奈良県桜井市が「卑弥呼の里」として大々的に売り出しているが、邪馬台国奈良説の有力な根拠の一つに挙げられているのに、会津若松市にある堂ケ作山古墳がある。本居宣長の解釈による『古事記』では、崇神天皇の御世に四道将軍の記述があり、大毘古命は高志道に遣わされ、その子建沼河別命は東の方12道に遣わされ、大毘古命と建沼河別命は「会津で往き遭ひき」と書かれている。みちのくの地では唯一会津だけが、神話に近い時代の地名伝説が残されているのだ。それを裏付けるかのように、4世紀中頃と推定される会津若松市の大塚山古墳が昭和39年に発掘されたのに続いて、4世紀前半と推定される堂ケ作山古墳が見つかった。さらに、最近注目されているのが、やはり4世紀前半と推定される会津坂下町の宇内青津古墳群である。卑弥呼は248年頃に没したとみられており、堂ケ作山古墳や宇内青津古墳群がつくられた時期と、それほど差がないからだ。卑弥呼の後を継いだ壱与が実在の人物であるとすれば、年代がピッタリと重なってしまうのである。しかも、それが完成するまでには、かなりの年月が費やされたのは確実で、原大和朝廷としての邪馬台国が奈良になければ、遠隔の地に影響を及ぼすことなど、到底不可能である。私は何度も桜井市を訪れているが、そこの纒向古墳群の全貌が分かってくれば、会津との結びつきが、なおさらはっきりすると思う。会津の古代史を解明するには、箸墓古墳に代表される纒向古墳群がキーポイントなるはずだ。
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