喜多圭介のブログ

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淀川河川敷20――【完】

2008-10-06 20:03:16 | 淀川河川敷

四人とも不機嫌だった。すると幸子が何を思ったのか、突然泣き出した。
「なんで泣くの?」と、里子は幸子の頭を抱えるようにしてなだめた。
「お母ちゃん、帰って来るやろ」
「今頃なに言うのや。帰ってくるがな。お母ちゃんから葉書来てたやろ」里子は尖ったきつい声を吐いた。

いっとき経つと、「この猫ほんまにどないする。こんなんしてたら映画観られへんで」

豊は仔猫の首筋を掴んで持ち上げた。ピンク色の腹を露わに、仔猫は両脚を弱々しく動かした。
「この池に放り込んだろか」
「そないしぃ。泳ぐと思う?」

幸子の頭を撫でていた里子は、異常なほど瞳の光を強め、冷たい息を吐いた。
「そら泳ぐわ」当然と言わんばかしの声で、豊は応えた。
「犬は犬掻きするけど、猫掻きなんか聞いたことないわ」負けずに里子は言った。
「あほんだら。犬より猫のほうがすばしこいのや」
「そんならこの池で試してみたらええねん。放ってみたらわかるやんか」
「この池にか……壮平ちゃんかまへんか」

豊は思案顔で壮平を見た。壮平はそれまで二人のやり取りを耳にしながら、水面を見つめ、何かを考えていた。それは仔猫が泳ぐか泳がないかといったことではなかった。自分の将来にとって、もっともっと大切なことのように思えた。しかしこの思考は強い寒風に何度も中断した。背筋に悪寒が走っていた。

バクダン池の光景に触発されて考え始めたのかもしれない。あるいはこの池に遭遇した壮平の状況を重ね合わせた結果かもしれない。しかし壮平は何一つとして、心の中の有様を言葉として捉えることができなかった。いつか滅びていく何かが胸に映っているようではあったが、その映像はいつまで経っても鮮明にならなかった。この先、自分が滅びていく、この世が、あるいは人が消滅していく、予感めいたカオスが胸底で渦巻いていることだけは、何となく感じていた。
「かまへんか」

豊の声が壮平には煩(うるさ)かった。どうでもええことやないか。壮平はその返事とでもいうふうに、豊の腕の中からいきなり仔猫の首筋を掴むと、池の真ん中めがけて弧を描くように放り投げた。仔猫は宙で一度両肢を上向きにし、それから躯を反転すると、ボチャと重たい水音を立てて落下した。いったん躯の重みに沈んだが、すぐに浮かび上がり、ニャア、ニャアとかぼそい声で鳴き続け、壮平たちの佇んでいるほうに猫掻きで近付いてきた。開けた小さな口は、血反吐を溢れさせているかのように不気味な色だった。
「ほらみい、泳ぐやないか」豊は得意満面な口調で叫んだ。

仔猫は赤錆色にぬめった岸に辿り着くと、毛を毟り取られた小動物だった。躯をぶるぶると震わせ、前肢に顔を擦りつけた。
「壮平ちゃん、ぼくも投げるで」

豊はそう言うと、猫のところに駆け寄り、壮平の動作を真似て猫を池に投げ込んだ。今度は先ほどより手前に腹からバシャと落ちた。仔猫は白黒まだらのお化けのような顔で、必死に胴体を左右にくねらせて泳いだ。しかし動きはやつれた病人のように緩慢であった。壮平は自分が真っ先に仔猫を投げ込んだにもかかわらず、なぜこんな事態になっているのか、解せない面持ちで凝視していた。

壮平は後味の悪いものを胸底に覚えた。だが、それにもかかわらず今朝からの気鬱な思いが愁眉を開くようでもあった。仔猫は疲れ切った様子で、腰の抜けた下半身を重たげに引き摺り岸に上がって来た。躯を震わせる力も弱々しかった。壮平はその哀れな姿を凝視していたとき、脳裏で小石の弾ける音を聴いた。助けなければと瞬間思った。

そのときだった。里子が私にも投げさせてと悲鳴に似た声で甲高く叫ぶと、腰を落とした猫のほうへ汚れた脚をスカートから剥き出しにして駆けた。壮平ははっとして、里子の行為を止めようと思った。が、押し止めるよりも早く、里子の片手に仔猫の二本の前肢は束ねられて握られ、半円を描いて宙に飛んだ。里子の手を離れた瞬間、仔猫の躯からぽくっと骨の折れたような、ぞうっと鳥肌立つ音が壮平の耳に届いた。

ニャア、ニャア。

ニャア、ニャア。

池の表面に幽かな鳴き声が伝った。いや壮平の幻聴であったかもしれなかった。仔猫は最後まで水面に浮上していた頭を沈め、水中で緩やかに舞うようにもがいていた。いのちを物体化しつつある薄墨色の胴体は、オパール色の池水に融解していくようだった。

壮平は初めて仔猫のいのちの形を、言葉では表せないものとして実感していた。そしてそのいのちは自分にもあるものだと覚った。これから先もいま眼にしている光景は、ずっと胸に刻印され消えることがないことを、意識の遠くで感じていた。

水面に広がっていた波紋は、しだいに小さくなり収束しつつあった。仔猫の口から出る泡粒が、ぷぷぷ、といのちのピリオドを打つように浮かんだ。やがて壮平の視線の先は、濃い静寂な気配が、鼠色に染まっていった。

壮平の耳、鼻先、手足の爪先は冷たく凍り、膝頭が止めようもなく痙攣していた。壮平、豊、里子姉妹は、冷たく氷結した大気のなかで失語症に陥ったかのように押し黙り、いのちの絶える様(さま)を、憤(いきど)った眼差しで見つめていた。

もうええ……と、壮平は九十を越えた死にかけの老人のような気持ちで、疲れた呟きを吐いた。

生きていたい気持ちが倦(う)んでいた。

そしてもう二度と河川敷に来ることはないと予感した。

     *


中学一年になったとき、壮平親子は阪急宝塚線の庄内に転居した。小学四年になった妹が叔父宅から引き取られ、農家の屋根に建て増した二間きりでは手狭になったからである。

新しいアパートは小さいながらもちゃんとした玄関が付いていて、風呂は銭湯に行かなければならなかったが、一番奥の台所の横にトイレも付いていた。玄関口から四畳半、四畳半、六畳、台所の間取りであった。玄関に近い四畳半に壮平と妹の勉強机が並んでいた。

新しいアパートに移ってからは、子どもが一人増えたせいか、母親が止めたせいか、壮平は知らなかったが、男が訪ねてくることはなかった。

地元の中学校を卒業すると、壮平は大阪府下で東大合格トップの府立K高校に、合格ラインつらつらの成績で進学した。

その年の七月であった。

電車通学の高校に出掛ける前、新聞の三面記事を眺めた。

淀川河川敷で女性事務員を強姦後に殺害、死体遺棄で十九才の工員逮捕の記事が、紙面の下の方に小さく載っていた。犯行場所が十三大橋と長柄(ながら)橋のあいだ、長柄橋寄りの葦原であった。

氏名は載っていなかったが、壮平は豊の兄、登の犯行と直感した。そこは壮平たちの蟹突きの葦原であったから。


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淀川河川敷19

2008-10-06 15:32:17 | 淀川河川敷

壮平はグループに見つからないうちにと、来た道を引き返した。あとの三人も無言で従った。途中から葦原を分けて潜り込んだ。葦原の中は足元から冷気が立ち昇っていた。四人は葦を分けながら盲滅法に前進した。すぐに躯の芯が熱くなった。先頭の壮平は何度もゴム靴を枯れた茎に引っかけ転びそうになった。甲羅の干上がった黒っぽい蟹が足元を四散した。
「どこに行くん?隠れ家?」里子が鼻にかかった声で言った。
「あんなとこ行くか」壮平は行手の葦を倒し、怒鳴った。
「出られんようになるで」
「嫌やったら帰れ」

