喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(18)

2007-02-21 15:04:33 | 表現・描写・形象
私の下手な創作をサンプルにするよりもやはりプロの作品を眺めてみましょう。昨日「鋭角的表現」で引用しました高樹のぶ子の『洞窟』を見てみましょう。 この作品は掌篇なんですが、あれ、会話体が一つもない。お見事。

純文学での会話体多用は慎重の上にも慎重を期したほうが、作品が緻密で、緊張感を伴い、読者を内容に引き込んでいきます。

とはいえ会話体の全くない作品が珍しいことは珍しい。そこで短編の名手、三浦哲郎の短編『マヤ』から引用します。書き出しのところです。短編の名手とは無駄語が一切なく、的確な語彙(ごい)で表現しているということです。

誘ったのは、マヤの方であった。
「ねえ、一緒にどこか遠くへいこうよ、お兄ちゃん。」

葉桜の下のベンチで、両足をぶらぶらさせながらそういった。赤いズック靴の片方が脱げて飛んだ。

お兄ちゃん、と甘く呼ばれて、耕二は悪い気がしなかった。つい、本当の心優しい兄のように、前の花壇の方まで転げていった靴を拾ってきてやると、どこへいきたいのか、動物園か遊園地か、と笑って尋ねた。

相手は五つ六つの女の子だから、遠くへといってもせいぜいそんなところだろうと思ったのだが、違っていた。
「遊園地だなんて。」とマヤは軽くせせら笑った。「もっと、ずっと遠くへよ。誰も知らないような、ずっとずっと遠いところへ。」

耕二は呆れてマヤを見詰めた。都会の子はませているとは聞いていたが、これほどだとは思わなかった。この齢で、ゆきずりにも等しい男を平気で誘惑しようとする。騙されまいぞ、と彼は思った。

二人は、もともと互いに顔も知らない赤の他人同士だったのだが、ほんの小半日前 に、ふとしたことから口を利き合う仲になったのであった。昼前、耕二が駅の自動両替機の前に立っていたとき、マヤが彼の太腿を指で突っついたのがきっかけであった 。
「悪いけど、あたしのも崩して。手が届かないの。」

マヤの紙幣は、真新しくて、きちんと四つに畳んであった。耕二は、替えた硬貨を手のひらに並べて見せてから、電車の切符を買うつもりかと訊いてみた。どうせ自動販売機にも手が届かないのだ。
「そうなの。ついでに買ってくれる?」
「どこまで?」
「どこでもいいの。」
 耕二は面食らって、困るな、そんなの、といった。
「じゃ、一緒でいいわ。どこまでいくの?」
「俺な。俺は新宿。」
「そんなら、マヤも新宿。新宿まで買って。」

おかしな子だと思ったが、頼まれた通りにするほかはなかった。マヤは、おつりを、肩から斜めに下げている小熊の顔を象ったポシェットに入れた。

二人は、一緒に改札口を通って、おなじ電車に乗った。車内は空いていたが、耕二はいつものようにドアの脇に立って外を眺めた。二年暮らした東京の街とも明日の朝にはおさらばしなければならない。雇われていた工事が終って、出稼ぎ仲間がひとまず解散するのである。耕二は北の郷里へ帰ることになる。東京の街もおそらくこれが見納めになるだろう。マヤはおとなしく耕二のそばにいて、電車が揺れると両手で彼の脚に抱きついた。そのたびに、彼は我に返ってマヤのおかっぱ頭を見下ろした。じゃれかかってくる小犬にも似た幼い躯の感触が、彼には新鮮で、悪くなかった。

新宿という街の雑踏には、きてみるたびに驚かされる。駅ビルを出るとき、耕二ははらはらして、これからひとりでどこへいくつもりなのかとマヤに尋ねないではいられなかった。マヤは小首をかしげていたが、逆に耕二の行先を尋ねた。彼は、とりあえ ず昼飯に好きなラーメンを食おうと思っていた。
「じゃ、マヤもそうする。おなか空いちゃったの。」

