喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫23

2008-08-31 21:02:02 | 図書館の白い猫
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 足元に行燈が灯っている。どうもタイムスイッチと連動した自動点火による行燈らしい。今夜も満月だが昨夜よりは白色だ。昨夜は天井板に金色の丸い紙を満月に模して貼られていたのかと思ったが、そうではなかった。かなり広いガラスを嵌め込んだ明かり採りだった。いまの時期、丁度この時刻に満月が昇ってくるのだ。

 タマも展望ルームのホワイトボードに蹲って、窓の向こうの満月を見ているかもしれない。

 黒比目がどういう育ちをしてきた女かわからないが、黒比目はスタンダールが『恋愛論』で分類した肉体恋愛を男女のラブラブと思っているのかもしれない、とぼくはベッドに横たわると天井の黒い梁を眺めて思った。それだとしたら可哀想な育ちだ。しかし昨今女子高生辺りから、こう思っているのが増えてきたように思える。一応口では情熱恋愛に憧れているようなことを言うが、実際にやっていることは肉体恋愛で、破局を迎えるとすぐに新しい恋人を見付ける。男と女のどちらもこうだから、結婚までに何人と肉体関係を結ぶのか。

 肉体関係を結びすぎて結婚に躊躇する女もいるだろうし、売春まがいの泥沼に足を取られて抜け出せない女もいる。もっと悲惨なのは殺されて野山や林道に捨てられている事件がよく報道されている。黒比目がこれらのどれに当てはまるかわからないが、現状のままでは行き着く先はこうした女たちと変わらない気がする。

 できれば黒比目の幸福な生涯のことを思案してやりたいとも思うが、ぼく自身が昨夜のていたらくではどうしようもない。だが昨夜は致し方のない面もあった。酩酊しすぎたし、寝場所が変わって興奮気味であった。なによりも昼、夜と欲情昂進ジュースを飲まされて、自制心がぶっちぎれてしまった。

 今夜黒比目があの豊満な肉体で迫ってきたら決然と拒絶し、黒比目をあとに残してこの屋敷を飛び出せばいいのだ……飛び出して何処に行くのだ、もうあのマンションに戻れないのだ。いやそれよりも夜にこの屋敷から一歩でも外に出ると、トリカブトの毒矢に射られて悶絶死する。死ぬ覚悟はできているがよりによって毒矢で死ぬことはないだろう。

 こうなると早まった結論は導かないほうがよい。黒比目だってまんざら性格の悪い女とは思えない。いずれ時の経過が決着を促すだろう、ぼくは妻との離婚のケースを振り返ってみた。あのときも時の経過によって妻と大きなトラブルもなく、落ち着くところに落ち着いた。妻はいっとき悲嘆の涙に暮れたり恨み言を繰り返したかもしれないが、なにしろ新築三ヶ月後に飛び出してマンション暮らしをしていたから、妻のそうした面を知ることなく、スムーズに離婚できた。

 黒比目とこの先生涯を共にするかどうかは神仏や時の経過に委ねよう。ここまで思案し終えたとき、黒比目がドアを開けた。片手に盆を持ち、その上に昨夜のジュースが載っていた。

 ――ううーん……。

「待ったぁ、これ作ってた。昨日効いたやろ、飲んで」
「ありがとう、ちょうど咽が渇いていた」

 黒比目の顔を見た途端、言わなくてもいいことまで口を滑らせた。

 ぼくはベッドに半身を起こして、黒比目はベッドのかたわらに突っ立った姿勢でぐぐっと飲み干した。それから黒比目は、寝よ、と威勢よく叫ぶとバスローブをパッと脱ぎ捨てた。黒比目は男の面前で自信ある裸体をさらけ出す趣向があるようだ。ぼくはその裸体を見て目蓋をパチパチさせた。赤一色のショーツ、それも深紅の薔薇が燃えているような正真正銘の赤だった。
「すごい色だな」
「シルクを紅花で染めたショーツ、高かったよ。全部で七色ある」
「七色もね」
「さあ寝るよ」
「ああ」

 ぼくは半ば悲鳴のような声で応じた。

 そして黒比目はベッドに横たわると昨夜のように頭をぼくの顔に擦りつけるようにして、さらに一方の手でぼくの顔を弄(いじ)り廻すのであったが、どうもその手つきが気になった。
「黒比目、普通女は愛しい男の顔を触るときは五本の指を伸ばして指の腹や掌で顔を撫でるもんだが、きみは招き猫のように指先を曲げて撫でるけどどうして?」
「だってお婆ちゃんうちが子どもの頃から、女はみだりに指先を伸ばして爪を見せるものでないってしつけたからよ」
「ふぅーん、そうなの。なんだか優しく撫でられているのでなく、ポコポコ叩かれている感じだな」

図書館の白い猫22

2008-08-31 17:07:03 | 図書館の白い猫
是非ともクリックを
「バーに来たのたった三人。地元の不動産屋のおっちゃんが接待の二人を連れて来ただけやで」
「三人?」
「こっちは二人なのよ雇っているママと」
「ママを雇っているの?」
「オーナーはうちやけど、表向きママは四十三の雇われママ。うちはシェーカー振るのと会計のチェックするだけ。お喋りはそのひとの仕事」
「ふぅーん、楽といえば楽そうだけどお客が少ないと手持ち無沙汰だな」
「地元のお客はカクテルなんかオーダせんの。バカの一つ覚えでハイボールかビール。京都の国際ホテルだと毎晩二、三十人が入れ替わり。二組三組は外人さんやし、英語で市内観光のガイドしてるだけでも楽しかった」
「そうだろうね」
「今夜は雇われママ一人で十分……何してたの」

 黒比目は早口に喋ったあと訊ねた。
「タマと読書」
「そう、お風呂はいってくる」

 ややタマを焼いているような鼻白んだ気配だった。そして白い太腿が浴室への廊下に消えた。
「三人じゃな」
「お姉様の道楽仕事ですから。それでも一晩十人来ることもあるようです」
「十人だとなんとか商売になるだろうけど」
「何か読まれました?」
「うん、『骨拾ひ』」

 『骨拾ひ』は原稿十枚未満の掌篇である。川端が十五歳のときに盲目の祖父が病没した。このときのことを題材にした作品である。

 父親は二歳のとき、母親は三歳のとき、ただ一人の姉は十歳のとき、祖母は七歳のときに亡くなっていた。このときから川端は天涯孤独の境遇となった。
「『骨拾ひ』ですか」

 ぼくはタマに川端の天涯孤独を説明してやった。
「お気の毒な、淋しいお育ち」
「そうだね……」

 ぼくは太い梁が二本横たわっている吹き抜けの天井を見上げて、川端の生涯に思いを馳せようとした。そこへらくだ色のバスローブを着た黒比目がタオルで髪を拭きながら現れた。そしてホームバーに近付いた。
「ブランデー飲む?」
「貰おうか」
「こっちに来て。タマにはおやつの蒲鉾」

 スツールに腰掛けた。タマもカウンターの上に移動した。猫座りして前肢を舐めている。
「何読んでたん」

 黒比目はタマと同じ事を訊ねたので、ぼくは同じ返事をした。
「面白いん?」
「どうかな」

 『骨拾ひ』は二十代の初めに新潮文庫『掌の小説』で読んでいたが、全集で読み直すと末尾に加筆があった。その箇所が新鮮であった。二十代のときは特別の印象はなかったが、再読してみて、十八歳のときの作品としては、さすがに巧いと川端の才能を思い知らされた。少なからずショックだった。

 川端が作家を志望したのは十四歳の頃である。その後天涯孤独の川端は、自分のような文学者は天才でなければならぬと天才願望に執着した。ぼくは天涯孤独ではなかったが肉親愛に縁遠い育ちだったので一面川端に類似していないこともないが、川端と大いに異なるのは作家志望の気持ちもなく、まして天才願望など微塵もなかったことである。人間の差異が出た。
「川端ってそんな育ちしたん、うち知らんかった。写真で顔見たことあるけど、好きな顔やなかったおし」
「禽獣(きんじゅう)のような鋭い眼だから近寄れん女も多かったかも」
「高校のとき夏休みの読書感想文の課題『踊り子』やったんどす、読書嫌いやったのに強制読書させられたんどす。あれのどこがええのん、踊り子の裸ちらっと見ただけどすやろ。こんなん読ますセンコー、アホか思たわ」

 いまも怒っているような口調だった。そしてマタタビ入りカマンベールチーズを口の中でくちゃくちゃした。

 読書嫌いが絵本を作りたい?

