味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君子は敬せざること無し、

2017-09-01 09:55:40 | ブログ
第3167号 29.09.01(金)

孔子曰く、君子は敬せざること無し、身を敬するを大と為す。身は親の枝なり、敢て敬せざらんや。其の身を敬すること能(あた)はざるは、是れ其の親を傷(そこな)ふなり。其の親を傷ふは、是れ其の本を傷ふなり。其の本を傷へば、枝従って亡ぶ、と。聖模(せいぼ)を仰ぎ、賢範を景(した)ひて、此の篇を述べ、以て蒙士(もうし)を訓(おし)ふ。『小学』(敬身第三)139

 孔子がいった。「君子はすべてのものを敬するが、とりわけ自己を敬することが最も重要である。自己を敬するとは、この身をつつしむことであるが、この自己は、独立して偶然にあるものではなく、いわば親という大幹から生えた小枝であるから、いっそう大切にしなければならない。枝たるこの自己を大切にしないと、その幹たる親を傷うこととなり、親を傷うことは、つまり自己の本を傷うことで、大幹を傷つけては、小枝たる自己は自然に枯れてしまうのである。自己を大切にしなければならないのはこの故である」と。

 【コメント】敬身篇は聖賢の模範を根拠として、青少年に教訓を示すものであるいうのです。
 自己を敬するということは、この身をつつしんで親をも大切にすることでもあります。

 生きている時、罵詈雑言で親を罵り、親が死んでから幾ら合掌礼拝をしても親の霊は歓ばないでしょう。つい最近姉が亡くなりましたが、娘にいじめられどうしの日々でした。その姉が涙ぐんで何回も相談を受けたものです。

 その子が幼少の頃、手癖が悪いので注意してあげて欲しいと依頼され、それとなく指導したものでした。親は幼少時代であっても、我が子の性が悪くなってはならないとして慮っているのです。

 その姉は、初恋だったという男と結ばれたのでしたが、初夜に半殺しにされ、三年の間、病床に伏せったのでした。それはそれは大変な苦悩の日々の連続でした。

 人間如何様なことをしようが、自由なのです。でも人のすることは、周囲の人が、そして天が観ているのです。その事実において、天がどのような采配をするか、制裁をするかは、事実として当該人間に応えをもたらしてくれるのです。

 天風を学んできて、そして多くの漢籍を繙き、我々人間が勝手にこの世に生存しているのではないということを嫌と言うほど味わわされています。

 漢籍は二千年昔の物語ですが、なるほど長きに亘り読み継がれてきているのだということを実感しています。

 木曜日の空手道教室では、幼少の時といえども、ワルをしてはならないと口すっぱくお話しました。警察官志望の恵士少年には、何がなんでも警察官になってくださいと激励しました。

 その恵士少年は迚も真面目な方なのです。人間にワルの面がないのです。現在小学三年ですが、非違行為をしてはならないと言い聞かせています。 
 
 北朝鮮の暴走行為に対してでしょうか、アメリカ、韓国軍が北朝鮮領空で爆撃機で演習をしたと報道されました。したい放題のことをしたら戦闘行為になるぞという警告だったのでしょうか、今の内に北の殿様は暴走行為を止めた方がよろしいと思います。

 昨夜の空手道教室では終盤に『南洲翁遺訓』を大声で発表しました。5歳児カナコ様の声が力強く響き渡りました。素晴らしい子供たちに囲まれ光栄この上もなく存じています。『南洲翁遺訓』様のお陰です。

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『不動心』(第36回)

 鍛えられ清められた精神の強さ

 鍛えられ清められた精神には、非の打ちどころもなく、一点の曇りや傷も見当たらない。どんな運命も、こういう精神の持ち主を人生の途上で引っ立てていくような真似はしない。それは、劇が終わりを告げてもいないのに演技の最中に役者が舞台を降りてしまうも同然だからだ。こういう人間は、媚を売りもしなければ見栄を張ることもない。他人に頼りすぎもせず、かといって他人を避けて暮らすのでもない。責任を負わされるような真似もしなければ、後ろ指をさされることもない。


 長年苦労のドンゾコを生きてきた私はこのように生きているつもりです。父の経営していた鰹節製造工場が倒産し、その借金返済のため、高校時代から寝る間もないほど夜間電報の配達など14年間、働いてきました。そういう時でも空手道の稽古はしてきました。78歳の現在も元気で頑張っています。

 そして大根占から鹿児島へ転勤になってからも、大根占の子供たちのため空手道指導に14年間通い続けてきました。

 昨夜は、子供たちに号令を発する時、こういう声が出てくるかという人が震え上がるような声・気合が出てきました。こういう日々の醸成は多くの文献を拝読してきたものの中から構築されてきたと思っています。
 指宿の大先生、この事実に偽りはないですよネ。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第112回)

 この詩が作られた時は、もちろん西郷は亡く、中央政府は庄内を敵視し、頼みとする人もなくなったころでありました。忠篤、忠宝が帰朝する前ではありましたが、帰朝したとしても、中央は彼らを重用する見込みはほとんどない状況であったのです。庄内は鎖国、一国主義を志向せざるをえない状況下にあった、そのころの山口の詩であります。
 菅の志は西郷に呼応して中央に進出し、「国辱をそそぐ」ことで、その日がくるまで開墾士たちの志気と団結を保つ手段としての開墾であったのです。それが、この詩では一転して、開墾それ自体を目的化していますが、そこにも、「成周郁々」と、庄内郷学の理想主義を謳っています。菅はその後、経済産業の面に巨大な力を発揮しますが、それもまた理想実現の人材を育成するのが目的だったのです。

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