喜多圭介のブログ

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読書人

2006-12-31 11:52:43 | 宗教・教育・文化

新聞(ウェブニュースは読んでいるが)やテレビも見ない暮らしをしている。こうしないと読書に時間がとれないだけでなく集中できない。

 

ぼく個人の人生でなにより感謝していることは両親が、ぼくを読書好きに産んでくれたこと(多少は育つ環境が関係している)、本の内容にもよるが読書して五分の一、二は理解できる知能のあるように産んでくれたこと、アルコールよりも飴好き(甘党)に産んでくれたこと、一人で静かに暮らせるように産んでくれたこと、社会の在り方を批判することはあってもぼくの境遇については不平不満を抱かないように産んでくれたこと、究極の処では鬱に陥らないオプティミスト(楽観論者)に産んでくれたことなどである。

 

このうちでも読書好きに産んでくれたことは、生まれてきて良かったと思う最大の要因である。母親の胎内の温かい羊水(ようすい)に丸まった姿勢で浮かんで眠っているのも居心地は良さそうだが、これでは読書は無理なのでやはり現世に押し出してくれてよかった。

 

絵本、童話、少年雑誌、講談本、探偵小説と経て、十代中頃からは人生論、哲学、心理学、宗教と進んできた。二十代に乗るまでは文学は武者小路実篤、有島武郎の小説を読む程度で、そんなに読書したい気は起こらなかった。ただ武者小路実篤の作品は相当数読破したので、ぼくのオプティミスティクな面はこの頃に育てられた。この頃に太宰治の作品に耽溺(たんでき)していたならば、案外早い時期に自殺していたのではないか。

 

人生論、哲学に耽溺していったのは子どもの頃から厭世観(えんせいかん)があり、生きている意味を探りたい気持ちが強かったのであるが、気質・性格も無関係でないと心理学にまで手を伸ばしていった。

 

二十歳を過ぎた頃に書店で『文藝首都』という同人誌を手に取ったのが、創作の目覚めであった。『文藝首都』は丹羽文雄主宰の「文学者」、小谷剛主宰の「作家」と並ぶ全国的同人誌で保高徳蔵が主宰、芝木好子、大原富枝、半田義之、上田広、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、田辺聖子、中上健次、勝目梓などを輩出した。

 

この同人誌は原稿百枚前後、二十枚から五十枚の短編、原稿三枚程度の掌篇と分けられており、入門者はまず掌篇からのスタートであったが、いきなり短編を創作して掲載されるヒトもいたと思う。

 

ぼくが加入していた時期は二年ほどであったが、中上健次、勝目梓が短編で活躍していた。

 

とくべつ作家になろうという野心もなく、小説の書き方がわからなかった。創作よりも読書のほうが楽しく、なにより掌篇を気に入っていた。そのうち川端康成の作品に『掌(てのひら)小説百篇』(?)上下の文庫本を書店で見付けて、これなどを参考にぼくも掌篇を原稿用紙に創作しはじめたのだが、三枚でも物語を完結するのに苦労した。どうも空想癖が乏しいのか、物語風にならない。それでも書き上げると今度は小説と作文の区別は何処にあるのかと悩む。悩んでいるうちに書くよりは読む方が楽しいと読む方に廻る。しかし小説を読むよりは哲学書を読む方が面白いと哲学に戻る。一向に文学の創作修行は進展しない。

 

いまでもそうで創作よりは読書の方が楽しい。そのうち屁理屈を思い付く。創作は創った作品を他人に読んで貰いたいという欲望があるから創るのではないか、ぼくにはこの欲望がない。だから創作への情熱が湧かないのではないかと。さらに後年になって気付くことは自分の書いた物を本にしたいヒトが結構いる。ぼくの長年の文学仲間にもこういうヒトがいる。褒められた小説でもないのに自費出版する。自費出版した本を送り付けてくる。出版パーティまで自分でお膳立てして悦に入っている。ぼくにはこうしたことで自己満足する気持ちがほとんどない。

28歳のとき英国に長期滞在した。帰国はアリスの「秋止符」を聴く頃であった。ぼくは文字は右で書くがボール投げは左、本来ギッチョなんだろう。歌詞が気に入ってよく耳を傾けていた。すると無性に小説を創作してみたくなった。80枚ほどの作品で題名を『秋止符』として同人誌に掲載したら、「文学界」の同人誌評でベスト5にランクされ、芥川賞の下選考作品になった。このことで小説はこんな風に創作するのかと、多少納得するものがあり、次にまた原稿80枚ほどで『淀川河川敷』を創作した。これは「文学界」では無視されたが、毎日新聞、神戸新聞の同人誌評でピックアップされた。

