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ぽかぽか春庭「露伴の語彙、文(あや)のことば」

2024-05-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240419

ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(5)露伴の語彙、文(あや)のことば

 2012年の春庭コラムを採録しています。

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2012/07/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(9)露伴の語彙、文(あや)のことば

 明治の文豪、夏目漱石と幸田露伴は、同年生まれです。どちらも1867(慶応3)年生まれ。漱石は1916(大正5)年に50歳で死んだけれど、露伴は昭和も戦後の1947年まで生きた。享年80歳。ゆえに、明治の生活感覚や明治の語彙を、戦後までせっせと娘に伝え、仕込みました。


 露伴の父・成延は、大名の取次を職とする表御坊主衆を勤める家であった今西家から幸田家に婿入りし、家付きの妻猷(ゆう)との間に7人の子をもうけました。長男成常はで相模紡績社長などを務めた実業家。次男成忠は海軍軍人、郡司家の養子となり北千島を探検開拓しました。露伴は四男。五男の弟は歴史家成友で、妹の延、幸はともに音楽家。

 幸田家も、幕臣とはいえそう大身ではなかったから、幕府瓦解後はお定まりで窮乏しました。幸田成行(しげゆき→露伴)は、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)や東京英学校(現・青山学院大学)に進学しましたが、いずれも家計逼迫によって退学しています。

 当時唯一の国立図書館が1874(明治8)年5月に開館。5年後、東京書籍館から東京図書館と改称しました。家計窮乏により中学校を退学した露伴は、当時湯島にあった東京図書館に通って独学で勉強しました。当初、図書館は夜間開館しており、無料だったからです。こののち、東京図書館は、1985(明治17)年上野に移転し有料となります。樋口一葉は、友人に借金を重ねながら有料の図書館を利用しました。
 私も図書館で自分の「言語資源」を培いましたから、露伴や一葉が図書館がよいをして、本に顔を埋めているようすを想像すると、親近感がわきます。

 成行は、数え年16歳の時、逓信省電信修技学校の給費生となります。学費免除で学べるところを探してのことです。卒業後は電信技師として北海道で官職につき、ようよう生活は安定したのに、文学への憧憬やみがたく、職をなげうって帰郷。露伴の弟成友(のちに東京商科大学・慶応義塾大学教授、日本経済史。日欧交渉史)は、1873年にキリスト者となります。その影響であろうと思いますが、露伴の父成延は1884(明治17)年に、下谷教会の植村正久牧師によって受洗し、キリスト教徒となりました。下谷教会は、カナダ・メソジスト教会系です。露伴の妹の延(1870-1946)も幸も(1878-1963結婚後安藤姓)受洗しています。

 成延は1888(明治20)年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」というキリストの愛にちなむ命名をした紙屋を営みます。露伴も官職を捨ててから、この紙屋を手伝いますが、露伴だけは受洗しませんでした。
 露伴の次女・文が6歳のとき、1910(明治43)年、先妻幾美子がなくなり、1912(明治45)年、文の姉・歌が猩紅熱によって11歳で死去。
 この年の8月には明治天皇が崩御。大正と年号が変わったあと、露伴は後妻を迎えますが、この後妻児玉八代もキリスト教徒でした。文は八代の意向で、ミッションスクールへ通い受洗しています。生い立ちは文の「みそっかす」ほか様々な自伝や随筆によって知ることができますが、この八代は、元香蘭女学校の教師で、家庭臣家庭の家事や言葉遣いを仕込みました。

 露伴は、1913(大正2)年4月でも家事をするより聖書を読んですごしたため、露伴は家事をしようとしない妻にいらだち、歌なきあと一人のこされた娘には、徹底して江戸の幕24日の日記に妻と媒酌人船尾栄太郎に対し、次のような呟きをもらしています。妻が教会の事業に夢中になって、家事をしないことへの不満です。

妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるに近し、、、、

 教会に入り浸る妻のため、家庭内が荒涼としている、という露伴の嘆きを見聞きし、娘の文は教会や継母をどのように感じていたでしょうか。

 妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるに近し、、、

教会に入り浸る妻のため、家庭内が荒涼としている、という露伴の嘆きを見聞きし、娘の文は教会や継母をどのように感じていたでしょうか。

 私が長々と「幸田家と受洗」について述べたのは、遠藤周作、加賀乙彦、曽野綾子、三浦綾子などに比べ、キリスト教徒であったことが作品からはまったくうかがえず、「クリスチャン有名人一覧」なんてサイトにも、幸田文の名がないこと。
 幸田家の中で、露伴だけがキリスト教徒にはならなかったのですが、いっしょに暮らした文は、受洗はしたものの、継母の「家庭より聖書」という生活を見て、キリスト教にはあまり良い印象を受けていなかったのではないか、とも見受けられます。