 ついでにタマを見るとこちらはこちらで、顔を傾けて蒲鉾の白身を口の端に咥え、かみ砕いていた。耳がピンと立っていたからかみ砕きながら、人間の話を聞いているようだった。

 不思議なものでぼくと黒比目のあいだに白猫熟女のタマが存在するだけで、二人のあいだの空間の様子がなんとなく和らいでいるように感じられた。ぼくと黒比目の二人きりならブランデーの味覚と酔いは、違った物になる気がした。
「どうここの居心地?」

 黒比目はブランデーを口に含んでから訊ねた。
「一日二日ではどうとも言えない。だけど自然が身近で車の音がしないのがいいかな」
「猫の鳴き声気にならない?」
「あまり鳴き声がしなかった」
「喧嘩やラブラブはたんびたんびでないから」
「喧嘩するの?」
「動物ってテリトリーあるやろ。それを侵されると猛烈に怒ることある。あと三角関係」
「そんなときどうするの」
「タマが飛び出して行きよるねん。しばらくすると静かになる」
「タマが仲裁するのやな」
「そうやねん」
「お婆さんは健康やね、晩酌の焼酎で寝てしまう」
「毎日早寝早起き外出、リズムが決まってるし」
「健康な暮らしってとこやな」
「どう小説書けてる?」
「この夏は暑いから創作は休憩。図書館で足利義満と世阿弥のことを調べていただけなんや」
「うちとのラブラブ書いて」
「きみとのラブラブ?」

 ぼくは黒比目の顔を見て笑った。
「なんで笑うの?」
「昨日顔合わせして車に乗せられてここに来たんやで」
「いっしょに寝たやないの」
「だけどほとんど会話してない」
「それもそうやけど……なんか書くことないのん、熱烈なラブストーリー」

 ぼくはスモークサーモンの赤身を一切れ、口に入れた。
「そろそろ寝るか」
「先にベッドに行ってて」
「そうする」

 ぼくが腰を上げると蒲鉾三切れを食べ終わっていたタマは、素早くカウンターを飛び下り、階段に走った。
「先に眠ってください。お姉様はタフでしつこいですから」

 タマは目配せするような口調で囁いた。
「そうするよ」


図書館の白い猫21

2008-08-31 15:39:11 | 図書館の白い猫

 そこへタマが戻ってきた。
「もう食べたか」
「ミャオ」と返事すると、タマはぼくの足元に猫座りして、ぼくを見上げた。
「黒比目と相性はええか」
「ええかと言われてもまだ一日二日ですから」
「男と女の相性は逢うた瞬間、パッとわかるもんじゃ。もっともワシはこれで失敗ばかりじゃが」
「歳が離れすぎてますとすぐには行かんことがあります」
「抱き合うて寝とったらそのうちどっちもええようになる」
「そうですかね……」
「小説書く邪魔にゃならせん。せいぜい可愛がったってくれ」

 おカネ婆さんはやや弱気な顔で両眼をしょぼつかせた。

 おカネ婆さんの生活サイクルは決まっていた。午前九時過ぎに町に下りて、午後五時前後に戻り、猫たちのメシの用意をすませるとそれから風呂にはいってから、二人分の夕食の支度(といっても時間の掛かることは何もなかった)をして、晩酌の焼酎を呑んで寝る、これの繰り返しであった。
「退屈やったら二階の書庫に少し本があるから読めぇ」

 おカネ婆さんが二階に寝に入ったので、ぼくはリビングのソファに移動した。まだ創作に打ち込む気分ではなかった。腰を下ろしてみたものの新聞も購読していないので手持ち無沙汰であった。そこへタマが近付いてきて、いきなり仰向けになった。例のサインである。
「掻いてくださいよー」

 ぼくは床に腰を下ろすと両手でもぐもぐとタマの腹を愛撫してやった。タマは黒い瞳孔を両開きの戸を閉めるように細め、そのうち気持ちよげに両眼を瞑ってしまった。腹、咽、耳ともみくちゃに愛撫してから手を止めると、タマはパチッと眼を開けて、これで終わりでございますか、という顔をするので、もう一度愛撫してやった。そして近くのゴミ箱にケーキの箱でも包装したようなピンクのリボン紐が見付かったので、タマの顔の上で揺らすと、仰向けのまま前肢、後ろ肢を動かし、眼の色を変え真剣な顔でじゃれついた。

 こうなると春日局や片倉家の後家、喜多の威厳は失墜した。

 しばらくタマと遊ぶとぼくは書庫に何か本を取りにと腰を上げた。するとタマも今までの遊戯的態度を豹変して、むくっと立ち上がった。
「何処に行かれるのですか」
「うん、書庫に何かいい本がないかと思って」
「ご案内します」

 タマは部屋を走り出ると、一度階段の下でぼくを待って、それからピョンピョンと二階に駆け上がった。

 黒檀の重々しい書架が壁に沿っていた。国民百科事典、世界大百科事典、国語大辞典に続いて、古典全集、川端康成全集、谷崎潤一郎全集、三島由紀夫全集、松本清張全集、宮尾登美子全集、向田邦子全集、司馬遼太郎全集、藤沢周平全集、芥川賞全集が収められていた。

 ――だれが読むのだ?

 とにかくこれだけの書物が揃っていると退屈はしそうもなかった。
「タマ、これだけの本、だれが読むの?」
「私が古典を読む以外はだれも読みません」
「えっタマは古典を読むの?」

 先程までのリボン紐にじゃれついていたタマの言葉とは思えなかった。
「少しでございます」
「タマはえらいな……川端康成全集が三十五巻と補巻二まで揃っているのはいいな。ぼくは若い頃は川端文学に関心なかったのだけど、この頃初期作品を読んでみようかと思っているのだよ。そしていのちを絶つまでに川端について書いてみたいのだよ」
「いのちを絶たれるのですか」
「ぼくは病院で死にたくないよ。病院で死ぬ自分を想像すると耐え難い。だけどだれにも言っちゃ駄目だ」
「そのときはふつつかながら私お供します」
「いゃあ、お供しなくていいよ」

 ぼくは川端康成全集巻一を引き抜くと、タマの後ろから階段を下りていった。リビングのソファに腰を沈めると、タマを傍らに頁を開いた。黒比目の戻ってくる前にシングルベッドで眠るわけにはいかないだろう。黒比目がご機嫌斜めになることは眼に見えている。
「ぼくはね、創作の手本として初期の頃に川端の『掌の小説』を模写していたことがある、原稿用紙にだよ」
「そうでございますか」
「だけど写していてもそのコントに近い長さの内容がわからなかった。川端が真剣に『掌の小説』を創作しだした頃は国木田独歩や田山花袋の自然主義文学とロシア革命の影響で勃興したプロレタリア文学の二大潮流があってね、川端とか横光利一はとくに自然主義文学に反撥して新感覚派を誕生させたんだよ」
「どれもわかりませんが新感覚派とは何でございますか」
「うん、要するに自然主義文学の思想にある写実主義、たとえばさ、ここにぼくがいてそこにタマが居る。そこでぼくがタマの真実を小説にしようとしたとき、田山花袋らは自分とタマを別物として扱うが、川端は自分の中にタマが居ると思うのやな。客観に対して主観主義なんや」

 ぼくはタマを相手に説明しながらアッと気付いた。メイ・サートンの――人間がネコの中に自分自身の一部を見いだすようになったときだけ、……ネコが人間のなかに自分自身の一部を想像してしまうようになったときだけである――。

 ――そうだ、これだ。

 ぼくは改めて川端の慧眼に感嘆した。
「そうなんですか。圭介様のなかに私が居る、嬉しゅうございます。そのお言葉で私はいつでも圭介様と死ねます」
「いやいやそう深刻に受け取って貰わなくとも……これは新感覚派の話だから」
「私には新感覚派は圭介様の私への愛の言葉に聞こえます」

 ぼくは猫の心理は人間の女以上に微妙だと思いながら、ページに視線を戻した。
 二十代の頃に読書したときは『掌の小説』の一篇、一篇が頭に入ってこなかったが、今回はそうでもなかった。
「面白うございますか」
「うん、面白い」
「ほっておかれて私は淋しいです」

 笑顔だがどこか恨めしげである。
「ぼくの膝のあいだに来る?」
「行ってもいいのですか、読書のお邪魔になりませんか」
「ならないよ」

 そう言うとタマはその場所から、いったん膝のあいだにねらいを見定める真剣な眼になったかと思う間にジャンプ、スポンと膝のあいだに蹲った。それからぼくの顔を見上げて満足そうな笑みを見せた。

 黒比目は十一時十五分に戻ってきた。ぼくの膝に蹲っていたタマを見ると、一瞬眉を顰めて忌々しそうな表情になったが、タマに気取られてはと思ったのが、平生の顔になった。水色のフリル付Tシャツとベージュのパンツにサンダルでホテルに出掛けたのであった。片方の手首にティファニーの黒いブレスレットを嵌めていた。
「疲れたー」

 ぼくの顔に向かってため息つくように言った。
「客が多かったの?」
「逆逆、お盆が終わってホテルガラガラ」
「あー、そうか」


図書館の白い猫20

2008-08-31 09:34:29 | 図書館の白い猫
 絶対に、を確信を持った口調で言ったので、ぼくは絶対にがぼくのことを指しているのでないかとちょっと不快になったが、黒比目の手がぼくの背に廻ってぼくをベッドに引き倒したので、その感情はすぐに消えてしまった。
「タマはなんか近付きがたい気品があるな」
「お婆ちゃんが若い頃京都でホステスしてたんよ。そのときタマの祖母にあたる白猫を御所の近くで拾うたんよ。御所育ちの由緒ある猫なんやと」
「そういう感じや」

