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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

伝統の雨乞い踊り-秋津百石踊り

2014年04月30日 05時57分20秒 | Weblog


4月29日(月)昭和の日に、加東市秋津の住吉神社境内で、この地に古くから伝わる雨乞い踊りの百石踊が奉納されました。
 秋津百石踊は、「旱魃の時には住吉神社の神前で踊って雨乞いをせよ」という神功皇后の言葉があったと伝えられている住吉神社の神事です。パンフレットの説明によれば、実際は室町末期から桃山初期の頃に雨乞い踊りとして始まったものだろうとされ、この踊りを一度催すと、百石分の経費を必要とすることから百石踊りと云われているそうです。もとは住吉神社の氏子村が参加していたそうですが、今では西戸(さいど)地区保存会だけが伝えています。
 昭和47年に兵庫県の重要無形文化財に指定されています。最近では、平成6年の日照りの年に雨乞い祈願で奉納されています。その後、東条とどろき荘で披露され、さらにその後は、踊りの保存継承の必要性などから、毎年日を決めて披露しようということになり、4月29日に奉納することになったということです。
 今年は雨のために前日から境内の能舞台に特設の舞台を増設しての奉納となりました。これまで境内の本殿と能舞台の間の石畳のところで踊っていたので少し見えにくいところもありましたが、太鼓の独特のリズム、踊り手の問答形式の掛け合いなどちょっとコミカルな感じに思わず体が動いてしまいました。
 今年は境内に参観者のためのテントも張られていましたが、午前中の雨はピタリと止んで、踊りの間は雨が降りませんでした。住吉の大神様の御威力でしょう。見学者の中に兵庫県立歴史博物館の会の皆さんが大型バスで来られ、雨乞い踊りを楽しまれました。
 人口減少、少子高齢社会が進行する中で、こうした地域の貴重な伝統芸能の維持継承はますます困難になってきます。しかし、そうした状況を乗り越えて大切に守り続けておられる保存会の皆さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。今年は踊り手10人が新人だという紹介が保存会の会長さんから披露されました。
 ふるさと加東の、そして兵庫の大切な宝ものです。みんなでファンになって応援していきたいと思います。
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昭和4年度の社区協議費収支決算報告書②

2014年04月29日 08時17分19秒 | Weblog
 昨日に引き続き、社町社区長「昭和五年四月 雑書綴」の中の昭和4年度社区協議費収支決算報告書を紹介します。
 項目が多いので支出は2回にわけて紹介します。

◇支出之部
一金参拾八圓拾五銭也         人夫賃支払
一金拾五圓拾五銭也          印刷費
一金八拾七圓五拾銭也         道路修繕費
一金百四拾弐圓九拾五銭也       新道路開修工事費
一金四圓七拾銭也           消耗品費
一金七圓也              火災保険料
一金参拾五圓八拾参銭也        諸税金
一金六拾七圓五拾六銭也        電灯代
一金拾五圓六拾銭也          雑費
一金四拾弐圓也            協議費徴収奨励金
一金五拾圓七拾九銭也         役場協議費割
一金七拾七圓九拾壱銭也        奨学基金
一金弐百七拾弐圓也          宮割
一金拾五也              山氏神社祭祀料
一金弐圓七拾銭也           幼稚園入口道敷料
一金壱百壱圓六拾八銭也        会議費
一金壱百壱拾参圓也          小使給料(自昭和四年三月分至昭和五年二月分)

                                 次回につづく
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昭和4年度の社区協議費収支決算報告書①

2014年04月28日 04時48分26秒 | Weblog
 社町社区長「昭和五年四月 雑書綴」の中に昭和4年度の社区の協議費収支決算報告書が綴じられています。この綴には社町や農会、畜産組合、青年団など区長関係のさまざまな通知や文書が綴じられていますが、手書きやガリ版刷りのものが多いなか、報告書は活字印刷されています。
 報告書を通して、昭和初期のふるさと社のまちづくりのようすを見ることができます。今日は、収入の部を紹介します。畜産市場が田町にあったことなども分かります。

