喜多圭介のブログ

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淫祠邪教

2006-12-27 10:54:42 | 歴史随想

拙作『魔多羅人』(原稿400枚近い)は渡来人秦河勝を探求するなかで、当時の淫祠邪教に触れた作品である。秦河勝については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D

 

淫祠邪教については聖武天皇の時代にも玄肪法師が現れた。玄肪法師については松本清張の長編歴史小説『眩人』に描いているが、創作動機は『続日本紀』でないかと想われる。

  是日,皇太夫人-藤原氏,就皇后宮,見僧正-玄肪法師.天皇亦幸皇后宮.皇太夫人,為沈幽憂,久廢人事,自誕天皇,未曾相見.法師一看,惠然開晤.至是,適與天皇相見.天下莫不慶賀.即施法師?一千疋,綿一千屯,絲一千?,布一千端.又,賜中宮職官人六人,位各有差.亮-從五位下-下道朝臣-真備,授從五位上.少進-外從五位下-阿倍朝臣-蟲麻呂,從五位下.外從五位下-文忌寸-馬養,外從五位上.

 

聖武天皇の母親は聖武天皇を産んでから体調と神経がおかしくなって寝込んでしまう。母親というのは藤原不比等(藤原鎌足の次男)の娘で、聖武天皇の父親文武天皇の妻、孝謙天皇とは腹違いの姉妹である。聖武天皇の妻は光明子。

 

〈沈幽憂,久廢人事〉と、久しく廃人であったために三十五年間も我が子と会えなかった。この母親を玄肪法師が快癒させた。当時の僧侶は医師を兼ねていた。それで恩賞にあずかったのであるが、母親と玄肪法師の関係がどうも淫祠邪教なわけであるから、清張ならずとも興味が湧く。鎌倉時代の『源平盛衰記』に関連記事があるが、かなりリアリスティックでエロチック。

  彼広嗣の謀叛を発しける故は、聖武皇帝の御宇(ぎよう)に、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)とて貴き僧座しき。戒行全く持て、慈悲普く及ぼし、智行兼備して済度隔なし。一天唱道国家珍宝也。遣唐使吉備大臣と入唐して、五千(ごせん)余巻(よくわん)の一切経を渡し、法相唯識の法門を将来せり。皇帝皇后深御帰依を致し給へり。常に玉簾の内に召れて、后宮掌を合御座(おはしま)す。広嗣后の宮に参給たりけるに、玄肪(げんばう)婚遊し給へり。広嗣奏して申さく、玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る、其咎尤重しと。帝更に用給はず。広嗣又后宮に参たりける時、玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり。重て奏して云、玄肪(げんばう)只今(ただいま)后宮と席を一にし給へり、叡覧に及ばば重科自露顕せんと申。帝忍て幸成て、御簾の隙より叡覧あり。光明皇后は十一面観音と現じ、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)は千手観音と顕て、共に慈悲の御顔を並て、同く済度の方便を語給へり。皇帝弥叡信を発御(有朋下P148)座て、広嗣は国家を乱すべき臣也、一天の国師たる貴き僧を讒し申条、罪科深しとて、西海の波に被(レ)流たりければ、怨を成て謀叛を起す。凡夫の眼前には、非(二)梵行(一)婚家と見奉れ共、賢帝の叡覧には、大悲薩■[*土+垂](さつた)の善巧方便と拝み給ふも穴貴と。

 

〈玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る〉、〈玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり〉とリアルな叙述。

 

怪僧は玄肪法師のみならず、東大寺建立に係わった行基や孝謙天皇との関係を取り沙汰された弓削道鏡がいた。弓削道鏡については好事家の巨根伝説がある。

 

玄肪法師の魔法は母親だけでなく光明子、孝謙天皇にも及んだと松本清張は見ていた。

 

当時、奈良の興福寺に義淵という法相宗の僧がおり、『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄肪・行基・隆尊・良弁、道慈・道鏡は門下であった。こういうところから道鏡は玄肪の淫祠邪教の手法を研究したかもしれない。

 

玄肪法師が何を用いてたが、核心部分になるが、清張の小説に次の箇所がある。

 はっきりしたことはもちろんわからないが、と惟安が断って言ったことである。その酒を作るには、まず、山羊の乳と水を混ぜ、その中にある種の植物の小枝を挽いたものを入れて発酵させる。それを十三ヶ月と十三日間、寝せておくそうな。そうすると、なまな発酵は醇化してとろりとした味となり、かつは融けこんだ植物の匂いがあらわとなる。
 (示に天)教(けんきょう、ゾロアスター教)では、この材料とする水は万物の源であり、山羊の乳は生命の根元、そうして植物は不老長寿と知恵と神への近づきをあらわす。神とはむろん胡(ペルシャ)の天神である。その植物がハオマだ。ハオマの成分は分らぬ。ハオマのことは秘中の秘である。神に近づくとは心気が朦朧となって仙界を捗(わた)ってゆくことらしい。わしはまだ飲まされたことはないがの。
 その惟安もいまは玄肪の友人として彼の言う波於麻(はまお)酒の接待を受けている。あんたが康忠恕に気に入られ、忠恕の世話で(示に天)教寺の波於麻酒をあんたの相伴で飲めるとはありがたいことだといくらか皮肉な口吻でいった。
 その惟安もいまほ隣で神妙に器の液体をすすっていた。

 

これを大麻と見るのは早計に過ぎるかもしれないが、大麻でないとも断定できない。たとえ大麻でなくても、すでにこの頃からペルシャやヒマラヤ山脈の麓では麻薬に類した植物が薬として用いられていたと想われる。大麻については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BA%BB#.E8.8C.8E

ゾロアスター教については以下を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

 

時代はルネッサンス当時に下るのであるが、 渡辺一夫評論集『狂気について』(岩波文庫)の──「パンタグリュエリヨン草」について──の章に、次のようなことが書かれている。

【前略】「パンタグリュエリヨン草」は、いかなる「麻」でもなく、ラブレーが心に描いた一つの決意の象徴に外ならないというのである。そして、この「霊草」は、hesuchismeの象徴であり、内心の信念や秘やかな真実追求の心を、誤解や迫害から守ってくれる「効能」を持っていることになる。ソーニュは、ラブレーの記述を一つ一つ点検して、「パンタグリュエリヨン草」の持つあらゆる「功徳」を、この線に従って解釈して、長い航海──それは現実の荒海への船出であるが、──危難に充ちた航海へ携えてゆかねばならない「霊草」が、「パンタグリュエリヨン草」だとしている。

 

フランソワー・ラブレーの大作『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』全五巻の第三之書に出てくるのである。ぼくはこの物語を読んでいないので、これ以上のことは付加しないが第三之書は1546年に書かれている。