 

小説を創作することに自信がつき始めた頃であったが、一方では二人の娘を育てるための金儲けの時期でもあった。創作だけに気持ちを集中することはできなかった。そうなるとまたも読書に、それも小説ではなく哲学、心理学の書物を読み耽(ふけ)った。


宮田美乃里の辞世の短歌

2006-12-30 18:08:21 | 俳句・短歌と現代詩

辞世の短歌というものを検索していたら、2005年3月、乳ガンの転移で享年34歳で他界した歌人、宮田美乃里さんのこれにぶつかった。病床の写真があるだけになんとも言いようのない、暗澹(あんたん)とした気持ちになった。専門医ですら治せない病苦である。そしてすでに逝去されている。助けてあげることができないだけでなく、慰安の言葉一つかけてあげられない。

 

だから何をどう書くべきかと迷い、茫漠(ぼうばく)たる気分をもてあましていたのだが、数日前から大江健三郎の東大仏文科の恩師、フランス15、6世紀、ルネッサンス当時の人文科学、主にラブレーとモンテニューの足跡を学問された、渡辺一夫の評論集『狂気について』(岩波文庫)を読み進めていた。 枕頭(ちんとう)で読んでいた箇所が「不幸について」であった。その中に――(前略)生物のなかで、人間だけが己の死の必然を知る唯一のものということが考えられるならば、おそらく不幸を感じる唯一の生物はやはり人間であろうと思われるのです。――(前略)つまり、生きていながら、即ち生命体の恒常ないとなみが続けられていながらも、それを客観視して、このいとなみの終焉ないし中絶を考え、死の概念を捕らえるのかもしれません。死は別としても、我々が不幸だと感ずるのは、我々の生命体の恒常ないとなみが阻害され、一時中断された場合、それを客観視したときに抱く感情でしょう。――

 

実際この通りであって、宮田美乃里さんの遺された短歌、辞世の歌を読みながらも言葉を発することができないときは、〈以(もっ)て瞑(めい)すべし〉という、つまり安らかにお眠りくださいという意味合いの言葉を胸に呟けばいいのだが、イコール眠りと想ったことのないぼくには、このような便利な言葉も使えない。 一度全首を流し読みしたが、いまは一部、二部と丹念に読んでいるところである。悲痛な魂の記録を読んであげることしかできない。

 

不幸という言葉のなかには矛盾とか不合理という判断も含まれているかもしれない。

 

ぼくは高校生の頃からあるいは小学高学年の頃から、早死にをすると決めてかかっていた。父親が敗戦後間もなく肺結核で亡くなった。四国の山奥の貧村から東京に出で慶應義塾の理財家を卒業、三井財閥系の商社マンであったが36歳で死んだ。ぼくはそんな父親を尊敬もしていたし、とても父親を超えることはできないという精神の脆弱(ぜいじゃく)な若者であった。父親の歳を超さないうちに死ぬだろうと予測していた。 結婚をし子どももいたので、そのための用心と生命保険を三本も加入していたのだが、36歳を超えても死なない。うろたえて腹違いの姉に電話して父親の死んだ歳を確認すると、あんたお父さんの亡くなった歳くらい覚えておきなさい、42、男の厄年、おばあちゃんが嘆いて、近所の神社の石段を毎晩お百度参りし、井戸水で水浴びしていたのを覚えています、とこっぴどく叱られた。そうか42歳までは死ねないのかと受話器を下ろしてから思ったのだが、その42歳を超えていまだに生きていることを考えると、死にたくないと病床で思っていた宮田美乃里さんの希望と、いつ死んでも構わないと思っているぼくとの選別を、神仏は間違っているのでないかと、その不合理を考えないわけにはいかない。

 

このことは彼女の事態だけでなく、これまでも身代わりになって先に死んであげたいと思った個人が何人か記憶にあるが、先に病没、事故死している。 それにしても辞世の短歌というものは、検索では戦国武将とか太平洋戦争での特攻隊の若者の辞世の短歌がヒットする程度で、ぼくが想っているような歌はなかった。唯一宮田美乃里さんの短歌にヒットしたが、病床の写真と遺作に暗然となった。

http://www.morimuraseiichi.com/miyata/index.html

 