 昭和四年度協議費収支決算報告書

◇収入之部
一金参百参拾壱圓壱拾弐銭也      前年度ヨリ繰越金
一金四拾八圓弐拾弐銭也        過年度協議費寄辻
一金弐千壱百八拾七圓六拾壱銭也    昭和四年度協議費寄辻
一金弐拾弐圓拾四銭也         小口当座預金利子
一金拾壱圓五拾銭也          貸地料
一金六拾圓也             畜産市場田町負担金昭和三年度並ニ四年度分
一金五拾九圓弐拾銭也         雑収入
一金壱千弐百四拾九圓也        下水溝工事費兵庫県補助金受入
一金六千参百八圓八拾銭也       地所売払代金
一金六拾壱圓参拾五銭也        石橋修繕費補助金トシテ町役場ヨリ交付金受入
一金参拾圓也             廃道地売払代金

 計金壱万参百六拾八九拾四銭也
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交差点の二宮金次郎像-社道池交差点尾花石油店

2014年04月27日 04時55分18秒 | Weblog
 新緑が本当にまぶしい季節になりました。早朝のウォーキングも朝の光に映えるまちの景色が新鮮です。
 この写真は、加東市社の市街地を取り巻くように走る環状線の道池交差点にある尾花石油店にある二宮金次郎像です。「人は心 花は色」の言葉と共に尾花石油のサービスステーションには二宮金次郎像が建てられています。
 勤勉のシンボルとして学校にあるものと思っていましたが、創業者の経営理念を表すものとしてまちの角に建てられました。この道も毎朝社小学校に通う子供たちが通っていきます。
 今、NHK朝の連ドラで甲府の貧農の娘、安東はなの成長が放映されています。前作は「料理」でした。今回は「本」です。安東はなは本が好きで好きでたまらない子供でした。二宮金次郎は家を再興するために一生懸命に働き、勉強しました。この金次郎像に励まされ、頑張っていこうと思う朝でした。
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昭和18年ー配給の基礎 人口と戸数

2014年04月26日 05時58分01秒 | Weblog
 戦時中の配給についての資料を紹介していますが、配給の基準となっているのは、人口と戸数でした。配給物資について、それぞれ細かく配給基準が示されています。異動があれば速やかに報告をしなければならず、毎月末に報告するようになっています。
 今日は、昭和18年(1943)、社町役場から社区の区長宛てに出された戸数と人口に関する通知を紹介します。


 昭和十八年七月十六日

             社 町 役 場

社 区長殿

 戸数及人口ニ関スル件

六月十日現在調査ニヨル人口及戸数左記ノ通リニ付爾後各種配給、配当ノ基準ト為スニ付御了知相成度
 追而異動ハ毎月末ニ必ズ御報告相成度

   記

戸数  五五八戸
人口 二三六二名
     爾後異動報告
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昭和16年-釘(農林水産業用)の配給

2014年04月25日 05時35分04秒 | Weblog
 戦時の物資統制下では特に金属類が不足しましたが、この歴史ブログでも昭和17年(1942)の家庭用の釘の配給の通知を紹介したことがありますが、前年の昭和16年の秋には農林水産業用の釘の配給についての文書が当時の地区文書綴に綴じられています。

昭和十六年十月七日
          社町経済更生委員会長
各区長 殿

 農林水産業用釘ノ配給ニ関スル件

標記ノ件縣ヨリ割当相成タルモ久シク配給ノ運ビニ致ラス貴部内ニ対シ重々迷惑ヲ相掛ケ居リ候處今回購入券入手仕リ候ニ付左記割当表通リ配布可致候条同封チケット入手ノ上ハ速カニ指定配給所ニテ御受領相成度此段及通知候也

  左記割当表


名  〇.七五吋   一.五吋   二.〇吋   計
社     一枚      一枚      八枚   一〇枚
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昭和18年-藁工品製造者用裾除の配給

2014年04月24日 04時41分52秒 | Weblog
 昭和18年(1943)、戦時統制下の配給物資について、当時の地区文書から紹介します。当時、戦争遂行に向けて農林省が農家に向けて、藁(わら)製品の増産ビラを配り、縄、筵(むしろ)、叺(かます)の増産をよびかけていました。そうした状況下、藁工品製造に従事する女性向けの裾除けも配給品になっていたことがわかります。通知は次の通りです。


昭和十八年十一月二十二日
                 社町役場

社区長殿

 藁工品用裾除配当ノ件

盛夏藁工品製造従事者用裾除左記ノ通リ配当仕候ニ付貴部内藁工品製造者中ノ婦人ニ配布相成度此段及通知候也

       記

一、配当数  二枚

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昭和18年-戦時統制下の煮干配給

2014年04月22日 04時46分51秒 | Weblog
 NHK朝の連ドラの「ごちそうさん」では、戦時下の物資統制下の配給のようすが描かれていました。この歴史ブログでは、当時の社町の文書綴に綴じられた配給関係の文書を紹介してきましたが、その中に、煮干しの配給に関するものがあります。煮干しは料理に欠かせません。その煮干しも配給だったのですね。
 通知は次の通りです。