 五時過ぎにおカネ婆さんは、黒比目の運転するキャデラックで戻ってきた。これから黒比目がホテルに勤めに行くのだが、往復タクシーを利用しているとのことだった。
「なんもかも片づけてきた。あのマンションのオーナーの奥方というのが、今でこそお茶やお花やと着物で上品ぶっとるが、若い頃のワシの弟子でな、若い頃よう遊んだもんや。何遍も男のことでワシに泣きついてきよったんで、ワシが中に入って収めてやったわ。敷金は向こうにやったで。それからパソコンと仏壇は土建の社員が運んできて、前のマンションの一階事務所の机に載せてあるから、黒比目といっしょにとってきな。黒比目の隣の部屋に運びな」

 午前中の苦行で精も根も使い果たしたうえに腰が抜けたような具合だったが、すぐに仏壇とパソコンを二階に運んだ。ちょうどタクシーがマンション前に横付けたので、黒比目はその足でぼくに爽やかな顔で手を振ると、ホテルに向かった。

 思いがけないことにわずか一日で、ぼくのここでの新生活がスタートしたのだ。しかしこういうことは案外人生に多いものだ。案ずるよりも産むが易し、人間万事塞翁が馬なのである。これがわかっていないと先々を思い煩い、夜も眠られずに鬱になる。為せば成るでなく、成るようにしかならないとぼくのように腹を括っておるとどうにかなる。このことは明日がない、未来がないの覚悟と相矛盾しているようだが、相通じるところもある。人間、他人には暗い顔を見せないということでもある。

 それにしてもあまりにも軽々しい新生活のスタートである。ぼくに当てられた部屋は六畳サイズでシングルのベッドとライティングデスクが置かれてあるだけだったが、一間幅の収納壁があり、そこに仏壇と衣類は納められた。

 黒比目が夜中に戻ったらおまはんもせわしないやろと、おカネ婆さんが言うものだから、ぼくのノートパソコンとハードディスク、プリンターなどを接続する作業を、夕食前に取り掛かった。元々ライティングデスクにノートパソコンが接続されていた。分岐装置を用いてぼくのパソコンも使えるようになった。

 ――もう夜は嫌や、早う寝るで。

 ぼくは胸の裡でぶつぶつ言いながら作業をした。

 かたわらの床にタマが猫座りしてぼくの作業を珍しそうな眼で見ていた。
「黒比目が戻ってくるのは十二時頃?」
「いつもその頃でございます。戻ってこられるとお風呂にはいられ、それからホームバーでブランデーをお飲みになります。そのとき私は鯛の蒲鉾を頂戴いたします」
「もう夕食は食べたの?」
「これからでございます。いまお婆さまが用意されてます。もうインターネットできるのでございますか」
「うん、繋がった」
「おめでとうございます」
「ありがとう」

 ぼくがパソコンの接続作業をしている間に風呂を上がったおカネ婆さんは、昨日の甚平姿で食卓の前に座っていた。食卓の真ん中にホットプレートが載せてあった。
「肉はめいめいで好きなように焼かんか」

 めいめいといっても二人きりである。
「タマは?」
「すき焼きご飯を仲間と食べよる」
「そうですか」

 ぼくは重量感のあるステーキ肉をおカネ婆さんの分まで指で摘んで熱くなったホットプレートの置いた。
「ステーキは毎晩ですか」
「これを一日一枚食べんとなんで生きとるのかわからん」
「いつもお昼はどうされてるのですか」
「町の外れに養護老人ホームがあるじゃろ。あっこで食べとる」
「養護老人ホームですか」
「あっこにワシの若い頃に遊んだ連中が三人居る。もう百近いで死にそうじゃ昔話をしにな。八十、九十の連中もおカネさん、おカネさん言うて職員よりワシを頼りにする。昼はワシの食べるもんまで賄(まかな)いが用意してくれる。タダじゃ」
「そうでしたか」
「昼ご飯食べると町に戻って二、三軒知った家に寄り道しとる」
「それで五時頃まで」
「何処に立ち寄ってもお菓子とお茶が出る。お喋りしとったらすぐ時間経つじゃろ」
「そうですね」
「いつもワンパターンじゃ」

 声はなかったがおカネ婆さんは破顔一笑して、グラスの焼酎に口を着けた。
「これはアジの刺身、これは冷や奴(やっこ)、これも食べぇ」

 ステーキとアジの刺身、妙な取り合わせであったが、味噌汁と並んでいた。
「ワシは料理は焼くか煮るかしかできんからコンビニで出来合いを一つ二つ買ってくるだけじゃ。刺身はアジがええ。高級魚は口に合わん」

 おカネ婆さんは刺身に醤油をちょっと付けると、三切れほど一口に口にして、しわくちゃの口元をもぐもぐ動かした。
「歯はみんな自分のもんじゃ」
「入れ歯なし?」
「ない」

 ぼくもアジの刺身を一切れ口にした。マンションで一人暮らしのときは万一の食あたりを気にして刺身は一切口にしなかった。マグロの刺身を飼ってきても味噌汁の中で煮た。

 一人暮らしは急に来る猛烈な腹痛が怖いのだ。これまでに創作期間中に三度急性胃炎になり、死ぬ思いでタクシーで救急病院に駆け付けたことがある。死ぬ覚悟はできていてもこういう不意の苦痛は耐えきれず、額から首筋、背中からの脂汗をところかまわずぽたぽた垂らしながら、日頃は忘れている、神様、仏様を呼ぶのだが、呼んでも効き目がないのでタクシーに乗ることにした。別れた妻は五百メートルほど離れたところの新築に住んでいるが、別れた以上、元妻の助けは借りたくなかった。
「ぼくも高級魚の刺身はそんなに旨いとは思わないな」
「明治、大正、昭和を生きてきとるから何でも食べれたらそれでええ」
「そうですね、ぼくも敗戦後の育ちだから舌が貧しく育ってます。母も料理は鯖や大根を煮るくらいしかできなかったし」
「おっかさんは何しとった」
「父が敗戦後直ぐになくなってからは大阪・難波の宗右衛門町でダンサーしてました」
「なんちゅう店ね。銀馬車かオリエンタルホールか」
「富士でした」
「一番大きなダンスホールじゃ、よう知っとる。何遍も踊りに行った」

 おカネ婆さんにもそういう時代があったのだ。
「京都でホステスして、それから大阪、神戸じゃ。小林旭の歌にあるじゃろ「昔の名前で出てました」、あれじゃ」
「そうでしたか。その後この町に?」
「次々男に騙されての」

 そう言うとステーキを口に入れ、これも旨そうにもぐもぐしていた。

図書館の白い猫19

2008-08-30 22:57:17 | 図書館の白い猫
「力みなぎるわよ」
「そうかな……その前にちょっと猫の楽園を朝の散歩してみたいな」
「タマに案内してもらいなさい。うちはベッドに居るから、きっと来てね」
「うん、そうする」
「タマ、圭介さんを案内するの」

 タマはその声で、躯をパッと起こした。ぼくも腰を上げた。

 猫の楽園に出ると、散歩していた猫、木陰で蹲っていた猫どもが、頭をぼくのほうに向けた。そして近付いてきた。だが一定のラインに来るとそこから先は近寄ってこなかった。ぼくの数歩前を行くタマが威嚇しているようだった。ときどきシューと威嚇するような息を吐いていた。ぼくは五輪オリンピックのマラソンランナーのように遠巻きにされていた。顔を寄せ合い、鼻先をくっつけ合ったりしながら、あの人間だれ? タマさんの恋人よ、ちがうわよ、黒比目さんの恋人よ、というお喋りをしていた。車座になって会議しているグループも眼に付いた。話題はぼくのことだった。仔猫を引き連れた母親もいた。

 奥まった処の納屋も覗いてみた。暗い棚にも猫が蹲り、両眼を光らせていた。

 金網フェンスから谷底を見た。十メートル以上の深さであった。白い、尖った瓦礫の谷底で、猫でも落下して打ち所が悪かったら血反吐を吐いて即死だろう。森を成している向こうの山肌との間隔は七、八メートルしかなかった。
「橋は二本の鋼鉄製ワイヤーです。そのあいだに木を渡してあります」

 タマはバスガイドのように説明した。
「タマも渡るのかい」
「私はお姉様の車であちこち外出するので、森で気晴らしはしません」
「図書館に出掛けたり」
「三宮の大丸にショッピングに行くこともありますよ。お姉様はブランド志向ですから、あそこの外商部が気に入っておられます」
「広い野原って感じだね」