壮平は苛ついていた。寝不足でいつもの元気がなかった。風邪をひいたときのように、額から頬が火照り、夢見心地の気分だった。男と百貨店の中を歩いている母親が脳裏を掠めた。

母親の姿に重ね合わせるように、桃子姉ちゃんが不意に浮かんだ。桃子姉ちゃんとは、壮平が養護施設に預けられていた頃、壮平を弟のように親身に世話してくれた中学三年生の女の子のことだ。桃子は壮平が入る六年前から預けられていた。一度も親の訪ねてきたことのない、親に捨てられた境遇だった。

施設ではいつでも親と面会できた。大抵は日曜日に集中した。母親、父親に会えた子供は、面会室で親と一緒に寿司やケーキを食べて満足し、同部屋の子供たちに缶入りドロップやビスケットを手土産に、喜々とした表情で戻ってきた。壮平もその一人だった。桃子にはこうしたことがなかった。けれども寂しそうな影はなく、いつも雛人形のような笑みを上品な顔立ちに浮かべていた。勉強がよくできた。

桃子はなぜか壮平を弟のように可愛いがった。

壮平が母親に引き取られて行く日、桃子は園長や寮母の人達と、夕暮れの門柱で見送ってくれた。丸い頬にいつもの明るい笑みはなかった。壮平はその硬い表情を、自分の胸に焼き付けた。アパートから施設までは阪急電車でひと駅だったから、歩いて行ける距離だった。けれども壮平は施設を出て以来、一度もその門構えの所にさえ行ったことはなかった。めめしいと桃子に思われたくはなかったし、自分が生きているかぎり、桃子も生きていると思い込むようにした。

別れ間際に桃子は壮平を膨らんだ胸に引き寄せるようにして抱くと、「施設に居たもんはがんばらんとあかんで。だれにも馬鹿にされたらあかんで」と熱い吐息で囁いた。

何かの折りにはこの言葉が壮平の胸に去来した。施設に居た者はどんなことがあっても生きなければならない。壮平は母親の手を振り解くと、何度も桃子のほうを振り返り、姉ちゃん、ぼくがんばる、と下唇を痛いほど上歯で噛み、胸の裡で呟いた。
「壮平ちゃん、しんどなったわ。この猫ここに捨てよ」

豊はその場にしゃがみ込んだ。
「しんどい」
「腰抜け。弱音吐くな。もうちょっとや」

壮平は応えた。何がもうちょっとなのか、漠然とした気持で葦を両手で払って進んだ。葦の叢生が粗くなった。葦の繁みが切れ、壮平たちは思いがけなく学校のプールの半分程の池に出た。
「池やんか」

豊が大仰な声を上げた。
「壮平ちゃん知ってたんか」
「バクダン池や」壮平は言った。
「それ何やの?」
「アメリカの爆撃機が一トン爆弾を落しよったんや。それが爆発して池になったんや」

この池がそれに当たるのかは壮平にもわからなかったが、いつか教室で先生が教えた言葉を思い出した。池の真ん中は緑がかったオパール色に濁り、光の塊が水面のすぐ下でゆらゆらと揺れて沈んでいた。池の周りの葦は立ち枯れ、生きていることに絶えた腐った茎が水面に腰を折って没していた。池の周りには赤錆色の箔が寄り集まっていた。異臭を放ち腐敗を進行させた、死んだ池だった。

池の空間につむじ風のような強い風が吹いていた。池を包み込む冷気は死者が囁き合っているかのように、微かに音を震わせていた。疲れていた四人は、その場に思い思いの姿勢でしゃがみ込んだ。

「ここ風きついわ」里子は顔に乱れた髪を両手で後ろに梳く仕草をした。
「魚おるやろか」

豊は老人のように嗄れ声を上げた。そして屈んだ脚の間に猫の箱を下ろした。豊が箱の蓋を開けると、仔猫は首をもたげ辺りを探るように動いた。
「この池腐ってるさかい、魚はおらんな」豊は池を見つめて自分で返答するように呟いた。

赤錆色の金属箔が死の世界を証明したげに、きらきらと光っていた。
「気色悪い池や。それになんでここだけきつい風が吹いているのや。なんぞ池の底に居るのと違うか」不安そうな眼差しを豊は壮平に向けた。「壮平ちゃんこんな池、前からあったか」
「……」

壮平は直径十メートルほどの丸い池を押し黙ったままじっと眺めていた。壮平もここに来たのは初めてだった。周囲を高い葦の群生に囲まれたエアポケット状況に、無気力な空虚が充満していた。壮平と豊から離れた場所で、里子と幸子が怒り狂った風に髪を乱し、白い無表情な顔でつくねんと立っていた。

水面は波を一方の縁に打ち寄せていた。足元で赤錆色の蟹が動いた。壮平はゴム靴で蟹を踏み潰した。足底に蟹の断末魔の叫びが遺った。里子と幸子は小石を池に投げ始めた。
「あほ、石なんか投げるな。けったいな物が出てきたらどないすんねん」豊はおどおどした目付きで里子姉妹に抗議した。
「退屈やんか」里子はぽつりと言葉を発した。


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淀川河川敷18

2008-10-06 09:59:18 | 淀川河川敷
     *


堤防の上に立つと広々とした眺望が、右は十三大橋から左は長柄橋まで展開した。ちょうどいま十三大橋に並んだ鉄橋を梅田に向かう阪急電車が、霞みがかった風景の中を、玩具の電車のように渡って行った。対岸は青味を溶かした大空の下に、灰色に霞む不揃いな高さのビルが貼り絵のように林立していた。人気を感じさせない無機質な光景は、壮平の好きな眺めであった。対岸の手前を、淀川の流れが鉛色に幅広い帯を伸ばしていた。その付近をマッチ棒を半分に折ったほどの釣り人が、間隔を空けて歩いていた。
「里子となに喋っとったん?」

先に土手に上がっていた豊が、眼を細めて壮平を注視した。
「なんでもあれへん。あいつ、あほなんや」

里子と幸子は石段の中途で、上り下りして遊んでいる。
「どこらへんに捨てる?」

豊は広大な河川敷を見下ろす姿勢で訊ねた。
「……」

本流近くまでをニメートル近い葦が密生していた。葦原は起伏しながら砂漠の表面のように、どこまでも広がっていた。葦原に一本、幅広い太い線を引いたような凹みが本流の川岸まで伸びていた。釣り人などが二百メートルほど先の、寒天色に寒々と波立つ本流へ出る、葦を刈り取った道である。道は至る所で右左に分岐していた。

壮平は猫の箱を足元に下ろした。仔猫は腰が抜けたように、箱の片隅で眼を閉じていた。首筋を掴んで持ち上げると、目尻が上がり白眼をむいた。小さく開いた口が暗黒の洞窟を物語っていた。壮平は視線を逸らせた。叢に下ろしてもすぐに躯を丸めてじっとしている。
「もう死ぬのと違う?」

屈み込んで仔猫を見つめていた豊が呟いた。壮平は動かない仔猫に威嚇されている気がした。猫は化けて出てくるのでよけい気になった。
「今度は豊が箱持てや」
「うん。早う捨てて映画館へ行こう、一本目始まってるで」

壮平は先に土手を下り始めた。叢の途中で土手を見上げ、「お前ら従いてこんでええわ」と里子姉妹に向かって腹立たしげに叫んだ。
「なんでやの。淀川あんたのもんと違うで」里子はさっきと同じことを言った。

