喜多圭介のブログ

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金子みすゞ(1)

2007-01-31 10:47:38 | 俳句・短歌と現代詩
矢崎節夫氏によって発掘され、5、6年前にはブームとなった金子みすゞの詩群のなかで、私の気に入っている一篇が以下であります。

「帆」
港に着いた舟の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。

はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠く行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。

この詩は小説創作の基本を説明するのに実に具合のいい詩である。もちろん詩には韻律とか内在律といったリズム感が不可欠なので、小説と同列ではないことは承知のことであるが。

一節の「港に着いた~白い帆ばかり。」は、みすゞが目視して実感したことの描写である。二節に入ってみすゞは描写を屈折させて自らの主観をさりげなく投げ出している。この詩の中には小難しい解説も説明もない。

これが詩や小説を創作するときの基本態度である。

「港に着いた舟の帆は、/みんな古びて黒いのに、」にはみすゞの不幸な境遇が反映されている。その気持ちを「はるかの沖をゆく舟は、/光りかがやく白い帆ばかり。」と切り替えるのが、みすゞのさまざまな詩の特徴である。視点の転換によりこの詩を読む読者に想像の余白を残す。みすゞの詩作の巧みさであり、みすゞファンにとっての魅力であろう。

この巧みさがみすゞの天性の資質からのものであるかどうか、ここを検証していくのがみすゞ研究者にとっての魅力であろうが、私はみすゞ研究者でないのでそこまでは探求しない。

小説創作もこのようなものでないかと思うのが、日頃小説創作に腐心している私の持論である。描写でもない説明文かメモ書き程度のことをだらだらと書いて、それを小説創作と誤解している諸氏、小説風体裁の中で人生論めいたことを得々と展開している諸氏、このみすゞの一篇を味読し、詩とは、小説とは本来このようなものであることを認識してもらいたいと思う。

この詩は一節だけでは詩にならない。二節があって詩として存在する。このことは小説でも同様で、文章による現実描写だけでは写真芸術やビデオ映像に勝てないし、それだけでは小説として成立しない。やはり小説にも二節が不可欠となる。

二節の「海とお空のさかいめばかり、」と「はるかに遠く行くんだよ。」。ここはみすゞの曲者精神が象徴されている箇所で、単純な読み取りはできない。みすゞの深層心理の深遠な部分が、このような形でふっと浮遊したと読みとっている。「はるかに遠く行くんだよ。」と書いてあれば、不遇のみすゞがそれでもなお明るい未来に夢をかけて生きているように思えそうだが、「海とお空のさかいめばかり、」という一見投げ遣りな、それでいて写実的表現と繋いでみると、はたしてこの詩が明るい方向に向かっているかどうかはあやしいものである。

この短詩から私はいろいろなことを思索し、想像する。小説とてプロの佳作、秀作ともなれば何気なく書いてあるように見えても、そこに作者の深い計らいが隠されている。それを読みとれるかどうかは読者の鑑賞眼による。人生とは、愛とはこれこれである、とわかりやすく力説したものは、小説といえないものが多い。

小説も一節の描写は修練していれば修得していけるものだが、二節が難しい。ここに作家の過去から現在までのすべての経験、体験、これらからもたらされた心境が総動員されるからである。そして総動員をかけられない人は、いくら創作していても佳品一つ創作できないかもしれない。

みすゞの場合は、それを表現しうる詩人であったということである。

付け加えると、この詩は暗い境遇の中にいるみすゞが、その境遇に負けまいと自分の将来に光り輝くものを視ようとした詩と解釈すると、そこには大きな過誤があると思われる。教科書掲載はその過誤を犯したまま、みすゞの詩を掲載しているのではないか。よい子を育てるのが教科書の目的であるから。

みすゞは決してよい子ではなかった筈だ

ただこの一篇の詩にもみすゞの哀しみは見て取れる。私はこの詩に、むしろ人生を投げ捨てたみすゞの諦観を読みとってしまう。みすゞの詩篇に明るさが見られるときは、それはみすゞの偽装ではないか、そう疑って読むほうが、真のみすゞに迫れるのではないか。私はこの詩を読んでも明るい未来に向かって、と鼓舞されるような気持ちにならない。私は「はるかに遠く行くんだよ。」を天上の蓮の花園の仏の世界のように受け取ってしまう。

ここでみすゞの詩とは無関係であるが、以下のことについて私なりの感想を述べておこう。

高遠氏は著作『詩論 金子みすゞ』の最終章「金子みすゞを童心詩人と呼ぼう」―金子みすゞの最後―で、かなり熱っぽくみすゞの自殺について、多少の共通項があるということで林芙美子の生き方と比較して述べられているが、果たして著書のタイトルから見ると、ここは蛇足ではなかったか、少なくとも詩論から逸脱した項目ではなかったかという疑問が残った。