日米開戦の発端(1)

2006-11-15 17:10:46 | 歴史随想

日米開戦のきっかけとなったのが満州事変。国内では軍人が政治にどんどん介入、政治家は無力化していった。このときの総理大臣がぼくの入学した雑賀町小学校の大先輩、若槻禮次郎。母方の先祖松江藩士、松崎仙石(天保十二年生、利左衛門昌英)の妻(利与)とはいとこ同士。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89

 

自伝『古風庵回顧録』には、満州事変当初のことがリアルに書かれてある。一級品の昭和史資料。引用は講談社学術文庫『明治・大正・昭和政界秘史──古風庵回顧録』若槻禮次郎、による。

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  再び台閣(たいかく)に立った私は、浜口内閣の政策を踏襲し、浜口の志を遂げしめることに努めた。 浜口内閣は行政財政の整理を行うため、整理委員会を設けていた。この委員会は二部に分かれ、行政整理は江木(翼)鉄道大臣、財政整理は井上(準之助)大蔵大臣がいずれも部長となり、計画立案に当たっていたので、私はそれを、そのまま推進することとした。 その年(昭和六年)の九月初めのある朝、私は驚くべき電話を、陸軍大臣(南次郎)から受けた。それによると、昨夜九時ごろ、奉天(ほうてん)において我が軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、我が兵はいま長春(ちょうしゅん)の敵砲兵旅団と戦を交えつつある、という報告であった。これがいわゆる満州事変の第一声であった。そこで政府は、ただちに臨時閣議を開き、事態を拡大せしめないという方針を定め、陸軍大臣をして、これを満州の我が軍に通達せしめた。これは我が国が、九国条約や不戦条約に加盟しているので、満州における今度の出来事が、それに違反するかどうかを確かめる必要があるので、その間、事態の拡大を防ぐのが当然であるから、右の措置を取ったのであった。 爾来(じらい)政府は毎日のように閣議を開き、陸軍大臣を促(うなが)し、命令の不徹底を責めたのであるが、満州軍の行動は、政府の命令にもかかわらず、ますます進展してやまない。私はそこで、杉山陸軍次官、二宮参謀次長を官邸に呼び寄せ、満州軍の行動は、日本の対外的立場を甚(はなは)だしく不利にするもので、国家のため憂慮に堪えない。両君は大臣及び総長を扶(たす)けて、政府の命令が必ず実行せられるよう、取り計らわねばならんと、厳重に訓令した。一方私は、貴族院議員大島健一君が、かつて陸軍大臣であり、陸軍の先輩であるから、満州に行って、軍を説諭(せつゆ)してもらいたいと、同君に依頼した。大島はいったん承諾したが、二、三日後、健康上の理由で謝絶して来た。参謀本部では、満州軍を戒(いさめ)るというので、部長の建川美次少将を満州に出張させた。その建川が、満州軍を取り締ったのか、あるいはこれに同調したのか、私は知らない。 満州軍が事を起こしたときは、満州の我が軍は一個師団ばかりであったろう。それで満州軍から林朝鮮軍司令官に援兵を求め、林はただちに二個師団を満州に派兵した。元来、軍隊を外国に派遣するには、勅裁(ちょくさい)を受けなければならない。しかるに朝鮮軍司令官は、この手続きを経ないで、派兵してしまった。そこで金谷参謀総長は参内(さんだい)して、事後の御裁可を仰いだ。陛下は、政府が経費の支出を決定しておらないというので、御裁可にならない。参謀総長は非常な苦境に陥(おちい)った。そこで南が私に、軍費を支出するということを総理大臣から奏上(そうじょう)して、参謀総長を助けてもらいたいと、頼んできた。閣議を開くと、閣員たちは、南が政府の命令を承知して帰りながら、満州軍がちっともそれを行わんといって、陸軍の態度に憤慨しているので、中には、政府の全く知らん事で、支出の責任を負うことはないと、反対する者もあった。しかし出兵しないうちならとにかく、出兵した後にその経費を出さなければ、兵は一日も存在できない、食うものもないことになる。それならこれを引き掲げるとすれば、一個師団ぐらいの兵力で、満州軍が非常な冒険をしているので、絶滅されるようなことになるかもしれん。だからいったん兵を出した以上、その経費を支出しないといえば、南や金谷が困るばかりでなく、日本の居留民たちまで、ひどい目に遭うに違いない。そこで私は、閣員の賛否にかかわらず、すぐに参内して、「政府は朝鮮軍派兵の経費を支弁する考えであります」と奏上した。私が退出すると、金谷が御前に出て、出兵の勅裁を受けた。しかしその御裁可のときに、陛下から『将来を慎(つつし)め』とのお叱りを被(こうむ)ったようであった。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(5)