寛容と不寛容

2006-12-29 22:29:58 | 宗教・教育・文化

近頃というよりか小泉首相が登場してからと言ってもいいのだが、日本が〈優しくない国〉になりつつあることに危惧を覚える。政策が弱肉強食化しているし、対外的にも北朝鮮はもとより中国、韓国をも敵視する傲慢な国民が増えてきた。

 

政治的な事柄だけでなく男性が女性を巧く騙し利用し、利用価値が無くなると廃棄処分しているような風俗世相が目につく。騙された私がバカなのよ、と演歌のフレーズでないが、騙された側の女性の発言はあまり大きくはない。平生は男女平等を抗弁する女性もこの面では男尊女卑を受容したままである。

 

対人、異国関係で寛容の精神が希薄になっているのではないか。

 

死刑についての今日の世相は、残忍な凶行が多いせいもあって、国民に死刑執行賛成の風潮が強くなっている。被害者家族の心情を推量すれば、加害者を八つ裂きにしても足りない気持ちであることは心情的にわかるが、はたしてこれでいいのか。ぼくは死刑廃止論者で、死刑相当の罪人は恩赦のない無期懲役を科(か)すべきであると考えている。加害者を殺すことで被害者家族や関係者は本当にこころが晴れるのだろうか。晴れはしないと想うのだが、晴れた思いであると自己をごまかし、この思いを終生引き摺ることにならないか。加害者を八つ裂きにしても殺された者は、二度と家族の元に帰ってくることはない。一時的に気持ちは晴れても虚しいのではないか。

 

寛容の精神が希薄になるとどういう事態になるか、このことを考察してみたいのだが、実はぼくよりずっと知性のある人物がこのことを考察されたので、それを紹介したい。「狂気について」で紹介した渡辺一夫氏が、やはり評論集『狂気について』(岩波文庫)のなかで「 寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレラン)になるべきか」という一文を書いておられる。それからの引用である。

 

氏の考えは、作家大江健三郎の思想に相当影響を与えている。大江健三郎が渡辺一夫に師事したのは、1956年(昭和31年)21歳のとき、東大フランス文学科に進んだときである。

 右のような長い題目を、実際に与えられたわけではないが、註文の趣旨のなかには、右のような題目によって表現されてしかるぺき主題があったと信じたから、敢て、このような標題にしたのである。
 過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不覚容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬようなことがあるであろう。これは、認める。しかし、このような場合は、実に情ない悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持は僕にないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとして考えざるを得ない。従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰返して言うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後あるであろうことをも、覚悟はしている。しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽さねばならぬし、こうした事実を論理的にで暴走する人々の数を、一人で増加せしめねばならぬと思う心には変りがない。(下線は喜多)

 

死刑の話に戻すと、2006年現在、88カ国が死刑廃止を決めており、日本、米国の一部の州、中国、インド、中東諸国など68カ国で死刑が実施されている。フランスは1981年に死刑廃止を決めた時点で、死刑廃止を決めた36番目の国となった。欧州連合(EU)は死刑廃止を加盟国の条件としており、イラクに派兵した英国をはじめEU加盟国は、フセイン元大統領の死刑にニュアンスの差こそあれ、反対している。世界の大勢は死刑廃止である。

 

一方ではこのような事態が起こっている。産経新聞がWEB上に11月25日16時5分配信したものである。

イラク宗派抗争 シーア派、報復残忍化 スンニ派焼き殺す 大統領イラン訪問延期


【カイロ=村上大介】イスラム教シーア派地区で200人以上の死者を出す連続爆弾テロがあったイラクの首都バグダッドで24日、今度は市内北西部でシーア派民兵がスンニ派のモスク(イスラム教礼拝所)や住宅をロケット弾で破壊したり、放火するなどした。ロイター通信によると、これらの攻撃で、少なくとも30人が死亡した。泥沼化する宗派抗争の中で、殺害の手口はますます残忍になって報復が繰り返されている。

                   ◇

 襲撃があったのは、シーア派とスンニ派の住民が混住するフッリーヤ地区。AP通信が複数の目撃者や病院関係者の情報として伝えたところによると、シーア派民兵は捕まえたスンニ派住民6人にその場で灯油をかけ、火を付けて焼死させた。