子供が嫌いではない耕二には、マヤを拒む理由はなにもなかった。彼は人込みのなかを歩き出したが、いつの間にか、はぐれないように手を繋ぎ合っていた。

多くはないですね。むしろ絶妙な箇所に短く会話を挟んでいる、会話と地の文の融合に絶妙の味を醸(かも)し出しているといってもいい。

プロの作品に引き比べてHP、ブログの「読んで! 読んで!」サイトの小説なるものは、やたら会話体が多い。会話体だけというのもあります。とても小説として読めたものではありません。私はこれらを漫才台本と呼んでいます。

作者が一人で漫才をしているのです。これはやってみると案外に気分のいいものです。受け答えを自分一人でするのは。気持ちがいいものだから延々と会話体になりやすいのです。

私も昔は会話体にそんなに神経は使いませんでした。無自覚に会話体を多用していたのですが、最近は会話体でやらなければならないシーンにくると、神経が鋭くなります。まず会話体でなく地の文で処理できないかと思案します。地の文で処理できればそれにこしたことはないのです。

皆さんもご自分の作品を点検して、ここは地の文で処理できないかな、と思案してみましょう。

会話体は読者に読みやすい反面、読書の感銘を水で薄めたようにしてしまいます。文学賞応募作品などは要注意です。下読みの担当者が水で薄めた作品は外しますので、一次通過も難しくなります。

鋭角的表現(17)

2007-02-20 13:47:15 | 表現・描写・形象
宮本百合子の『二つの庭』から一箇所。無駄のない状況描写。百合子の神経が細部まで働いている。これだけのなかに越智、純子、多計代の人物が浮き彫りになっている。

保が東京高校へ入学したのは前年の春であった。その夏、若い越智夫婦が田舎にある佐々の家に暮し、伸子はあとからそのときの写真をみせられたことがあった。大柄の浴衣をきて、なめらかな髪を真中からわけて結び、やせがたで憂鬱な情熱っぽい純子という夫人が、白服できちんと立っている越智と並んでうつっていた。夫人のからだにあらわれている、しめっぽくて、はげしそうな表情も、越智の白い夏服の立襟をきちんとしめて、とりすましたような工合も伸子の気質の肌に合わなかった。普通にいえばよく似合っている縁無し眼鏡も、寸法どおりにきまって、ゆとりと味わいのない越智の顔の上にかかっていると、伸子は本能的に自分が感じている彼の人がらの、しんの冷たさや流動性の乏しさを照りかえしているように思うのだった。

そのスナップ写真を伸子と顔をよせあうようにしてしげしげ眺めながら、多計代が、
「伸ちゃん、お前、純子さんてひとを、どう思うかい?」
ときいた。伸子は、そのとき、母の唐突な質問に困った。
「だって、わたし、このかたにまだ一遍も会っていもしないのに・・・・・・」
「そりゃそうだけれども、この写真をみてさ。伸ちゃんは、どう感じるかって、いうのさ」

伸子は、そういう多計代の詮索を、苦しく感じた。伸子は、恋愛の思いを知っていた。結婚した夫婦生活の明暗もある程度はわかっている。いまは女友達とひとり暮しをしているけれども、伸子は母のききかたに、女としての感情の底流れを感じ、それは成長した娘としての伸子の心に苦しいのであった。
「旦那さまが好きらしいし、ある意味で美人だし・・・・・・問題はないじゃないの」
「問題になんかしているんじゃないけれど・・・・・・」


鋭角的表現(16)

2007-02-19 13:10:29 | 表現・描写・形象
安部公房著『砂の女』であるが、これも面白い。ノーベル文学賞は安部公房か川端康成かと騒がれたのであるが、川端康成が受賞した。このとき私は政治的な匂いを嗅いだ気がした。書き出しから読者に謎かけを振ってくる。これも読ませる手法の一つである。



