指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「きれい好き、夜はすこぶる汚たな好き」

2022年07月28日 | 映画

小津安二郎の映画で、中村伸郎が言った台詞である。

この辺の上品な猥褻さが、小津安二郎の真骨頂だと私は思うのだ。

「昼は、聖女のごとく、夜は娼婦のごとく」という言葉があるが、原節子は、その典型だったと思うのだ。

2008年に出た白坂依志夫の「シナリオ別冊」の『白坂依志夫の世界』は、1960年代以降の日本映画界が、セックスとクスリ(麻薬ではなく、ハイミナール等の睡眠薬である)が蔓延していたことを暴露したとんでもない本だが、この176ページにさらにとんでもないことが書かれている。東宝のプロデューサーだった藤本真澄について書かれたもので、彼の告白は、「原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね。できたら結婚したいなんて若気の至で思ったンだが、その時、ホラ、熊谷久虎。知ってるだろう、姉さんの旦那さ。あの右翼野郎と出来ているってきいてね、それで、あきらめたのさ」まるで、羽仁進が、左幸子と結婚していながら、彼女が撮影で日本を離れた隙に、左の妹・額村喜美子とできて、結局再婚してしまった事件のようではないか。藤本真澄が原節子に惚れていたのはいつのことかよくわからないが、互いの年齢から考えれば、戦時中くらいのことだろう。この白坂への告白は、藤本の1979年の死の前年のことで、すでにガンで余命はいくばくもないことを本人が知っていたときなので、嘘ではないだろう。あの天女のような原節子の美しい微笑の影には、実の姉の夫との不倫という深い苦悩があったのである。そう考えると、原節子は大根役者にように言われることもあったが、随分と演技をしていた役者だったということになる。

               

この凡作(「恋しかるらん」)を取り上げた理由は、撮影が会田吉男だからである。会田吉男とは、言うまでもなく会田昌江、原節子の兄であり、この作品の3年後、原節子主演の『白魚』の撮影中に事故死している。この小田原駅構内の事故死は、多くの本に書かれているが、円谷英二に言わせれば、線路上に45度の角度で鏡を立てて撮影すれば簡単に防げた事故であるそうだ。自分の目の前で、兄を失った原節子の心中は、察するに余りある。大島渚に、「女優は結構良い商売なので、普通結婚し、一時引退しても、多くの女性は復帰してくるが、桑野みゆき、芦川いづみ、山口百恵など、絶対に復帰しない女性もいる。彼女たちは、多分自らやりたくて女優をしていたのではなく、経済的など家庭の理由で女優業をやっていたので、結婚後は二度と出てこないのだ」との説がある。私は、原節子の家がどのような状況だったのか知らないが、恐らく彼女も家を支えるために女優業をやっていたのではないだろうか。

原節子で有名なのは、日独合作映画の『新しき土』ができて欧州に上映に出かけたとき、何の関係もないのに、彼女の同行して熊谷が付いて行ったのも、異常としか思えないが、これは彼女と熊谷との関係を示す事実である。

原節子ほど、多くの困難に耐えて美しき微笑をおくってきた女優もいないと思うのだ。


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