ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

夏の終わりに カメムシとセミの抜け殻

2022年08月31日 06時02分30秒 | Weblog
 


 台風11号が本州の南の海を西進しています。猛烈な勢力に発達しつつあるということで、今は沖縄方面に向かっていますが、いずれ進路を北へ向け、九州から日本海へと進んでくるのではないかとの予報です。
 その影響か、当面の天気予報では、傘マークが続いています。昨日まであった真夏の青い空と白い雲、強い日差しはもう終わりなのでしょうか。
 庭のナンキンハゼの木は、20年余り勤めた兵庫教育大学附属中学校の校庭の木の実生から育ったものを当時の同僚だった村田好子先生にいただき、記念に植えたものです。夏の間は緑の屋根を広げて陰をつくってくれます。秋には紅葉して風に揺られてきらめきます。冬には枝を伐りますが、初夏にはぐんぐんと枝を伸ばします。なんとも生命力の強い木です。
 夏の間はアブラゼミの休憩所となり、昼時には縦列駐車状態になります。さて、根元辺りに妙な印のようなものが目にとまりました。寄ってみると、カメムシでした。来ていた保育園児の孫が「くさいカメムシ」といって近寄りませんでした。庭木の枝の剪定をしていると、こんな所までと驚くほどの高い枝の先にセミの抜け殻がついているのを発見しました。木も草も虫も生命力旺盛の夏でした。
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たんば道の松並木ー「社町歴史遊歩道」(昭和47年刊)

2022年08月30日 05時21分23秒 | Weblog
 

 

 『社町歴史遊歩道』(社町中央公民館発行、昭和47年)に、「街道の松並木」が写真とともに紹介されています。
 この街道について「この道は、たんば道とよばれ、西の国から都(京都)へ行く街道としてたいせつな役割をはたしてきました」と書かれています。丹波から播磨に通じる街道であり、街道筋には、旅人のために各所に道標が建てられています。西国巡礼の道としても知られ、西国観音霊場の二十五番札所の播州清水寺から二十六番加西の法華山一乗寺につながる街道でした。
 江戸時代には三草藩の陣屋があり、また明治以降は、三草小学校が跡地に建てられ、移転後の現在はやしろ国際学習塾になっています。その正面、三草川に面した場所に松並木があります。現在も松の木があり、その間が駐車場になっています。
 写真は、冊子に掲載された松並木、三草小学校時代の松並木、そして、現在の松並木と桜、今夏の松並木の風景です。

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庭のハグロトンボ-忍者のように息をこらして

2022年08月29日 05時07分13秒 | Weblog
 

 夏休み最後の日曜日。子供達は、宿題の追い込み日になっているかもしれません。私もそんな気分になってしまいます。過ぎゆく夏にやり残したことが次々と浮かんできます。
 心地よい風が吹く庭に出てみると、草が伸び放題になっています。蚊を追い払いながら,踏み込んでいくと、ふと目に飛び込んできたのがハグロトンボでした。まるで黒装束の忍者のように静かに目立たぬようにひらりひらりと飛んでは止まり、呼吸するように翅を広げては閉じて、と見飽きませんでした。
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源平合戦三草山合戦の伝承ー「かなし池」(「社町歴史遊歩道」より)

2022年08月28日 05時41分14秒 | Weblog
 

 

 昭和47年(1972)発行の『社町歴史遊歩道』-ふるさと研究シリーズ1ー(社町中央公民館内ふるさと研究会編集、20頁)を開いてみると、源平合戦の古戦場となった三草あたりの歴史を訪ねて歩くルートが紹介されていました。
 今から50年前の発行です。挿入された写真から当時の風景を見ることができます。その中に源平合戦の三草山合戦の戦いの伝承の一つ、「かなし池」の写真と話が紹介されていました。
 源義経の奇襲をうけて逃げる平家の武士が、この池まの淵で不運や平家の行く末を悲しみ、池の水を飲んでのどをうるおし、最後の戦いに挑んで、一人残らず死んでしまった、と。
 かなし池は、現在は圃場整理のためになくなっています。兵庫教育大学附属中の社会科教員をしていた時、歴史学習「義経は社に来たか」の学習の一環として生徒と一緒に義経伝承の地を巡りましたが、かなし池はこの辺りにあったと地元の方に教えられ、源平の昔を偲びました。そこから望む三草山の姿は800年余りが経った今も変わりがありません。
 かなし池の貴重な写真と現在の風景、ハンドブックの表紙です。表紙写真は、旧街道沿いの磨崖仏です。
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8月の終わりのアブラゼミ