八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。

むろん、人間の失踪は、それほど珍しいことではない。統計のうえでも、年間数百件からの失踪届が出されているという。しかも、発見される率は、意外にすくないのだ。殺人や事故であれば、はっきりとした証拠が残ってくれるし、誘拐のような場合でも、関係者には、一応その動機が明示されるものである。しかし、そのどちらにも属さないとなると、失踪は、ひどく手掛りのつかみにくいものになってしまうのだ。仮に、それを純粋な逃亡と呼ぶとすれば、多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。

彼の場合も、手掛りのなさという点では、例外でなかった。行先の見当だけは、一応ついていたものの、その方面からそれらしい変死体が発見されたという報告はまるでなかったし、仕事の性質上、誘拐されるような秘密にタッチしていたとは、ちょっと考えられない。また日頃、逃亡をほのめかす言動など、すこしもなかったと言う。

当然のことだが、はじめは誰もが、いずれ秘密の男女関係だろうくらいに想像していた。しかし、男の妻から、彼の旅行の目的が昆虫採集だったと聞かされて、係官も、勤め先の同僚たちも、いささかはぐらかされたような気持がしたものだ。たしかに、殺虫瓶も、捕虫網も、恋の逃避行の隠れ蓑としては少々とぼけすぎている。それに、絵具箱のような木箱と、水筒を、十文字にかけた、一見登山家風の男がS駅で下車したことを記憶していた駅員の証言によって、彼に同行者がなく、まったく一人だったことが確かめられ、その臆測も、根拠薄弱ということになってしまったのである。

厭世自殺説もあらわれた。それを言い出したのは、精神分析にこっていた彼の同僚である。


鋭角的表現(15)

2007-02-18 10:51:55 | 表現・描写・形象
三島由紀夫の『金閣寺』。せめてこれくらいの重厚な文体の作品を読みたいものだと若い頃は思っていた。三島は金閣寺を燃やした犯人の地元に何度か立ったことがあるのを、この書き出しでわかる描写。水上勉もこの犯人を題材にした作品があるが、三島とは異なる視点から追及してある。

第一章

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。

私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。

成生岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学校へ徒歩で通った。

父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんも時雨が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。

五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野の只中に、金屏風を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。

写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。

遠い田の面が日にきらめいているのを見たりすれば、それを見えざる金閣の投影だと思った。福井県とこちら京都府の国堺をなす吉坂峠は、丁度真東に当っている。その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝陽の中から、金閣が朝空へ聳えているのを見た。

こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮ぎられて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。


鋭角的表現(14)

2007-02-17 00:27:59 | 表現・描写・形象
直木賞作家五木寛之の『風に吹かれて』の書き出し。大衆作家、流行作家だけに読みやすい。しかしこういう文体は私には物足りない。

赤線の街のニンフたち


ある作家から、
「きみはセンチュウ派か、センゴ派か」
と、きかれた。
ピンときたので、
「センチュウ派です」
と、答えた。

その作家は目尻にしわをよせてかすかに笑うと、それは良かった、と言った。

良かった、と言うべきではないかも知れない。だが、私には、その作家の言葉にならない部分のニュアンスが、良くわかった。

おくればせながらも、センチュウ派の末尾に位置し得たのは、良かったと思う。だが、良かったから元へもどせ、などとは言いたくない。滅んだものは、もうそれでおしまいだ。どんなに呼んでみたところで、ふたたび返ってきはしない。

後はただ白浪ばかりなり――。何の文句だったろうか。終ったお祭り。紀元節。失われた祝祭を復活させようとするのは、空しいことだ。私は、そう思う。

良かった、というのは、過去の記憶を飾るささやかなリボンにすぎない。センゼン派は皆、それぞれのリボンを頭に結んでいる。私のそれは、短くて貧弱だ。だが、風が吹くたびに、そいつが揺れるのを私は感じる。そのことを少し書こう。いわゆる赤線廃止のまえに、その巷に一瞬の光陰を過した〈戦中派〉の感傷である。

そのころ私は、池袋の近くに住んでいた。立教大学の前を通りすぎて、もっと先だ。

十畳ほどの二階の部屋に、十人ほどのアルバイト学生が住み込んでいた。私もその一人だった。

呆れるほど金のない連中ばかりで、何だかいつも腹をすかしていたように思う。

仕事は専門紙の配達である。業界紙とは言わずに、専門紙と言っていた。世の中に、これほど様々な新聞がある事を、私はその職場ではじめて知った。有名なものもあり、そうでないのもあった。


