喜多圭介のブログ

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魂は故郷に

2007-06-07 06:42:53 | 小説作法
地元紙神戸新聞には「神戸新聞文芸」という欄があり、小説は原稿用紙12枚の一面掲載になっています。この作品は応募すれば100%に近い確率で掲載されます。だからこれまで応募をためらっていたのですが、やはりこの新聞のここしかないので応募することにしました。

なぜ100%で掲載されるか。その1、小説部門、ノンフィクション部門の選者二人が故鄭承博の昵懇であったこと。その2、選者二人はぼくを知っている。ただし忘れているかも(笑)。

400字詰原稿用紙体裁です。これできっちり12枚の分量です。
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 魂は故郷に
               喜多圭介

 枕元で若い頃から好きな作家の一人、安岡章太郎の短編集『夕陽の河岸』(新潮文庫)を一晩で読んでしまった。一九九一年刊行である。安岡氏はあとがきで次のように述べている。

  ここに収めたのは、六編の短編小説と四編の随筆(小品文)である。しかし、これらの文章の中でも、どれを小説に、どれを随筆に分けていいか、私自身、判断をつけかねている。小説として読めば読めないこともないが、作者個人の思い出、ないしは雑感として読んで貰っても結構である。
  勿論、こういう結果になったのは主として私の物臭のためである。しかし文学を、いちいち小説とか随筆とかに分類することにどれほどの意義があるか、そういう疑念が私の中で年毎に強くなっていることも、またたしかである。