2022年08月27日 05時03分26秒 | Weblog
 

 26日(金)の昼頃、見上げる高い秋の空でした。日差しも和らいできたように感じます。テレビのニュースではもう二学期が始まった学校もあるようですが、ホイツクの鳴き声を聞きながら夏休みの宿題を仕上げるのが8月の終わりという記憶が張り付いています。
 庭では相変わらずアブラゼミが鳴いていますが、時折りホイツク(ツクツクボウシ)の鳴き声が聞こえてきます。ナンキンハゼの幹に縦列駐車のように並んで休んでいました。
 アブラゼミの背中の黒い部分に白い模様がついているのですが、それが歌舞伎の隈取の見えてしまうのです。鎧兜の下の武士のような顔にも見えます。平家ガニの甲羅の模様が壇ノ浦の海に沈んだ平氏の恨みに見えるというのと同じように何か、アブラゼミにもそうした話があるのではと想像してしまいます。
 見上げると、緑陰にアブラゼミの輪郭がくっきりと見えました。
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41年前の嬉野台地でー用水路の水を追って学ぶ

2022年08月26日 04時47分38秒 | Weblog
 

 昭和57年(1984)9月30日発行の兵庫教育大学附属小学校の研究紀要の第2集に、「嬉野台地の開拓と東条ダム」の学習ー4年生児童を対象としてーの題名の論文が掲載されています。
 これは、昭和56年度1年間でしたが、附属小学校に勤務し、4年生の社会科学習を担当した時の実践をまとめたものです。
 その中に5月の末に学校付近の用水路の円筒分水口に吹き出した水を追って探究する子供達の学びのことを書いています。水が流れていない時のこの施設をめぐり、いろいろと想像していましたが、田植え準備が始まる5月末になると、一気に勢いよく水が噴き出し、用水路に分水されて広い台地の田に流れていきました。子供達はその水の流れを追って、自分の仮説を確かめようとしていたことを思い出します。
 当時は附属小学校の周辺は一面の田圃でしたが、40年余り経った現在は、嬉野南の住宅地に変わってしまっています。円筒分水施設も覆いがかけられ、なんだかわからなくなってしまいました。
 現在、東条川疏水ネットワーク博物館として未来に伝えたい地域資源(宝)の取り組みの原点はこの41年前の学習にありました。
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柏原八幡宮の参道玉垣に加東郡の寄進者

2022年08月25日 06時02分59秒 | Weblog
 


 24日(水)、県議会建設常任委員会の管内調査で但馬丹波地区の調査の3日目。丹波春日町での現場調査を終えて、午後一番の丹波県民局・丹波土木事務所の事務調査の前、昼食後の時間に散策をしました。
 樹齢千年の大けやきの「木の根橋」を見たあと、目の前の小山の上にある柏原八幡宮に同僚議員と参拝しました。190段の階段、といっても緩やかな坂道状の参道を歩いて登りました。
 参道には石の玉垣が続いており、寄進者の地名と名前が刻まれていました。同僚議員が「加東の人がいますよ」と指さされ、立ち止まって見てみると、「加東郡 森本重吉」と刻まれていました。地元丹波の地名が多いのですが、中には大阪や京都、東京の寄進者の名もありました。下りにまた加東の人の名「三木常雄」を見つけました。
 社の佐保神社にも大阪や京都の人の名が玉垣に刻まれています。商売などで縁のある人や加東出身で大阪などで成功した人だったように思います。同じように柏原と商売や信仰の関係の深い人なのでしょうか。
 いつの間にか足の疲れを忘れていました。

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上福田村の忠魂碑ーやしろ国際学習塾の一角に

2022年08月22日 04時59分48秒 | Weblog
 

 21日(日)、ふれあい合唱の祭典が加東市上三草の「やしろ国際学習塾」で開催されました。昼食後、開会までの間に、敷地の旧街道沿いの一角にある上福田村の忠魂碑にお参りしました。この地は元三草小学校、さらに江戸時代は三草藩の陣屋があった場所です。
 この忠魂碑については、平成21年(2009)2月6日のこの歴史ブログで紹介しましたが、真夏の晴天の下、青々とした芝生広場の向こうにある碑をあらためて紹介したいと思います。
 忠魂碑は、高く組まれた石組の台石の上に建てられています。自然石の石碑には「忠魂碑」の3文字が刻まれており、揮毫は加東市社の忠魂碑と同じ川村景明陸軍大将(元帥・子爵)によるものでした。建立年は大正15年。これも社の忠魂碑と同年です。碑の正面には、およそ130柱の英霊のご尊名が刻まれた銅板が貼り付けられています。一番古いものは明治10年。西南の役にこの上福田村からも出兵され戦没されたのでしょう。日清、日露の戦役、第一次大戦にも出兵されています。昭和12年からは20年まで多くの方が郷土から出兵され、戦没されていました。
 この忠魂碑の碑の部分は、占領期間中は傍らの砂場に埋めて守られていたという話も聞いています。そんなことに思いを馳せながら、あらためて手を合わせて祈りを捧げました。
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朝、事務所を開けようとするとドアノブに・・・

