文年間にはじまったとされる南部囃子の名が見えないこと、これはどういうことだろう、しかも一日市や穀町といった有名処が山車と手踊りとは・・・・手踊りが南部囃子だった可能性がございますが、私もいささか疑問でもあります。
 また流鏑馬のこともみえませんが明治年間は断続的に有志によって行なわれるも大正~昭和29年までは廃れていたとされます。

 それにしても昔は神明神社まで数多くの郷土芸能団体が付いていっていたんですね。
 そして遠野祭り、いやっ遠野郷八幡宮のお祭りは昔も今も賑やかで人々の楽しみのひとつだったことが垣間見れる内容でもあります。

 遠野郷しし踊り・・・2006年9月15日 八幡宮祭礼(駒木踊り)
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャシと遠野の館

2007-01-21 16:57:00 | 歴史・民俗
 ピリッとした冷え込みがあったものの、朝から雲ひとつ無い快晴の遠野。
 大寒の候というのに積雪は無いに等しく、日中は3月頃の雰囲気、毎度の事ながら暖冬なのだろう・・・・。


早池峰山・・・福泉寺橋付近から



駒木前野から



石上山・・・綾織町

 流石に麓は積雪があって附馬牛町へ抜ける峠道は封鎖、それでも積雪は10センチ程度か。


 「チャシと館」・・・・・

 遠野市内における城館跡、約160余といわれるが、その半数近くは安倍時代の築或いは使用年代との見解が述べられている。
 安倍時代といってもそれ以前の蝦夷時代も含まれる内容と私は受け止めておりますが、鎌倉時代から江戸時代と俗にいわれる阿曽沼時代、それ以前にも人々は住み、生活していたことはその通りであり、館跡と称する遺物が残されていることも容易に想像もできますし、少なからずあっただろうとも言える事でもあります。

 安倍時代とそれ以前の館跡を先人の郷土史家達は「チャシ」或いは「チャシコツ」と言い、例えば「真立チャシ・矢崎チャシ」とか「宮澤チャシ」・・・と名付けております。

 チャシとは、北海道のアイヌの人々が造った砦、見張台、或いは祭壇等を設けた宗教的に神聖とされる場所を指すものと解釈がされておりますが、後に軍事的要素が入り込んだ、城郭施設といったものといわれている。

 その造りは単純で空掘を廻らせただけの山城といったものが多いとされますが、その多くは16世紀から18世紀に登場といった内容が語られております。

 遠野も含み北東北での蝦夷時代~安倍、藤原時代おいてアイヌ民族と同一民族との考えから、北海道のチャシの構造とよく似ている北東北の築年代不詳の館跡のほとんどがチャシとされている点にいささか疑問を感じております。

 北海道のチャシのほとんどは16世紀からという見解の中、何故に9世紀以前といわれる遠野の館跡がチャシとなったものなのか、これはその構造と共にアイヌイコール蝦夷(えみし)という発想から出たものに他ならない内容でもありますが、そうしますと東北での蝦夷達がそのまま北海道のチャシ造営の基となることではないのか、と考えてしまいます。

 つまりチャシの根本は蝦夷時代に東北で確立されて後に北海道へ・・・となるのではないのか、無論、蝦夷時代といわれる古代東北から平安初期において北海道にも同様の館が存在していたものなのか、こちらは私には未確認でもあり、浅学の身ではなんともいえません。

 まだまだ城館研究ではマニアといった趣味の範疇は超えられない現実はありますが、遠野の花館という館跡を探訪した際の一応の私見を掲載しておりますので、参考までにご覧いただければと思います。
こちら


 遠野の城館跡を探訪しておりますと、その多くは阿曽沼時代といった雰囲気があり、その造りもすべてとは言わないまでも類似性が感じられ、比較的遺構もよく残されているものも多い、その中でも先人の研究では阿曽沼時代と安倍時代に区別されているものも多く散見されます。

 私にはその違いが未だに区別できずにおります。遺構ひとつに何かしら決定的な違いやらが見出せればまた違った考えもできるかもしれませんが、こちらはまだ遠野の城館跡の3分の1も探訪していないという現実もありますので、今後の探訪調査で何を発見できるか、何を感じるか、これに係っているものかもしれません。