 また、シーア派民兵は金曜礼拝中だったスンニ派モスクの一つにロケット弾で攻撃を加えた後、火を付け、礼拝中のスンニ派教徒の一部が焼死した。民兵はこのほか、住宅に押し入ったり、火を付けるなど、数時間にわたり襲撃を続けた。

 襲撃したのは、シーア派反米強硬派指導者、ムクタダ・サドル師派の民兵組織、マフディー軍とみられている。

 宗派抗争での無差別殺人ではこれまで、ドリルなどを使って拷問した後に射殺するという手口がほとんどだったが、今回は生きたまま焼き殺すという一層、残忍な手口が用いられ、宗派抗争は底なしの状況を迎えている。

 事態を受けて、25日からイランを公式訪問する予定だったイラクのタラバニ大統領は24日夜、他の政府指導者らと長時間にわたる協議を行い、急遽(きゅうきょ)、イラン訪問を延期した。

 一方、23日に連続テロがあったシーア派居住区の上空で警戒に当たっていた米軍ヘリは、地上から対空砲などで攻撃を受けた。ヘリに被害はなかったが、これまで米軍との直接衝突は避けてきたマフディー軍が、いよいよ米軍に対しても矛先を向け始めた兆候もあり、懸念が広がっている。

 

ここにはまさに〈不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとして考えざるを得ない。〉という指摘通りの必然を招いてしまっている。

 

〈眼には眼を、歯には歯を〉の復讐心の連鎖では、双方悲惨な結末の繰り返しであり、〈歴史は繰り返す〉とはこのことを指しているのであるが、これでは人間の理性は一向に進歩していないことになりはしないか。人間の理性の進歩は報復劇を肯定することではなく、それを否定するところにある筈である。凶暴な野獣(実は野獣に復讐心はない)であることが人間でなく、〈優しい人間〉こそが追求すべき人間の姿である。もう少し渡辺一夫氏の文章を引用しておく。

人間を対時せしめる様々な口実・信念・思想があるわけであるが、それのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけはない。そして、不寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。都留重人氏が『学問の自由を求めて』という傾聴すぺき論考を発表しておられたが、そのなかで特に感銘の深かったのは、二人のアメリカ人の言葉である。一人は、最高裁判所判事のオリグァー・ウェンデー・ホームズという人で、一九二九年に、ロジカ・シュウィンマー事件という裁判において、その判決文中に次のような文章を綴っているのである。

 「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」(傍点は都留氏による)
 もう一つは、ニれまた現在アメリカ最高裁判所判事ロバート・ジャクソンが、バーネット事件の折に下した判決文の一節である。
 「反対意見を強制的に抹殺しょうとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を劃一化することは、墓場における意見一致を勝ちとることでしかない。しかも異った意見を持つことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異った意見を持ち得るかいなかにかかっている。」(傍点は筆者)
 僕は、この二人のアメリカ人の名前を一度も聞いたことがなく、特に著書をたくさん残して、思想界に寄与している人物かどうかも知らない。僕にとって、この二人は、いわば「無名の人」の大群に属する。そして、このことは極めて僕を慰撫激励してくれる。即ち、寛容は、数人の英雄や有名人よりも、多くの平凡で温良な市民の味方であることを再び感じるからである。そして、寛容は寛容によってのみ護らるべきであり、決して不寛容によって護らるぺきでないという気持を強められる。【後略】

 

地球上の不幸は野獣ですら持ち合わせていない復讐心の連鎖と憎悪の蓄積で起こっていることである。こうしたことの源は、人間が理性の力でもって寛容の精神を強めないところにある。


 


狂気について

2006-12-28 14:43:09 | 世相と政治随想

2001年9月11日のニューヨークテロ(同時多発テロ)以後、10月7日開始の米国のアフガニスタン空爆、2003年3月19日の米英によるイラク空爆に乗じた形で、日本でも憲法改定論議が小泉前政権より強まっている。それも太平洋戦争を知る世代や敗戦当時の貧困を知る世代(6、70代以降)よりも知らない世代の声が大きい。小泉首相の後を引き継いだ安部晋三首相は、あからさまに憲法改正(改悪)を目論んでいる。

 

こういう物騒な世相の中で故渡辺一夫氏の『狂気について』(岩波文庫渡辺一夫評論集『狂気について』大江健三郎・清水徹)の一篇「狂気について」を思い起こすのも無駄ではないだろう。渡辺一夫氏については以下参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E5%A4%AB

 たしかプレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。 ──病患は、キリスト教徒の自然の状態である、と。

 つまり、いつでも自分のどこかが工合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性をしみじみと感じ、「原罪」の意識に悩んで、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。まあ、そういう風に解釈させてもらいます。

 これは何もキリスト教徒に限らず、人間として自覚を持った人間、即ち、人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子でもない存在であり、更にまた、うっかりしていると、ライオンや蛇や狸や狐に似た行動をする存在であることを自覚した人間の、愕然とした、沈痛な述懐にもなるかもしれません。

 恐らく「狂気」とは、今述ぺたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。敢えてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違いと気違いでない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。先ず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。我々には、皆、少々気違いめいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気」にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気」の愛人になっているものです。

 天才と狂人との差は紙一重だと、ロングローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気」が持続しない狂人かもしれませんし、狂人とは「狂気」が持続している天才かもしれませぬ

 

空腹なライオン、トラ、ワニが獲物を捕獲するときの凶暴性を我々は知っているが、こうした動物も満腹のときはおとなしい姿を見せている。人間も動物という範疇(はんちゅう)に属しているから、こうした凶暴性を保持しているのだが、普段は理性と知性の発達による倫理観で自らを制御している。この足枷が外れた状況になると凶暴性を発揮することは、古今東西、人間の歴史を振り返れば理解のいくことである。

 

性善説と性悪説がある。幼児でも性悪の強いのが目に着くことがある。おそらくは両方の親の家系からの遺伝と育つ環境という二つの要因が関係していると思うが、倫理観を育てることで社会秩序を乱すということにはならないが、渡辺一夫がとりあげている狂気は、集団、社会、つまり政治という大枠での狂気である。

 しかし、人間というものは、「狂気」なしにはいられぬものでもあるらしいのです。我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。そして、その方向へ進むのに一番適した傾向を持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、段々と人間は興奮してゆき、遂には、精神も肉体もある歪み方を示すようになります。その時「狂気」が現れてくるのです。幸いにも、普通の人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気」もそう永続はしません。興奮から平静に戻り、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向を持つものの集合体に戻るのです。

 そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の「狂気」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもしれません。

 

渡辺一夫がこれを書いた時期は1948年(昭和28)5月であることを思えば、終戦後3年で、もう危惧される事態が起こっていたのである。一億総懺悔のこころは新たな冷戦構造(米ソ対立)と〈喉元過ぎれば熱さを忘れる〉日本人気質で没却されていったのである。

 


淫祠邪教

2006-12-27 10:54:42 | 歴史随想

拙作『魔多羅人』(原稿400枚近い)は渡来人秦河勝を探求するなかで、当時の淫祠邪教に触れた作品である。秦河勝については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D

 

淫祠邪教については聖武天皇の時代にも玄肪法師が現れた。玄肪法師については松本清張の長編歴史小説『眩人』に描いているが、創作動機は『続日本紀』でないかと想われる。

  是日,皇太夫人-藤原氏,就皇后宮,見僧正-玄肪法師.天皇亦幸皇后宮.皇太夫人,為沈幽憂,久廢人事,自誕天皇,未曾相見.法師一看,惠然開晤.至是,適與天皇相見.天下莫不慶賀.即施法師?一千疋,綿一千屯,絲一千?,布一千端.又,賜中宮職官人六人,位各有差.亮-從五位下-下道朝臣-真備,授從五位上.少進-外從五位下-阿倍朝臣-蟲麻呂,從五位下.外從五位下-文忌寸-馬養,外從五位上.

 

聖武天皇の母親は聖武天皇を産んでから体調と神経がおかしくなって寝込んでしまう。母親というのは藤原不比等(藤原鎌足の次男)の娘で、聖武天皇の父親文武天皇の妻、孝謙天皇とは腹違いの姉妹である。聖武天皇の妻は光明子。

 

〈沈幽憂,久廢人事〉と、久しく廃人であったために三十五年間も我が子と会えなかった。この母親を玄肪法師が快癒させた。当時の僧侶は医師を兼ねていた。それで恩賞にあずかったのであるが、母親と玄肪法師の関係がどうも淫祠邪教なわけであるから、清張ならずとも興味が湧く。鎌倉時代の『源平盛衰記』に関連記事があるが、かなりリアリスティックでエロチック。