昭和十八年九月二十日
              社 町 長  合 田 常 蔵

社区長殿

   家庭用煮干配当ノ件

左記ノ通リ配当候条適正ニ配分相成度此段及通知候也

  記

 煮干割当数 二五貫八〇〇匁
  (百匁ニ付六十六銭)
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御嶽山清水寺の薬師堂

2014年04月21日 05時26分46秒 | Weblog
 20日(日)、加東市平木の御嶽山清水寺ではやしろ鴨川さくら祭りが行われました。生憎、曇りで山頂は肌寒いくらいでしたが、多くの参拝者で賑わいました。
 山門辺りには枝垂れ桜が満開。そして、参道を行くと、薬師堂があります。このお堂は昭和59年に再建されていますが、創建は平清盛の継母の池禅尼によるものと伝えられています。
 堂内に入ると、木造薬師如来像が安置され、天井の周囲には十二神将像が安置されていました。
 清水寺は西国三十三か所霊場の第二十五番札所で知られています。御嶽山は標高500メートルを超えており、麓からは登山自動車道も整備されています。
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昭和9年-社駅に凱旋兵満期退営者の出迎え

2014年04月19日 05時48分53秒 | Weblog
 昭和9年(1934)2月、社町長から区長に宛てて、郷土出身兵の凱旋出迎えの通知が出されています(当時の社区の雑書綴)。
 社駅で出迎え、そのご佐保神社で奉告祭が行われることになっています。通知は以下の通りです。


昭和九年二月五日
               社町長  大橋實次
各区長殿

  凱旋兵満期退営者出迎ノ件通知

左記勇士作四日武勲ヲ立テ目出度姫路各隊ニ帰隊セラレ明六日満期退営遊バサレシニ付寒気ノ砌ニハ候へ共モ多数社駅迠出迎相煩シ度貴一般ニ伝達相成度此段及通知候也

    記

社駅着時刻   二月六日午后零時二十分着

奉告祭     縣社佐保神社着次第執行

凱旋兵     社 近藤繁太郎  社 細川武雄  野村 藤本正治 外一名
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カリンの花にクマバチ

2014年04月17日 19時16分28秒 | Weblog
 桜に桃、そして、季節は、新緑へと移っていきます。庭の花梨が今年もたくさん花をつけ薄い桃色の花びらを広げています。
 ここ数日の好天気で一気に満開状態になり、カメラを持って庭に出ていたそのとき、ちょうどクマバチが蜜を集めに花から花へと羽音をたてながら飛び回っているところに出くわしました。
 そうっと近づき、カメラのフォーカスをマクロに合わせてシャッターを押しました。クマバチは忙しくて私に気づくのが遅れたのか、その後もしばらく花から離れませんでした。

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やしろの桃園-まほろば加東の桃源郷

2014年04月16日 05時19分36秒 | Weblog




 「やしろの桃」で知られる加東市上久米の桃園。14日(月)、晴れ渡った空の青と緑の山々に映えて、ゆるやかな傾斜地一面に桃色の絨毯を敷きつめたように桃園が広がっていました。
 今が花のピーク。早生や晩生の桃の木に花が咲き誇っています。去年は遅霜で大きな打撃を受けましたが、今は摘花作業が行われ、今年は順調だということです。
 やしろの桃園は、昭和50年代半ばに山を切り拓いて栽培が始められ、今では6ヘクタールの広い山の斜面に約2400本の桃の木が植わっているそうです。県内では、これだけの規模で桃栽培が行われているところはないようで、桃は「やしろの桃」として兵庫県を代表するブランドで、県道沿いで直売されたり、注文に応じ宅配便で発送されています。
 近年、イノシシ、シカ、アライグマなどの野生害獣の被害や蛾の被害もあるということで、サルまで出没しており、地元の栽培農家は対策に頭を悩ましているということでした。
 
 
 