2006-10-31 19:11:01 | 歴史随想

 三八式歩兵銃をめぐるふたつの出来事
       樋口季一郎中将の場合



 前項で述ペたごとくキスカ守備隊の撤収作戦はきわめて順調に行なわれ、これが「ケ二号作戦」の成功に繋がったのはいうまでもない。
 アメリカ軍の空襲によって生じた二、三〇〇名の重傷者をふくめた六〇〇〇名の兵士を、ろくな港湾施設もない港で、スムーズに乗船させるのは容易ではなかったものと思われる。
 港というより入江と呼ぷ方がふさわしい場所に、数隻の軍艦が身を寄せ合うようにして入港する。
 桟橋はないので小舟を使って兵士を運び、縄梯子で乗船させるのである。負傷者、病人は担架に載せたままロープで引き揚げる。
 これが第一水雷戦陣と守備隊の協力によってわずか三時間半で終了し、そして十数隻の艦隊はキスカを後にしたのであった。
 この撤収/救出作業が迅速に進んだ第一の理由は、前述のごとく兵士の人命を第一に考え、兵器の破壊、投棄を認めたからと言われている。
 北方軍司令官樋口季一郎中将は、大砲などの重火器はもちろん、歩兵の主要な兵器である三八式歩兵銑の投棄まで容認した。
 現代から見れば当たり前とも思えるが、当時としては陸軍中将の職まで賭した決断であった。
 日本陸軍は、小銃を含めたすべての官給品を信じられぬほど厳しく管理していた。
 その管理状況は、まさに″病的″という形容詞が当てはまるのではないか、と思われるほどである。なかでも小銃には菊の紋章が入っており、「天皇陛下からお預かりしたもの」と教育していた。
 平時はもちろん戦時においてさえ歩兵銃をなくしたりしたら、恐ろしい体罰と営倉(軍隊の仮の刑務所)入りが待っでいる。
 明治以来の日本の陸軍で歩兵銑の投棄を許可する命令が出た例など、前代未聞であった。
 キスカ守備隊(陸軍と海軍の陸戦隊)の兵士たちは、海岸を離れる間際に、それまで片ときも手放すことがなかった小銃を海に放り込んで身軽になったのであった。
 この当時にあってはこの重大な決断を下した樋口季一郎の行為は、高く評価されるべきであろう。
 彼は頑迷な陸軍の将軍たちの間では特異な人物で、永くヨーロッパ(主としてポーランド)で駐在武官をつとめ、イギリス、ロシアには多くの人脈を持っていた。
 また昭和一二年(一九三七年)から二二年にかけての満州国(現・中国北東部)、ハルピン特務機関長時代には、人道的行為により国際的にも名を知られる。
 少々横道にそれるが、彼の″決断″を裏づける意味からも、この行為を記しておく。
 昭和一二年の秋、ソ逢、満州国の国境の町マンチュリ(満州里の字を当てる)で、一万人のユダヤ人が立ち往生していた。
 彼らはナチス・ドイツの迫害を逃れたポーランド在住のユダヤ人であり、ドイツは彼らの本国への送還を強くソ連、満州国政府に要請していた。
 しかし送還を認めれば、彼らがゲットー(強制収容所)へ送られることは眼に見えている。かといって、それを拒否してドイツとの関係が悪化するのは好ましくない。
 このためソ連、満州国政府とも手を拱(こまね)くばかりであった。
 着の身着のままのユダヤ人たちに間もなく寒風とみぞれが襲いかかる。彼らは無蓋の貨車のの上に乗せられて、すでに一ヵ月をすごしていた。
 この窮状を知った樋口は、人道的な立場から満州国に通過査証(トランジット・ビザ)を発行するように指示を出した。
 凍死寸前の一万人のユダヤ人はこれにより満州──中国(上海)経由でアメリカに脱出できたのである。
 終戦後、ソ連政府が戦犯容疑者として樋ロを逮捕しようとしたとき、アメリカ・ユダヤ人協会はアメリカ政府を動かし、かつての恩人を救うのである。
 このエピソード自体、日本国内よりもアメリカ、イスラエルで知られている。
 樋口は昭和四五年一〇月一九日に死去しているが、その生涯で二度、自分の責任で重大な決断を下し、多くの人の生命を救った。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(4)

2006-10-29 15:46:57 | 歴史随想

 一方、艦隊の到着を待つキスカでも守備隊にあせりの色が広がっていた。
 兵器、とくに重火器はすでに破壊し、食料も残り少ない。救出艦隊より先に米軍が来襲してきたら、闘う手投もなくなろうとしていた。
 七月八日を第一日として、一一日、一二日、一三日、一四日、一五日、二三日、二六日とキスカの部隊は、島の中央部にある宿舎と乗船する海岸(約八キロ)を往複する日々がつづく。
 この間にもアメリカ軍の爆撃はつづき、死傷者は百数十名に達していた。
 このような状況下、木村昌福少将は突入のタイミングを慎重にはかっていた。
 決断を誤れば、
 第一水雷戦隊の乗組員 五〇〇〇名
 キスカ守備隊の兵員  六〇〇〇名
 のほとんどが命を失う。
 また、北海道から三〇〇〇キロ近く離れたアリューシャン列島での闘いとあって、味方の軍隊、航空機の支援はまったく望むことが出来ない。
 無線の交信さえ最小限に制限されていて、天候も自分の判断で見極めるしかなかった。
 七月二九日、午前一〇時三〇分、一瞬の濃霧の切れ目をついて、一水船がキスカに入港、四時間以内に六〇〇〇名の守備隊を収容した。
 計画どおり、歩兵銃さえ海中に投棄させ、″身ひとつ″の脱出である。
 残った者がいないかどうかの確認作業が行われたあと、艦隊はつぎつぎと島を離れていく。
 ふたたび霧がキスカ全島を覆い隠したのは、それから間もなくであった。
 レーダー、哨戒艦、航空機を駆使してキスカを封鎖していたアメリカ軍にどのような手抜かり、ミスがあったのかははっきりしないが、この白本軍の大撤収作戦にまったく気づかなかった。
 日本兵が立ち去った二週間後、アメリカ軍は戦艦まで出動させ、同島を徹底的に砲撃、その後一万人の部隊を上陸させる。
 日本軍の猛烈な反撃を予想したが、すでに一人の敵兵を発見することもできなかったばかりか、かえって疑心暗鬼から同士討ちにより五〇名を越す死傷者を出している。


 


 七月三一日、艦隊はようやく幌筵島の柏原に帰港し、在泊の艦船の乗組員から熱烈な歓迎を受けた。
 また陸軍は三〇機以上の戦闘機を艦隊の上空に送り、一水戦の労苦をねぎらったのである。
 アッツ島守備隊の玉砕という衝撃が、日本の陸海軍首脳を打ちのめし、それがキスカの救出につながった。
 そしてこの作戦遂行に当たっては、陸軍の北方軍、海軍の第五艦隊司令部の間の協調がきわめてムーズに進んだ。
 また作戦全体にも──現代ならば当たり前の──常識が生かされたようである。
 陸軍も海軍も、この「ケ二号」に関するかぎり、人命の尊重を第一の目的としていた。
 これが可能となったのは、
 北方軍司令官   樋口季一郎
 第五艦隊司令長官  河瀬四郎
 の二人が、日本の軍人には珍しい″常識派″であったためである。
 また実行面での木村昌福は、彼ら二人の意をよく理解し、沈着冷静、しかも果敢に行動した。
 強行突入を進言する者、またアメリカの大艦隊との交戦を危惧する者のどちらにも耳をかさず、人命の救出のみに専念したのであった。
 そこでこれだけ鮮やかな撤収/救出作戦を成功させた木村少将について、紹介しておきたい。
 彼は海軍兵学校を大正二年に卒業しているが、そのさいの成績は二八人中、後から七番目であった。
 したがって海軍の中央で華々しく活躍する機会など一度もなく、地方の部隊、小艦隊の指揮官などを務めていただけである。
 昇格、出世も決して早いとは言えず、また外見もきわめて地味な人物であった。
 第一水雷戦隊司令官職も前任者が病魔に襲われたため、急に発令された地位ともいわれていた。
 しかし「ケ二号作戦」が決定し、その実施部隊の指揮官に任命されると、水際立った手腕を発揮するのである。
 気象状況を緻密に調査し、麾下(きか)の艦艇を整備し、陸軍兵士の収容訓練を重ねさせた。
 また直属の上司である河瀬中将を強引に引っ張り出して、北の海の海況を説明したことも一度や一度ではない。
 これは作戦遂行に必要な物資を入手するための手段のひとつであった。そして部下には、