 ほくはフェンスに凭(もた)れて来た方向を見渡した。
「ええ、のびのびと暮らしております」
「牡牝の比率はどんな感じなの」
「牡は十三匹、あとは牝です」
「それじゃ一夫多妻もあるね」
「猫の世界では当たり前ですが、中には気に入った者同士でないと牝が交尾を嫌がることもあります。でも発情期の牝は人間のセックスと違って、どうしても子孫繁栄の本能が強うございますから、相手を選べない面があります」
「哀しい話だが猫の世界では哀しいというほどでもないのかな」
「私は嫌でございます。一夫一妻の契りを守り、お一人のかたに操をたてるつもりです。それが叶わなければここから飛び下りてもいいのでございます」

 タマに眦(まなじり)は見当たらなかったが、タマの眦がキッとなった気配があった。
「黒比目さんもそういう考えかい」
「いえ、私とは違うようです。これまでにお二人の男性とのお付き合いがございました。お一人はお父様の組織の組員、あと一人はニューヨークで黒人のかたと。どちらもシルベスタ・スタローンタイプのキン肉マンでしたが、一年も続きませんでした」
「そうなの……」
「その二人の男性はもうこの世におられない気がします」
「殺された?」
「よくはわかりません」

 人間と猫の相違もあるだろうが、黒比目とタマは考えに相当の開きがあるようだった。
「人間の人格も千差万別だが、猫にもタマのようなのがいるのか……」
「猫も千差万別です」

 ぼくはため息混じりの気分で深緑の森の梢を眺めた。この町に住んでいてもこういう場所に出掛けたことがなかった。意外と深そうな森林だった。ときおり鳥の鳴き声が聞こえた。
「森の向こうが農村地帯ですからスズメ、カラス、ルリビタキなどが。時々コジュケイの鳴き声もします。熊はおりませんが、鹿、狸、イタチ、ムササビはおります」
「そう。まあ人界に煩わされなくていいな」
「創作はかどりますでしょう」
「そうあってくれればいいがね、どうだろうか」
「創作は有意義なお仕事です」
「そうだろうか……ずっと小説の創作をしてきたが、ぼくは文学でも詩人、歌人、俳人のほうが純粋芸術でないかと思ったりする。さらに音楽、絵画、彫刻のほうが」
「どうしてでございますか」
「うん、小説はこれを創って応募して一発当てたいみたいなという野心がちらついてね、もちろんそうでない作者もいるがね。暮らしとの兼ね合いが難しいというか、だからぼくは子育ての時期は創作しなかった。つまり創作が人生のメインではなかった。それほど崇高な仕事と思えなくてね……だが子育てを終えてしまうと、これしかないなとまた創作に戻ったけど」
「それが圭介様のお仕事なんですわ」
「そうかな……戻ろうか」

 なんとなく疲れを覚えていた。だが下半身から爪先にかけて妙に熱っぽいものが渦巻いてもいた。

 タマ一匹を眺め入るときは感じなかったが、猫の群の中を四つ足でゆっくり歩いているタマを見ると、辺りに威厳が漂うというか威風堂々とした物腰を見るのであった。徳川家光を育てた乳母の春日局、あるいは独眼竜伊達政宗を養育した片倉家の後家、喜多を髣髴とさせるものがあった。たかが猫一匹と思ってみるが、どうもそうでないものがあった。帰路でもほかの猫はぼくの三メートル以内には近付かず、それでいて興味の眼(まなこ)を大きく見開き、首を傾げたり、前肢で顔を一撫でしたりしながら、視線はぼくを追っていた。おそらくぼく一人ならもっと近付いてきただろう。

 広い屋敷だけに戻ってきても、百年前に建築された家のように重々しい空気が沈殿して、静まり返っていた。タマのあとを随いてリビングルーム、ダイニングルームと廻ったが黒比目は居なかった。二階の寝室で眠っているのかもしれない。
「失礼して私もここで少し居眠りさせていただきます」

 そう言うとタマはリビングのソファの片隅にピョンと飛び乗り、蹲った。
「昨夜は一晩中喜多様の御身を案じて眠れなかったのでございます。姉上様は貪欲な気性のかたですから」
「そうだったの。ぼくのことは気に懸けないでゆっくりお眠り」
「そうさせていただきます。その前にキスをしてください」

 ぼくはタマの鼻面にちょこっとキスをした。

 階段を上った。頭の中の思いと下腹部から下に渦巻く熱いエネルギーとのギャップが大きかった。あのジュースの薬効が下腹部に拡がってきたのだろう。黒比目の寝姿を見ないうちからぼくのアレは怒張していた。

 手元にぼくのパソコンがない以上、きょうは一日創作に打ち込めない。本が読みたくても本がない。その上、躯の一部分がとにかくおかしい。こいつだけは時々ぼくの躯であってぼくの躯でなくなるのだ。しかしそれもここ一二年はおとなしかったのだが、昨夜来おかしくなってきた。この熱狂じみた渦を消すには黒比目の寝室に入るしかないのだ。

 ぼくは衝き上げてくる欲望と怠惰な諦念の分かちがたい感情のまま、寝室のドアを開けた。黒比目がベッドからぼくを疑り深そうな大きな眼差しで見ていた。それは人間の眼でない猫の眼のようにも想えた。
「タマと何もなかったの?」
「何もって、何もなかったよ。楽園を隅々まで案内して貰って戻ってきた。谷が深いね」

 ぼくは黒比目に近寄った。
「逃げられないわ」
「あの高さでは猫でも無理だ」

 黒比目はぼくの応答に笑みを浮かべた。
「絶対に逃げられない」

図書館の白い猫18

2008-08-30 20:14:17 | 図書館の白い猫
「共有たってタマがここ掻いてとか遊んで言うてきたら、それしてやったらええだけなんよ」
「……」
「そんならこれでええな。おまはんはなんも心配せんでええ。図書館に出掛けたいときは黒比目に言えばええ。旅行したいときは黒比目とタマがお供するからどこえでも、沖縄でも北海道へでも行ける。小説家には取材旅行も必要なんやろ」
「たまにですが」
「金の心配も要らん」
「はあ……」

 ふっくら炊き上がった朝ご飯だった。パン食の上、朝食は食べたり食べなかったりであったから、なん品のおかずの揃えてある朝食は旅館の朝食のようでありがたかった。毎朝こうであれば午前中から創作に取り組む意欲が湧いてきそうだった。

 ぼくはおカネ婆さんの提案を承諾した。持ち出す必要最小限の荷物を考えるとノートパソコン二台と周辺機器とタンスの上に載る仏壇くらいだった。この仏壇には先祖、両親や先に亡くなったきょうだいの戒名が書いてある木札が、一つの位牌に納められていた。夫を敗戦直後に亡くした母は、転居のたびにこの仏壇を運んだ。ぼくが死んだあとは祀る者がいないので、いずれ檀家寺に永代供養の形にしなければと考えているが、当面はぼくが祀っていた。

 下着類は黒比目がすでに上下一ダース分、三宮の大丸から取り寄せており、外出着は必要に応じて買い揃えればいいということで、いま持っている物は全て廃棄処分することにした。当分はここに来るときに着ていた物と藍染めの作務衣があるので、それで間に合いそうだった。
「そなら出掛けてくる」
「お婆ちゃん、車運転するわ」
「かまわん、歩いて下りる。帰りだけ荷物あるさかい図書館前に来てくれ」

 かカネ婆さんは玄関を出て行った。ぼくは恐縮した、それでいてなんとなく未消化な気持ちで六階建てマンションのほうに向かう後ろ姿を、外に出て見送った。

 そのときマンションの様子を眺めた。一階から六階まで白壁で窓がなかった。窓の開いてるのは町を見下ろす側だけなのだ。

 ――そうか、マンションからはこの日本建築と猫の楽園は見えない、すると存在していないのと同じなんや。

 秘境、いや密室世界だった。外界への出入りのリモコンスイッチはおカネ婆さんと黒比目だけが所有しており、猫の楽園の周囲は垂直十メートルのブロック壁と猫橋だけである。ここで暮らすということはこの二人と猫ども以外には、ぼくが世間から非存在になることを意味しているのだ。

 怪しげな気分に陥った。だがここ数年間、他人との交渉は最小限に、創作に没頭していたのであるから、世間からはほとんど非存在であったのだから、それの延長と解釈できないこともないと考え直すと、幾分気持ちが晴れた。

 ダイニングルームに戻った。
「掻いてくださりませ」
「何か言った?」
 ぼくはキッチンで洗い物をしている黒比目の背中に声を掛けた。
「言うとれへんよ」
「掻いてくださりませ」

 えっ! タマの蹲っていた場所に視線を向けると、笑顔のままのタマは仰向けになり、しきりに頭を床に擦りつけ、S字に躯をくねらせていた。
「昨夜はお姉様を掻いてあげたのでしょ。今度は私の番です。お姉様は圭介様の愛をお姉様と私とで分かち合う約束をされました。掻いてくださいませ」

 タマが人間の言葉を喋っているではないか。
「黒比目、タマが人間の言葉を話しているよ」
「何て?」

 振り返った黒比目がタマの姿態に眼をやった。
「掻いてと」
「ホント、ボデー・ランゲッジで要求してる。掻いてやって」
「いやボデー・ランゲッジでなく人間の言葉でだよ」
「圭介さんも猫語が聞き取れるようになったの」
「猫語が? どうして?」
「うちと通じたので猫耳になったのやわ」
「ぼくの耳が猫耳に!」

