味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

福いは事少なきより福いなる莫く、

2017-04-06 09:50:18 | ブログ
第3019号 29.04.06(木)
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(さいわ)いは事少なきより福いなるは莫(な)く、禍(わざわ)いは心多きより禍いなるは莫し。『菜根譚』
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 なにがしあわせといっても、無事であるほどのしあわせはない。わざわいの数はつきないが、心労の多いのにまさるわざわいはない。
 とりたてていうほどのこともない暮らしが最大の幸福であり、気苦労をかかえるのが一番の不幸である。

 <唯だ事に苦しむ者、方に事少なきの福いたるを知り、唯だ心を平らかにする者、始めて心多きの禍いたるを知る>565

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 【コメント】あと一週間で78歳を迎えます。大変有難いことだと感謝しています。仕事は他人様の何倍もしてきましたが、勉強は他人様に劣っていたであろうと思っています。

 今みたいに、本を読み書き写しという作業は、40年位前からのことです。今は何処の誰にも負けない位、読み書き、そして空手道を実践しています。それでもまだたまだ学びたいことが山積しています。私の書斎は足の踏み場もない位、書籍とファイルが所狭しと置いてあります。

 昨夕は中島先生のご自宅に、午後6時過ぎ電話をしました。高校生の瑠香様が対応してくださいました。父上様は御栄転で南九州市頴娃町へ転勤になり、母上様は鹿屋方面へ転勤になられ自家用車で通勤するとのことです。

 そこでお母様は何時に帰ってくるのですか、と聞いてみたら午後7時頃だと言われました。6年生と高校生の女児だけでは寂しい面もあるでしょうが、我慢して頑張ってくださいと激励しました。そしてくれぐれも火災だけには注意をしてくださいとお願いしました。

 明日は中島先生が勤務している頴娃町別府小学校へ伺いたいと予定しています。そして指宿の大坪伸一郎先生にもご挨拶をしたいと考えています。車のハンドルを握ったら大声で、安全確認の声をかけることにしています。

 それにしても最近は、若い人が運転する軽自動車が猛スピードで運行していますが、警察は取締りを強化して欲しいものです。若い人々は事故の経験がなく、大したことはないと軽く考えているのです。

 一旦事故をしたら大変な金が要るのですが、社会経験のない若者たちは、そういうことは念頭になくただ走っているのです。私たちの頃は車ではなく、単車で走り回ったものでした。

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住友生命、新井先生のことを昨日に続きを書くことにします。

 <私は、このときの光景を当の新井氏からも、また北沢氏からも聞いた。まさに絵になる光景が展開されたのであった。 こんなわけで新井氏の辞表は撤回され、一年間の病院生活を終えた新井氏はふたたび職場に復帰した。ところが遅刻・早退どころか、満員の通勤電車でときに義足を踏まれたりしながらだれよりも早く出社し、人一倍働いたのである。体が不自由なため外勤はできず、窓口に座った。しかし窓口に座った新井氏は、来店した客の名前と顔を一度で覚え、しかも客との対応も立派であった。
 この新井氏の悲壮なまでの精励ぶりに、専務で実権派だった北沢専務はもちろん、直接上司の業務部長だった芦田泰三氏も何かと力づけた。その後、戦後の財閥解体で北沢氏をはじめ多数の先輩が追放され、芦田氏が一躍社長に抜擢された。
 芦田氏は社長に就任するや、ここ十年近く隻脚というハンディキャップを背負いながらおおいに努力し、今や何千人もの従業員の期待を背景に組合委員長として活躍する新井氏を人事部長に抜擢した。そして人事部長、総務部長を歴任させ、昭和二十五年には同僚・先輩を抜いて取締役に抜擢、さらに常務(昭和三十八年)とした。
 芦田氏が昭和二十二年九月、社長に就任した当時、住友生命は業界二十社のうち十二位であった。しかし新井氏を次期社長に内定したときには、日本、第一には及ばないがそれ以外の明治、朝日、安田、千代田などを抜いて、輝く第三位を確保したのである。このとき、私は芦田、新井氏に会ったが、一介のサラリーマン出身でしかも隻脚の身体障碍者が、その精励ゆえに累進しついに社長になるという、いわば今様『太閤記』を見る感慨に迫られたのであった。>


 昨日に引き続いて新井先生のことを転載させて頂きました。
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『臥牛菅実秀』(第551回)
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     (七)
 
 精神の老化は『これはこうなんだ、あれはああなんだ。』と、何もかもわかりきったものに決めこんで、問うことも、求めることもしなくなったときから始まるといわれるが、『自分は一生、餓鬼で終りたいと思う』といっていた実秀の、問い求めて止まない精神は、つねに溌剌として旺盛であった。
 実秀の夫人は、
「主人は御存知のように、朝から晩まで引きつづくお客の対応で、わづかの暇もないほどでしたが、少しも疲れた容姿もなく、夜、床についてからも、何かと考えごとをしていました。ときどき起き出して本を開き、そしてはまた思いめぐらしていることが多く、いつ熟睡するともないありさまでした。」
と、老境に入っても、衰えることを知らない思索と探究の生活を伝えている。
 また『石川秀助手記』によると、晩年のある日の朝、眠りから覚めた実秀が、
「いま西郷先生にお会いして、いろいろの話の中に、わしが『いちがばちかの大博奕と軍のことなら、西郷先生よりも私の方が上手のようだ』といったところで夢がさめたのだ。」
といって大笑したという。

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