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やしろ鴨川の郷-桜の園

2014年04月15日 05時01分06秒 | Weblog




 14日(月)、雲一つない快晴、光が充満した一日でした。
 昨日、加東市上鴨川のやしろ鴨川の郷では、さくら祭りが行われたのですが、加東市長選挙の告示日、各地の運動会などで行きそびれてしまいました。そこで、一日遅れで訪れてみると、グラウンド・ゴルフを楽しむ人々の他には人気がなく、見事な桜の園は貸し切り状態でした。
 時折り、山から風が吹き下ろすと、ひらひらと光りながら桜吹雪が舞います。今年は特に見事な桜で、満開のピークでした。池に流れ込む水路の水面には桜の花びらが雪か氷かと見違えるように水面を白く覆っていました。
 空の青、山の緑、そして、まぶしい光に映える薄桃色の桜。まさに夢の中のような桜の園でした。
 
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白米ご飯の味-やしろ食文研「郷土の食文化」より

2014年04月14日 05時15分21秒 | Weblog
 昨日に続いて、「郷土の食文化」から貴重な体験談を紹介します。昨日は箱膳の話でしたが、今日は「白米ご飯の味」です。
 日本人のご飯離れが続いていますが、私は全くのご飯党です。学生時代、何はなくても、家から送ってきた米さえあれば、ご飯を炊いて、あとは最低限、醤油とマヨネーズがあれば、何杯も食べることができました。佐賀県出身の友人が有明海苔を送ってきたと言って私の下宿にご飯を食べにきていましたが、最高のご馳走でした。ご飯がおいしかったのです。そんな思い出が甦ってくる体験談です。



 白米ご飯の味
              上三草 丹羽文子

 以前女学校の家事裁縫の恩師、尾田先生を訪ね、郷土料理について質問したことがあった。
 先生は勿論播州の人ではない。
 即座に「白米ですよ。こんなおいしいお米のとれる所はそうないですよ。ご飯がおいしいからおかずなんて二の次、三の次だったんでしょうね。お料理を工夫するより、どうすればお米がうまく炊けるか、竈の火加減、蒸らし加減、おひつに撮したご飯をどう扱うか工夫を重ねたことでしょうね。
 そして、次に季節のお寿司、混ぜご飯、おはぎといったお米を中心にお料理になるのです。副食は保存食の漬物等だったでしょうし、調味料の味噌、醤油もそれぞれの家の味があるという、素朴ながら米麦を中心に豊かな食生活があったのでしょうね」・・・と、この地域について語られた。
 日本人の主食はお米。おいしい播州米に育てられ、常食している幸を感じたことでした。



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和食と伝統の食文化-やしろ食文研

2014年04月13日 06時07分38秒 | Weblog
 昨日紹介したやしろ食文化研究会編の「郷土の食文化-伝えたいハレとケの食」は郷土の伝統食が材料や調理の仕方とともに紹介されている貴重な冊子ですが、食文化にまつわる貴重な体験談も収録されています。その中の一つ、「箱膳の思い出」(依藤さつ子)を紹介します。

 箱膳の思い出    依藤さつ子

 先日、テレビ開局50周年記念でドラマ「おしん」の再放送があり、箱膳で食事をしている場面が放映されました。とてもなつかしくて、昭和生まれの嫁に「あんたら箱膳知っとてか」と聞きますと「全然知りません」とのこと、昔の記憶をたどり思い出をたぐり寄せました。
 私が物心ついた頃、殆どの家は箱膳で食事をしていました。
 祖父母、父母、姉と妹の大家族でした。炊事部屋の片隅に大きな戸棚があり、その中に各自の箱膳がしまってありました。食事毎に自分自分の箱膳を持ち決まった場所に坐ります。先ず箱の蓋を取り、裏返しておき、その上に飯碗と箸箱を出し、ご飯、汁碗を小さな盆で母に給仕してもらいます。
 父の「いただきます」の言葉に合わせ静かに一礼します。静かによく嚙んで食べ、最後に茶瓶のお茶を飯碗に入れて箸先を洗い、飯碗もきれいに洗って、その茶を飲んで箱の中に仕舞います。父の「ごちそうさんでした」の言葉で箱膳を戸棚に仕舞ったことなどが思い出され、亡き母の苦労を改めてしのびました。
 女学校入学の頃、近くの指物屋さんに注文した飯台が出来上がり、家族が一つの飯台を囲み食事をすることが出来て大変うれしかった事などが、今更ながら走馬燈のごとく重い出され、なつかしく思います。その後、生活改善が叫ばれ、飯台に足を継ぎ椅子での食事、炊事部屋の改善、さらに新築と大変便利なありがたい時代になりました。でも、今は家族がそろって食事をすることが減っているそうで、さびしい時代になってきているように感じます。食卓を囲んで親が子供に伝えなければならない生活文化があるような気がいたします。
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