 ぼくは両方の耳に両手を重ねたり、耳朶を引っ張ってみた。
「恰好は変わらないわよ。内耳、鼓膜の半分が猫の鼓膜になったの」
「鼓膜が猫の鼓膜に」
「そうよ。お婆ちゃんやうちの耳と同じようになったの。早く掻いてやらないとタマの機嫌悪くなるよ」

 ぼくは前肢後ろ肢を宙に突き出し、無防備に腹部をぼくの眼に曝しているタマに近寄った。
「ここがいいの?」

 ぼくは腹部を片手の指を立て、もぞもぞと掻いた。
「邪魔臭そうに掻かないで。両手の指先で優しく掻いてください」
「こうかい」
「そうです……咽もお願いしますね。それと耳の裏も好きです」
「気持ちいいのかい」
「とってもよござんす」
「タマ、いいわね。圭介さんに愛されて」

 黒比目はタマを見つめていた。
「うちもあんまり眠ってないから、もう一度ベッドにはいろか」

 黒比目は意味ありげな、扇情的眼差しをぼくに向けた。

 今朝のぼくの躯は採取されすぎてカラカラになった油田のようになっていたので、またベッドに戻っても機能するとは思えなかった。
「うちは夜より午前中のほうがずっと燃えやすいよ」

 昨夜だって野生どころか野獣のように燃えていた。あれ以上燃えられたらぼくは殺されてしまうだろう。

 だが女の欲情が底なしであることは、妻やその他の数名の女との交情で知らないこともなかった。それを男の辛抱の足りない短時間セックスで放置するから女のほうにストレスが蓄積するのだ。そしてそのことが愛情不信や他の男への興味に繋がっていくこともあることはわかっているが、カラカラではどうしようもない。
「朝のジュース作るわ」

 洗い物を終えた黒比目はジュースの材料を用意しだした。
「昨夜のジュース」
「あれにあとスッポンエキスと海馬(とど)エキスを加える」
「スッポンは咥えたら雷が鳴っても離さないそうだよ。海馬の牡は何頭もの牝をしたがえてハーレム作るのだよな。けっこう疲れるのじゃないかな」

 ぼくはタマの咽を掻きながら言った。

 気持ちがいいのかタマは咽をゴロゴロと鳴らし、躯をくねらせ、尻尾を左右にパタンパタンさせていた。
「一度に何頭もとすると憔悴するわね」

 ぼくは黒比目一人で憔悴するよ、と言いかけたが止めた。
「はーい、食物繊維たっぷりジュース」

 黒比目は二つのグラスを両手に持って食卓に運んできた。
 バナナ一本、生卵、朝鮮人参、ロイヤルゼリーとマタタビ、それにスッポンエキスと海馬エキスを猫乳でミックスしてどこが食物繊維たっぷりだ。これも口にしかけたが止めた。昨夜トランポリン上で何度も跳ね飛んでいたとき、極彩色のサイケデリックな模様が輝いていた。あれだけでも神経がおかしくなっていたのではないか。その上にスッポンエキスと海馬エキスをミックスしたものを飲むとどうなるのかと考えたが、黒比目が旨そうに飲んでいたので、ぼくも一気に飲み干した。

図書館の白い猫17

2008-08-30 15:32:56 | 図書館の白い猫
     5


 黒比目は羽毛の先で触れただけで飛び跳ねたり反り返ったりする愛撫過敏体質であったから、大柄な躯の割にはぼくの苦労は少なかった。官能への感覚は躯の大型小型は無関係なのかもしれない。このことをぼくは黒比目で初めて知った。

 だがこれはぼくの愛の行為の話で、ベッドの上のことは何度も黒比目の肉体の下敷きになっていのちを落としそうになった。最初のうちはぼくの上に跨っている黒比目の肉体の圧倒的ボリュームでぼくは圧死する恐怖を覚えた。そのうち黒比目はコロッと仰向けに寝転ぶとぼくの躯を白い肉体の上に引き摺り上げた。そして肉体を激しく上下に躍動するものだから、ぼくはさしずめバネの利いたトランポリンに乗った子どもの気分であったが、飛んだ後でトランポリンの領域から飛び出して床に叩き付けられないかと心配であった。何度もトランポリン遊びをしていると次第にぼくの意識は北海の時化の海原を航行する漁船になっていた。

 アッと思う間に海底に引きずり込まれてあわや海の藻屑になるかと覚悟すると、その瞬間に急速にうねりの頂点に昇ってそのまま宙に放り出される頭脳の空白、この二つの恐怖を窓のカーテンに夜の白み始めた明るさが広がってくるまで、一休憩しては再開と黒比目の願望する野生のセックスがダブルベッド狭しと痴態のかぎりを尽くして繰り返され、黒比目のあまりにも奇態なア黒比目バット的肉体の変容はとても人間業とは思えなかった。しかしぼくは始終幻惑の白昼夢の中にいたので、その一つ一つを克明に思い出すことは不可能だった。

 快楽混じりの意識と感覚は生きた心地の物でなかったことだけは確かだ。

 ――これが野生のセックスか!

 意識朦朧とした中で作家魂の意地に懸けてそれを認識しようとしたが、白濁した意識は〈それ〉とは何か、〈それ〉すら混濁したものだった。

 この間黒比目は人間の女の官能的陶酔の喜悦とは異質な声をずっと張り上げていた。それはぼくがこれまでの女(数少なかったが)から聴いた物とはほど遠く、春の夜の公園の薄暗闇で薄気味悪い交尾の猫の鳴き声にも似たものだった。しかし顔が吉永小百合顔だったからその薄気味悪さもさほど気にはならなかった。

 そしてぼくはいつの間にか眠っていた。眼が醒めるとカーテンはずっと明るくなっていた。ベッドでぼくは自分の下腹部が軽くなっているのに気付いた。それは融けて無くなった感じだった。骨盤の中に内蔵していた物質がすっかり無くなり、虚ろになっていた。

 その頃黒比目はもう起床していて寝室にいなかった。ぼく一人がベッドに取り残されていた。ぼくはほんのりと明るい室内を見回した。窓のある壁、ドアのある壁、長大の姿見付ドレッサーの置いてある壁、何もない壁、どの壁にも銀の星々が光っていた。窓の反対側の何もない二間半幅の壁はよく見ると引き戸になっていた。タンス、棚を納めた収納壁かもしれない。さらにその奥にシャワー専用のバス・トイレが隠されているような気がした。

 簡素で贅を尽くした趣向だった。

 ベッド脇のサイドテーブルのデジタル時計が8:10を表していた。

 ――もうこんな時間か。

 寝不足気味の頭で呟いた。

 ドアが開いて一段と艶めかしくなった、晴れ晴れとした表情の黒比目の顔が覗いた。
「起きた?」
「うん、いま眼が覚めた」

 黒比目は近寄ってくるといきなり被さってきてキスを求めた。
「朝ご飯できてる。お婆ちゃんが待ってるよ」
「そう」
「洗顔はこっち」

 黒比目は引き戸を開けた。やはりこの奥にバス・トイレがあるのだ。ぼくは裸のままベッドから抜け出すと黒比目のあとに随いた。二間幅で洋服ダンス、整理ダンス、その他がはめ込まれており、端に半間のドアが付いていた。
「何かのときには洋服ダンスが移動してこのドアを隠すんよ」
「何かのときって」
「万が一の何かのときよ。二三日は隠れておれるんよ」
「忍者屋敷だな」
「下着も置いてあるから替えて」
「ありがとう」

 下に降りて行くと、おカネ婆さんがいつもの妊婦服ドレスにエプロン姿で食卓の前に座っていた。床にタマも蹲っていた。
「車の音せんからよう眠れたやろ」
「静かですね」

 ぼくは寝ぼけた声を出した。首筋に寝不足が貼り付いていた。
「ワシはこれから町に出るが、おまはんはここに居り」
「いえ、ぼくもいっしょに」
「いや、マンションの引き払いの手続きはワシがしてくる」
「マンションとは?」
「おまはんが住んどったとこや」
「あそこをぼくは出るのですか」
「そらぁそうやないか。ここにずっと住み」

 おカネ婆さんは当然という顔付きだった。しかしぼくには何が何かわからなかった。そこに黒比目が湯気の上がった味噌汁を運んできた。食卓にはすでにアジのヒラキ、ヒジキ、海苔、卵焼きの皿が載っていた。
「芸術家にはパトロンが要るんよ、モーツアルトのように」