(一) 詳細な計画
(二) 綿密な進丁備
(三) 沈着な行動
 を常に言いつづけてきた。
 そして最後に必ず、
「最終的な責任は自分がとる」
 と付け加えている。
 男ましい言葉に酔い、その割に実行力が伴なわなかった陸海軍の将官たちとはまったく異なった、貴重な存在であった。
 日本の陸、海軍士官の昇格は、常に士官学校の成績によって左右された。その誤りを木村は身を持って証明しているようである。
 のちにこのキスカ放出作戦について、アメリカの戦史研究家はつぎのように記している。
『天候を利用し、アメリカ軍の虚を突いたキスカ島からの撤退作戦は見事な成功をおさめた。
 しかしこれは太平洋戦争における、日本軍の最後のヒューマニズムの記録となつた』


樋口季一郎とアッツ、キスカ(3)

2006-10-20 07:09:02 | 歴史随想

 


 キスカ島へはつぎつぎと呼号文が送られ、撤退の準備と訓練が開始された。いつ敵の上陸が始まるかわからない状況下での撤収である。
 ここに少なからぬ問題が生じた。
 敵前での撤収であるから、完全に秘密のうちに準備を進める必要がある。
 また収容能力の少ない軍艦が使われるので、大型の火器、それに付随する砲弾の類は全部破壊あるいは使用不能にしなくてはならない。さもないと上陸してきた敵が、容易にこれらの兵器を押収するはずである。
 しかし、主要な兵器を破壊した直後にアメリカ軍が来襲したら、反撃の手段がない。
 それでなくとも上陸が間近いと見えて、連日アメリカ軍航空機からの爆撃を受けているのである。
 河瀬と木村は作戦発動のさい、
「撤収は身体ひとつで」
 との命令を強調していた。
 ともかく六〇〇〇名の将兵を短時間で巡洋艦、駆逐艦に乗艦させなくてはならない。
 この作業中、敵に発見されたらすべて終わりである。
 アメリカの艦艇、航空機は絶好の機会とばかりに攻撃してくるのは火を見るより明らかで、港内に停泊している日本軍の軍艦は回避運動もできないのである。
 そして来艦の訓練も何度となく繰り返されたが、これはキスカには設備の整った港がなく、船舶への上、下船は小船と縄梯子(はしご)に頼らなくてはならないからであった。


 七月七日、霧につつまれた幌筵島の柏原港を第一水雷戦隊が出発した。
 旗艦〈阿武隈〉〈木曽〉の軽巡二隻
 海防艦〈国後(くなしり)〉、油槽船一隻
 いずれもこの海に慣れた艦艇と来月からなる艦隊である。
 夏の北太平洋にはふたつの海況しかないといわれている。低気圧による暴風と大時化の海、あるいはミルクのような濃い海霧とベタ凪の海面である。
 まだ台風の少ない六、七月には後者の場合が多かった。そしてこの海霧が日本海軍の隠れ蓑になってくれるはずであり、またこれだけが頼りでもある。
 アメリカ海軍はアリューシャンに少なくとも巡洋艦六、駆逐艦二〇隻をそろえているので、これに見つかったら、六〇〇〇名の陸兵の収容などできるはずはない。いや、収容どころか第一水雷戦隊の運命さえ定かではなかった。
 したがって成功の鍵は霧を味方につけ、アメリカ軍のレーダーの網の目をくぐつてキスカに到着することにあった。
 木村少将は海軍兵学校(海軍の士官学枚)卒業後、ずっと軽艦艇に乗り組んできた男であり、この任務には最適であった。
 もっとも、彼は立派な髭で有名となっていて、艦隊の指揮については未知数ともいわれていた。
 撤収にあたる一水戦(第一水雷戦隊)は、最初の出動でキスカから五〇〇海里(九三〇キロ) の地点まで接近しながら、幌筵に引き返さざるを得なかった。
 あまりに濃い霧が艦隊の行動を妨げたのである。
 若手の士官たちは強行突入を進言したが、木村はこれを退け、次の機会を待った。
 次の出動は七月二二日であったが、これまた四五〇海里(八三〇キロ)まで近づいたところで濃霧に捕まってしまう。
 いかに霧を味方に、といっても濃いすぎては困るのである。
 このときの港は、視界数十メートルといった状態が数日にわたつてつづき、太陽は一度も顔を見せないほとひどいものであった。
 それでも何人かの士官は、″天佑を信じて強行突入″を再度木村に迫った。神がかり的な言葉を弄する者たちは陸軍ばかりではなく、海軍にも多かったのである。
 しかし、この海域に発生する霧は″天佑神助″などという空虚な言葉を嘲笑(あざわら)うほピ恐ろしい。
 一水戦の各艦は見張貝の数を増し、微速で航行していたにもかかわらず、二度の衝突事故を起こしたほどである。
 旗檻へ〈阿武隈〉と海防艦〈国後〉、駆逐艦〈若葉〉と油槽船が接触し、四隻が大なり小なり損傷を負ってしまった。〈若葉〉〈国後〉はこの修理のため、艦隊を離れざるを得なくなった。
 この事故のあと、強硬派は態度を一変させ、突入に消極的となる。


樋口季一郎とアッツ、キカス(2)