大声で応答すると、里子は幸子の手を引いて躯を斜めにして下りて来た。行く当てはなかったが平地に立つと、壮平は本流へ行く道に入った。おとなが三、四人は横に並んで歩ける幅に葦を刈り込んであった。左右の視界が背丈の伸びた葦に遮られるので、子供らには葦原の大海に潜り込んでいるのと違いはなかった。豊が背後から壮平の横に寄って来た。
「掌が熱いし、この猫重たいわ。ここら辺でもええやろ」
「川の近くに捨てんと戻って来る」
「ほんまに映画おごってくれるの?」
「ほんまや」

足元は凹凸の少ない平坦地だった。河川敷の中程まで歩くと、乾いた砂の堆積地が多く、小高い丘になっていた。よほどの雨台風でもないかぎり、ここまで冠水することはなかった。中程を過ぎると葦の群落が途切れ、左右に見通しが効くようになる。本流に近付くにつれて低地になり、白い砂地が上流から下流に向かって茫々と広がっていた。丈の低い雑草が流砂を留めていた。

護岸の石積みに川幅を狭められた淀川が、河口へと緩やかに流れていた。

四人は川岸近くまで出た。壮平と豊は喋ることもなく不機嫌な表情であった。背後のほうで何がおかしいのか、里子姉妹はけたたましい笑い声を上げ、互いに躯を叩き合いながら従いて来た。所々の川岸に釣り人がいた。川面に竿を伸ばし、ひたひたと打ち寄せる冷たい川の波面を、所在なげな姿勢で見つめていた。里子たちも笑うのを止めた。釣り人の脇に突っ立って、浮きを眺めている暇そうな人もいた。

二十メートルほど離れた砂洲で、壮平たちと年格好の同じ七、八人の子供らが叫び声を上げ、棒切れを振り回してチャンバラゴッコをして戯れていた。一人大きいのがいた。壮平は一目で、あいつだとわかった。豊にもわかったのか、壮平の傍に寄ると気弱な声を出して、
「壮平ちゃん、見つかったら因縁ふっかけてくるで」
「うん……」

同じ町内の長屋の子供らであったが、アパートの子供らとは敵対していた。一人だけ長髪がいた。壮平とは同級であったが、顔も躯も大きく、身長が壮平より頭一つ分頭抜けているのがいた。学校でもボス顔をしていた。いつも同じ顔ぶれの子分を七、八名従え、おとなしそうな中学生や同級生、下級生を脅しては金品を巻き上げていた。非力な中学生を路上で取り巻いて脅迫しているのを、壮平と豊は目撃したこともあった。

集団万引のグループだったが、同級生たちは仕返しを恐れて教師に告げる者はいなかった。

路上で出会ったりすると、豊や里子姉妹は彼らに取り囲まれた。長髪に頬を張られ、小遣い銭を持っていると巻き上げられた。

アパートに引っ越ししてきた頃、一度、壮平も左右を家並みに挟まれた路上で彼らの待ち伏せに遭い、囲まれた。金を要求されたが押し黙っていると、長髪に頬を張られた。その瞬間逆上した壮平は、脇の家の前に置いてあったゴミ箱の木蓋を、両手で持って夢中に振り回した。蓋の角が長髪の頭に当たった。髪に血が滲み、流血が耳から首筋に伝った。壮平はぞっとして逃げた。

夕方、父親が頭に白い包帯を巻いた長髪を連れ、酒臭い息でアパートに怒鳴り込んできた。母親の不在を知ると、壮平の額を小突きながら、大家の息子の嫁を相手に毒づいた。二人が帰った後で壮平は嫁にまで刺々しく責められた。翌日、壮平の母親は一升瓶と菓子箱を持ち、渋々顔の壮平を引っ張って謝罪に出掛けた。
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淀川河川敷17

2008-10-05 19:28:57 | 淀川河川敷
     七


蓋のない紙箱の隅で仔猫は、躯を丸めて胴震いしていた。その震えを箱を抱えている壮平は、両の掌に感じ取っていた。気味が悪かった。できれば仔猫の始末などうっちゃっておいて、すぐさま駅前の映画館へ走りたかった。早く映画を観たいという気持よりも、この禍々(まがまが)しい猫のことを忘れたかった。仔猫は何かを敏感に察知するのか、目やにの付いた眼で壮平を見上げ、赤い口を開いて弱々しく鳴いた。その様子に内心鳥肌が立った。お前が勝手に脚折ったんやぞ、と怒鳴りつけたかったが、豊の手前それもならなかった。
「この猫捨てに行ったら、ほんまに映画おごってくれるの?」

豊は壮平の眼を見て言った。
「嘘とちゃう」
「ほんまにこの猫、お化けみたいな顔しとるな」

二人は潜り戸に向かって歩いた。
「あんたら何持ってんのん」

突然頭の上で里子の大きい声がした。振り返ると二階の廊下の開け放された窓の窓枠に腕を載せて里子と幸子の顔が並んでいた。背の低い幸子は窓枠にかきついていた。
「あいつらあほとちゃうか、馬鹿声出しよって」

豊は小声で言ってから、里子の声に負けないほどの大声で、「猫や、猫淀川に捨てに行くのや」と怒鳴り返した。
「ほんま?そんなら従いて行くよって待っとってよ」
「なんでお前らを待たんならんのや」

豊が叫んだときには、窓枠に姉妹の姿はなく、二人は階段を駆け下りて来た。
痩せこけた足にゴム靴を履くと、鼻息荒く興奮した顔で近寄ってきた。
「従いてこんでもええわ」

壮平は斑模様に垢染みた姉妹を眺め、邪険に言った。
「なんでやのん、従いて行ってもええやないの。淀川あんたらのもんとちがうで」里子は抗議の口調で言葉を返した。
「どないしたん、この猫?」里子が箱の中を覗き込んだ。
「どないでもええやないか。お前らに関係ないわ」
「お姉ちゃん、汚い猫やな」か細い声で幸子が喋った。

上空にはうっすらと氷塊をスライスしたような雲が、一筋淋しく流れていた。壮平の眼には寝不足のせいか淀川への道がぼやけて映っていた。猫の重みを受けている腕に痺れがきた。
「もう一遍見せて」壮平が持っている箱を脇から手を伸ばして掴むと、里子は中を覗いた。「けったいな顔やな」
「何すんのや」

壮平は里子の手を躯を反転させて払った。
「顔が歪んでいるやないの」
「あほんだら、お前の顔よりましや」

壮平は里子を睨んだ。里子が近くにいるだけで壮平はおぞましい感情に襲われた。

里子は粘り着く視線で壮平を一瞥すると、不満そうに押し黙った。

箱を揺さぶったので仔猫の躯が萎(しぼ)んで見えた。頭を箱の底に垂らし、鳴く気力もなかった。痛めた前肢を赤い舌でペロペロと嘗(な)めていた。
「兄ちゃんな、今日友達と阪急百貨店に行くんやって」

何かを思い出したように、豊は言った。
「万引きしに行くのとちゃうか」と、里子は眼の奥に笑みを浮かべて言った。
「黙っとれ!お母ちゃんも仕事に行くねん。さっき化粧しとった」
「よう来る男の人とか」

壮平は訊ねた。
「うん、一緒に化粧品売るのやって」

すると聞き耳を立てていた里子が、「男の人が化粧品売ったりするかいな」と言った。
「あんたのお母ちゃん、その男の人とどっかに遊びに行くのやで」
「そんなことないわ。化粧品売るのや」

豊は仏頂面で里子を睨んだ。そしていきなり十メートルほど先の、淀川の堤防に上がる石段めがけて、狂った犬のように駆けた。朝日を浴びた石段が白く浮かび上がっていた。
「あんたとこにも男の人、泊まってたやろ」

里子は意味ありげに声を顰めた。
「なんべんも泊まりに来るやろ。来るたんびにあんたとこのおばちゃん、お金貰うのやろ」
「お金やこと貰うかい」

壮平は逆上し唇が震えた。里子の顔を殴りつけたい衝動が起こったが、里子の次の言葉で気勢をそがれた。
「うちのお父ちゃん、そない言うてたわ」
「お前のお父ちゃん、あほやないか」
「あんたとこのお母ちゃんかて、パンパンやんか」
「パンパンて何や」
「そんなん知らん。伊丹飛行場の近くにたくさんおんねて。お父ちゃんが言うてた」
「お前のお父ちゃんあほなんや。そやからお前のお母ちゃん逃げたんや」