 文が文章を書くようになったのは、露伴の死後なのですが、キリスト教の影響より、露伴からの影響のほうが強かったのかも知れません。

八木谷涼子「幸田文とキリスト教 ――げんの十字架」(平凡社月刊百科2011年6月)という論文があるので、読んでみたらある程度わかるのかもしれません。

 少々長たらしかったですが、以上は前置きです。
 幸田文の文章は、日常生活の中で露伴に仕込まれてきており、明治の語彙感覚を残しているだろう、ということを確認するための、前置きでした。

 幸田文の随筆『雀の手帖』から、私が使ったことのないことばをピックアップして見ると、明治~昭和の小石川へんの使用語彙が浮かぶのではないかと思い、収集してみました。テキストは新潮文庫2001年。初出は、1959(昭和34)年。意味はわかるけれど、私は使ったことがないという「明治~昭和の語彙」というのは、どんなものがあるか。

p12 ちゃらっぽこな気持ち=いいかげんな気持ち
p20 見ざめのしない=見飽きない
p24 ふきんをゆすぐのもからへたである=完全に下手

p28 霜の勢いの殺(そ)げるのも=勢いが弱くなる
p71 私は町の一隅にごろっちゃら乱雑に生きてきた=ごろっちゃらとは、物事が乱雑で雑駁なこと
p98 口業(くわざ)の強い生まれ=言うことに毒があり、ものの言い方が丁寧ではないこと。
p129 陳弁したり反省したり=弁解したり~

 もっと知らない語彙が多いかとおもったのだけれど、集めてみると、それほど多くはありませんでした。やはり、文語文の中に頻出する漢語とは異なります。

 明治-昭和の小石川で毎日煮炊きをし、掃除洗濯をして父露伴を支え、戦中戦後は家計を支えるために芸者置屋で働きもした明治の女、幸田文。
 この『雀の手帖』には、1959年の台所や書斎から見た季節のうつりかわり、社会のようすが細やかに描かれています。
 「ちゃらっぽこ」や「ごろっちゃら」なんていうオノマトペから出た語には、江戸下町の雰囲気が出ています。「口業(くわざ)の強い生まれ」と、文が露伴から叱られたことばも、幕臣の家庭では「おなごはそんな口業強くては、オヨメに行けません」なんて躾を行ったであろう家風も伺えます。

 私も、ちゃらっぽこでごろっちゃらな主婦ですけれど、ただ日常の煮炊きや洗濯を描いたとして、幸田文のような凛とした響きのある文章は、とうてい書くことができないことは分かっています。
 では、どんな語彙をつかうのか。

 社会言語学では、ある一人の人が生まれてから死ぬまでの全生涯で、どのような語彙を使ったかを調べる、という調査があります。京都町屋の主婦が生まれてから死ぬまでに使うことばすべて東北の農家の人が一生の間に使うことばなど。私は社会言語学が専門ではないので、このような調査に関わったことはないのですが、ずいぶんとたいへんなことだろうなあと、思います。方言の調査では、50年のあいだ、調査者がインフォーマント(調査に応じて質問に答える人、被調査者)のもとへ通い続けた、という貴重な記録もあります。50年の間に、方言使用がどのように変わってきたかが、一人の人の生涯の記録とともに明らかになっているのです。

 春庭の使用語彙というのは、少なくとも、2003年からここ10年で使った語彙、ネットにUPしたものについては、すべてチェックできる。きわめて貧しいことばの使い方であるとは自覚しているのだけれど、これから40年かかって、なんとか幸田文の随筆の凛とした江戸明治の山の手ことば、石牟礼道子の、ふんわりと人を包み込む暖かさを持ちながら、権力や腐敗に対しては一歩も引かぬ強さを秘めることば、「今、90歳、あと10年、私は、100歳までには革命をやりたい。あじさい革命、あれ、いいね」と笑う富山妙子の強烈な色彩を持ったことば。先達のしなやかで強く美しいことばを、少しでも身につけていき、90歳になったら「あと、10年で革命やりたい」と言ってみたい。
(注:富山妙子のことばは、2012年7月7日、七夕の日の発言)

<つづく>

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