2022年08月21日 04時39分19秒 | Weblog
 

 20日(土)の朝、8時30分頃、自宅近くの事務所に寄って、シャッターを開け、さあ、ドアを開けようとして鍵を持つ手を伸ばしたその時、はっとしてたじろぎ手を引きました。ドアノブに何か異物がくっついていたのです。見ると、蛙でした。一晩中こうしてドアノブに張り付いていたのか、擬態というか、肌の色がアルミのような色になっていました。
 まさにガードマンならぬガードガエルというか、ガードフロッグです。車にカメラを取りに戻っている間も動かずにいました。
 警備ご苦労さんでした、とつぶやきながら写真を撮りました。これはアマガエルだと思うのですが、今日は雨になるぞ、との知らせかもと思いつつ出かけました。結局、夕方になってようやく雨が降り出しました。
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義士の墓に手を合わせるー65年前の保育園児

2022年08月20日 05時00分18秒 | Weblog
 

 加東市家原の観音寺は、赤穂義士の寺として知られています。この歴史ブログでは、何度も紹介してきましたが、この地で育った私にとっては、小さい頃からなじみの深い寺です。
 境内には浅野の殿様を仰ぐように配置された大石親子、そして義士の墓(墓碑)が配置された墓所があります。これは、浅野家の香華所であった観音寺に赤穂義士150年忌に際し、弘化4年(1847)に建立されたもので、義士を偲び讃える人々の寄附によってつくられたものです。
 昭和の始め頃から青年団員らによって義士祭が盛大に行われるようになり、今も奉賛会の法要、地元家原地区の皆さんによる甘酒の接待、社連合区の役員さんらの福引き、加東市中学校駅伝大会、剣道少年団の奉納試合など多彩な催しが行われています。ただ、コロナ感染の影響で、2年間は法要だけとなってしまい残念な限りです。
 この義士祭には近くの保育園・こども園の園児がお参りをしていました。小さな手を合わせて祈ります。私も社保育園の園児の頃には先生に連れられて御霊山の坂を下って観音寺にお参りしていました。その頃の写真と先生が書かれた思い出の言葉です。昭和32年(1957)12月14日とあります。今から65年前の可愛い園児らです。
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佐保神社境内の小宮さんの今昔写真

2022年08月19日 05時04分40秒 | Weblog
 

 加東市社の佐保神社の広い境内の西側に小宮が並んでいます。この歴史ブログで紹介した、元は田町通りにあった御大神宮さんも昭和の始め頃に境内に遷されて、一緒に並んでいます。大正12年に発行された『佐保神社誌』の境内図には、5つの小宮が記載されていますが、今は8つの小宮があります。
 先日、境内で撮った写真の一枚に小宮さんを写したものがありましたが(写真下)、若い頃に写した古い白黒写真(写真上)があったので、見比べてみました。写した位置が違うので昔の写真には、日露戦役記念碑と大ケヤキの太い幹が写っています。御大神宮さんをはじめ小宮のそばに植えられている榊の木などが大きく成長しているのも年月の経過を感じます。次は、何年後の写真と比較できるか楽しみです。
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8月15日の社の朝の景色

2022年08月18日 05時11分27秒 | Weblog
 


 終戦の日、8月15日の朝、社の商店街から忠魂碑、佐保神社、大師殿のコースを歩きました。静かな街でした。
 本町通りと銀座通りの三叉路から東を見ると、中央公園まで人も車もない道が見通せました。佐保神社の境内にも人影はなく、静かに祈りを捧げました。戦前は出征、凱旋の奉告祭が行われた同じ場所に立っています。神社から大師殿への道には、新池があります。堤から東を望むと関電タワーが空にも水面にも立っていました。
 いつも見る社の街の景色ですが、令和4年、終戦77年目の朝の景色を記憶にとどめておきたいと思いました。
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佐保神社の新しい景色