論建ての動機を「金子みすゞが時代と社会に負けて死を選んだのではなく、自分に負けて自殺したと言うことを論証」するためと述べておられるが、「時代と社会に負ける」とか「自分に負ける」という固定観念そのものが、今日の精神医学の発達、青少年や女性の置かれている複雑な状況から鑑みて、いかにも古びたアナクロニズムなものでないか。したがって帰結する論法はお粗末な比較論、晩年を全うした林芙美子との比較である。勉強の出来る子供と出来ない子供を並べて、出来ない子供に出来る子供のあれこれの努力を並び立てて諭すようで、私は強者の粗雑な論理ではないかと、たいへん違和感を覚えた。これでは筆者は本当にみすゞの境遇、心情に思い至っておられるのか疑問を禁じ得ない。

年譜によるとみすゞは《昭和三年(一九二八年 二十五歳)三月、島田忠夫、商品館にみすゞを訪ねるも、上新地の自宅に病臥していて会えず。十一月号の『燭台』に《日の光》、『愛誦』に《七夕のころ》が掲載。この前後に、夫より詩作と手紙を書くことを禁じられ、以後発表作なし。同じ頃夫より淋病を移され、体調を崩し始める。 昭和四年(一九二十九年 二十六歳)春、下関市上新地町百十九に移る。この夏から秋にかけて、三冊の遺稿集『美しい町』、『空のかあさま』、『さみしい王女』清書(一組は西條八十に、もう一組は正祐に託す)。夏、四回目の引っ越し、下関市上新町二千四百四十九。この後病の床に伏している。九二十六月日付の葉書に〈朝雑巾がけをすこししたら、また五日やすみました〉とある。秋、遺稿集の清書終わる。十月より、娘ふさえの言葉を採集する、『南京玉』を書き始める。》とある。

薄幸な育ちのみすゞは、それでも詩作を頼りにひたすら生き抜こうとした。みすゞにとって詩作と手紙を書くことを禁じられことは、自らの人生を閉ざすことに等しい。このときの絶望感を、『さみしい王女』の巻末手記で次のように書いている。

巻末手記
――できました、
できました、
かはいい詩集ができました。
我とわが身に訓(をし)ふれど
心 をどらず
さみしさよ。
夏暮れ
秋もはや更けぬ、
針もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地する。
誰に見せうぞ、
我さへも、心足(た)らはず
さみしさよ。
(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)
とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来し。
明日(あす)よりは、
何を書かうぞ
さみしさよ。

ともかく当時も現代も自殺を上記のような一面的捉え方は、私には笑止でしかない。

みすゞは生涯に五百十二篇の作品を遺した。この中で矢崎節夫氏が遺書と思える詩に以下を揚げておられる。全集の一番最後に書かれている、「きりぎりすの山登り」。これが自分に負けた弱い女の詩であろうか。したたかな詩である。

きりぎっちょん、山のぼり、
朝からとうから、山のぼり。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は朝日だ、野は朝露だ、
とても跳ねるぞ、元気だぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
あの山、てっぺん、秋の空、
つめたく触るぞ、この髭に。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
一跳ね、跳ねれば、昨夜見た、
お星のところへ、行かれるぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
お日さま、遠いぞ、さァむいぞ、
あの山、あの山、まだとおい。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
見たよなこの花、白桔梗、
昨夜のお宿だ、おうや、おや。
 ヤ、ドントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は月夜だ、野は夜露、
露でものんで、寝ようかな。
 アーア、アーア、あくびだ、ねむたい、ナ。

もしみすゞの自殺に触れるのであれば共通項云々ではなく、芥川龍之介、有島武郎、太宰治なども共に論じる別タイトルの著書を一冊お書きになるのが妥当ではなかったか。同様な辛苦を嘗めただれそれは晩年を全うしたのに、みすゞはこの程度の不遇に負けて自殺したのか、と批判することは詩論にとっても、みすゞの詩業にとってもなんの益もないことではないか。

こういう詩を創作するみすゞは、すでに死を内包した詩人であったということである。みすゞの冥福を敬虔に祈ることのみが、みすゞへの愛ではないかと私には思える。いつの日かみすゞの墓前に詣ることがあれば、私は一輪の白い花を手向けたいと思う。

十代から三十代辺りの女性群にみすゞブームがなぜ湧き起こったか。この辺のことも考察してみると面白いと思うが、このブームの根底には昨今、傷心を抱いて神経症になったり、引き籠もっている女性群が多いことと無関係ではないように想像している。「春」を早く知りすぎた少女、親による言葉や暴力での児童虐待、幼児期における性虐待を負った女性が辿る道筋は無明である、空虚が広がる。彼女たちはみすゞの詩を読むことで癒されたのではないか。こうした女性群にとってはみすゞの詩群は癒しの詩となった。傷心の女性同士が交感しうる詩がみすゞの詩群であり、時節柄タイミングよく矢崎節夫氏はみすゞを発掘したのである。

金子みすゞについて少し書いてみようかと思ったのは、高遠信次氏から氏の著作『詩論 金子みすゞ』を寄贈していただき、一読させて貰ったからである。最終章の一部の項目に異論は持ちつつも、この著作は高遠氏が正直な人柄を吐露しつつ、金子みすゞの詩の真実に迫真していこうと努力された、好感の持てる内容である。