味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

書は多く看るを必とせず、其の約を知らんことを要す。

2015-06-18 11:21:59 | ブログ
第2363号 27.06.18(木)
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書は多く看るを必とせず、其の約を知らんことを要す。『近思録』
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 書物は必ずしも多読する要はない。読んだ本の要領をつかむことが必要だ。(程伊川のことば)298
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 【コメント】学者の程伊川は多読する必要はないといっているが、これには与したくありません。なぜなら読み書きが趣味であり、自分のノルマだと思っているからです。これで私はエネルギーを戴いているのです。
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 多忙な所に、またまた超多忙な要件が降ってわいてきます。それでも楽しいです。思えば半世紀こういうことをしてきました。
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 今朝、103歳の御婆様がテレビで紹介されました。顔にも声にも艶と張りがあり、素的だなと思いました。その年齢まで、あと27年あります。とにかく私は学びたいそれのみです。
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 昨日、『論語』にでてくる「聞と達」に言及しましたが、思うに、菅臥牛先生、菅原兵治先生、長谷川先生、小野寺先生をはじめとする荘内南洲会の先生方をして「達」というのだと思います。まかり間違っても『南洲翁遺訓』を改竄しようとする人間は聞でも達でもないと私は思います。勿論その筆頭に西郷先生がいるのは当然です。

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『大学味講』(第200回)
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   味  講
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 この詩は、詩経の周南桃夭の篇の第三章でありまして、若く美しい娘が嫁いでいく様子をうたったものであります。その意味は
  「若く美しい桃の木が、うららかな春の光をあびて、(美しい花も咲き)そして美しい葉もよく茂っている。その美しい桃の若木にもたと   えたいような、若く美しい娘がお嫁に行くのだが、この娘は身も心もまことに美しく、よくその家の人々に睦み親しむであろう」
というのでありますが、その最初の句の
  「その家人に宜し」
というのを引用して、これを斉家治国の道に拡大して
  「その家人に宜しくして、---それを拡大して----而して以て国人を教ゆべし」
といっているのであります。

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『論語』(第300回)
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 樊遅(はんち)従ひて舞雩(ぶう)の下に遊ぶ。曰はく、「敢て徳を崇うし慝(とく)を脩め惑ひを弁へんことを問ふ。」子曰はく、「善い哉問ひや。事を先にして得るを後にす。徳を崇うするに非ずや。其の悪を攻め人の悪を攻むることなし。慝を脩むるに非ずや。一朝の忿りに其の身を忘れ以て其の親に及ぼす。惑へるに非ずや。」
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 樊遅が孔子のお伴をして舞雩の下に遊んだ時、孔子に問うて曰うには「御質問致しますが、いかにすれば徳を積み塁ねて崇くし、慝(心にかくれた悪)を治め去り、心の惑いを明らかに知ることができましょうか。」
 孔子は樊遅の質問が自己の修養に適切であることを褒めて「善い質問だ。己の為し難き所当に為すべき所を先にして、これに因って得らるる効果を考えることを後にするならば、自ら知らぬ間に徳が積もって行く。これは徳を崇くする方法ではないか。
 世人は己を責める事が軽くて人を責めることが重いから、悪が己の心にかくれていても知らないのである。己の悪を攻めてこれを除くことに専ら心を用いて他人の悪を攻めることがなければ、己の悪のかくれる所がない。これは心に隠れた悪を治め去る方法ではないか。
 一時の忿りは甚だ微であるが、これを抑えることができないで己の身を忘れ、禍いがその親にまで及べば甚だ大きなものであるのである。このようなことのわからないのは心の惑いではないか。これが惑いであることを知ればこれを弁ずる方法もわかろう。」

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或る人が、大変な難問題を放置し、自分は悪くないとして、善処策を見いだせず、まさしく暗中模索しています。極めて稚拙なことなのですが、今、紹介した『論語』のとおり処理したら、上手くいくのですが、知的に劣る人はこれがなかなか難しいようです。  ただ有難いのは、刑事事件に抵触するような非違行為ではないのですが、自分を客観視する修養をしたいものです。
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『農士道』(第179回)
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 然るに農村に於ける之等の人々を見るに、或種の煽動に乗ぜられて之に随っては電気人形の様に勇敢に躍り爆弾の如くに狂暴に爆発する。彼等の荒野の雑草を焼き払う猛火の「力」に対しては敬意を表することを惜しまぬが、焼き払った後に下ろすべき新しき種子と、之が肥培の経綸とを有せぬ點を遺憾とする。其の強き力は敬すべきも、其の義の足らざるを憾む。然かもこれらの人々が現代社会に於いて相当勢力を有するを見るも、既に現代世相の世紀末的状態に至れるを知ることが出来るであらう。
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『礼記』のご紹介
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 曲禮上第一
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 曲禮(きょくらい)に曰はく、敬せざること毋かれ。儼として思ふが若(ごと)くし、辞を安定にす。民を安んずるかな。傲りは長ず可からず。欲は従(ほしいまま)にす可らず。志は満たす可からず。楽しみは極む可からざるなり。
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 西郷先生も、菅臥牛先生も上の『礼記』の言葉を胸に刻み事を処してきたのだろうと思って、遅々としてですが、毎日繙いています。こんな有難いことはございません。荘内の先生方のおかげです。衷心より感謝申し上げます。

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