2006-10-19 18:12:34 | 歴史随想

忍耐、また忍耐
     ──木村昌福海軍少将の場合


 昭和一六年(一九四一年)一二月の開戦以来、破竹の快進撃をつづけマレー半島、シンガポール、香港の占領をはじめ、南太平洋、遠くインド洋にも手を広げた日本軍ではあるが、勝利の女神は少しずつ遠ざかる気配を見せていた。
 翌一七年六月、海軍はミッドウェー海戦で四隻の航空母艦を失った。
 また八月に入ると、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島に反撃の第一歩を築く。
 この後の戦況は少しずつアメリカに有利となって、日本軍の損害は急増していった。
 それまで静かだった北太平洋も昭和一八年春には次第に騒がしくなっていき、ついに五月一二日、一万名を越すアメリカ軍が強力な航空部隊、艦隊の支援を受けつつアッツ島に上陸する。
 同島の日本軍守備隊二六四〇名は孤立無援のまま四倍の敵軍と闘いつづけたが、ついに一七日後全滅する。生き残った者はわずか二七名のみという激戦であった。
 山崎保代大佐を長とする日本軍は食料、弾薬とも不足したまま勇敢に闘い、アメリカ軍に死傷一八六〇名の損害をあたえたものの、アッツ島は元の持ち主の手に返ったのである。
 当時の日本の新聞は、全滅を″玉砕″と言いかえて報じたが、のちにこの単語は太平洋の島々で繰り返されることになる。
 まだ日本軍には多少の余力もあったので、当然アッツ島へ増援部隊を送ることも考えられた。
 しかし同島はあまりに速く、また島の周蝕にはアメリカ海軍による包囲線が敷かれでいたので、結局、見殺しにせぎるを得なかったのである。
 こうなれば次はどう考えてもキスカ島の番であり、勝ち誇った米軍が同島に上陸してくるのはたんに時間の問題であった。
 キスカには陸軍部隊二四三〇名、海軍一l一二一〇名、計五六四〇名の兵士がいて、兵力的にはアッツの二倍である。
 しかし、アメリカはアラスカ州罪を中心に三、四万名の兵員、一〇〇隻の艦艇を用意して進攻を準備していた。
 このような状況下、日本陛軍の北方軍司令部と海軍の第五艦隊司令部は、キスカ島からの守備隊の撤収を決定する。
 当時の頑迷な日本軍のなかにあっては、きわめて合理的、かつ理性的な決定といえた。
 いかに増援部隊を送ろうとしたところで、キスカは日本よりもアメリカに近い。そしてもともとアメリカの領土であり、戦略的価値は高いとは言えぬ地域にある。
 このまま守備隊を張りつけていても、早晩、圧倒的なアメリカ軍によりアッツ同様に全滅はまぬがれない。したがって一刻も早い撤収を決定したのである。
 この決断は、北方軍司令官樋口季一郎中将と第五艦隊司令長官河瀬四郎中将の話し合いによって行なわれた。
 話し合いが順調にまとまった理由のひとつは、キスカの守備隊が陸海軍双方の部隊から構成されていたからである。
 さて撤収(撤退)は決まったが、それを実施するとなると問題は山積していた。
 六月初旬、すでにアメリカ軍は同島への封鎖を強め、周辺の海域の制海権を確立していた。
 日本海軍はまず大型潜水艦を使ってキスカとの連絡を確保しようと試みたが、アメリカの包囲網は厳重をきわめていた。
 その証拠として六月十三日に二隻、二一日に一隻潜水艦がアメリカ海軍によって撃沈されている。
 同島の周辺には航空機、水上艇が常時哨戒し、日本軍艦艇の接近を許さなかった。とくにアメリカの軍艦に装備されはじめていたレーダは、霧の多いこの海域で威力を発揮したのである。
 潜水艦による救出が無理となれば、高速の軽艦艇(軽巡洋艦、駆逐艦など)を投入するしかない。
 本来なら大型輸送船を使って行なうべきであるが、航海速力に大きな差がある。
 海が穏やかな場合、
 軽巡、駆逐艦 三二ノット(六〇キロ/時)
 輸送飴 一五ノット(二八キロ/時)
 とその差は二倍以上であった。
 第五艦隊の河瀬司令長官は、部下の木村昌福少将へ(第一水雷戦隊司令官)にこの撤収/救出作戦の実行を命じた。
 この作戦は『ケ二号』と名づけられ、六月末から少しずつ動きはじめる。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(1)

2006-10-19 16:26:36 | 歴史随想

樋口季一郎の自著である回想録を読んでも、アッツ島の日本兵全滅(玉砕)とキスカからの撤退の内容は、断片的なメモ書き程度の記述しかなく、全容がほとんど掴めない。理由の一つに高齢の樋口に回想録後半を記述をするだけの体力が残されていなかったこと。二つに部下を全滅させてしまったという悲痛な思いが胸にこみ上げ、記述に至らなかったのではないかと想像する。


アッツ島全滅とキスカ撤退の全容を知る資料はないかと思っていたのだが、幸いなことに光人社発刊の三野正洋著『指揮官の判断』中に、以下の項目を見付けたのでここに転載しておくことにした。


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キスカという小島と二人の日本軍人
      ──木村昌福と樋口季一郎



 太平洋戦争の歴史をひもとくとき、アッツ、キスカというふたつの小島の名が何度となく現われる。
 この島々を一般の家庭におかれている地図帳で探し出すのは難しい。かなり厚い地図帳でも載っていない辺境の小島なのである。
 いずれも太平洋の北端に連なっているアリューシャン列島のアジア寄りにあって、面積はほぼ佐渡ヶ島(南北五〇キロ、東西三〇キロ)程度である。
 アリューシャン列島はアラスカとカムチャッカを鎖状に結んでいるが、ここを支配しているのはといっても″寒さ″そのものであろう。
、八月であっても平均気温はわずかに一○度、そして六、九月に雪の降ることも珍しくない。
 当然、作物、大きな樹木は育たず、住民としてはごく少数が漁業に従事しているにすぎない。
 太平洋戦争が始まってから半年後の昭和一七年(一九四二年)六月七日、日本軍はこのふたつの島──ともにアメリカ領であった──を占領した。
 アリューシャン列島の西の端に位置し、一年中を通して雪、氷、霧、そして烈風が吹きすさぶ北海の孤島。
 兵員、物資を運ぶにしても、海路で、北海道(椎内)──千島列島(幌筵)──アッツ/キスカ
 を行かねばならない。その距離は、
 稚内あるいは根室──幌筵島約一八〇〇キロ
 幌筵──キスカ/アッツ一一〇〇キロ
 となっている。
 北海道の港から直接アッツ/キスカに向かえば二五〇〇キロであるが、幌筵(バラムシル)を経由すれば三〇〇〇キロ近い。
 そして荒れる北の海は、二万から翌年の二月にかけて船の航行を徹底的に妨害する。充分に補給もできない氷と岩の小島を、日本軍はなぜ占領したのであろうか。
 一言で言えば、アラスカ、アリューシャン、千島列島経由で、アメリカ軍が北海道に攻め寄せてくるのを監視、阻止するためである。
 しかし、早くもこの年の八月からアメリカ軍の空からの反撃が開始され、両軍の激闘が展開される。
 そして北の小島にも占領から妄とたたぬうちに、アメリカの大軍が来襲するのであった。
 この項では、アッツとキスカ南島をめぐる闘いにおいて、指揮をとった二人の日本軍人にスポットを当ててみたい。
 彼ら二人は、ときには″悪の象徴″的な存在として伝えられてきた我が国の軍人とは異質な人格の持ち主であり、その決断は共に特筆に値するものであったからである。
【『指揮官の決断』三野正洋著 光人社】引用。


上坂冬子の雑駁な歴史認識に反論

2006-04-04 18:59:21 | 歴史随想

ヒトラー引き合いに出した中国外相も粗雑だが、上坂冬子の以下の文章も雑駁(ざっぱく)。

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 「正論」平成18年5月号  第19回 今月の自問自答「無知にして頑迷固陋な国よ」 