  彼広嗣の謀叛を発しける故は、聖武皇帝の御宇(ぎよう)に、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)とて貴き僧座しき。戒行全く持て、慈悲普く及ぼし、智行兼備して済度隔なし。一天唱道国家珍宝也。遣唐使吉備大臣と入唐して、五千(ごせん)余巻(よくわん)の一切経を渡し、法相唯識の法門を将来せり。皇帝皇后深御帰依を致し給へり。常に玉簾の内に召れて、后宮掌を合御座(おはしま)す。広嗣后の宮に参給たりけるに、玄肪(げんばう)婚遊し給へり。広嗣奏して申さく、玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る、其咎尤重しと。帝更に用給はず。広嗣又后宮に参たりける時、玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり。重て奏して云、玄肪(げんばう)只今(ただいま)后宮と席を一にし給へり、叡覧に及ばば重科自露顕せんと申。帝忍て幸成て、御簾の隙より叡覧あり。光明皇后は十一面観音と現じ、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)は千手観音と顕て、共に慈悲の御顔を並て、同く済度の方便を語給へり。皇帝弥叡信を発御(有朋下P148)座て、広嗣は国家を乱すべき臣也、一天の国師たる貴き僧を讒し申条、罪科深しとて、西海の波に被(レ)流たりければ、怨を成て謀叛を起す。凡夫の眼前には、非(二)梵行(一)婚家と見奉れ共、賢帝の叡覧には、大悲薩■[*土+垂](さつた)の善巧方便と拝み給ふも穴貴と。

 

〈玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る〉、〈玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり〉とリアルな叙述。

 

怪僧は玄肪法師のみならず、東大寺建立に係わった行基や孝謙天皇との関係を取り沙汰された弓削道鏡がいた。弓削道鏡については好事家の巨根伝説がある。

 

玄肪法師の魔法は母親だけでなく光明子、孝謙天皇にも及んだと松本清張は見ていた。

 

当時、奈良の興福寺に義淵という法相宗の僧がおり、『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄肪・行基・隆尊・良弁、道慈・道鏡は門下であった。こういうところから道鏡は玄肪の淫祠邪教の手法を研究したかもしれない。

 

玄肪法師が何を用いてたが、核心部分になるが、清張の小説に次の箇所がある。

 はっきりしたことはもちろんわからないが、と惟安が断って言ったことである。その酒を作るには、まず、山羊の乳と水を混ぜ、その中にある種の植物の小枝を挽いたものを入れて発酵させる。それを十三ヶ月と十三日間、寝せておくそうな。そうすると、なまな発酵は醇化してとろりとした味となり、かつは融けこんだ植物の匂いがあらわとなる。
 (示に天)教(けんきょう、ゾロアスター教)では、この材料とする水は万物の源であり、山羊の乳は生命の根元、そうして植物は不老長寿と知恵と神への近づきをあらわす。神とはむろん胡(ペルシャ)の天神である。その植物がハオマだ。ハオマの成分は分らぬ。ハオマのことは秘中の秘である。神に近づくとは心気が朦朧となって仙界を捗(わた)ってゆくことらしい。わしはまだ飲まされたことはないがの。
 その惟安もいまは玄肪の友人として彼の言う波於麻(はまお)酒の接待を受けている。あんたが康忠恕に気に入られ、忠恕の世話で(示に天)教寺の波於麻酒をあんたの相伴で飲めるとはありがたいことだといくらか皮肉な口吻でいった。
 その惟安もいまほ隣で神妙に器の液体をすすっていた。

 

これを大麻と見るのは早計に過ぎるかもしれないが、大麻でないとも断定できない。たとえ大麻でなくても、すでにこの頃からペルシャやヒマラヤ山脈の麓では麻薬に類した植物が薬として用いられていたと想われる。大麻については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BA%BB#.E8.8C.8E

ゾロアスター教については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

 

時代はルネッサンス当時に下るのであるが、 渡辺一夫評論集『狂気について』(岩波文庫)の──「パンタグリュエリヨン草」について──の章に、次のようなことが書かれている。