壮平は里子への憎悪で逆上していた。過度に気を昂ぶらせたので、逆に反論する言葉が浮かんでこなかった。あほや、あほやと言うのが精一杯だった。殴りつけるにも両手で抱えていた猫の箱がブレーキになった。
「逃げたんと違うで。遠い所で働いているのや。うちに手紙くれたことあるで。帰ったら見せたるわ。嘘やないで」

涙ぽい瞳の幸子までが、姉の顔を窺うように見上げ、「なあ姉ちゃん、お母ちゃんすぐ帰ってくるな」姉に加勢して、幸子は壮平に白い眼を向けた。

壮平は里子と言葉を交わすといつも喧嘩口論になった。それも遊びのそれでなく、お互いに眼を三角にして、胸裡にあるぎりぎりの憎悪を吐き出してやり合った。壮平は、里子を殺したいほどに嫌悪した。里子も目尻を釣り上げ、唇を紫色にして反論した。それでいて二人は怨念の糸を躯の内側で牽引するように繋がっていた。
「卵やろ言うてんのに、偉そうに断わったやないか」
「あんたとこのおばあちゃんに卵もらう義務ないわ」
「お前があほやからや」
「あんたこそあほやないか」
「お前こそ夏休みに豊の兄ちゃんとオメコしたやないか」
「あ、言うたろ。言うたらあかんのに」

壮平はつい口を滑らせた。
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淀川河川敷16

2008-10-05 15:46:31 | 淀川河川敷
「性根の曲った子にだけはならんようにしてもらわないと」

母親は男にとも壮平にともつかぬぼんやりとした口調で、壮平の横顔をまじまじと眺めて言った。
「しっかりしているよな、壮平君」

お茶を飲むと男は笑顔で言った。
「里子ちゃんなんか可哀想なものよ。お母ちゃんは居ないし、呑んだくれのお父ちゃんに殴られているようだし。あなた、そりゃもの凄いのよ。夜中に二人の女の子が、堪忍して、堪忍して、廊下を走り回るの。あの悲鳴聞いていると、こちらの神経までどないかなりそう。あれじゃますますいじけてしまう」
「近くに民生委員とか児童相談所は?」
「知らないわ。いまだって鍋に冷やご飯入れて醤油だけで掻き回してたの。可哀相だから卵を入れてあげようって言うと、怖い顔して断わるの。こちらがどきっとするような表情だったわ。人の親切が通じなくなってるの」
「一時期、浮浪児とか靴磨き少年がたくさんいた。まだまだ日本は子供に手が回らない」
「壮平にだけは誰にでも好かれる子になって貰わないと、お母ちゃん、なんのために苦労してるのかわからなくなる。夜だって壮平といっしよに居たいわ。でもお金儲けるには、今の仕事しかないのよ」
「それくらいのことは壮平君だってわかっているよ、六年生だから。そうだろう、壮平君」

壮平は仕方なく頷いた。胸の裏で何かが燻(くすぶ)った。

母親は自分にとって都合の良いことだけを喋っていると、壮平は反発した。男はご飯を口に運んだり、みそ汁を飲んだりしながら、母親の言葉に適当に応対しているにすぎない、と思った。もし男が本当にいい人だったら、泊まりに来たりするはずはないと考えた。

母親が自分たち兄妹を山口県の伯母、叔父に預けたのも、その後自分だけを引き取り、すぐに養護施設に入れたりしたのも、すべて母親の身勝手からではないか、壮平はこんな見方しか母親にできなかった。昼間の仕事では暮らしていくことも壮平を学校にもやれない、とよく言ったが、壮平は納得していなかった。壮平が母親に求めていたものと、母親が壮平に示してくれる愛情はいつも食い違っていた。

毎朝七時半過ぎに豊と阪急電車の線路沿いの道を登校するときには、壮平たちは駅へ向かう通勤、通学のおとなたちや高校生の列に混じった。花柄模様のワンピースに白いサンダル、白いハンドバッグ片手の若い女性も多かった。電車のドアや窓にも、身動きできないほどの通勤客が貼り付いていた。朝から働きに出る女の人たちの姿を眺めていると、同じ女でもどこか母親とは違うと感じた。

第一煙草を喫う女はいない気がした。酒やビールを飲む女さえいないと思った。壮平の母親はよく煙草を喫った。壮平の父親が亡くなった頃から喫うようになった、と壮平に話したことがある。気にしているのか、ときどき思い立ったように灰皿の吸穀を半紙に包んで、壮平を誘って近くの神社へ行った。帰路母親は、「壮平、お母ちゃん神さんと約束したからもう喫わない」と言った。だが一週間もすると煙草を指に挟んでいた。

男が訪ねてきた土曜日の夜は、母親はビールか酒に顔を火照らせ、猫撫で声になった。壮平はねとっと若やいだその声が嫌いだった。結局壮平は、母親は普通の女の人とは違うのだと思うようになった。人が出勤する時刻には、母親は掛け布団の端から乱れた頭髪を覗かせて眠っているか、枕元に灰皿を寄せて煙草を喫っているかのどちらかだった。
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淀川河川敷15

2008-10-05 11:12:13 | 淀川河川敷
     六


壮平が部屋に戻ると、男は座卓の上に新聞を広げ見入っていた。
「ここに置いてもらおう」

男は眼鏡を外すと新聞を畳んだ。母親の用意した手拭を湯に浸けると、それを大事そうに絞り顔や首筋を丹念に拭った。それが済むとひと仕事したといったふうに、座卓の前に座り直した。赤味を帯びた顔に眼鏡をかけ直すと、校長のような近付きがたい顔になった。母親から組合の専務理事だと聞かされていたが、それがどういうものか壮平は見当がつかなかった。男はまた新聞を広げた。
「壮平君はどんな科目が好き?」

新聞に視線を向けたまま男は言った。
「科目?」
「そうや。国語とか算数」

壮平はどう返事してよいか迷った。学校で自分が何をしているか判然としなかった。時間が来ると教科書とノートが替わり、黒板に書かれる内容も違ったが、壮平の頭に残ることはなかった。

宿題を忘れてきたことが発覚しないかとひやひやしどおしだった。授業中は先生と視線が合わないように下を向いていた。得意げに手を挙げる同級生は、きちんと宿題をしていた。
「おじさんは歴史が好きやった。歴史の先生になりたいと思ったことがある。しかし大学では別な勉強をやったので、先生にはなれんかった。戦争に負けると、おじさんらの習った歴史では使いものにならんようになった。鬼畜米英がカム、カム、エブリボディ、チョコレートをねだる時代になったんだからな。こんな話は壮平君に難しいか。壮平君のお父さんも大学では理財やったな。おじさんは早稲田やけど壮平君のお父さんは慶応や。病気で亡くならんかったら、いま頃は会社の偉い人になっていたんやが。お母さんもきみを抱えて苦労することもないんやが、戦争が悪かった。しっかり勉強して、お母さんを楽にしてあげんとあかんな」
「……」

父親の話が出て壮平の胸は疼いた。父親は終戦の翌年の冬、疎開先の郷里で亡くなった。肺結核だった。大阪の西田辺に二階建の借家があったが、空襲で焼けた。父親の死後、五歳の壮平と三歳の妹は母方の伯母、叔父の所をたらい回しに預けられた。壮平だけが大阪で働く母親に引き取られたが、すぐに十三の養護施設に預けられた。正門横に煉瓦造りの教会があり三角屋根の頂に十字架が立っていた。一年半ほど前に養護施設を出て、母親と暮らすようになった。妹はまだ山口県の叔父の家に預けられていた。
「おじちゃんと何を話してたの」