 黒比目が朗らかな声で言った。

 これもタマの報告だ、とぼくはタマを見下ろした。笑顔でぼくを見ている。
「まあそうですけど……」
「五時までは黒比目とタマが居る。それからあとはワシとタマが居る。十二時頃黒比目はホテルから戻ってくる。ほかの猫もおるから退屈はせん」
「出るとなると荷物の整理が」
「そんな物は土建会社の社員三人ほどでやれば半日仕事や。だいじな物だけこっちに持ってもさせる」
「それはそうですが……」
「ここで黒比目と暮らしながら小説書きぃ」
「タマとも話し合いがついてるのよ」

 黒比目が嬉しそうな声だった。
「話し合いがついている?」
「タマにな、圭介さんを共有するのやと説明したら納得してくれた」
「共有されるのですか」
「そうやねん。猫ちゃん心理は人間と同じで三角関係は難しいねん。そやからこんこんと説明してやらんと納得せんのよ。猫は牡牝ペアで飼わなあかん。人間との関係も一人の飼い主と一匹の猫ちゃん。二人の人間と一匹の猫ちゃんの組み合わせは難しいねん。とくにうちとタマが圭介さんを取り合いするケースはな」
「共有ね……」

図書館の白い猫16

2008-08-30 04:37:36 | 図書館の白い猫
「ちょっと飲みすぎた」
 ぼくは言葉で取り繕った。
「そうやね……少し休憩してからのほうがいいかも」

 黒比目はそう言うと躯をずらしてぼくを脇に降ろしてくれた。そして片手をぼくのアソコに載せた。
「元気そうやんか」
「うん、そこは機能的に自然と元気なんやけど、頭のほうが酔っているやろ」
「頭とここは別なんや」

 黒比目はアソコを掌で折れてしまうほど強くパンパンと叩いた。
「そんな感じやな」
「うちのお乳、色っぽい」
「色っぽい」

 ぼくは触れなければまずいと、数年前の二月に泊まったことのある田沢湖のホテルの庭園に作られていた、観光客用かまくらのような乳房の乳首に触った。すると黒比目の躯に激震が走ったのか、黒比目の肉体は甲板に上げられたサメのように跳ねた。相当過敏体質だ。試しにもう一つの乳首に触れてみた。ビーンと白い肉体が反り返った。ぼくは慌てて手を離した。用心してかからないとぼくは黒比目の肉体の下敷きになってしまうだろう。
「タマはどうしてるの?」
「さっきご機嫌うかがったら拗ねてたみたい。うちに圭介とられたと思っているのよ」
「あの顔でかい?」
「笑顔の下に何があるか明日のお楽しみね」
「さっき家畜化すると頭脳が収縮すると言ったね」
「そうよ。野生の機能を失うからよ」
「ぼくは七十年代以降に生まれた人間は相当家畜化されたんじゃないかと思うな。七十年代はマザコンによる通塾ブームの始まりだった。一流大学進学のための学習塾経営が始まった。全国規模で学力をチェックするための偏差値試験が実施されだした。すると公立中学まで業者テストを導入して偏差値チェックを始めた。すると落ちこぼれが目立ってきた。落ちこぼれは落ちこぼれで塾通い。あっという間に全国に雨後のタケノコのように補習塾経営が広まり、ビジネスになった。小学高学年からだれもかれもが通塾、これって人間の家畜化の第一歩だったんだよ」
「うちもそう思う。うちはお婆ちゃんが塾に通う暇があるのなら遊べという考えやったから、塾に行かなんだ」
「お婆さんが正しいな」
「今頃の男は去勢されとんのとちがう。女は女で不妊ノイローゼとちがうの。夫婦揃ってセックスレスとか、うちには理解でけんわ。猫ちゃんでも間違った家畜化はストレスになる。感情がうまく発散されんから、苛立ったり攻撃的になったり、逆に自閉になったり自虐的になって毛むしったりする。臆病になって仲間遊びできんのもおる。人間にもこんなん多いやんか」
「だから暴力と自閉の同居だ。ちょっとしたきっかけでどっちにも転ぶ人間になる」
「怖いこっちゃ。男も女も野生を取り戻さんとあかんのや」
「おそらくいまの若者は古代どころか、五十年、四十年、三十年代生まれより頭脳が収縮してるだろうな。ジェネレーションギャップというよりは頭脳ギャップだから、理解し合うことも難しい」
「うちはお婆ちゃんに育てられたから圭介と頭脳ギャップないで。セックスも野生でないとうちは満足せんよ」

 ぼくにとっては重たい言葉だった。標準サイズの女とならなんとかクリアできるが、標準サイズ外は初体験なものだけに、野生が発揮されればいいが萎縮することも予想されるのだ。

 こういう警戒はしてもぼくは骸骨よりは肉付きのいい女が好きだ。黒比目にしても吉永小百合の顔と首をそのままにしておいて、躯だけ数百倍拡大コピーした女なのだ。均衡のとれた優美なスタイルである。それが全体として大型だということで、きょう逢ったばかりでもあり、ぼくが慣れていないだけで嫌悪感はない。

 さてそれでは黒比目をどう料理すべきか。

 この寝室には行燈と長大の姿見付ドレッサーのほかに家具らしきものが見当たらない。夜の自然の中で、カモミールの香りだけを嗅いでる気分だ。マタタビのお香もたかれている筈だが、ぼくには匂わない。しかし先程から頭脳の奥のほうからなにかしらサイケデリックなロック調の音楽と光彩が強まってきている。

 怒鳴りつけるようなロックは好きでないが、ぼくがとっては異次元な感覚世界が頭脳に忍び込んでいる気がする。

 ――エリュアールを知っていたのか……隅におけん女やな。

 エリュアールが最後の女、ドミニック・ルモールと結婚したのは五十六歳だった。


 ぼくら二人は手をにぎりあい
 どこにいてもたがいのこころを信じあう
 優しい木の下 暗い空の下
 すべての屋根の下 暖炉のかたわらで
 日光がいっぱいの ひとけのない町なかで
 群衆のとりとめもないまなざしまなかで
 賢者たちと愚者たちのそば
 子どもたちと大人たちのなかで
 愛にはこれっぽちのふしぎさもなく
 ぼくらは明白な存在だ
 愛しあう者たちは、ぼくら二人をとおして信じあう。
     [『エリュアール選集』より――ぼくら二人]


 翌年、雪の朝にパリのグラヴェル街の家でドミニックの名を呼びながら死ぬのであるが、若い愛を得たエリュアールの有頂天な歓びが眼に浮かんでくる。しかしぼくに黒比目と呼びながら死ぬ日のあることは信じられない。

 いやそのことよりも当面この危機にどう対処すべきかを思案しなければならない。黒比目は少し休憩してからのほうがいいかも、と言ったが、しきりにぼくの顔を片手の五本の指で触るのだ。
「タマの報告では、圭介は明日とか未来がないと小説に書いているとあってんけど、明日とか未来は〈想い〉なんよ。初めから予定されたり〈在る〉もんとちがいますのや、だれも今の今、明日や未来を眼の前で手掴みしているひとはおらしまへん。それにショウペンハウエルの『自殺について』とか著者はわからんかったけど『美しい死体の自殺の方法』とか読んでいたやろ」

 ぼくは黒比目をこころのどこかで侮っていたかもしれない。
「それじゃ今現在はどういうもの?」

 ぼくはわざと意地悪な考えで訊ねてみた。
「そらぁこうやって二人がベッドに横たわってお話ししたり交尾、ちゃうセックスすることやおまへんか」

 黒比目はそう言うと、息が詰まるほどの強い腕力でぼくを抱きしめ、アハハと笑った。
 苦しい息の中でぼくは、なるほど言われてみればそんな気がすると、妙に納得した。いましておかないと、明日黒比目とセックスすることはないかもしれない。そんな約束は保証の限りでないのが、世の中だ。そう思った途端、ぼくのアソコは今までの怠惰を反省したかのようにムクムクと元気になった。

 ――そうか、〈未来〉がないのは、ぼくの創造の枯渇を意味しているのだ……だが金がないという現実も明日に絶望し、未来が想定できない原因ではないか……。

 胸の裡でそう考えていたとき、黒比目はぼくの胸の中を見通していたかのように、
「世間にはお金が無い無い言うて明日を夢見んひとが多いけんど、お金作るのも〈想い〉やで。〈想い〉が真剣やとひとは〈想い〉の実現に向かって行動しますやろ。猫ちゃんやってネズミや小鳥目の前にすると、すぐさまどうやって捕らえるか直感的判断してな、相手をじっくり観察したり待ち伏せしたり忍び寄ったりする。ここがチャンスやと判断した瞬間にジャンプしているやんか」と言い終えた瞬間、いつの間にかシルクのショーツをも脱ぎ捨てていた黒比目は、ぼくの躯の上に馬乗りになった。

 フンギュウ。

 雄々しく立ち上がっていたぼくの若武者は、たちまちにして黒比目に捕らわれた。

図書館の白い猫15

2008-08-29 21:09:15 | 図書館の白い猫
 階段を上りきると黒比目は自分の部屋のほうにぼくを運んだ。ぼくは黒比目の腕の中から、
「お婆さんの説明ではぼく用の部屋があるということですが」
「そんなこといいわよ。今夜はうちのダブルベッドでおやすみよ。タマ、おやすみね」