鋭角的表現(13)

2007-02-16 07:58:02 | 表現・描写・形象
井伏鱒二著『黒い雨』。被爆を静かに語る代表作。冒頭の段落からこの作品のドラマが読者に予告されている。これも巧い書き出しだ。



この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合せに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。

広島の第二中学校奉仕隊は、あの八月六日の朝、新大橋西詰かどこか広島市中心部の或る橋の上で訓辞を受けているとき被爆した。その瞬間、生徒たちは全身に火傷をしたが、引率教官は生徒一同に「海ゆかば……」の歌をピアニシモで合唱させ、歌い終ったところで「解散」を命じ、教官は率先して折から満潮の川に身を投げた。生徒一同もそれを見習った。たった一人、辛くも逃げ帰った生徒からその事実が伝わった。やがてその生徒も亡くなったと云う。

これは小畠村出身の報国挺身隊員が広島から逃げ帰って伝えた話だと思われる。けれども矢須子が広島の第二中学校の奉仕隊の炊事部に勤務していたというのは事実無根である。よしんば炊事部に勤めていたとしても、「海ゆかば……」を歌った現場に炊事部の女子が出かけている筈はない。矢須子は広島市外古市町の日本繊維株式会社古市工場に勤務して、富士田工場長の伝達係と受付係に任ぜられていた。日本繊維株式会社と第二中学とは何のつながりもないのである。

宮本輝著『錦繍』。宮本輝作品はなんといっても『泥の河』『螢川』、『道頓堀川』と『焚火の終わり』がよかった。書簡体の小説はつい心情ばかりを書いて描写を忘れがちになるが、小説は描写だと強調する宮本だけに描写を挿入することを忘れてはいない。

前略

蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。私は驚きのあまり、ドッコ沼の降り口に辿り着くまでの二十分間、言葉を忘れてしまったような状態になったくらいでございます。

あなたに、こうしてお手紙を差し上げるなんて、思い返してみれば、それこそ十二、三年振りのことになりましょうか。もう二度と、あなたとはお目にかかることはないと思っておりましたのに、はからずもあのような形で再会し、すっかりお変わりになってしまったお顔立ちやら目の光やらを拝見して、私は迷いに迷い、考えに考え抜いて、とうとう思いつくすべての方法を講じて、あなたの御住所を調べ、このような手紙を投函することになってしまいました。私の我儘を、こらえ性のない相変わらずな性格をどうかお笑い下さい。

あの日、私は急に思い立って、上野駅からつばさ三号に乗りました。子供に、蔵王の山頂から星を見せてやりたいと思ったからでした。(息子は清高という名で、八歳になりました)リフトの中で、たぶんお気づきになったことでしょうが、清高は生まれつきの障害児で、下半身が不自由であるだけでなく、同じ八歳の子供と比べると二、三歳知能が遅れていますが、どういうわけか星を見るのが好きで、空気の澄んだ晴れた夜には、香櫨園の家の中庭に出て、何時間でも飽きずに夜空を眺めているほどです。父の青山のマンションに二泊して、あす西宮の香櫨園に帰るという晩、何気なく一冊の雑誌を手に取りますと、蔵王の山頂から撮影したという夜空の写真が目に入りました。あっと息を呑むほどの満天の星で、私は生まれてこのかた殆ど遠出などしたことのない清高に、何とか実際にこの星を見せてやれないものかと思ってしまったのです。