母親が戻って来た。みそ汁の匂いが漂った。
「壮平君は何が好きか訊いてたとこや」

母親は熱いみそ汁鍋を握っていた布巾で、座卓の表面を拭きながら、「ご飯温めているから少し待って。この子は何を考えているのかわからんとこあるのよ」と言った。そして腰を上げると隣りの部屋の水屋の処へ行った。
「勉強はしない。このあいだ学校に呼ばれたの。なんでも音楽の時間に、前に座っていた男の子の顔を履いていたゴム草履で殴ったんだって。殴った相手が朝鮮の子だったの。それでこのまま放っておくと、その子には兄さんがいるのね、その兄さんや仲間の人に仕返しされて半殺しの目に合うかもしれないから、壮平を連れて向こうに謝りに行ってくれって、言われたの」

母親は水屋との間を往復しながら喋った。座卓の上に男専用の茶碗、皿、箸が並んだ。
「半殺しとは大袈裟なこと、先生言うね」
「急いでお菓子買って謝りに行って来たわ。その子とお母さんとお婆さんしか居なかったけど。子供同士のことやから、と向こうのお母さんに言われて助かったわ。それでもあれね、向こうの人、大変な暮らしね。驚いたわ」
「壮平君、どこの子であろうと殴っちゃいけない。朝鮮の人は半島人なんて言われて日本人に大勢が虐められた。殺されたり、家を焼かれたりした」
「先生の話じゃね、その子が壮平の気に触ること言ったらしいの。普段ものも言わない壮平が顔面蒼白で、ゴム草履握って椅子から立ち上がっているので、先生もびっくりしたそうよ。これだけではないのよ。以前にもクラスの子と喧嘩して、その時壮平が小型ナイフで身構えたんだって。先生慌てて取り上げたそうよ。施設に入っていたので普通の子より情緒が不安定なんだろうって、先生言ってたけど、どうしたらいいかわからないわ」

壮平は畳の目に視線を張りつけ表情を硬くしていた。
「きみぃ、子供の前でそんな話してはいかんよ。壮平君、誰だって辛抱せんならんことがある。おじさんだって辛抱することがある。絶対に手を出したほうが負けや。そんなときは、こぶしを握りしめて我慢した人間が偉くなるんや」
「壮平、おじちゃんの言う通りやで」と言うと、母親はばたばたと炊事場へ行った。

男は母親の後ろ姿を見送ると、握りこぶしを突き出し、涼しい眼差しで壮平の瞳を捉えた。壮平はどぎまぎして、外した視線を宙にさまよわせた。男が愛情の籠った口調で自分を庇ったり励ましてくれたのはわかる。けれども馴染めなかった。素直になれないものが躯に凝固していた。壮平は仏壇の中でほほ笑んでいる、父親の眼差しのほうにやすらぎを覚えた。
「あなた、きょうは大丸でゴルフの賞品を注文しておくだけでしょう。ゆっくり出掛けてもいいのでしょう」

男は箸で目玉焼を裂いていた。
「二時に大林君と会うことになっている」
「大林産業の?」
「明日の下準備があってね」
「明日の会議は大勢集まるの?」
「近畿ブロックの会議だから」
「京都の新宅さんも?」
「返事の葉書が来てた。会議の後で店に寄ると思う」
「嬉しいわ。大勢揃って来て欲しいわ」

壮平は二人の会話を、苛々した気持で聞いていた。
「あと二十枚チケット売れたら今月もナンバー・ワンになれるの」
「大林君や組合の深尾君も行くよ」
「それで大丸には誰が取りに行くの?」
「深尾君と和田さんが明日車に積んで、宝塚まで来ることになっている」
「あの二人、いい仲になってるのかしら」
「そんなことぼくは知らんよ」

男は眼鏡の奥で笑った。
「壮平、お母ちゃん、おじちゃんと買い物があるから十時頃出掛けるわ。昼と夜のおかず、何か買って食べてね」
「帰って来ないの?」
「そうよ、お店に出ないといけないでしょ。一日休んだら、壮平を学校にやれなくなるでしょ」
「……」
「百円置いとくから。お小遣いはきのうおじちゃんからもらってるでしょ。足りるわね」
「うん」
「無駄遣いしちや駄目よ」

訪ねてくるたびに黒革の財布から壮平に二、三百円くれた。ついでに男は母親にも千円札を五枚、十枚と渡すことがあった。そんなとき、助かるわと言って、母親はさっさと箪笥にしまい込んだ。
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淀川河川敷14

2008-10-04 18:40:11 | 淀川河川敷
部屋に入ると壮平の布団は押入れに片付けられ、母親が座卓の上の汚れ物をバケツに移していた。壮平は洗顔に使った後の残り湯の入ったヤカンを手にぶら下げ、ドアを背にして突っ立っていた。
「来たの。ヤカン持ってきて」

母親はヤカンを受け取ると、座卓の上に少し湯を零し布巾で表面を拭き始めた。壮平は途方に暮れていた。男の影が硝子障子に揺らめいていた。
「おじちゃん、壮平が朝のご挨拶だって」

壮平は目蓋の辺りが急にむずがゆくなった。眼球が煙を吸ったように視界がぼんやりした。
「壮平君はいつも早起きなんやな」

硝子障子の向こうから男のはっきりした声がした。母親の傍らで返事をしないで目蓋を手の甲で擦っていると、母親は無言で白い片手を伸ばし壮平の腰を押した。六畳の部屋に無理やり押し込まれた壮平は、「おはよう」喉から強張った声を絞り出した。目蓋の皮が震えた。
「あ、おはよう」

男は寝巻姿で胡座をかき、四畳半から運ばれてきた小さい鏡台に向かって上体を傾け、頬にカミソリを当てていた。一回頬にカミソリを当てると、刃をちり紙で拭った。それから頬に母親のクリームを塗った。
「おじちゃん、お湯要るでしょ」

母親が声を掛けた。
「壮平君お湯もろてきて」男は言った。

壮平はヤカンを母親から受け取ると、また男の背後に立った。
「壮平君それ、この洗面器に移して」

男の横に洗面器が置いてあった。壮平が近寄って静かに湯を移すと、洗面器から湯気が上った。
「壮平君、今日は何するんや」

男は洗面器の中に手拭いを漬けながら言った。男は熱くなった手拭いで、髭剃り後の顔を拭うのが好きなようだった。
「淀川へ行ったり、本読んだり……」
「今日はおじちゃんにもらったお小遣いで、映画観に行くんでしょ」母親が口を挾んだ。
「うん」

駅前に映画館が二軒並んでいた。一軒は洋画専門だった。二軒とも封切でなく半年、一年遅れのものを、三本立て大人七十円、中人五十円、小人三十円でやっていた。

邦画の一本は嵐寛の「鞍馬天狗斬込む」で、壮平がどうしても観たい映画だった。隣の洋画のほうも劇場の入口の上に大仰な色彩の看板が立ち、俳優の立ち姿が描いてある横に「聖衣」と朱色で書いてあった。世紀の驚異シネマスコープ・総天然色とも書いてあり、壮平の興味を惹いた。珍しく一本立てだった。
「壮平君、この前の本面白かった」

この前の本……と内心でつぶやき壮平は、あ、読んでない、と男からもらった本のことを思い出した。『ああ無情』という部厚い童話だ。表紙を開くと色彩の挿絵が載っていた。荷車の周囲に群衆がいて荷車の下敷きになった子供を驚いた表情で注視している場面だった。一人だけ山高帽にフロックコートを着けた男が目立っていた。背後の煉瓦壁には隠れた格好の眼光鋭い男が小さく描かれていた。
「壮平、読んだわね」

