ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

大師殿造営百年ー日本一の弘法大師木像

2024年05月08日 05時56分19秒 | Weblog
 


 加東市社にある持寶院の大師殿は、大正14年(1925)に建てられました。設計は武田五一京都大学名誉教授によるものです。大師殿は現在文化庁の国登録有形文化財に指定されています。造営百年ということになります。
 大師殿(堂)は、廃寺になった一乗院の跡に建てられました。それまでは、明治初年にあった飾磨県の出張所や税務署、加東郡役所などの役所が一時置かれていました。
 朝のウォーキングでこの大師殿にお参りし、お大師様に手を合わせ、感謝を捧げます。殿内に入ると、正面の大きな弘法大師像に圧倒されます。その高さは台座を含めて一丈六尺(約4・8メートル)とされ、木像の大師像では日本一といわれてきました。仏様の身長が一丈六尺と伝えられていることから、この大師像の高さもこれにちなんで、一丈六尺にしたものではないでしょうか。
 この木造大師像が日本一であるという証明はできませんが、愛知県武豊町の岡川寺の木造大師像も日本一といわれています。ちなみにその高さは3・6メートルとなっているので、持寶院の大師像はやはり日本一といえるかもしれません。ここで、大師像にまつわるエピソードを紹介します。(2010年4月7日投稿記事の一部を再掲)

 この大師像は名古屋の仏師が作ったもので、仏師はこの大師像をどこかの寺に納めたいと願っていました。その話を大阪に出て商売をしていた社の人が知り、持寶院に持ち込んだのです。先々代の住職はこれに応じ、木像を持寶院に安置することになったということです。
 寺では木像を安置するための大師堂を建てる計画を進めました。木像は7つか8つの部分に分けられ、はるばると鉄道で運ばれてきました。そして、播鉄の社駅から持寶院までは、丸太を並べたコロの上を滑らせ、稚児行列を仕立てて引いてきたそうです。
 大師堂ができるまでは、庫裏の奥座敷に仮安置されました。しかし、何せ巨大な木像だったので、床をはずして地面に安置してようやく入るという状況だったようです。
 大師堂の建築は、実際に木像を見てから始められました。用材が集められ、境内に置かれていました。
 その頃、持寶院の前に、社自動車運輸株式会社の車庫があったのですが、これが火事になり、自動車の燃料なども置いてあったために人々はその火が用材に燃えうったらたいへんとたいそう心配しました。しかし、大火にもかかわらず、とうとう火は燃えうつりませんでした。
 用材置場の四隅の御幣が燃えなかったために、これはやはりお大師さんの力だと信じられました。それ以降、このお大師さんは「鎮火のお大師さん」として知られるようになったということです。

 その大師像の制作途中の写真が持寶院のパンフレットに掲載されていましたので掲載します。

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