◇李肇星外相の暴論 手に負えないもの、それは無知にして頑迷固陋な思い込みを発言しまくる人である。 「そりゃそうだけど、あんたからいわれたくない」 といわれるかもしれない。 たしかに、かくいう私こそ思い込みをブチまけてハタ迷惑な暴論を吐いたりすることがおおいけど、筋を通して説得され納得しさえすれば百八十度の転換だっていとわない。困るのは思い込んだらテコでも動かず、我こそは真理ナリとばかり延々と自説を吹聴する輩である。 具体例をあげよう。 さしあたって中国の李肇星外相がその筆頭だ。二〇〇六年三月六日、全人代後の記者会見で彼はヒツトラーを引き合いにして日本のA級戦犯を批判してみせた。 バカも休み休みいえとはこのことだろう。 かつて戦犯裁判の法廷でさえ日本の指導者とドイツのヒットラーとは違うと、はっきり区別して論じられた記録が残っているのを、外相たるものが知らないのか。 そもそも、この程度の認識で靖国参拝に反対しているなら、日本としでは歯牙にもかけず聞きながすしか無いと、今度という今度こそ私も呆れ果てた。もっとも、中華人民共和国はA級戦犯が処刑されたあとに誕生した国である。それまでは存在しなかったし、ましてや李肇星外相は戦争を知らない年代であろう。不勉強にはちがいないが、無理もないといえば無理もない面もあるし、じやあ、お前ンとこはどうなのかと反論されれば、こちらとしてもチト分が悪い。 たとえば麻生太郎外相は(三月八日)、日本記者クラブで記者を相手に、靖国神社には戦死者ではない人も祀られているのが問題だ、と発言してA級戦犯の分祀の必要をほのめかしたと伝えられた。分祀の必要をほのめかした云々は、それこそ記者の思い込み解釈だろうが、麻生さん、靖国神社に戦死者でない人が祀られているのがどうして問題なのか。靖国神社が戦死者だけを祀る場所と限られていないことは、すでに常識となっている。たとえば沖縄のひめゆり部隊の乙女たちや、沖縄から鹿児島まで学童疎開のために対馬丸にのっていて遭難した児童たち、古くは日露戦争にまきこまれて日本船の船長として遭難したイギリス人など、国家的見地からみて日本の犠牲になったと思われる人々で、氏名のはっきりしている人の霊は靖国に祀られているの知らないのか。  靖国問題の矢面に立つべき外相が、もし事実として靖国神社を戦死者のみを祀る場所として認識していたとすれば、李肇星外相をあざ笑えまい。

◇東条英機は悪人か そういえば、東条は悪人だという思い込みもかなり行き渡っている。  勝ち目のない戦争を始めた無謀な首相、白旗をかかげるタイミングを外して目本をとことんまで窮地に追い込んだ強引なりーダー、などと位置づけられている。 しかし半世紀前、東京裁判が始まったころに「東条見直し論」が、ひそかに蔓延していた。朝日新聞の「天声人語」でさえ、 「電車の中などで『東条は人気をとりもどしたね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東条礼賛のものを時に見受ける」(昭和二十三年一月八日)と書いている。 おそらく東京裁判法廷で天皇をかばいぬいた東条の証言に人々は好感をもったのであろう。もっとも朝日新聞のことだから、締めくくりは東条の陳述に共鳴してはならないとしているが。 二十年ほど前、A級戦犯を裁いた「東京裁判」のドキュメンタリー映画が、戦後はじめて日本で上映されたが、このころにも東条見直し論がかなり取り沙汰された。 四時間半におよぶこの映画は、昭和天皇がいかに心ならずも開戦の決断を下したかを東条が証言した様子を浮かび上がらせているし、敗戦国のトップとしてプライドに満ちた態度で証言した様子もつぶさに写し出されている。人々は、ここでそれまでの思い込みをたださずにいられなかったのであろう。 毎日グラフの柏木辰興記者によれば、「A級戦犯として絞首刑になった東条英機を見直す気運が強まっている。戦史専門家の間でも、東条英機は首相になって対米戦回避に尽力しており生硬な主戦論者ではないとか、当時は天皇、統帥部の強い権限があり、独裁者ではあり得なかったなどというものだ」(昭和五十八年八月二十一日) とあるから、世論はドキュメンタリー映画にかなり刺激されたものと思われる。さらに、この後がいい。柏木記者の見解として、「東条内閣の成立を伝えた当時の新聞は『一億国民の総司令官、東条さんしっかり頼みます』『実行家のカミソリ宰相に期待』などの見出しが躍っていた。田中角栄を『今太閤』『学歴なしの庶民宰相』と持ち上げた比ではない。どこぞの政党は別としてマスコミ、文化人、財界をはじめ国民こぞってが東条に期待、戦意高揚を助けた」 と述べて、マスコミが作り上げる風潮の恐ろしさを伝えていた。私の年代だと、ここで拍手喝采したくなる。

◇それが戦争というもの 東条が悪い、日本の指導者の罪だ、などというけれど、悪いといえば一丸となって戦った日本中が悪い。  「生きては帰りません。この次に会うときは靖国神社で」 と、男たちは私心を捨てて戦場に向かい、家族はそれを喜んで見送った時代が日本にあったのだ。そんなバカなとはいまだからいえることで、当時、子供だった私はお国のためには命もいらぬと思ったし、私の周辺の大人も迷うことなくそう思っていたかに見える。ウソだと思ったら戦時中の新聞を開いてみるがいい。ひとり息子を迷うことなく戦場に送った母親や、三人の息子が立派にお国のために死んだのを喜ぶ両親の話が連日のように美談として紹介されている。 見方を変えると、日本人は当然のこととして愛国心を持ち戦争が始まった以上、四の五のいってないで勝たなきやならぬと思い詰めていた。いまだから歴史認識だの侵略だのと丘の上から景色をみるような思いで、いっぱしの論戦を交わすけれど、当時は自分の国を愛し守るという美学に反論の余地などなかったのである。それが戦争というものだ。戦争は狂気に支えられて進行するものであり、いったんはじまった以上、人道的に戦うなどということはあり得ないと私は思っている。 視野がせまいといわれればそれまでだが、当時の国民にとってそれは爽快で、すっきりと心おちつく境地であった。すくなくとも少女だった私は、当時を思い出して後悔や反省など微塵も感じない。近代化を目ざした国家として、国民として一度は通らねばならなかった通適地点てあったとさえ思っている。 戦争を知っている私が通過地点として切り離した過去を、戦争を知りもしない人が事あるごとにもっともらしく論理づけて、日本人の歴史認識の誤りにむすびつけるのは自由だが、私は受け付けない。