父はことし七十歳になりましたが、まだ矍鑠と毎日会社に顔を出し、そのうえ、月の半分は東京支社で指揮を取るため、あなたも御存知の、あの青山のマンションで東京住まいをつづけています。ただ、十年前と比べると、髪はすっかり白くなり、幾分猫背にもなったように感じますが、香櫨園での生活と青山でのマンション住まいをちょうど半分ずつの割合で元気にこなしています。とが十月の初め頃だったでしょうか、会社からのお迎えの車が来て、マンションの前の石段を降りる際、踏み外して足首をひどく捩ってしまいました。ほんの少しですが骨にひびが入り、内出血もひどくて、まったく歩けない状態で、そのため私は清高をつれて慌てて新幹線で駈けつけました。動けないとなると途端に癇癪を起こして、お手伝いの育子さんの世話の焼き方が気に入らなくなり、電話で私を呼びつけたのです。【後略】


鋭角的表現(12)

2007-02-11 06:39:45 | 表現・描写・形象
藝は盗む物だという言葉がある。長年創作していると、この言葉が実感させられる。盗まなくてもプロになってしまうヒトは天性のものがあり、十代でデビューしてしまう。他のヒトは盗むことに精進しなければプロの道は厳しい。盗む鑑識眼があるかどうか、これも持って生まれた能力の一つである。

盗む値打ちのある物を〈鋭角的表現〉として、小説創作志望の皆さんに少しは役に立つことをと一気に書いてきた。

私は文学論議は好きではない。こんなことは将来文藝評論家になりたい人達が、討論の練習とか文藝認識を深めるためにやればいい。実作者は寸暇を惜しんで、一冊でも多く名作を多読しながら、自らの人生哲学と「藝」を錬磨しておればいいという考えである。宮本輝は大学受験に失敗した一浪のときに、中之島図書館で世界文学全集を読破していた。あるいはこのことで一浪したのかも知れない。

書かないことには作品にならないというところがつらい。饒舌に時間を費やしているあいだにコンピューターが自動書記してくれて、作品が完成していればいいのだが、コンピューターもここまでは賢くない。

前にも書いたが、私自身の文体について述べると、四十代の後半に差し掛かる頃、あることが契機になり、英国から帰国以来の女性不感症がしだいに解消されていった。すると不思議なことに三浦哲郎著『忍ぶ川』のような美しい男女の姿を、重苦しいタッチではなく少し軽いタッチで描いてみたいと思い、参考になる小説はと書店に出掛けたらG・サバンの『ぼくの美しい人だから』が目についた。読んでみると実に愉しく、また男と女の有り様を考えさせられた。単細胞の私はすぐさま、よし、このタイトルでと『ぼくの美しい人だから』100枚を書き上げ、推敲もしないで初めて「文学界」新人賞に送った。二次通過残留で、もう少ししっかりと推敲してから応募すべきだったと反省。「神戸新聞」の同人誌評でも作家の竹内和夫氏がピックアップしていた。

次に短篇『六甲山上ホテル』を同人誌に掲載したら、いまは廃刊したが「海燕」の同人誌評にピックアップされていた。

だがこれ以降、事情ができ、暫く執筆を断念。このときの一次通過者の中に第22回芥川賞受賞者、藤野千夜さんがいた。私が執筆しなかった時期に彼女は精進、受賞に結び付いた。これを知ったときも反省。

もう少しプロの文体を眺めておこう。

川端康成著『雪国』。川端作品は『雪国』と『川の音』が気に入っている。有名な冒頭の短い一段落目は書けそうでなかなか書けない、川端の心血が注がれている箇所。これに続く二段落、三段落、四段落で読者を寒い雪国に誘い込むテクニックは心憎いばかりのものがある。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」

明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」
「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も焚出しがいそがしかったよ。」
「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」
「いや。」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」
「まあ。いけませんわ。」
 和服に外套の駅長は寒い立話を切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
「それじゃまあ大事にいらっしゃい。」


鋭角的表現(11)

2007-02-10 03:57:54 | 表現・描写・形象
現役作家では谷崎饒舌文体と志賀堅調文体とではどちらが多いかというと圧倒的に志賀堅調文体が多い。読者に読みやすく、内容が一読で理解できるという点では志賀文体のほうがいい。学校の国語教師辺りも生徒の作文指導で「一文は短く」と指導しているのではないか。