 そう言うと、無抵抗なぼくを抱えて黒比目は自分の部屋に直行した。

 布団の倉庫のような豊かな乳房の胸元にぼくは顔をくっつけていた。黒比目の躯からわりとポピュラーなハーブ、カモミールの香りがしていた。こんな状況にあるのは物ごころついてから初めてのことでないか。ぼくは物ごころついてからのこととしても母親の胸に抱かれた記憶がなかった。

 しばらくのゆらゆらした浮遊感の中で、数年前に別な女と旅した蓼科高原を眼に浮かべていた。青空に浮かんだ白雲の群と薄紫の連峰、一面に広がった白と黄色のジャーマンカモミール畑。あのときの女はオードリー・ヘプバーンのような細身だったから黒比目とは対極の女だった。

 大のおとなであるぼくのこの様は、地位も名誉も(もっともこのような物は最初からなかったが)プライドも放擲したものであって、おとなの種類によっては耐え難い屈辱であったろうが、酩酊していたぼくにとっては躯の重力が引力に垂直であろうと平行であろうと、浮遊感覚の中で階段を上り板間を自動的に移動しつつあることは、宇宙飛行士の経験に等しい物だった。
「あー、ここよ」という声で、ぼくはクッションの効いたベッドに投げ出されていた。

 クッションが効きすぎていてぼくの躯は一度跳ね上がった。酔眼まなこで辺りを眺めた。広いダブルベッドはグリーンの芝生色、真っ黒の天井に小さな黄金の満月、周囲の壁面は群青色で銀色の星々が光っていた。見ようによっては保育園の園児室のようだったが、とにかく夜の野外を模した寝室だった。
「気に入った?」
「夜空の部屋だね」
「そうなんよ。夜空の星眺めていると気持ちが落ち着いて、一日の中でやっと自分を取り戻した気分になんのよ。そない思っているうちに眠ってしまう」
「夜空には人間を原初のこころに還す何かがある」
「お香たくわね」
「沈香とか白檀?」
「何を期待するかでたく物が違うけど今夜はマタタビ」
「マタタビのお香ってある?」
「特注」
「そうやろな……咽が渇いた、水ある」
「待ってて、うちも飲みたいし、さっぱりしたジュース作ってくる」

 黒比目は寝室を出て行った。ぼくはまるで野外に一人投げ出された気分だった。猫の楽園に近いはずだが鳴き声は聞こえなかった。屋敷中が静まり返っていた。おそらく猫どもは暗闇の中に蹲ったり散策しているのであろう。

 天井に照明がなかったが、床のほうから暖色の明かりが薄ぼんやりと浮かんでいた。上体を起こして注視すると片隅に行燈が灯っていた。下のリビングルームもホームバーのところだけ天井からスポットライトが吊されていたが、部屋の両隅に朱に漆塗りの角形行燈が置いてあった。二階の片隅にもあった。あちこちの行燈の置いてある江戸時代風の屋敷だった。

 ジュースを満たした長いグラスが盆に二つ載って運ばれてきた。
「ありがとう、ありがとう」
 ぼくは一つを受け取った。
「バナナ一本と生卵、朝鮮人参、ローヤルゼリーとマタタビを猫乳でミックスした」
「猫のお乳で?」
「うちやや子のときから猫ちゃんのお乳で育ったから牛乳より好きなんよ」
「これにもマタタビが混ざっているの」
「そうや。麻薬のような常習性はないから心配せんとき」
「心配はしてないけど、まるで強壮剤のようなジュースやな」
「飲んでみて、さっぱりしてる」

 サッパリしているイメージでなかったが咽がやけに渇いていたので、眼を瞑って一気にぐぐっと飲み干した。やはり濃厚な強精ジュースのようだった。
「おいしいでしょ」
「そうやね」
「そんなら圭介に抱かれて寝よか、優しく可愛がってね」

 黒比目はぼくを呼び捨てにして、浴衣の帯をほどくと浴衣を投げ捨て真珠色のショーツ一枚きりの裸体で、ベッドに飛び込んだ。ぼくは二三度バウンドした。
「大学出てから京都で一生懸命仕事し、ニューヨークでも緊張した仕事してきたけど気付いたらもう三十六、なんのために働いて生きているのかと去年辺りから思うようになってん。やっぱり何のために働いて生きているか、それを気付かせてくれる男がおらんとうちはもう駄目やないか、そやから圭介が欲しいねん」
「欲しいねんいうても黒比目とぼくでは歳が離れすぎている」
「何言うねん、ピカソの最後の妻は何歳やった、詩人のエリュアールの最後の妻は何歳やった。男と女に歳の差やこと無関係や」

 黒比目は酒癖が悪そうだ。
「圭介の中にうちが居てうちの中に圭介が居る、これで十分なんや」
「そらそうやけど」

 黒比目の中にぼくは居るのかもしれないが、ぼくの中に黒比目が居るかは未確認。きょう顔を合わせて親しくなったばかりだから、居るか居らないかはまだわからないのだ。
 黒比目はぼくの胸に頭を擦りつけ、手で顔を弄った。気持ちの準備の整っていないぼくは取り乱した黒比目から離れようとベッドに端に移動したら、そのまま床に転げ落ちそうになり、慌てて黒比目の躯にしがみついた。すると黒比目はそれを愛のサインと受け取ったのか片方の巨木のような脚をぼくの躯に載せてきた。下腹部を圧迫されてあわや息が止まりそうになった。
「積極的かつ優しく!」

 黒比目はどきっとする言葉をぼくの顔に吹きかけた。

 積極的! 貧弱なぼくがどう積極的になれようか。

 ぼくは深海魚の提灯鮟鱇夫婦を記憶から甦(よみが)らせた。図鑑に載っている提灯鮟鱇の写真はすべて雌である。雌は体長六十センチほどあるが、雄は四十五ミリ、大きくても五センチほどだ。しかも雄は雌の躯に寄生しており、躯のほとんどが精巣なのだ。産卵のための射精だけが雄の存在価値だ。

 羨むべきか憐れむべきか。

 黒比目がぼくの横で鼻息荒く頭や手、脚をもぞもぞと動かすと、ぼくは提灯鮟鱇の雄の気分になるのだった。正直、ぼくは黒比目の甘えの行為を持て余した。それでなくてもぼくは黒比目にダッコされてここまで運ばれてきた。どう男としての威厳を保って黒比目をリードすべきか、ちょっとした意識の揺れでそれはすぐに反転し、黒比目の肉体にリードされてしまうのではないか。戦々恐々とした危惧を覚えた。
「早く!」

 黒比目はじれったそうに叫んだ。
「早く優しくして!」

 ぼくは観念して黒比目の裸体の上に乗った。すると今度は大型のエイに寄生して移動するコバンザメを思い出した。どうもセックスにこういう教養は邪魔になるだけだ。粗粗(あらあら)しく野生を発揮すべきなのだと気持ちの上ではわかっていたが、難攻不落の城のような肉体にしがみついていると、乳房一つ扱いかねた。これでは黒比目を侮辱することになりかねないと思うのであるが、そう思うとよけいに焦り、ぼくの手、足、腰の動きはぎこちなく、黒比目の肉体と不調和音のハーモニーを奏でてしまうのであった。
「別れた奥さんとはしなかったの?」

 ――そんなことはない、二人も娘が生まれたのだ。

図書館の白い猫14

2008-08-29 15:12:04 | 図書館の白い猫
 夏の夜、このような場所で、静かにモーツァルトのピアノ協奏曲に耳を傾けながら、一匹の白猫とブランデーを飲むひとときがあるとは想像もしてなかった。
「きみは姉御の秘密はなんでも知っているのだろ。たとえばショーツの色は何色とか」

 タマはぼくのことは眼中にない熱心で、両耳を振って二切れ目と格闘していた。いかにも旨そうなかぶりつきだ。
「いいね、きみはこんな屋敷に飼われていて。いっそぼくも飼われて、ここで小説の創作に没頭したいね。だいたい芸術家がその日の暮らしの金の心配していて、いい作品が創れるはずないさ。このモーツァルトだって王侯貴族というパトロンの庇護があったから作曲に専念できたのだから。そう思わないかい」

 ロースハムを口に入れた。これも旨いハムだった。

 ぼくは協奏曲を聴きながらしばらく眼を瞑った。少し酔いが廻っているせいもある、このまま眠るに落ちることがきょう一日の幸せと思えてくるのであった。これ以上求める物はぼくにはない気がする。

 微かな物音に眼を開けた。タマを見ると三切れ目を平らげて、前肢で口を拭っていた。

 ――お前はいいね、幸せ者だよ。

「おまちどおさま。いいお湯でさっぱりしたわ。タマちゃんおやつ食べてご機嫌ね」
「鯛の蒲鉾が好きなんだね」
「そうなの。これだけはほかのお猫ちゃんに内緒なの。いまからゆっくり飲みましょうね。そちらのソファで飲みましょうか、楽でしょ」
「そうしますか」