◇怒るほうが悪い ともあれ靖国問題をめぐって、いまや日中互いに頑迷な思い込みを抱えて暗礁に乗り上げている。この状態を脱却する方策は政府の仕事で私ごときが口を出すべきではないが、私の結論ははっきりしている。日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国神社に参拝するからといって他国が怒るのは、怒るほうが悪い。なぜなら彼らはA級戦犯の処刑後に誕生した国家のトップとして、無知を思い込みで埋めて恥ずかしげもなく発言しているからだ。 さきの記者会見で李肇星外相は、 「アメリカとマレーシアの政府当局も『日本の侵略者を忘れてはいない』と話した。ドイツ人も日本の靖国参拝を『愚かで不道徳なこと』といっている」 などとも話している。 まるで十二歳の少年の論法だ。戦後、日本はマッカーサーから十二歳の少年と郷楡された時期があるが、いまここで中国にこの言葉をお返ししておこう。出来の悪い少年が仲間の行状を批難する場合、必ず口にするのが、「ダレちゃんが、こう言っていたよ」「ソレちゃんも、ああ言っていたよ」という論法である。タチの悪いのは「ボクは別にどうも思っていないけど」などと先天的卑怯さをあらわにしたりする。 十二歳の李肇星よ。公の席で詰るなら、せめて自分の調べた結果では日本のことを、こう糾弾したいとなぜいえぬ。ダレちゃんも、ソレちゃんも、みんながこういっていたよという論法が国際社会で通ると思っているところが、見苦しくも可愛い。 ああ、ヤダヤダ。日本はこんな論法を真に受けて、場合によっては次期首相に靖国参拝を止めさせるつもりであろうか。小泉首相を含めて戦争を知らない人が、いまや日本の人口の八○%と聞いた。ならば戦争や戦時体制を多少なりとも知っている私は私なりに調べた結論を、くどいようだが事あるごとに繰り返さねば ならぬ。 日本は連合国四十八か国を相手に平和条約を締結し、戦犯問題などの取り決めを済ませて独立した。ざっくばらんにいうと、その平和条約には条約締結にあたって署名していない国は日本の戦犯問題に関して発言したり、日本に損な、あるいは日本を害するような行動をおこす権利はないと書いてある。実は中国も韓国も、四十五年前の条約締結の場から外されており、署名も批准もしていない。つまり、この問題に関して門外漢なのだ。  で、最後にもう一度繰り返そう。 手に負えないもの、それは無知にして頑迷固陋な思い込みを発言しまくる国である。 ◎かみさか・ふゆこ ノンフィクション作家。昭和五年(一九三○年)、東京都生まれ。名古屋文化学園卒。著書は『巣鴨プリズン13号鉄扉』『「北方領土」上陸記』『「生体解剖」事件』など多数。平成五年、第四十一回菊池賞、第九回正論大賞を受賞。最新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』

上坂の雑駁な見解に反論する前に靖国神社の本質を客観的に見てみる。小学館「大日本百科全書」引用。

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 ■靖国神社東京都千代田区九段北に鎮座。1869年(明治2)戊辰(ぼしん)戦争の戦没者を招魂鎮斎するために、明治新政府により創祀(そうし)された「東京招魂社」がおこり。のち各府藩県で設けられていた地方の招魂社が廃藩置県以後、国家的な統制を受けるに伴い、中央の招魂社としての東京招魂社も正式な神社として整備が進められ、79年には靖国神社と改称、別格官幣社に列格した。陸・海軍両者の所管になるが、その管理は創建の由来からおもに陸軍省があたった。別格官幣社の制は72年に始まるが、国家的な功績のあった人を祭神とすることを特色とした。当社の祭神はその後、53年(嘉永6)以降の国内の戦乱、また対外戦争である日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争などの戦没者(軍人、民間人ほか)を合祀し、現在約246万人(女性祭神約6万人)。例大祭(4月22日、10月18日)には天皇からの勅使が遣わされ、またその前夜には祭神としての合祀祭が行われる慣例である。国家との関係は、戦後は全面的に断たれたが、「靖国神社問題」として国家護持、首相の公式参拝、A級戦犯合祀問題など、神社の歴史的性格と国家、政府との関係をどう扱うか、未解決のままである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も詳しく記載してあるので、一部引用。

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靖国神社(?國神社、やすくに・じんじゃ)は、東京都千代田区にある神社で、近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、慰霊・顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない単立神社である。東京の九段に鎮座する事から、単に「九段」あるいは「九段下」などと通称される事も多い。

神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省ではなく、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、国家との関係は断たれた。

靖国神社本殿に祀られている「祭神」は神話に登場する神や天皇などではなく、「日本の為に命を捧げた」戦没者、英霊(英でた霊)であり、246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。国籍は日本国民及び死亡時に日本国民であった人(戦前の台湾・朝鮮半島などの出身者)に限られている。

靖国神社は、合祀について以下の規定がある。(2004年10月17日現在)

■軍人・軍属 ○戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、戦死、戦傷死、戦病死した者。 ○戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、公務に基因して受傷罹病し、内地に帰還療養中に受傷罹病が原因により死亡した者。 ○満州事変以降、内地勤務中公務のため、受傷罹病し、受傷罹病が原因で死亡した者。サンフランシスコ講和条約第11条により死亡した者(戦争裁判受刑者のことで、政府では「法務死者」、靖国神社では「昭和殉難者」という。ABC級に関わらず死刑になった者)。 ○「未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務上、負傷や疾病にかかり、それが原因で死亡したとみなされた者。

■準軍属およびその他 ○軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。(満州開拓団員・満州開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満州開発要員・洋上魚漁監視員) ○特別未帰還者の死没者。(ソビエト連邦・樺太・満州・中国に抑留中、死亡した者・戦時死亡宣告により死亡とみなされた者) ○国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者。(学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦) ○船舶運営会の運航する船舶の乗務員で死亡した者。 ○国民義勇隊員で、その業務に従事中に死亡した者。(学域組織隊・地域組織隊・職域組織隊) ○旧防空法により防空従事中の警防団員。 ○交換船沈没により死亡した乗員。(つまり、「阿波丸事件」のことを指す。) ○沖縄の疎開学童死没者。(つまり、「対馬丸」のことを指す。) ○外務省等職員。(関東局職員・朝鮮総督府職員・台湾総督府職員・樺太庁職員。)

戦前においては、靖国神社への合祀は、陸・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席した時期もあり、合祀は死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。戦後になるとこのような合祀制度は形を改めたが、1952年当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。それに伴い、1956年、厚生省(当時)引揚援護局は、各都道府県に対し、「靖国神社合祀事務協力」という通知を出し、1953年8月に成立した恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法で「公務死」と認められた者を「合祀予定者」と選び、その名簿を厚生省から靖国神社に送付、合祀された。