社会派推理作家、松本清張作品と水上勉作品も愛読書であった。以下は松本清張の代表作『点と線』。この作品で推理小説界に「社会派」という金字塔を築き上げた先駆者である。書く物、書く物、爆発的に売れまくった作家だけに読みやすい文体を駆使した。冒頭から四段落目以降。

安田はここではいい客で通っていた。むろん、金の使い方はあらい。それは彼の「資本」であると自分でも言っていた。客はそういう計算に載る人びとばかりであった。もっとも、彼はどんなに女中たちと親しくなっても、あまり自分の招待した客の身分をもらしたことはなかった。

現に、去年の秋から某省を中心として不正事件が進行していた。それには多数の出入り商人がからんでいるといわれている。現在は省内の下部の方だが、春になればもっと上層へ波及するだろうと新聞は観測していた。

そういう際でもあった。安田はさらに客について用心深くなった。客によっては、七度も八度も同じ顔があった。女中たちはコーさんとか、ウーさんとか言っているが、素性は全然知らされなかった。が、安田の連れてくる客のほとんどが、役人であるらしいことは、女中たちは知っていた。

しかし、招待客はどうでもよい。金を使うのは安田であった。「小雪」は、彼を大事にしておけばよかった。

安田辰郎は、三十五六で、広い額と通った鼻筋をもっていた。色は少し黒いが、やさしい目と、描いたような濃い眉毛があった。人がらも商人らしく練れて、あっさりしている。女中たちには人気があった。しかし安田はそれに乗って、誰に野心があるというでもなさそうだった。彼は誰にたいしても、同じように愛想がよかった。


鋭角的表現(10)

2007-02-09 12:51:26 | 表現・描写・形象
英国から帰国してから四十代前半までに創作した作品群はわりと評価が高かったが、どの作品も創作中は気分が重たく苦しかった。余暇は温泉旅行、山登りでもして過ごしたいと思うものの創作から離れることはなかった。

将来作家になろうという気もあるようでないようであった。同人誌に掲載はするものの四十代を過ぎるまで一度も文藝各社の新人賞に原稿を送ったことがなかった。とにかく一作、一作胸にあるものを小説化しておきたいという思いに駆られていただけだ。

二人の娘を育て上げるという親としての任務もあった。男子であれば中学卒であろうと高校卒であろうと職業はなんでもいい、男としての器量で生きていけばいいと思うのであるが、父親バカというのか女子には大学まで進学させてやりたい、と世渡り下手な私としては、こちらにも気持ちを集中しなければならなかった。早く亡くなった父のご加護か長女は音楽大学、次女は外国語大学へと進学させることができた。二人とも中学一年生の夏に姉は三十日間かけての英国、フランス、スイス、イタリア研修旅行、妹は米国カルフォルニア、パサデナの医師宅に三十日間ホームスティさせた。二人とも自ら贅沢する娘たちではなかったが、女子教育には金をかけた。

男に頼らない女として生涯を生きて貰いたいという私の願いが籠められていたし、男として小学高学年から若い女性に惹かれることのない私だが、我が娘ともなると可愛いもので、ワイフに妬かれた。

二人とも都市部の女子高校の学寮に入れたので、四国遍路ではないが、高校進学先はそれぞれの娘と同行二人、学校のある現地に出掛けて周辺環境を調べたり、受験当日は私が付き添った。母親付き添いが大勢を占め身の置き処がなかったが、二人が嫁いでしまったいまとなれば懐かしい思い出だ。いつ死んでも人生悔い無しと思うのもこんなところから来ているのだろう。

こういうこともあり創作一本に集中はできなかったし、こんな鬱陶しいことは止めにしたいと何度も思うものの、私から創作をとったら何があるのかと考えると何もないことに気づくのだった。

書くことよりも読むほうがずっと愉しい。この時期に先に挙げた作家以外に三浦哲郎の『忍ぶ川』の美しさに感動した。私も一度はこのように美しい男女の姿を創作してみたいと思うようになった。

志乃をつれて、深川へいった。識りあって、まだまもないころのことである。

深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育った、いわば深川っ子を深川へ、去年の春、東北の片隅から東京へ出てきたばかりの私が、つれてゆくというのもおかしかったが、志乃は終戦の前年の夏、栃木へ疎開して、それきり、むかしの影もとどめぬまでに焼きはらわれたという深川の町を、いちども見ていなかったのにひきかえ、ぽっと出の私は、月に二、三度、多いときには日曜ごとに、深川をあるきまわるならわしで、私にとって深川は、毎日朝夕往復する学校までの道筋をのぞけば、東京じゅうでもっともなじみの街になっていた。

錦糸堀から深川を経て、東京駅へかよう電車が、洲崎の運河につきあたって直角に折れる曲り角、深川東陽公園前で電車をおりると、志乃は、あたりの空気を嗅ぐように、背のびして街をながめわたした。七月の、晴れて、あつい日だった。照りつけるつよい陽にあぶられて、バラック建てのひくい屋並をつらねた街々は、白い埃と陽炎をあげてくすぶっていた。
「あぁあ、すっかり変っちゃって。まるで、知らない町へきたみたい。おぼえているのは、あの学校だけですわ。」

志乃は、こころぼそげにそういって、通りのむこうの、焼けただれたコンクリートの肌を陽にさらしている三階建ての建物を指さしてみせた。志乃はその学校に、五年、かよった。
「大丈夫だよ。あるいているうちに、だんだんわかるさ。あんたが生まれた土地だもの。」

現実に志乃のような女に巡り逢うことはないだろうし、このような美しい男女になることも難しいだろうが、フィクションという小説世界では創造できる。いつかこうした作品を創作してみたいと秘かに思うようになった。直木賞作家の作品なども読むようになった。立原正秋の男女の愛を描いた作品群を多読した。以下は男女の愛とは趣がことなるが、立原正秋の『冬の旅』の冒頭である。

別れ霜

護送車の金網ごしに見える外界の新緑が眩しかった。外の景色を眺められるのはほぼ一か月ぶりだな、と宇野行助は移り行く風景を新鮮な思いで受けとめた。新緑にまじって家々の庭に赤い躑躅の花も咲いていた。それらの樹木に、早い午前の陽の光が砕け散っていた。白い壁の家も見えた。壁の白さが目にしみた。四週間を鉄格子のなかで暮してきた行助に、それらの風景は彩りがありすぎ、感動的ですらあった。
「ちえッ、娑婆では花が咲いてらあ」

と誰かが言った。護送車のなかには七人の少年がのっていた。
「ほんとだ。あかい花と白い花が咲いているぜ。とにかく外には色があるなあ」

と行助のとなりにいる少年が応じた。この少年の言葉はいくぶん詠嘆的で、金網ごしの外界にたいする羨望がこめられていたが、ちえッ、と軽くさけんだ少年の態度には反抗の響きがあった。

行助は仲間のやりとりをききながら、なぜ俺は少年院送りになったのか、と自分の内面を視つめていた。彼は、他の少年達のように詠嘆的にも反抗的にもなれなかった。「練鑑できいた話だが、俺達がこれから入る多摩少年院は、少年院のなかの学習院だとよ」

ちえッ、とさけんだ少年が言った。
「学習院とはわらわせるな」

外には色がある、と言った少年が答えた。
「おまえ、いやに大人ぶっているが、なにをやったんだ?」
「窃盗よ。おめえは?」
「俺は盗んだのさ」
「おたがいにたいしたことはしていねえな。奴はなにをやったのだろう。奴の方が俺より大人ぶっているぜ」
「きいてみろよ」
「おい、おまえ、なにをやったんだ?」
 外には色がある、と言った少年が行助の肩をたたいた。
「俺は人を刺した」
 行助は外を見たまま面倒くさそうに答えた。すると二人は一瞬だまりこんだ。


鋭角的表現(9)