真立館(別名 真立チャシ・矢崎チャシ)松崎町

 我家から真っ向にみえる館跡ということになります。

 いずれ年代不詳、口伝不詳をチャシとする考え、何故にそう考えたのか、こちらも併せて探求できたら、こちらも今後の課題として取り組めたらと思っております。

 参考・松崎舘と真立舘・・・こちら
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬・土淵 壱

2007-01-19 17:19:09 | 遠野
 昨夕からの降雪、今季における本格的な積雪となる気配がするも、夜には雪も止み数センチの積雪、なかなかドカッと降らないもどかしさと雪掻きは御免という本音も見え隠れする遠野の冬といったところです。


伝承園

 我家から2キロ、清涼飲料やら煙草の自販機が伝承園側にあって、当方のお立ち寄りスポットです。


小烏瀬川と象坪山

 遠野ぶれんどの山猫さんといつか象坪山探訪をしましょうと持ちかけていたが、山猫さん個人としては既に数度探訪済み、この山はかつて柏崎館といって昔の城館跡と聞いたような、しかし、柏崎在の同級生によると柏崎集落の南東側の共同墓地の辺りが柏崎館跡との情報、墓地整備やら農地改良に伴い館跡らしき痕跡を残す地形は破壊してしまったとのこと・・・ほんとなら残念至極、いずれどちらが柏崎館なのだろう・・・・?


オシラ様レリーフ・・・山口界隈


石塔と鳥居・・・山口界隈



水車小屋

 水車は冬季休業中・・・稼動休止中


 遠野物語に登場のかつてこの界隈での名士、山口孫左衛門は山口館主であった山口修理の子孫とも語られますが、館主としての山口氏はいつ頃まで健在であったのであろう。

 慶長5年の遠野の政変で、鱒沢氏、上野氏といった謀反側に異を唱えて謀反軍の総攻撃を受けた附馬牛火渡館主の火渡玄浄広家は火渡館落城と共に討ち死にと伝えられるも、一子倉之助は難を逃れ海岸の大族、大槌氏を頼って逃げ延びたと伝えられます。

 倉之助は実はここ土淵山口村に隠遁し、後に山口姓を名乗って忠臣の子として南部家に登用され山口内蔵助3百石、内蔵助の子、山口金右衛門家、さらに分家は釜石に禄を得て一族釜石氏の名も散見され代々南部藩士(盛岡)の家柄とある。

 山口修理は遠野の政変時に火渡広家の子、倉之助を匿ったのか、それとも大槌へ逃す手助けをしたのか、はたまた既に山口館主としては没落し、火渡氏系の山口氏が台頭する基盤が出来ていたのか?遠野の政変時での山口館主の事柄は伝えられていないのは何故なのか、孫左衛門と山口館との関係は・・・?

 こちらも今後の課題となりそうです。


おまけ

 市内某スーパーの店内一角に懐かしい音楽CDを安価にて販売しているコーナーがある。

 先日、若い頃よく聞いていた「杉山清貴とオメガトライブ」のベストを購入、他にも懐かしい曲名が入ったCDが結構あった。


 その名も「おばさん達の青春ポップス」

 それならば・・・

 「おじさん達青春ポップス」

 1970、80年代のヒット曲がそれぞ収録されているが、最近ではなかなか聴く事のない曲、カラオケのレパートリー復活に向けて練習用に、さらに時折若い頃を懐かしむ・・・・なんてね、入っている曲が各個人の好みにもよるけど、どこか懐かしい思いがいたしました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堰神様伝説

2007-01-17 14:49:01 | 歴史・民俗
 松崎町矢崎集落に伝えられる堰神様伝説、その伝えは大同2年(807)の出来事と今に伝えられている。
 母也明神(遠野物語拾遺)の内容が今も語られている。



 矢崎地区は遠野でも早くから稲作が行なわれていた先進地域だったとも、経済的基盤が安定していた地域だったとも考察されておりますが、これらの基は猿ヶ石川の水脈を利用しての農業にあったものと思われます。
 この母也明神の伝説は悲話として語り継がれるも、古の人々が猿ヶ石川の氾濫やら洪水という自然災害を相手に苦労して農地を開拓したことも物語内容が含まれているものと思っております。