2022年08月17日 05時30分43秒 | Weblog
   

 加東市社の佐保神社の境内にある倉庫が新しく建て替えられたために、これまでと少し違った位置から境内の景色を見ることができるようになりました。
 倉庫は、元、大石燈籠に接して建っていたのですが、少し後ろへ引いた位置に建て替えられたために、石燈籠と瑞神門、手水舎、稲荷社、舞殿を望む角度で見ることができるようになりました。
 特に佐保講の大石燈籠(明治16年建立)は、日本五大石燈籠に数えられる大きなもの(※郷土史家の故上月輝男先生談)で、その玉垣には、寄進者である佐保神社から伊勢までの佐保講の定宿の地名と宿主の名が刻まれており、貴重なものです。これまで、今私が立っている場所に倉庫があったので、この角度からの景色は見ることはできませんでした。
 神社の門としては、県下有数の大きさをもつ瑞神門とともに佐保神社の新しい景色を眺めました。
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77年目の8月15日-朝の忠魂碑前で祈りを捧げる

2022年08月16日 05時36分48秒 | Weblog
 

 今日、8月15日は大東亜戦争終戦の日。ずいぶん昔のように思いがちですが、数えて77年前のことです。超高齢社会となった現在の日本では、当時10~20歳代だった方々で御健在の方が少なくありません。
 加東市社の市街地の南端にある明治館(元加東郡中央公会堂)前の広場にある忠魂碑は、大正15年(1926)に建立され、戦後の昭和28年(1953)に英霊尊名碑が建立され再整備されたものです。明治10年の西南の役から大東亜戦争まで、旧社町域(現在の社小学校域)から兵士として戦地に赴き、戦病死された約240柱の英霊の御魂を顕彰する碑です(写真15日朝撮影)。
 戦前は、在郷軍人会社町支部や軍友会が春季、秋季の皇霊祭に合わせて招魂祭や殉国兵士の入魂式を行っていました。この歴史ブログでも当時の案内状を紹介してきました。
 平成27年(2015)には、終戦70周年の慰霊祭が遺族会加東市支部の皆さんによって営まれました。会員の高齢化などの影響で、忠魂碑の維持・管理が困難になり、支部主催の慰霊祭はこの時が最後となりました。(この歴史ブログの7月29日記事参照)
 忠魂碑での祈りは普段のウォーキングでも行っています。母方の叔父2人の名も刻まれています。上京し宿泊した翌朝には、靖国神社に、また、常任委員会の管内管外調査の宿泊地に護国神社があれば朝に参拝します。
 今日終戦の日は特別な日です。今日、日本が独立国として平和と繁栄を享受することができているのは、護国の英霊の尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。そして、戦後77年、平和と繁栄のうちに過ごすことができているのも英霊の御守護とお導きのお蔭と感謝の祈りを捧げています。
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県の景観形成重要建造物に指定された社連合区公会堂

2022年08月13日 06時11分04秒 | Weblog
 

 

 

 加東市社の銀座通りのちょうど真ん中あたりに古い木造の建物があります。これは、社連合区の公会堂と呼んでいますが、現在は公会堂としては使用されておらず、就労支援の作業所として使われています。
 この社連合区公会堂が今年2月の兵庫県の景観形成重要建造物に指定されました(令和3年度 第14次)。市街地に残る歴史的な建造物として古い街並みを形成する建物としての価値が認められたということで、嬉しいニュースでした。
 私は、小学生の頃、この公会堂で開かれていた算盤塾にほんの短い期間でしたが通いました。大学を終えて帰ってきてからは、この公会堂で社町消防団社分団の出初め式と懇親会が行われてきました。また、消防団の詰所がこの公会堂に併設してあったので、月初めの練習、年末警戒、火事などで詰所に来ていました。便所は公会堂のものを使っていました。現在も公会堂の建物は当時のままですが、詰所が建て替えられ、古い公会堂の建物とは似合っていません。その後、詰所は元社町役場跡に建てられた消防会館の1階に移転したため、現在は連合区の倉庫として使われています。
 さて、この連合区の公会堂は、昭和17年(1942)に社区(現在の社連合区)の公会堂として建てられたものです。その新築工事の関係書類を閉じたものがあります。表紙には「昭和十五年九月起 公会堂新築ニ関スル書類 社区」と書かれています。この書類の中に建築用物資需要申告書が閉じられています。その中に、建築理由が次のように書かれています。
「現在ノ町立公会堂ハ相当年数ヲ経過ナシ大修理ノ必要ヲ生ジタルニツキ今般建築面積縮小ナシ改築ナスト共ニ時局下町立警防団員ノ詰所ヲ必要トシ一棟増築ナスモノ」とあります。落成式は昭和17年2月6日に行われました。
 写真は、現在の建物の正面外観、景観形成重要建造物指定の銘板、昭和17年の落成式の記念写真、式次第、案内状です。

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