【前略】「パンタグリュエリヨン草」は、いかなる「麻」でもなく、ラブレーが心に描いた一つの決意の象徴に外ならないというのである。そして、この「霊草」は、hesuchismeの象徴であり、内心の信念や秘やかな真実追求の心を、誤解や迫害から守ってくれる「効能」を持っていることになる。ソーニュは、ラブレーの記述を一つ一つ点検して、「パンタグリュエリヨン草」の持つあらゆる「功徳」を、この線に従って解釈して、長い航海──それは現実の荒海への船出であるが、──危難に充ちた航海へ携えてゆかねばならない「霊草」が、「パンタグリュエリヨン草」だとしている。

 

フランソワー・ラブレーの大作『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』全五巻の第三之書に出てくるのである。ぼくはこの物語を読んでいないので、これ以上のことは付加しないが第三之書は1546年に書かれている。


喜多圭介関連サイトご案内

2006-12-26 23:05:03 | Weblog

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『ダ・ヴィンチ・コード』

2006-12-25 15:04:07 | 文学随想

今夜はクリスマス・イヴ。ぼくはキリスト教の信仰者ではないが、今日の殺戮を繰り返している国際社会の有様や倫理観もなく荒廃している日本国内の世相を思うとき、いまこそ全世界の人々は敬虔な気持ちで聖歌に耳を傾けていいのではないかと思う。

 

このこととは直接に関係はないが、世界中でベストセラーになったという噂のダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』(角川文庫、上・中・下)の読後感を書いておく。

 

読んだ印象を一言で書くと、ストーリーの構成、人物描写などの粗雑な、日本で挙げると横溝正史の探偵小説の類でしかなかった。そして横溝正史の探偵小説は単純に犯人捜しであるから罪もないが、『ダ・ヴィンチ・コード』のほうはキリストの世界を扱っているだけに、読者を騙す詐欺めいた色さえ感じられ、気分の良い読後感でなかった。

 

松本清張の社会派推理小説のほうがストーリーの破綻も目立たなく、納得ずくで読了できる分だけ、ずっと面白い。

 

『ダ・ヴィンチ・コード』の面白なさの第一は、事件に巻き込まれる大学教授と相方を務める暗号解読の専門官の女性の描き方が薄っぺらすぎることに尽きる。原書がそうなのか訳者のせいなのか原書に当たっていないので不明だが、ストーリーの運びの稚拙さから見てダン・ブラウンに人間描写の実力がないように思える。一流作家ではない。この点、松本清張は女性心理なども巧みに分析、女性を描くのが巧い。犯罪のリアリティに味を添える技量があった。娯楽小説であろうと人生を描く文学作品であろうと、人物描写に心理分析を含めて現実感がないと、読者を魅了することは難しい。

 

世界中でベストセラーになったという評判は誇張にしても、多くのキリスト教国やキリスト教を信仰している人たちに関心を持たれたことは事実である。関心を持たれて理由の一つは、新約聖書の福音書に登場する、イエスに従った女性マグダラのマリアに触れていること。二つは、12世紀初頭に創設されたテンプル騎士団と聖杯伝説に触れ、現代の今でも何処かに秘宝が埋蔵されているか、あるいは発見された秘宝を資金力に、国際社会を牛耳(ぎゅうじ)っている巨大な闇の組織が存在しているかのようにほのめかせている点にある。三つは本のタイトル通りにレオナルド・ダヴィンチの絵画の秘密に迫っていることである。

 

キリスト教を信仰している人たちには、日本人が仏教の書物を読む程度以上に興味深いであろう。もちろん『ダ・ヴィンチ・コード』の内容に反撥、反論、無視する信者も多いが。また『ダ・ヴィンチ・コード』遺跡巡りツアーも盛況のようであるが、日本人が参加してどれほどの感銘ある旅になるか、はなはだ疑問である。

 

ダン・ブラウンがストーリーに採り入れた内容は、新発見といったものではなく、たとえばマグダラのマリアについては13世紀に中世イタリアの年代記作者でジェノヴァ市の第八代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが著『黄金伝説』に書いてあることである。テンプル騎士団と聖杯伝説についても過去に多数の書物が発刊されている。『ダ・ヴィンチ・コード』は、こうした書物の内容をストーリーの中に切り貼りした感が強く、知識人を魅了する本とは言えない。大衆娯楽小説、だからベストセラーに成り得たとも言えるが、それも二流の娯楽小説の域である。

 

この際、キリスト教成立の背景に触れておこう。【日本大百科全書からの引用】

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西暦はイエスの誕生から始まる。

 