母親が有無を言わせぬ気配で言った。
「うん……」
「面白かったわね」
「うん……」
「そうか、本読むの好きやったらおじさんまた買って来るわ。何がいいかな。『十五少年漂流記』なんか読んだかな」
「ううん」

壮平は踊り場で待っているはずの豊のことが気になっていた。
「今度はそれにしようか」
「うん」
「壮平、はいでしょう」
「うん、はい」

壮平が男の使った洗面器の湯を炊事場に捨てに廊下に出ると、豊が踊り場の処から退屈そうな顔を突き出した。
「まだか壮平ちゃん」

しびれを切らした声だった。半分齧り付いた食パン一枚を手に持っていた。
「もうすぐや」

壮平は不機嫌に言った。
「里子ら起きとるで」豊が壮平の背中に囁いた。

炊事場に入ると、里子姉妹がガスコンロの前に立っていた。炊事場は年中暗いので、里子姉妹の後ろ姿は双子の幽霊のようだった。父親からの虐待と登による性虐待が、里子姉妹の躯やこころにどのような傷痕を残しているのか、壮平は、いやこのアパートの住民誰一人として知る由もなく、一日一日を過ごしていた。

ガスコンロに架かった鍋の中を里子が長箸で掻き回し、それを妹の幸子が覗き込んでいた。醤油の匂いが立ち込めていた。姉妹は壮平が現れたことを意識して塑像のように身を硬くしていた。壮平は見てはならないものを目撃した思いで、胸が塞がった。姉妹を見ないようにして、流しに洗面器の湯を捨てた。

母親のスリッパの音が近付いてきた。ヤカンとバケツを提げて来た。
「壮平、お湯沸かすから、もう一遍おじちゃんとこに持って行って」

母親はガスコンロに三分の一程水を入れたヤカンを載せ、火を点けた。
それから汚れ物を洗い始めた。壮平は母親の背後にぼんやり突っ立っていた。
「里子ちゃん朝ご飯の用意?偉いわね。うちの壮平なんかなんにもしないのよ」
「もうできてん」

里子は反発したような声で、急いで鍋に蓋をした。
「幸ちゃんはいつもお姉ちゃんと一緒ね。お父さんまだ寝てはるの?」

母親は骨と皮だけに痩せこけて見える幸子に、優しい声で尋ねた。
「お父ちゃん昨日は仕事で泊まりやねん、帰ってないねん」

すかさず里子が代って応えた。
「そうやの。大工さんにも泊まり込みの仕事あるんやね」
「ビルの工事をしているのや。お父ちゃんそない言うてた」
顔に垂れた長い髪の割れ目から両目が覗いていた。傍らで小学四年生の幸子が、いじけた顔付きで里子を見上げていた。
「そう。壮平お湯沸いたわ。下ろして洗面器に半分入れて」

水を混ぜてぬるめた湯の入った洗面器を、壮平は湯が零れないようにゆっくり足を前に出して炊事場を出た。その壮平の耳に、「おじや作ってるの。おばちゃん卵入れたげるわ」
「もうできたからかまへんねん、こんでええねん」里子の尖った声が、狭い炊事場に反響した。

里子のあほんだら、お母ちゃんが親切に言うとんのに断わりよって、と壮平は腹の中で怒った。

あんなんやから学校でも砂かけられるんや、と壮平は、学校の運動場で男の子に追っかけられて、頭や首筋に砂をかけられている里子を思い出した。壮平と里子は同学年だったがクラスが違っていた。壮平のクラスの副級長の貴子は綺麗な顔で綺麗な服装だったが、薄汚れた顔と薄汚れた服装の里子は、いつも男子生徒に虐められていた。砂を背中に放り込まれた里子は、自分の両脚をスカートの上から抱きかかえ、じっと蹲っているだけだった。泣いているのでなかった。ただそうやって蹲り、長い黒髪に顔を隠していた。

壮平は里子を男子生徒から助けてやることはなかったが、里子を虐めている数名の男子生徒を、鉄棒の場所から眺めながら、いまにみとれ、という感情を滾(たぎ)らせていたが、この感情が里子への同情や憐憫でないことは確かだった。感情の源は掴めていなかったが、壮平自身、憤りに苛まれていた。

踊り場に豊は居なかった。窓の外に淀川の土手が平らに伸び、その上に寒々とした薄曇りの明かりが広がっていた。
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淀川河川敷13

2008-10-04 14:06:57 | 淀川河川敷
     *


「飼い猫やったらもうちょっと人になついてもええのに、こいつなつきよらん」

壮平は仔猫の頭を拳でコツンとやった。
「飼い主でないとわかっているさかいや。鳴いても仕方ないことわかってるんや」

「飼い猫やったら人に近付いてくるはずや」
「そんな猫かて一匹くらいはおるけど、この猫は違うのや。壮平ちゃんかて急にお母ちゃん替わったら、馴れ馴れしいするか」
「そんなことするか」

壮平は豊の言葉に苛々してきた。
「猫かて同じやんか」

豊は階段に腹這いのまま上目づかいに壮平を見た。頭の両脇から大きな耳が、世間の悪知恵をすべて掻き集めるように出っ張っている。

なにが猫かて同じやんか、か。壮平は胸の裡で腹立たしく呟いた。
豊の理屈に苛立ち、
「なんや退屈やな」と投げ遣りに言った。
「淀川に行こか」
「何しに?」
「蟹やっつけに」
「寒いやないか。それよかこの猫のことや」
「里子らどないしてるのや」
「まだ寝とるやろ」

壮平はわざと両腕を頭上に挙げ、大きい口を開けてあくびをした。豊との問答で言い負かされたように感じ、腹の底に悔しさが残った。もう起きとるやろか、と不快な気分に紛れ込んで、不意に部屋の男と母親が脳裏に浮かんだ。
\vskip1zw
..五)
\vskip1zw
壮平は、踊り場の窓から退屈な気分で外の景色を眺めていた。
「壮平、何してるんや」

母親の突然の声にびっくりした。階段に腹這いになって仔猫をなぶっていた豊は、ぴょんと躯を起こすと、板間に膝小僧を揃えて正座をした。
「どうしたんや、その猫?」
「きのう風呂の帰りに、壮平ちゃんが拾うてきてん」すかさず豊が応えた。
「そんな猫拾うてきたら駄目やないの。大家さんに見つかると怒られるで。壮平、すぐに捨ててきなさい。もう。パン食べたんか」
「食べた」
「豆腐と油揚げは?」
「炊事場に置いといた」

黄色のブラウスに赤い毛糸のガーディガンを重ね着した母親は、言うだけのことを言うと、逆立った髪を指先で掻きながら廊下を渡り、突き当たりの共同便所に姿を消した。
「壮平ちゃん、どないするこの猫」
「淀川へ捨てに行かんか」

壮平は窓枠に片腕を載せ、仔猫を見下ろした。脚を伸ばし、足の甲で猫の顔を掬い上げた。甲に仔猫の震えが伝わった。仔猫は鳴き出しそうに口を開いたが、すぐに足から顔を外した。便所から出てきた母親は、炊事場に入った。暫くすると右手に食器の汚れ物を入れるバケツを下げ、左手に男用の洗面器を持って戻ってきた。
「壮平、顔洗うてないんやろ。お湯沸かしてあるから洗うといで。それから残ったお湯持ってきて。おじちゃんにおはよう言うねんで、きのう百円もろたやろ」
「……」
「お母ちゃんいまからおじちゃんの朝ご飯の支度するのやけど、お前も食べるか」
「もうええねん」
「その猫捨てといでや」
「うん」