母也明神


 母也明神での巫女の屋敷跡といわれる山中にあった祠を明治末期に神明神社境内に移したが、社が朽廃したので現在の場所に昭和56年に新築遷座した。


巫女塚

 
 母也明神の後方の山野にありますが、堰神様伝説に関る巫女の墓ともいわれ、昭和50年代矢崎集落に病が流行し、その際イタコの口から堰神様伝説での巫女の塚の存在が語られたといわれ、言葉通り落葉の中から塚が発掘されたという・・・。

 昭和50年代の流行病とは何であったのか、私も高校生か社会人として地元に居た事になりますが、風邪かインフルエンザか?・・・それにしても巫女の墓といわれる塚が実在していたことにより年代はともかく何かしら伝説を裏付けることでもあり、地域の言い伝えもおろそかに出来ないと思いました。



 昭和30年頃まで実際に利用されていた松崎沢の口への道・・・無論現在も通ることが出来、峰沿いを伝って松崎舘の背後を通って沢の口、駒形神社脇に出る。
 途中には経塚跡も残されている。


 堰神様に感謝、そして巫女の慰霊、地域では今でもこれらに関る伝承行事を行なっている。
 機会がありましたら取材しましてご紹介したいと思います。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿曽沼八幡社

2007-01-16 14:47:57 | 歴史・民俗
 遠野のはじめ・・・・太古の遠野の創始に関る内容ではなく、阿曽沼氏による遠野統治の初期について記したいと思います。


 奥州平泉の藤原氏が源頼朝により倒されると、奥州各地は鎌倉御家人とされる武家へ分け与えられたと伝えられております。

 遠野も下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱に与えられ、以後阿曽沼氏の統治下だったといわれますが、広綱は重臣の宇夫方広房を代官として高屋八郎を随伴して遠野へ下向させ、阿曽沼氏歴代は下野国で遠野を遠隔統治していたといわれます。

 その代官たる宇夫方氏が遠野へ入って最初に落ち着いた先が現松崎町駒木、下駒木中村の地といわれ、大沢川を堀として仮館を築いたところと伝承されております。


大沢川・・・館跡北東部分

 鎌倉武士団特有の平城系の城館跡で、後に綾織二日町に築かれた宇夫方氏の主館、谷地館も同様の造りだったと思われる。
 


 宇夫方氏は、後に屋号堀合を名乗る(現堀内家)当時盛平家と呼ばれていた現地豪家の援助を受け、本格的な城の建設場所を見出すべく最初の拠点としたとされます。


遠野最古の八幡神社とされる社(伝・宇夫方氏による創建・八幡大菩薩を祀っていた)

 屋号下堀合の敷地内にある現稲荷社は、かつては八幡神社であったといわれ、近年、社の建替に合わせて稲荷大明神を合祀して現在に至る。
 八幡神社は駒木⇒宮代八幡⇒遠野八幡宮といった歴史的経過があるといわれますが、真相は不明、しかし、歴史的何かが介在する由緒ある社であろう・・・。

(確か私の少年時代は八幡様だったような、現在は稲荷神社の札が掲げられている)


 余談ですが・・・・

 横田城(光興寺)の築城は建保年間(1211~1218)と語られますが、城館跡の構造やら雰囲気ではどう考えても戦国時代か?そして宇夫方氏と共に文治5年に下向したとされる高屋八郎、こちらは後に古書等に名が加えられた雰囲気が感じられ、城館跡調査に伴い高屋氏が居たという館跡を見出すことはできず、しかも高屋氏は天正年間(戦国時代)に葛西領江刺氏家臣で天正年間における江刺氏の内訌か主家没落時に遠野へ逃れてきた一派であるのは間違いないものと思います。

 ただし、それ以前に江刺から遠野へ移って来た高屋氏の一族が居なかったとはいえないものもございます。


堀合・下堀合の屋号と共に姓名を堀内とする御宅が密集する下駒木下村



 ちなみに我家で別当を務める愛宕神社も宇夫方氏により館の東方を鎮守する為に建立されたといわれておりますが、こちらも真相はわからず・・・一応、私は遠野で一番古い愛宕様が我家に縁ある社であると思い込んでおります・・・汗




 おまけ

「金輪際」こんりんざい

「金輪際、もういたしません・・・」とか、何かに懲りた時の思いに代表される表現の仕方ですが、仏教観では「金輪」とはこの世界の地下深くに「金輪」とよばれる層があって、世界を支えているそうです。
 そこは、我々にとっては、もう後のない地下の果てということになります。
 
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする