樋口季一郎のユダヤ人救済の評価は六千人のユダヤ人難民を救済した杉原千畝ほどには確定していない。
昭和十三年三月十日、ドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んできた。当時ソ連政府はドイツに気兼ねしてユダヤ人難民がソ連領内に留まることを許していなかった。難民が当面逃れる先は満州国よりほかなかった。満州国を経由して上海、そして上海から米国や日本の神戸などへ落ち着く先を求めた。
当時日本は日独伊三国同盟を結んでいたので、満州国でも関東軍への遠慮から容易くは難民を受け入れる状況ではなかった。このときヒューマニズムの精神からユダヤ人難民の満州国受け入れに奔走したのが、関東軍の樋口特務機関長であった。この辺の事情は彼の著書『陸軍中将 樋口季一郎回想録』にも書かれている。
樋口のユダヤ人難民救済が旧軍人間で確定していない最大の理由は、二万人という数字にある。彼の回想録にも二万人という数字が記載されているし、彼を取り扱った書物のほとんどにも二万人となっているのだが、上杉千年著『猶太難民と八紘一宇』の「第三章 樋口季一郎陸軍少将と「オトボール事件」にはこの辺の事情を詳細に調べておられるので、そこを引用しておく。少し長いが真相を知る重要な内容である。
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【前略】
ところが、大連特務機関長安江仙弘大佐の子息安江弘夫氏より、平成九年一月十八日附で 『産経新聞』の私の記事について長文の書簡がきた。
それによると、ユダヤ難民の入満について、(外交史料館に現存の史料では、ソ満国境の街満洲里に到着したユダヤ避難民の第一陣は昭和十三年の十月二十七日の六名です.第二陣は十一月二十四日の三十名、第三陣は三十名、第四陣は九名、第五陣五名とぼつぼつ続きます。昭和十四年四月二十三日第七四回帝国議会貴族院予算委員会での有田外相の答弁では、「シベリア経由で満洲に入ったユダヤ人数は八十余名、百人足らずであり、満洲国の官憲が満洲国在留を希望しなかったので上海に向けたと思われる」となっています)。従って、(ともかく「二万人」は幻でした)とあった。
また、『北海道新聞』に平成六年八月十六日より三十一日まで十五回にわたって山本牧記者が連載した『満洲ユダヤ脱出行 将軍・樋口の決断』 の記事を安江氏より拝受した。
その結論も、〈上海のユダヤ人口が最大二万人弱だったことから考えても、最初の一団は数百、あるいは数千人というのが妥当のようだ.出身はドイツ、あるいはポーランドという証言が多かったため)(八月二十九日号)としている。山本記者より安江氏への手紙では、「数十人単位であったのではないかと考えております」とある由である。【後略】
ユダヤ難民救出の「樋口ルート」に新事実発見
そこで、「オトボール事件」について平成九年より調査を続行する中で、つぎつぎと新事実が発見されてきた。
外交史料館に対して開い合せたところ、〈いわゆるオトボール事件に関しては、当時所蔵記録中に関係記録見当たらず、したがってドイツ政府からの抗議に関する史料も見当たらない)(平成九年五月二十日附 白石仁章氏)旨の返事があった。
また、防衛研究所に念のため『アツツ、キスカ、軍司令官の回想録』の原本のコピーを要請したところ、戦史部原剛氏より拝受したコピーには、(そのため彼らの何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望したのである)とある。これは、『樋口季一郎中将回想録 吟爾賓特務機関長・参本第二部長及第九師団長時代』(戦史室受附 39・7・20)によるものであって、樋口自身のペン書きである。
即ち、原氏の私信に、〈刊行本と原稿は同じです。ただ、同封原稿のとおりユダヤ人の人数が二万人でなく何千人となっています)とあるのによれば、樋口中将は、「約二万人」 とは記録していないのである。【中略】
この 「約二万人」救出説の世間への初出は、樋口中将が昭和四十五年十月十九日に東京で死去されたことを報ずる『朝日新聞』(十月二十日号)で相当大きく報道している。そこに、「ユダヤ人二万に陰の恩人」「ソ満国境に救援列車」の見出しのもと報じている。この記事の中に、(作家の相良俊輔氏は 「これは日本陸軍が行った最大の善行といえるでしょう」 )という談話が見える。即ち『朝日』の記事は相良氏よりの取材であろう。
なお、河村愛三氏も社団法人日本イスラエル協会機関誌『日本とイスラエル』(昭和四十五年十一月十一日号)に『ナチスに追われたユダヤ人二万の追憶』を載せている。【後略】
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考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万人が逃げ込めようか。
樋口の『アッツ、キスカ、軍司令官の回想録』は一九七一年十月に芙蓉書房から出版された。樋口は前年の十月に老衰で死去していた。享年八十二歳。このことから推察すると彼は校正刷りを丹念に点検する体力、気力がなかったのではないか。二段組体裁、四百頁ほどの大著である。彼がペン書きで書いたことが、「そのため彼ら約二万人が、例の満州里駅西方のオトポールに詰めかけた……」と書き替えられていたことを知ることはなかったのでないか。そう思われる。
この大著を元にして一九九九年刊行『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(芙蓉書房出版)が刊行された。誤伝二万人救済がNHKテレビで放映された杉原千畝ブームに乗って、一人歩きするようになった。
一九九九年に刊行された『教科書が教えない歴史』(扶桑文庫)にも樋口季一郎の項目〈関東軍軍人に救われたユダヤ人〉には、「二万人のユダヤ人難民の生命を救いました」と、白々しく記載してある。
それでは二万人説の出所はどこか? 幸いなことにこの回想録に、河村愛三氏が「満・ソ国境のユダヤ難民救出について」というタイトルで解説を書いておられる。そこからの引用である。
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ナチから追われたユダヤ
難民二万人の救援
極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだのです。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。
ソ連政府は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しました。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。
樋口少将は、ハルピンに満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく早く決心されたらどうか」と力強く説得したのでした。
満州国は漸くこの意見に従って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし間もなく、難民は、満鉄の救援列車によりハルピンに救援されてきました。
樋口少将なくして、この大芝居は打てなかったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾ったことになります。
果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言う厳重な抗議をしてきました。
陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。【攻略】
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どうも出所はこの一文にあると思われる。
しかしまだ不可思議な点がある。次の一文である。鈴木元子さんの執筆されたものからの引用である。
http://sizcol.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou/14_1/14_1_02.pdf
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杉原千畝の他にも、ユダヤ人を助けた日本人がまだいる。
河村愛三大佐は、大戦中、2万人とも言われるユダヤ人がシベリア鉄道で満州に渡ろうとする厳寒の中、立ち往生している所を、凍死するか餓死寸前の彼らを見て、特別列車を出し、ユダヤ人をハルピンまで輸送した。1937年8月から1938年7月、ハルピンの特務機関長だった樋口季一郎(1888-1970) は、ユダヤ人難民の満州入国を許可した。【攻略】
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これによると救出に直接手を下したのは解説を書かれた河村愛三本人ということになるのであるが、河村氏の解説をどう読んでもそうは読み取れない。二万人ものユダヤ人を救出したのであれば、多少ともそのことを誇ってもいいはずだが、救出したのは樋口季一郎と読み取れるのである。鈴木元子さんがこの一文の出典を書いておられないので、真偽を確かめることはできないが。
なお河村愛三氏は当時、ハルビン憲兵隊本部の特高課長であった。
さらに次のような不可解な事柄もある。回想録の──『樋口季一郎回想録』再刊に寄せて──を執筆した孫の樋口隆一氏(明治学院大学芸術学教授)の一文の中に〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉とあるが、回想録本文には、このような文章は見当たらない。これについても『猶太難民と八紘一宇』の著者上杉千年氏は、次のようなことを書いている。
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当時、満鉄本社総裁室の文書課にいた庄島辰登氏の体験証言によると、樋口少将よりの情報に接した松岡洋右総裁(後の外相)は運転司令に対して救援列車の出動を電話で命令した。
そこで、文書課で作成した命令電文を庄島氏が電報局へ行き、奉天鉄道総局へ打電したという。
救援列車出動の理由を聞くと、一週間に客車と貨物車が各一回の運行であったからという.これ以降は、客車以外に貨物車の乗務員控室などにも便乗させて運んだようだ.かくして、三月と四月末までに約五十人を無料で運んだ。無料は松岡総裁の指示であって松岡以降の総裁も同様であった。ただ、担当者が後日の証拠として記録し、ユダヤ人協会が精算したときいているという。
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ここにも〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉はない。樋口隆一氏は誰かからの聞き伝えで書いたとしか想像し得ないのである。そしてその相手はだれか。
確かに〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉と書けばリアリティが出るが、このリアリティは当時の貨車の収容人数で二万人を割れば計算で出てくるリアリティである。
ここで読者に留意しておいて貰いたいことは、物議を醸している『新しい歴史教科書』の出版社は扶桑社である。『教科書が教えない歴史』も扶桑社、そして『陸軍中将 樋口季一郎回想録』は芙蓉書房出版、何千人を二万人と書き替えた仕掛け人の正体が見えてこないだろうか。
このことは樋口と同期あるいはその前後の関東軍関係者にはわかっていることであろうが、数千人よりは二万人のほうが世間には聞こえがよいので、仲間うちのことでもあり、誰も黙して語らず、だからいまだに評価が定まらないのである。
芥川賞作家阿川弘之の『私記キスカ撤退』(文藝春秋)も同様な間違いを犯している。
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幌筵に釆ていた第五方面軍司令官、峯木少将の直属上官である樋口季一郎陸軍中将も、たいへんな喜びようで、橋本通信参謀を呼んで礼を言い、共に祝杯をあげた。
この樋口中将は、かつてハルピンの特務機関長として在勤中、ナチス・ドイツを追われシベリアを通って満州へのがれて来た約二万人のユダヤ人難民を保護し、その命を救った人である。昨年(昭和四十五年)亡くなった時、日本にいるユダヤ人たちがその遺徳をしのび、上智大学のソロモン博士は個人的な希望として、永く中将を記念するためにイスラエルに「ヒグチ」という町を作りたいと述べたことなど、新開に大きく出たから記憶しておられる読者もあろう。
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実はなによりも樋口自身が、というよりも芙蓉書房が密かに語っているのである。回想録の原本のタイトルが『アッツ、キスカ、軍司令官の回想録』であることが。
樋口が人道上の問題として、〈そのため彼らの何千人かが例の満州里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望したのである〉、このことのために満州国外交部を説得して入国手続きをとったのは事実である。このことについてもマーヴィン・トケーアー著/加瀬英明訳『ユダヤ製国家 日本』は、東条英機が最大の功労者として讃美しているがこれも嘘である。東条は事後承認したにすぎないのである。
こういう間違った歴史本が近頃書店に氾濫しているように思う。これだから若者たちは間違った方向の右傾化となり、中国はなんでいつまでも過去にこだわるのか、という抗議に繋がったりする。
樋口にとって、自筆原稿を書き替えられるということは、不名誉な、気の毒なことである。