壮平は、薄っぺらなスカートをゆらゆらさせ、部屋に戻って行く母親を見送っていた。腰の辺りが楽しげに弾んでいた。
「いつものおっちゃん、来てたんか」と、豊は壮平の顔を覗き込んだ。
「知らん、そんなこと」
「ぼくのとこにも来てるで。兄ちゃんは工場で泊まることがあるさかい、昨日は一人で寝たんや」
「そういえば豊の兄ちゃんの顔、この頃見たことないな」
「工場に仕事が決まってからは、あんまり学校にも行ってない」
「ふぅーん、そうなん」
「兄ちゃんな、そのうちどえらいことして、都島(みやこじま)の鑑別所行きやと言うてた。女をヤルのや、言うてた」
「鑑別所て何や?」
「ぼくも知らん」
「顔洗うてくるわ。その猫見とってや、すぐ来るさかい」
「壮平ちゃん、ぼくもパン食べてくるわ」
「そんならその猫、昨日の箱に入れて、どっかに隠しといてや。蓋に石載せといたら逃げへん。そうや、きょうな映画おごったるわ」
「ほんまか」
「任しとけ。猫捨てに行ってからやけどな」

壮平は炊事場に向かい、豊は仔猫を抱いて階段を下りて行った。
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淀川河川敷12

2008-10-04 10:44:46 | 淀川河川敷
     *


豊は壮平より一つ下の五年生だったが、自分の見解を示すときは、桃色の歯茎を露わにして真顔で喋った。頭が大きく、額は広く、脳みそが豊かに詰まっているのか、後頭部がくの字に膨らんでいた。近所の駄菓子屋や駅前の書店、果物屋で万引するときも、たいてい豊が自分で店内や人通りを充分に観察してから、壮平に盗む知恵やタイミングを教えた。壮平と豊の履いている青のゴム履は、二週間前に十三駅前近くの商店街の店先から、豊が素早くかっぱらってきたものだ。

二人は駅前通りの履物屋をねらった。店内の奥の棚には男物、女物の高級靴が並び、中央のショウケースには財布やハンドバッグなどの皮製品が陳別されていた。店先の台に安物のゴム草履やゴム靴が乱雑に積まれていた。店の奥に通じるカーテンに仕切られた入口が奥にあり、ちょうどそのとき、そこの片隅の事務机の前に、三十歳くらいの女が座っていた。二人は向い側の時計屋のショーウィンドウの前で時計を眺めるような格好で立っていた。
「壮平ちゃんいまやったら、ひと歩いてないで」

豊は真顔で言った。
「うん」

壮平は促されるように応えた。緊張で胸の鼓動が高鳴っていた。豊の考えついたこと、手に持っていたゴム鞠を履物屋の店内に、時計店の前から力を入れて路面に転がした。ゴム鞠は真っ直ぐに転がっていき、店内の物陰に見えなくなった。壮平にも何処に転がり込んだのかわからなくなった。店先に駆けて行くと、
「おばちゃん、中にボール入ってしもた。取らして欲しいねん」

と大声で叫んだ。

事務机で雑誌でも読んでいたのか、女は退屈そうな顔を上げた。
「どこに入ったの?」

立ち上がると女は、髪の中に爪を立て、頭を掻きながら大儀そうに問うた。

「そこらへんやと思うねん」

指をゴム鞠を転ばした方向とは反対側に向けた。
「その奥に入った」

男物の靴を飾った棚のいちばん下に、紙箱が未整理に重ねられていた。
「ここ?」と言って、女は水色のワンピースの尻の辺りに片手を当ててしゃがみ込むと、黒髪の頭を傾けて奥を覗き込んだ。
「ないわよ」
「確かにその辺やねん」

壮平は応えながら視線を店先に向けた。丸坊主頭の背の低い豊が、もう店先の台の前に立っていた。泣いているような笑っているような奇妙な顔付だった。
「ピンポン玉?」
「違う、普通のゴムボールや。上に投げもって歩いてたら受けそこのうて……」

視線を遮るように壮平は、女から豊の姿が見えない位置に立つと、女の白い首筋を眺めながら返事した。
女は棚の下に積み重ねてあって箱を、順次左右に寄せて探してくれた。その間に壮平は反対側の棚の辺りに目を向けていた。
「あっ、おばちゃん。あったわ」

壮平は叫んだ。反対側に走ると、ゴム鞠の転がった棚の下に片腕を突っ込んだ。
「逆の場所やないの」

振り返りながら立ち上がった女は、ゴム鞠を握っている壮平に言った。別に機嫌が悪そうでもなかった。
「おばちゃん、ありがとう」

壮平は店を飛び出すと一目散に駆けた。女が不機嫌な表情でなかったのでほっとし、優しいおばちゃんやった、と壮平は安堵した気持で浮き浮きした。緊張が解けたせいかもしれなかった。通りの電柱を二本分ほど駆け抜けた。
「壮平ちゃん、ここやここや」

豊が横道の露地から声をかけた。豊は新品の青いゴム靴を汚れた素足に履き、両手に壮平の分を片方ずつぶらぶらさせて、にやにや笑っていた。
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淀川河川敷11

2008-10-03 20:54:19 | 淀川河川敷
「啼く力もないのか」

壮平は情けなくなった。ふと、昨夜母親が男のために用意したおかずの皿に、マヨネーズを塗ったハムの食べ残しがあるのを思い出した。男が寝る時間になると六畳間の電燈の真下の座卓は、壮平の寝る四畳半の片隅に移動した。ハムはなくても、かまぼこか焼き魚の身が、皿に残っているはずだ。二人とも起きているのだろうか、眠っているかもしれない。ひと思案してから、「待っとれよ」と声をかけると、壮平は仔猫を床に置き立ち上がった。

座卓の上には数種の酒の肴と徳利と盃が、部屋の空気を温めるように並んでいた。男は酒を好んで呑んだ。白い腕を伸ばし男の盃を満たすと、自分の盃にも注いでもらう母親の喜悦した表情を、壮平は母親の横から一瞥した。鼻にかかった母親の猫撫で声を聞くと、映画で観た化け猫に変身したのでないかと怪しんだ。

酔った男は顔を赤らめ、時折鼈甲縁の眼鏡を外し、お絞りで顔を拭いながら、満悦の表情であった。男は組合の事務員の噂話、仕事で交際のある会社の社長の動向を喋ったりした。母親は今月は誰それがナンバーワンよ、と勤めているダンスホールのことを話した。お互いに知っている人のことが話題であったが、壮平はその誰一人も知らなかった。どうでもいいことだった。壮平は二人の話に付き合わされても退屈なだけだった。

壮平の寝ている部屋には壁に整理箪笥と水屋が並び、布団の足元には六畳から移動させた座卓が置いてあった。入口横の南向きの小窓から射し込む、仄白い明りが埃っぽく座卓に当たり、食べ残しの皿が汚らしく浮き上がっていた。昨夜の二人の賑わいが嘘のようだった。爪先立ちで上体を曲げ座卓の小皿を覗いていると、「もう起きたの?」とねっとりした母親の声が硝子障子の向こうから聞こえ、鼠色の影が揺れた。壮平は屈み込んだ姿勢で立ち竦んだ。
「……」
「いま何時?」
「七時二十分」

壮平は柱時計を見上げていた。自分の声で男が目覚めはしないかと、胸がどきどきした。
「鏡台の上にお母ちゃんの財布置いてあるから、そこから百円持ってパンと牛乳買って食べてね。ついでにお豆腐一丁と薄揚げ二枚買ってきて、炊事場に置いといて」

男と過ごしているときの母親の物言いは、ことさらに優しい。このことがなぜか壮平を苛々させた。行き場のない憤りに胸を痛めた。
「うん」

口籠もった返事をした。普段は百円持って自分の好きなパンを買いに行くことが嬉しかったが、男のいる朝は嫌な仕事を押し付けられたようで、気持が重苦しくなった。自然と視線が、整理箪笥の上の小さな黒壇の仏壇に向いた。小学四年生の頃から壮平は母親に教えられるまでもなく、父親や兄、姉たちを祀ってある仏壇に眼をやることが多かった。写真立てには縁のある帽子を目深に被り、右手に杖を立て、立て膝をついて腰を下ろした笑顔の父親が、背後に同じような帽子を被りオーバを着た友人三人と写っていた。写真は黄土色に変色していた。