合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、特に海外出身の被祀者について遺族が不満を抱く事例がまま見られ、中には裁判に至っているものもある。ただし、現在の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の解答がない場合に限って合祀している。

戊辰戦争の官軍側戦没者を祭ったことが靖国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作なども合祀されている。従って戊辰戦争で官軍に反抗した幕府軍、幕府側に立って戦った新選組や彰義隊、西南戦争を起こした西郷隆盛は(明治維新の立役者でありながら)、賊軍であるため祭られていない。そのため、結局祀られているのは戦前戦中の政府の為に死んだ軍人だけであり、死ねば全ての人間が神になるという論理からすれば、国家の為に戦死した軍人全てを祀っているとは言えない。また、明治期の軍人、乃木希典や東郷平八郎も戦死ではないため、祀られていない。

■元A級戦犯の合祀第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)において処刑された(特にA級戦犯を指す)人々が、1978年10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されていた事実が、1979年4月19日に大きく報道されて国民の広く知るところとなった。戦後昭和天皇は数年置きに参拝していたが、合祀以前の1975年(昭和50年)頃からマスメディアによって「私的・公的の別」や「玉串料の支払」等が問題となり、当時の三木武夫首相の「私的参拝」発言により憲法論議を招来し政治騒擾に巻き込む事になる。

側近によれば昭和天皇はA級戦犯合祀に反対だったそうであり、そのためもあってか天皇親拝は1975年11月21日、終戦30周年が最後となっている。それ以降、春秋の例大祭などにおいては勅使が遣わされている。しかし、2004年8月15日には石原慎太郎都知事が「天皇陛下による参拝を望む」と、マスメディアに発言するなど、天皇による靖国神社参拝を望む声も多々ある。 尚、靖国神社に合祀されている元A級戦犯は以下の14人である。

■刑死した者 東条英機(内閣総理大臣・陸軍大臣・陸軍大将・絞首刑) 広田弘毅(内閣総理大臣・外務大臣・駐ソヴィエト大使・絞首刑) 土肥原賢二(陸軍大将・奉天特務機関長・絞首刑) 板垣征四郎(陸軍大将・支那派遣軍総参謀長・絞首刑) 木村兵太郎(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官・絞首刑) 松井石根(陸軍大将・中支那方面軍司令官・絞首刑) 武藤章(陸軍中将・陸軍省軍務局長・絞首刑) 刑期中に病死した者 平沼騏一郎(内閣総理大臣・枢密院議長・終身刑) 白鳥敏夫(駐イタリア大使・終身刑) 小磯国昭(内閣総理大臣・朝鮮総督・陸軍大将・終身刑) 梅津美治郎(陸軍大将・関東軍司令官・陸軍参謀総長・終身刑) 東郷茂徳(外務大臣・駐ドイツ/駐ソヴィエト大使・禁固20年) 戦犯指定を受けながら判決前に病死した者 永野修身(海軍大臣・海軍大将・海軍軍令部総長) 松岡洋右(外務大臣・南満州鉄道総裁) ------------------------------------------------

靖国神社の本質は、天皇のために戦死した英霊を祭神として祀ることにあり、その他の戦没者を祀っているのは枝葉のことである。このことは先頃の麻生外務大臣の発言「祭られている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下の参拝なんだと思う。それが一番。」に見られるとおりである。このことを政治評論家の森田実氏は「麻生氏の祖父の吉田茂元首相は『天皇の臣』と言ってはばからなかった。麻生氏も小泉首相の靖国参拝を支持する立場から、『総理がダメなら』と天皇を持ち出して、総裁選での存在感をアピールしようとしたのだろうが、完全に裏目に出た」と話し、「麻生氏が総裁候補から外れるのは政治的には小さな問題だが、日本外交が孤立することは国益を損ない、大失点だ」と批判した。

またタカ派政治家として知られる東京都知事石原慎太郎氏は一昨年八月の参拝後、「ぜひ、天皇に私人として、一人の国民として、国民を代表して参拝していただきたい」と宮内庁ですら当惑するような発言をし、議論を呼んだ。ここに靖国の本質があることを上坂冬子は知らないとでも言うのか。

反論その1 上坂のこの主張、靖国神社に戦死者でない人が祀られているのがどうして問題なのか。靖国神社が戦死者だけを祀る場所と限られていないことは、すでに常識となっている。ならばなにゆえ西郷や乃木は祀られていないのか。主張の理屈と合わないではないか。靖国側は選別していて、常識にはなっていない。なぜならば国家的な功績のあった人を祭神とすることを特色としたことに靖国の大きな特色、つまり意図があるのであって、沖縄のひめゆり部隊の乙女たちらはついでに祀られた程度のことで、靖国の本質とはかかわりのないことである。これらをごっちゃにして論を立てるのは小児的右翼と変わらない雑駁な考えである。

反論その2 そういえば、東条は悪人だという思い込みもかなり行き渡っている。悪人という表現が適当かどうかだが、戦前の日本を太平洋戦争に引きずり込んだのは、東条内閣による国民金縛りの大政翼賛会組織作りと真珠湾奇襲攻撃の命令があったからであり、だから極東国際軍事裁判で絞首刑判決が出たことを忘れて貰っては困る。あの裁判は連合国側の勝手な裁判であるなどという、国際社会にすら通用しない抗弁は言われないと思うが、どうであろうか。戦争にかり出された戦没遺族の多くは、また広島、長崎の被爆者、各地の大空襲の被災者たちが、東条を悪人と憎んでも罰は当たらない。

反論その3 東条が悪い、日本の指導者の罪だ、などというけれど、悪いといえば一丸となって戦った日本中が悪い。これほど雑駁、無知識な考えはない。戦争に狩り出された人たちの遺族への重い哀しみに対する無神経さには呆れる。一度じっくりと大政翼賛会の国民への〈縛り〉を学習して貰いたい。

反論その4 日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国神社に参拝するからといって他国が怒るのは、怒るほうが悪い。これもまた呆れるほど雑駁な見解である。実は中国も韓国も、四十五年前の条約締結の場から外されており、署名も批准もしていない。つまり、この問題に関して門外漢なのだ。だから批判してはいけないのか。中国、韓国ともに日本軍に侵略、民族の誇りと権利を蹂躙された国であることを忘却したのか。それにこうした問題を論じるにはあまりにも稚拙な表現、ぼくの近所のオバサンたちだって上坂よりはまともな表現を使う。

上坂冬子の筆致はなまくらになったものだ。