2007-02-08 08:55:44 | 表現・描写・形象
結局、私の文体の特徴は何か。文体は変革されるものであるから規定はしたくない。が、志賀文体を土台にしつつも谷崎、大江文体の影響も受けており、妙に癖のある文体になったのではないかと想像している。この時期に井上靖の作品なども多読していた。『憂愁平野』、『しろばんば』は愛読書だった。以下は『あすなろ物語』の冒頭から四段目以降である。

その日、鮎太が学校から帰って来ると、屋敷と小川で境して、屋敷より一段高くなっている田圃の畔道を両肘を張るようにして、ハーモニカを吹いて歩いている一人の少女の姿が眼に入った。少女と言っても鮎太よりずっと年長である。

村では見掛けない娘であった。薄ら寒い春の風におかっぱの髪を背後に飛ばせ、背後で大きく結んでいる黄色い兵児帯の色が、鮎太の眼には印象的であった。

鮎太も畔道を歩いて来たが、その自分とはずっと年長の少女と正面からぶつかるのを避けて、畔道の途中から小川を越えて、土蔵の横手の屋敷内へと飛び降りた。

屋敷内へ飛び降りると、地面が低くなっているため、鮎太の視野から少女の姿は消えた。鮎太は教科書の入っている風呂敷包みを地面へ置くと、傍の柿の木に攀じ登ってみた。少女は相変らずハーモニカを吹きながら段々畠の畔道を歩いていた。

鮎太がその少女を見守っているうちに、彼女は次第にこちらに近寄って来たが、柿の木に登っている鮎太の姿を眼に留めると、視点を据えたような見入り方で、じいっと鮎太の方を見た。その黒い大きい眼が鮎太を驚かせた。一体この少女は何者だろうかと思った。

もしかしたら、冴子かも知れない、鮎太はふとそう思った。

ほかにこの時期に多読していた作家としては遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介であるが、ここでは吉行の名作『砂の上の植物群』の冒頭を挙げておく。見事な書き出しである。こういう文章は句読点を押さえながら朗読してみると良さが解る。と同時に小説創作を志している方々は自作を朗読してみると、いろいろと拙さが解るのではないか。



港の傍に、水に沿って細長い形に拡がっている公園がある。その公園の鉄製ベンチに腰をおろして、海を眺めている男があった。ベンチの横の地面に、矩形のトランクが置いてある。藍色に塗られてあるが金属製で、いかにも堅固にみえる。

夕暮すこし前の時刻で、太陽は光を弱め、光は白く澱んでいた。

その男は、一日の仕事に疲労した躯を、ベンチの上に載せている。電車に乗り、歩き、あるいはバスに乗り、その日一日よく動いた。靴の具合が悪くなり、足が痛い。最後に訪れた店がこの公園の近くで、その店で用事を済せると、男は公園にやってきた。男は、化粧品のセールスを仕事にしている。

彼の前にある海は、拡げた両手で抱え取れるくらいの大きさである。右手には、埠頭が大きく水に喰い込んで、海の拡がりを劃っている。埠頭の上には、四階建の倉庫があった。彼のトランクのような固い矩形の建物である。白いコンクリートの側面には、錆朱色に塗られた沢山の鉄の扉が、一定の間隔を置いて並んでいる。

左手には、長い桟橋がみえる。横腹をみせた貨物船が、二本の指でつまみ取れるほど小さく眼に入ってくる。貨物船は幾隻も並んで碇泊しているので、白い靄の中に重なり合った帆柱やクレーンが、工場地帯の煙突のようにみえる。

眼の前の海を、右から左までゆっくり眺め渡した彼は、視線を中央に戻した。そこには小さな貨物船が舫ってあり、正常な船の上側を匙ですくい取ったような形をしていた。そのすぐ傍に、さらに二まわりほど小さい貨物船があって、それは後肢をもぎ取られて地面に腹這っているバッタに似た形をしている。

彼は、その二隻の船を、しばらくのあいだ眺めていた。
「いま何かを思い出しかかっている」

それが何か、という答をすでに彼は意識の底で知っていた。しかし二隻の船の輪郭が眼の中で霞んでゆき、その替りに心に浮び上ってきたものがしだいに輪郭を整えてゆくのを、彼は待った。