 そしてここで、谷崎潤一郎の『饒舌録』を引用したのち、「結局、私にとって文学とは、小説であれ随筆であれ、いかなる奇想天外な構想よりも、文章のうま味に在るものと思われる」とくくってある。
 ぼくの小説はいつまで経っても安岡氏が指摘する〈うま味〉にほど遠いが、「しかし文学を、いちいち小説とか随筆とかに分類することにどれほどの意義があるか、そういう疑念がぼくの中で年毎に強くなっていることも、またたしかである。」という思いに勇気を貰って、小説のような随筆のようなことを一文にしておきたい。
 三十年にわたる身近なお付き合いであったから、原稿用紙百枚を超える小説にするだけのエピソードが胸に去来するが、いざ執筆となると、芥川賞候補作家だけに頭が重たくなる。
 芥川賞候補作家鄭承博(チョンスンバク)は、二○○一年一月十八日心筋梗塞であっけなく急死した。享年七十七歳であった。翌朝の新聞各紙には葬儀の日取りや斎場のことを書いた記事、翌々日の新聞には作家を悼む記事が掲載された。
 長年、テイさん、テイさんと呼ばせて貰っての気やすいお付き合いだったが、ときには先生と呼ぶこともあった。またテイさんの晩年になるにつれて、チョンさんと呼ぶようになった。
 同人誌創刊以後の数回は場所を替えての同人会であったが、いつしかチョンさんの住居が会場として定着した。そこは洲本の大野という地名の小さな丘陵にあった。
 四十八歳で書いた小説が芥川賞候補作品となり、以後三作ほどが「文学界」に掲載され、そのときの稿料で、奥さんと住んでいた家とは別に、車で二十分ほどの丘陵に朝鮮風平屋を建て、執筆中心の別居生活を始めた。
 眼下に田圃が拡がり、梅雨には蛙のけたたましい鳴き声が絶え間なかった。田圃の向こうに富士山の形をした低い山容が眺められた。 同人会といっても真面目な顔のしらふで各自が掲載された作品の感想を述べ合うのは、せいぜい一時間、なにしろ大きな座卓の一方の端に「飲まずして文学を語るな!」という白髪の人物が、愛煙のわかばをくゆらせながら鎮座している。一時間も経つと座卓の上に大きな円盤のホットプレートが置かれ、同人たちが集まるまでに準備しておいた焼肉の材料が大きな皿に分けられ、チョンさんや女性の手で運ばれてくる。
 一九七二(昭和四十七)年七月に『裸の捕虜』が、第六十七回芥川賞の最終選考作品に残り、受賞は逸したが以後鄭承博は、芥川賞候補作家と呼ばれるようになった。
 鄭承博と顔見知りになったのは、この翌年でなかったかと思う。彼は芥川賞候補作家となる前、四年間ほど焼肉屋を営業していた。
 大阪の鶴橋で材料を購入して作るタレは絶妙の味で、ぼくは同人の作品批評などはあってもなくてもよく、焼肉とビールでの文学談義をタネにした喧々囂々(けんけんごうごう)の騒ぎが愉しかった。 知り合った当座の同人会でお互いに酩酊の度が深まると、何かの言葉の行き違いで、鄭承博は突然烈火のごとく怒り出すことがあった。たとえば同人の一人が「あの頃は朝鮮人も苦しかったが、日本人も苦しかった」のようなことを、調子に乗って喋ると、いきなり雷が落ちた。鄭承博、五十代前半の頃であった。ぼくはじっと鄭承博の心情を見つめて黙していた。
 こうした雰囲気の同人会は、文学に真面目な気持ちで参加してきた女性には不満であった。ぼくは島の同人会に参加する以前に大阪文学学校の昼間部に一年間通い、創作向上の秘訣は講座にあるのではなく、作家、詩人の文学への情熱、息吹を感受することと交流にあると考えていたから、焼肉に舌づつみを打ち、酔いながらの文学談義のほうがずっと心地よかった。
 どのみち原稿用紙に向かうときは一人である。だれも助けてくれない孤独の深夜作業である。だから創作に取り掛かるまでに、文学の熱を身内に蓄積しておかなければならない。それには仲間との文学談義が、ぼくには好ましかった。
 某月某日、いつもの焼肉用鉄板を座卓に置き、男性三人と女性一人がジュージューと焼ける肉を愉しみ、ビールをやっていた。そしてその場に出席している男の出版記念パーティの段取りを相談していた。
 鄭承博と女性は発起人に名を連ねていたが、あと七、八人の発起人工作を、飲んだ勢いで片っ端から知人に電話した。関西の作家や詩人には鄭承博が「よろしく頼みますわ」と電話口で頭を下げ、いつもの恬淡(てんたん)な口調で話していた。
 夜の十時には予定していた発起人十名の段取りがついたので、出版記念の主役と女性は帰路の道が同じだから、一台のタクシーを呼び帰宅した。
「ほっとしました」ぼくは肩の荷が下りた気持ちで鄭承博に言った。
 鄭承博はいつになくふっくらとした頬で元気、健啖(けんたん)であった。
「あんたとは長い付き合いになったな。書いとるか」
「遅まきのスタートですが、去年当たりから文芸誌の新人賞に応募し始めました」
「あんたは書く力があるから、がんばって応募しなあかん。そりゃ嬉しい話や」
「この歳で今更新人賞に応募するのは忸怩(じくじ)たる思いがありますが、先生のようになれるとは思っていませんが、自分にどんな力があるのかそれを見てみたいと」
「わしは日本に来てからの経験、体験しか書いとらんが、日本でのことが主やから書きやすいと言えば書きやすかった」
 朝鮮半島で生まれた鄭承博は、九歳のとき、単身紀州の某地の土木工事の飯場頭をやっている叔父を頼って来日した。なぜ九歳で単身日本に渡ってきたか、これまで深く問うたことはなかった。
 当時朝鮮半島は、朝鮮人の子どもが学校で母国語を喋ったことで退学処分になるという「奪われた言葉」の時代であった。先を見とおす明晰な頭脳を持っていた少年は、半島の現況に嫌気がさし、叔父からの誘いの手紙もあり、日本での立身出世を夢見たのかもしれない。
 来日してみるとまるで話が違っていた。学校には通えず、飯場の下働きが待っていた。当時のことであるから酷使されることになったが、生来磊落(らいらく)な性分なのか、性質がねじ曲がることなく、聡明な少年はどんどん日本を自分の頭脳に吸収していった。
「あんたはお母さんとの葛藤が文学のテーマになっとるから、わしと違って苦しいやろうけど、書く以上そこを避けることはできん」
「先生が日本で体験したことに比べると、ぼくのは小さな苦しみです」
「そんなことはない。わしの苦しみが大きくて、あんたの苦しみが小さいとは言えん」
 鄭承博はしみじみした口振りで言うと、ぼくのグラスにビールを注いだ。
「しかし小説を書くということは、ほんまにしんどいですね」
「あんたやったらやれる。『淀川河川敷』読んで素質あると思った」
「そうですか」
「近頃、なにもかも捨てた眼をしとるな」
「捨てた眼ですか……先生こそ九歳のときに、何もかも捨てて日本に来られたのですね」
「おってもしゃあなかったしな」
 鄭承博は愛用のわかばを咥えて、遠くを見る細い眼差しになった。
 鄭承博に両親や実弟への肉親の情はどんなものであったか、尋ねてみたい気がしたが黙っていた。実弟はいまもなお韓国に存命であるが、両親はとっくに亡くなっていた。
 鄭承博のいまの心境はぼくの想像で推し量ることはできない。鄭承博は八十近くになった。肉親への思いはいまでは春の海の陽光のきらめきのようなものでないかと、ぼくはビールを喉に通しながら、紫煙を吐いている鄭承博をちらっと眺めた。
 ふさふさした銀髪を左右に分け、涼しい眼差しでわかばをふかしている。
 鄭承博の表情は、最近とみに穏やかな仏相になってきた。
「小説は削らなええ作品にはならんもんや」
 鄭承博は何を思ったのか、ぼそっと小声で呟いた。
 柱時計を見上げるとそろそろ十二時近くだった。夕刻七時頃から焼き肉にビールと酒をやったものだから、ぼくの頭はゆらゆらしていた。今夜もここで泊まりかな、と考えた。
「送って行こか。あんたもこの頃は家でないと眠られないやろ」
「先生、酔うてませんか」
「酔うてない。醒めとるで。さっき即席ラーメン食べたやろ」
 そういえばそうで、ぼくは即席ラーメンを食べている鄭承博を初めて見た。だいたいこういう物を口にしないひとである。
 それからいつものコースで、ほかの車がほとんど走っていない幹線道路を福良まで走った。ふらふら運転でなかった。
 自宅でなくバス停近くのマンションの前で停車して貰った。
「ちょっと待ってや。うちのがあんたにあげて言うものやから」
 チョンさんはそう言うと、運転席から降りてトランクのほうに廻ってそれを開けた。
「あんたには世話になったからな」
 大きな紙袋を三つも取り出した。
「娘さんにでもやって。いつもの物や」
 奥さんはダンボールなどを細工し、千代紙を内側と外側に丁寧に貼り付けた箱や筆立て、手帳などを作っては、鄭承博が世話になった人物に贈っていた。ぼくもこれまでに何度も貰ったが、こんなに大量に貰うのは初めてだった。
 ぼくが驚いた気持ちで車の脇に佇んでいると、運転席に座ったチョンさんの眼がじっとぼくを見つめていた。なぜかいつもの別れ方と違う気配が、お互いの眼のあいだに一瞬流れた気がした。
「先生、気を付けて帰ってください」
 チョンさんの車はちょっと先の十字路まで直進すると、そこで大きくUターンして帰路に向かった。
 急死するちょうど一週間前のことだった。

 鄭承博の魂は、韓国慶尚北道安東郡の両親の元で安らかに眠っていることだろう。