しかし、イエスの生まれたのは、紀元前7年から紀元後1年の間ぐらいとしかいえない。イエスは敬虔==けいけんなユダヤ教徒の家に生まれ育った。当時一般のユダヤ教徒の間に広まっていた信仰に終末観があった。イスラエルはすでに前8世紀末に北半分がアッシリアに侵略され、前6世紀初めには南ユダもバビロニアに滅ぼされて多くのユダヤ人が捕囚の身となり、ペルシアによって解放されたのちも独立国とならず、ギリシアの支配時代に及ぶ。さらにシリアのセレウコス王朝によるユダヤ教への迫害は激しく、前2世紀なかば独立戦争によりハスモーン王朝が成立する。しかしふたたび前63年にローマの支配下に置かれ、イエスの時代に及ぶ。

 

元来ユダヤの民は、神の選民であるというイスラエル固有の民族信仰をもっている。これが長い異邦の支配下に現実のものとならないことから、ペルシア思想の影響を受けてユダヤ教に取り入れられたのが終末観である。悪のこの世界が終わり、神自身の支配、神の国の到来が待望された。このとき終末の審判があり、死者も復活して、義(ただ)しいユダヤ教徒がこの国の民となる。この神の国をもたらし、その王となるのがメシアである。メシアのヘブライ原語「マーシーアハ」は「油注ぐ」の変化で「油注がれた者」の意であり、古来「王」をさす。この終末観では「ユダヤの救主(すくいぬし)」の内容をもつ。

 

イエスの活動は福音(ふくいん)と自他ともによばれた。神の国の幸福の音信(いんしん)──知らせ──を人々にもたらす働きである。

 

イエスの教えの中心は愛(アガペー)である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(「マタイ伝福音書」22章37~39。「ルカ伝福音書」10章27)。この二つの愛に、イエスの神観、人間観のすべてが要約されている。当時神の国の到来を切望するユダヤ教徒にとって、最後の審判で義とされ、神の国に入る資格を得ることが最大の課題であった。ユダヤ教はこの資格を明確に律法によって規定した。義の神の前に義とされる人間は、律法を厳格に守る者でなければならない。指導者たる律法学者、パリサイ派は、全国の会堂で預言書と律法を教え、神の国に入る準備をさせていた。

 

しかしこの律法を学ばないアム・ハ・アレツ(田舎者)と蔑視されていた者、さらに律法に触れることも許されぬ罪人(つみびと)とよばれる人々がいた。これら社会的に差別された人々、彼らには神の国の扉は閉ざされていた。イエスの福音の対象はまさにこれらの人々であった。これは、イエスの神観、人間観が、ユダヤ教を超えたことによる。神は罪人をも包む愛の神である。人の価値に上下はない。自らを捨てて神の愛のなかに入る(神を愛する)とき、愛の神の子として、隣人を愛する人となることができる。自らの罪を悔い、己を卑しくすることのできるこの世でもっとも恵まれない人々こそ神の前に義とされると説き、それらの人々に福音を説いた。しかしこれは、ユダヤ教の指導者には、律法を廃することと映り、さらにこの「罪人」に触れたイエス自身が「罪人」と同列視されることであった。ガリラヤ地方を中心とするイエスの活動は多くの人々に影響を与え、なかにはイエスをメシアと信じる者さえ出てきた。しかし、イエスが弟子とともにユダヤ教の中心エルサレムに上って活動を続けたとき、律法学者、パリサイ派、また祭司サドカイ派はローマ官憲に、政治的な反ローマのメシア運動家として、イエスを訴え、民衆を扇動して十字架の死に追いやった。

 

イエスの弟子たちは、栄光のメシアとして夢みた師の敗残の姿をあとに散った。しかしまもなくイエスの復活の信仰がおこり、イエスは真のメシアであるという信仰へと展開した。ただし、このメシアとは、民族的なユダヤの救主ではなく、人類の生命の救主という新しい意味をもつものとなった。ヘブライ語「マーシーアハ」は当時の世界語ギリシア語に訳されたとき、「油注ぐ(クリオーXrio)」の変化「油注がれた者(クリストスXristos)」とされ、『新約聖書』のなかに定着されて「キリスト」となり、イエスを救主(キリスト)と信じる人々は「クリスチャン」Xristianoiとよばれるようになった。このことから、キリスト教とは、イエスをキリストと信じる宗教と定義することができよう。

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