 ぼくは自分のグラスを握るとスツールを降り、ソファに腰を下ろした。黒比目はブランデーの瓶とチーズの皿、ハムの皿をテーブルに運んできた。
「氷要ります?」
「要らない」
「私もブランデーは氷なしのほうが好き」

 浴衣の黒比目はぼくの横に腰を下ろした。カウンターを飛び下りたタマが黒比目の足元に蹲って、黒比目と何か交信している気配があったが、ぼくには内容が掴めなかった。
「うち三十六です。京都に十年、ニューヨークに二年、こっちにきて一年、すぐ歳とってしまったわ」
「三十前後にしか見えないよ」
「ホント! そんなら嬉しいやけんどなんやカビのはえた女になった気がするねん」
「ニューヨークには何しに?」
「Y組関係のシンジケートのコネクションの仕事と舎弟企業がニューヨークでやっている派遣会社のお手伝い」
「派遣会社?」
「Y組の血の気の多い若い組員あちこちに出向させますのや。二年契約ほどの派遣社員やね」
「Y組にもそんな仕事があるの?」
「アフリカ、中近東、南米、東南アジアの紛争国の政府軍に派遣しますのや。外人部隊というか傭兵やね」
「そんなことにまで手を広げているの?」
「多角経営せんとY組も資金源が持たないやろ、それで余剰人員を派遣してますのや」
「シンジケートの仕事というのはマフィアとの麻薬の取引とか」
「うちはそんな物騒な物には関わらへんねん、絵画の売買」
「Y組は絵画の売買までやってますの?」
「そうなんやねん、画商と組んだ舎弟企業通じて利ざや稼ぎしてますのや」
「危ないことは」
「うちはチャカ(拳銃)含むような仕事は嫌やねん」
「そらそうやな」
「そんでも疲れたさかい、去年お婆ちゃんのとこに戻ってきてん」
「そうやったの」
「うちの今夜のショーツは真珠色のシルクなんよ」

 ぼくはアッと気付いた。タマに喋ったことは全部黒比目に筒抜けになることを。

 ――しまったなぁ。

 チーズとハムをおかずに喋りながらブランデーをちびりちびりと飲んでいたが、二人ともしだいに酩酊気分になっていた。
「庭の猫の鳴き声も聞こえてきませんね」
「愛のカップルが多いときはうるさいわよ」
「真っ暗なんでしょ」
「暗闇やね。そやけど猫ちゃんは夜目が利くから平気に夜の散歩してるわ」
「犬と猫はどっちが賢いのかな」
「そら猫ちゃん。犬は一万四千年前に家畜化されたけど、猫は六千年前にエジプトで家畜化されたんよ。家畜化されるいうのは野生のときより脳が収縮するってことなんよ。野生のときに使っていた能力を失うから脳が収縮する。これから考えても犬のほうがずっと野生から離れたのが早いから、猫ほどの能力はあれへん」
「猫がマイペースな生き方できるのもそのことで説明がつくな……なるほど。ところで猫の子育ては牡、牝共同でするの」
「ちがうねん。お婆ちゃんの男関係と同じや。孕ましたら男はおらんようになったやろ。猫ちゃんの場合は、子を産むと牝が牡を追っ払ってしまう。結果的にはお婆ちゃんの子育てと同じや。母子関係しかあれへん」
「知らなかった。そんなら母子関係は強固やな」
「そう。うちとタマ、お婆ちゃんとタマの関係も母子関係、というよりよい人間と猫の関係は猫ちゃんから見ると母子関係なんや」
「擬似的母子関係なんやな」
「圭介さんとタマの関係もそうなんやけど、タマは圭介さんと交尾、セックスのことやけど、交尾したいとうちに訴えたので、いまは母子でなく男女の恋愛関係やな」

 ぼくはぎょとなってタマの笑顔を睨み付けた。

 ――猫と交尾、いやセックスするなんてそりゃ不道徳、倫理にもとる行為や! タマ、それは無茶な要求やぞ!

 ぼくはそのときエイズウイルスの知識を想起した。ヒトのエイズウイルスであるHIVはレトロウイルス科のレンチウイルス亜科に属する。そしてヒトのHIVにより近いのは、サルのSIV、ネコのFIV、ウシのBIVの三種で犬はない。またHIVの発生は西アフリカのチンパンジーからヒトに伝播したことを専門家たちも否定してはいないのである。サルとヒトがセックスしたことを想像したくないだけなのだ。

 ――嫌だ! 猫との交尾なんて絶対嫌だ!

 酔っていたせいかぼくは自制を喪って意味もなく、胸の裡で叫んでいた。そして笑っているタマの白い頭を本気で叩いてやろうかと思った。

 しかしあまりにもばかげた妄想だったことに、すぐさま我に返った。そして気がつくと黒比目が蠱惑的な眼でじっとぼくを見つめていた。
「圭介さん、うちのここ、色気ありますやろか」

 黒比目は浴衣の裾を両脚で左右に割った。眩い象牙色の太腿、少なくともぼくの太腿の三倍の容積の太腿が露わになった。
「そりゃ十分色気ありますよ」ぼくは一瞥した視線を直ぐに外して言った。
「瑞々(みずみず)しい肌してますやろか」
「瑞々しいです」
「圭介さん、触ってもええのよ」
「娘さんのそんなとこ触るなんてぼくの良心が許しません。それにお婆さんに叱られます」
「お婆ちゃん、叱れへんよ。そのために圭介さん呼んだんやもん」
「え!」
「お婆ちゃん計略家なんよ。何の目的もなくお食事に招待なんかせんわよ」
「そうなんですか」
「そやから触ってもええよ、あ、あかん、タマがじっと見とるわ。圭介さんがうちの太腿触ったら、タマが嫉妬して圭介さんに爪立てるわ」
「猫が妬くのですか」
「そらぁ妬きますよ」

 飼ったことはないが犬は公園をうろつく野良犬の顔に表情があることを知っているので嫉妬することもあるだろうと考えたことはあるが、いつも同じような目玉の猫が嫉妬するとは、ぼくの観察不足、認識不足であったらしい。黒比目の石の柱としか想えない太腿に触った途端、タマは先だって見せた跳躍力でぼくの伸ばした手目掛けてジャンプし、猫牙を突き立てるのかもしれない。
「猫ちゃんはヒステリックになったりパラノイア(妄想症)になったりもするの。猫ちゃんの機嫌を悪くすることはしない。反対に猫ちゃんがボディ・ランゲージや鳴き声で要求することには、積極的かつ優しく応えてやらなければいけないのよ。いつだったかタマちゃん、圭介さんのところからプリプリ怒って戻ってきたことがあるわ。太腿に抱きついてまで訴えたのに手で邪険に払われたって。唐変木! ってプリプリだったのよ」

 ――あの日のことを言っているのだな。

「ゴロゴロ咽鳴らしたり切なく啼いたりもするけど、うちが図書館では唸ったり啼くことを禁止してたから、ボディ・ランゲージだけで要求してたのよ」

 ――そうだったのか。

 しかしいくら要求されても猫とはセックスできない、絶対に。ぼくはタマをもう一度睨むと眼で意思表示した。

 えっ、それじゃ黒比目が浴衣の裾を割って白い太腿を露出してみせたのも、一種のボディ・ランゲージだったのかも。黒比目は何て言った、〈積極的かつ優しく〉、三十六のこの逞しい体格の娘、娘? どっちでもいい、女相手に〈積極的かつ優しく〉行動したら、きっとぼくのほうが呼吸困難で息が止まったり、あのことの最中だったら腹上死、悶絶死は免れないだろう。死は厭わないが、いくらなんでも腹上死はみっともないよ。いや死にみっともないもないものだ。そんなことを考えるから死ねないのだ……やっぱり腹上死、悶絶死は嫌だ。

 ぼくは酩酊した頭脳が気違い馬のように疾駆しているのを感じていた。
「圭介さんとのお喋りが愉しく、なんかうちも飲みすぎたわ。そろそろ二階に上がりますぅー。おタマもお気に入りのところでオネンネよ」
「タマちゃんお気に入りってどこ?」
「二階の展望ホールのカウンターなの。あそこに蹲って真っ暗な庭を見ているうちに眠っているの。それじゃ腰を上げましょう」

 ぼくは黒比目の声で立ち上がったが、眼がくるくる回っていた。こんなに酔ったのは初めてだ。もしかしたら黒比目のマタタビ入りカマンベールを二口食べたせいかもしれない。階段の前までなんとか来たが、上を見上げるとしゃがんでしまいたくなった。
「上がれる、上がれないんでしょ。うちがダッコしてあげる」
「ダッコですかぁ、重いですよ」
「重くはないわよ」

 黒比目も酔った舌足らずの声だった。
「ヨイコラショ」

 黒比目は浴衣の袖を捲り上げて白く逞しい二本の腕で、母親が胸元に赤ん坊を抱き上げるように、ぼくを難なく横抱きにして階段を上り始めた。
「圭介さんってスカスカの躯じゃない、軽いわよ」