高野山の刈萱堂(かるかやどう)前で、大学当時の学友と写した写真、と母親が話してくれたことがあった。お父さんがいちばん気に入っていた写真だから飾ってあるの、とも言った。

そのときの母親の声は壮平の母親の声だった。温りのある安らかな栄養のようなものを、壮平の心に届けた。亡くなった父親を仲介に自分と母親が繋っていることを、包むように感じさせる声だった。いまの化け猫の声とは違う、壮平は硝子障子の向こうからの声を聞くと、財布から百円札を一枚抜き取り、部屋の重圧から逃げるように部屋を出た。

廊下に出ると冷たい水で喉を潤したあとのように、壮平の胸の鼓動は収まった。学校やおとなの人の仕事のある日と違い、日曜日の二階のどの部屋もドアに住人の眠っている気配が、沈黙のドアに貼りついていた。左端の壮平親子の隣は滅多に見かけることのない共働きの若い夫婦、その隣の右端の部屋には里子姉妹が父親と暮らしていた。父親の姿を壮平は最近見たことがなかった。きょうのような日曜日でも始発電車か次の電車で天王寺方面へ仕事に行くのだと、以前里子が話してくれたことがあった。

里子姉妹の部屋の隣、そこは廊下の突き当たりで共同の男便所と女便所になっていた。その手前を左に折れると、昼間でも電燈の明かりの必要な、じくじくと湿った共同炊事場だった。

相変わらず仔猫は、踊り場の角で耳を震わせて蹲っていた。

壮平が近付くと瞬間両耳をびくりとさせたが、すぐに知らんふりの素振りで、前肢に顎を載せ、眼を閉じていた。壮平は仔猫のいかにも人を寄せつけない態度に、急に憎しみが胸に拡がった。いきなり屈みこむと仔猫の柔らかい感触の首筋を掴み、宙に放り上げた。ひと声ニャアと鳴いて、仔猫は宙を舞い、両肢を巧みに泳がせ躯を反転すると、すとんと床に四本の脚で立った。両肢に力を蓄え、下腹を絞った格好は攻撃に備える姿勢だった。

壮平は新鮮な感動を覚えた。漫画雑誌で見た姿三四郎の空気投げを思い出した。

仔猫への憎悪は消え、宙で躯を反転させ床に着地する、その妙技に興味が移った。壮平は仔猫の首筋をもう一度掴むと同じことを繰り返した。それ行け、もう一遍や、と仔猫に声をかけ、しだいに高いところに駆け昇る快感に誘われていった。

男と母親のことをすっかり忘れた。何度も仔猫は短い脚を立てて着地した。毎回小さい口を開け、赤い舌を覗かせ、ニャアと小声で鳴いた。

そのうちに仔猫の様子がおかしくなった。瞳を彷徨(さまよ)わせ、着地のたびに躯を不安定に歪めた。着地に余裕がなくなり蹌踉(よろ)めいた。しかし壮平は自分の気持を抑えることができず、執拗に仔猫を頭上に放り投げた。しばらくすると仔猫が横倒しに倒れ、起き上がらなくなった。

壮平はやっと我に返った。観察すると仔猫の右前肢がくの字に曲り、力なくぶらんぶらんとしていた。怖いものを見てしまった、そんな怖気(おぞけ)立つ感情におののいた。頭に血が逆流した。

壮平は両足の足裏で仔猫の胴体を白壁に押しやった、仔猫は尻を向けたまま踊り場の角で、頭を白壁に付けて蹲った状態だった。壮平は黒板に書いた落書きを急いで消すように、仔猫への行為を忘れてしまいたい気持に襲われ、立ち上がると、急いで階段を駆け下り、ゴム靴を履いた。

町内のパン屋と豆腐屋を廻って戻ってきた壮平が、階段下でゴム靴を脱ごうとしていると、「きのうの猫?」と上のほうから豊のねっとりとした声がした。見上げると黒ズボンに丈の短そうな毛糸のセーターを着込んだ豊が、足裏を覗かせ階段に縦に腹這い、顔だけ下に向けていた。
「びっこ引いとるやんか」
「うん、脚折ったんや」

パンを包んだ紙袋と片方の手に豆腐を入れた小鍋を持った壮平は、豊の躯を避けて階段を上った。
「これ置いてくるわ」と豆腐の入った小鍋を、豊に突き出した。
共同炊事場から戻って来ると、「どないして脚折ったんや」

豊は怪訝な口振りで訊ねた。
「そんなこと知らん。晩のうちに折りよったんや」

壮平はパンの紙袋を持ったまま、廊下の端に腰を下ろした。豊は階段に下半身を預けた格好で、人指し指を伸ばすと、「どないして折ったんや」と訊ねるふうに仔猫の尻を小突いた。仔猫は丸い躯を震わせ、背骨を小高く盛り上げたが、起き上がるでもなくすぐに蹲った。壮平は豊の首筋を眺めていた。昨夜銭湯に行ったばかりなのに、垢じみていた。
「もう朝ご飯食べたんか」壮平は訊いた。
「まだや」
「半分やろか」
「何買うてきたん」
「ジャムパンと亀パンや」

壮平は白い紙袋に片手を突っ込むと、ジャムを挾んだコッペパンを取り出し、半分ちぎって豊に渡した。
「昨日の力道山の空手チョップ凄かったな」豊は満足そうに口をもぐもぐさせて言った。

昨夜、銭湯の番台に座っているおっさんの頭上の棚に載せてあるテレビで放映されていた、力道山・木村政彦対シャープ兄弟のプロレスのことだった。

銭湯の男の脱衣所は、着衣のおとなや風呂から上がったばかりの、腰に濡れ手拭いを巻き付けたおとなたちが、番台のテレビに群がっていた。皆の眼がリング上の攻防に釘付けになった。頭のつるつるに禿げた番台のおっさんは、手前に取り付けた鏡に実況を映していた。
風呂から上がった壮平と豊は腰に手拭いを巻き付け、おとなたちの前に出て試合を見上げた。頭を後ろに反らさないと画面が見えないので首が痛かった。

日本がアメリカに戦争で負けたことを壮平は知っていた。力道山がシャープ兄弟を腰に乗せて投げ飛ばし、空手チョップを喉元に水平打ちすると、おとなたちの「力道山、やっちまえ!」の熱狂の声に合わせ、壮平と豊は「そこや、行け、行け!」と歓声を上げた。力道山が空手チョップを外人に浴びせると、胸がすぅーとした。

けれど力道山が木村にタッチするとすぐさま形勢は逆転。木村はキックを腹に食らい、躯をくの字に折り曲げ、たちまちのうちにフォールを奪われた。おとなたちは嘆息を吐き、「木村、柔道やっとるのとちゃうのや!もっと動かんか!」とやけくそに怒鳴った。

結局昨夜は一対一の引き分けだった。
「壮平ちゃん、木村はなんであない弱いのや」
「どんくさいからや。相手の様子を見とるうちに蹴られよる」
「力道山がなんぼ空手チョップでやっつけても、木村があない弱かったらあかんな」
「タッグマッチは両方が強うないと勝てん」
「そやな、勝てんな」

二人は仔猫を見つめながら、昨夜の悔しい思いを話し合った。
「これ親おるのかな」
「おっても野良猫やからどこぞに行ってしもたやろ」

壮平は仔猫の後ろ脚の具合を盗み見るようにして応えた。
「野良猫やないで」
「どないしてや」
「野良猫やったら、なんぼ仔猫でもこないじっとはしとらんで。爪立てよるしな、毛も立てよる。それに首に筋あるやろ、それ紐かリボンの跡や。誰ぞがお寺の前に捨てたんや」
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