*
陽射しは路上に二人の濃い影を短く映し、その影には一メートル程の長さの竹槍が握られていた。割った竹の先端に押し込んだ五寸釘を、銅線で固くぐるぐる巻きにしてあった。堤防の土手に向かって白く焼け付いた石段を上ると、河川敷の叢(くさむら)へ下り、雑草をゴム靴で踏み分け、二人の背丈を超す葦の生い茂る葦原に潜った。
壮平と豊は先日作っておいた獣道のような道から葦原に分け入った。
ひと一人分の幅だけ葦が踏みしだかれていたが、もう一度ゴム靴で強引に踏みつけ、弾力のある壁のように前方に立ちはだかっている葦に躯ごとぶつからなければ前進できなかった。葦原に潜り込むと、下ってきた堤防の土手や十三(じゅうそう)大橋、長柄橋(ながらばし)はまったく見えなくなり、葦の群生に視界は遮(さえぎ)られた。
夏の河川敷は湿度の高い息苦しい熱気が、粘着(ねばつ)いたように充満していた。二人はすぐに額や首筋に汗が噴き出し、不快を覚え、そのためか葦原に突進しているときは、重たい憂欝を背負った老人のような気分に陥った。寡黙になった。だが一方、これから始める蟹突きの快感に囚われてもいた。胸の裡にぞくぞくする気分が昂(たか)まっていた。
数え切れない大小の蟹が、葦原の底に蠢(うごめ)いていた。壮平はそれを目にすると顔色が青ざめる恐怖におののき、攻撃の気持が怯(ひる)みそうになるのだが、このことが逆に蟹への殺意を募らせた。親蟹とも思える握り拳ほどの蟹は、赤い二つの爪を立てて身構え、不貞不貞しく突起した二つの目玉で壮平と対峙した。すると壮平の胸に、この野郎という感情が沸騰し、片っ端から竹槍で甲羅を貫き通した。硬い甲羅を破り、突き抜けていくときの手応えは、掌から脳髄へと伝わり、壮平を酔わせた。
突き殺しても突き殺しても、葦の根元でざわざわと地を這い、出現してくる蟹の群れを追って、二人は異臭が鼻をつく葦原にどんどん迷い込んで行った。すぐに二人は離ればなれになった。油断していると豊の姿を見失い、「おるか!」と壮平は、心細げな頼りない大声を上げなければならなかった。
顔の汗を手の甲で拭うために火照った顔を上げると、豊は草いきれの中で、狂気を帯びた瞳を輝かせ、蟹をぶすぶすと突き刺していた。
「毎日殺しとるのに、こいつら減らへんな」と豊は抗議めいた口振りで言った。
「穴からなんぼでも湧いてくるのや」
どちらかが休もかと言わないかぎり、蟹を見つけては燃えるような情熱で、甲羅に五寸釘を突き立てた。
限られた視界の頭上の空が灰色に染まり始め、カラスの鳴き声が遠くに聞こえると、さすがに二人の殺意は減退し、どちらからともなく、もう帰ろかと誘った。ゴム靴は泥を被り、顔や頭髪に泥が跳ねていた。
思いがけないところまで脚を伸ばしていた。葦原から抜け出すと、目前に十三大橋に並んで架かっている阪急電車の巨大な鉄橋があった。蟹を突き殺す殺意に、鉄橋を渡る電車の轟音すら耳に届かなかった。
そこから空きっ腹の躯を抱え、くたくたに痺れた脚でアパートに戻るには、一時間以上もかかった。うっすらと紫紺混じりの夕空を眺めて歩いていると、壮平はこのまま何処か遠くに行ってしまいたい気持に襲われたが、行き先が浮かんでこなかった。
赤煉瓦造りの教会のある養護施設に戻る気持はなかった。明日学校に行けば、貴子を殴ったことで、クラスの女子に囃し立てられるだろう。担任に職員室に呼び出されるかもしれない。人の姿もない昏(くら)く淋しい土手道を、壮平は出口の塞がった胸を抱え、押し黙って歩いた。淀川の向こう側、梅田方面にネオンの明かりがぼちぼち点り始めた。
日頃、壮平の母親の帰宅は終電車の十二時前後だった。木造アパートの二階の六畳の北窓の下には、伊丹空港に通じる広い産業道路が延びていた。産業道路の向こう側に阪急電車の架線の柱が錆色に並んでいた。
入口近くの四畳半の部屋の真ん中に小さな膳が置かれ、壮平一人分の夕食のおかずが小皿に盛られ、布巾が被さっていた。時々おかずの代わりに母親の筆跡のメモ――ソーセージか天麩羅を買いなさい――と、五十円玉が載っていることもあった。
夕食を食べてしまうと、壮平は押入から枕を出してきて六畳の間に寝転び、駅前の貸本屋で借りてきた漫画雑誌を開いた。窓の外が暗くなっても布団を敷いて眠る気にはなれず、窓ぎわに勉強机の椅子を置き、所在なげな顔付きで夜景を眺めた。
沿線の向こう側に小さな繁華街があるので、いつの夜も空は死んだ魚の鱗のようにほの白く広がり、手前の道路沿いに並ぶ民家は、どの家も蝋燭の炎を灯しているような、頼りなげな寂しさに沈んでいた。物静かな、それでいてこの事自体が壮平の心を苛立たせる夜景の中を、十五分間隔程度に阪急電車が螢光色の帯となって流れた。
流れ去って行く電車の窓明かりを見つめていると、いつも無性に淋しくなった。昼間いくら蟹を突き殺しても、夜になると話し相手のいない物寂しい思いに変わりはなかった。安息感が部屋のどこにもなかった。大声で「お母ちゃん」と呼んでみたくなった。
柱時計の針が十一時を回ると、仕方なく布団を敷き横たわった。明りを消した部屋の天井に眼をやっていると、母親の帰りを待っている、いまの時刻と母親の帰ってくる時刻とが、直線の両端で向かい合い移動する点のように近寄ってくるのが感じられた。
終電車かその一つ前の電車で、母親は難波、宗右衛門町のダンスホールから地下鉄、阪急電車の乗り継ぎで、一時間かかるアパートに戻ってきた。アパートの潜り戸を開ける物音が聞こえると、壮平は枕元で読んでいた漫画雑誌を急いで閉じ、掛け布団に顔を埋めて狸寝入りをした。壮平は階段を上ってくる母親の足音に、布団の温りのなかで安堵した。
母親が駅前の銭湯に寄ったりすると、潜り戸を開ける音は十二時を回ってからでないと聞こえない。こんなとき壮平は、母親が戻って来ないのでないかと思い巡らせ、胸が張り裂けそうになり、動悸が急速に高まった。涙が目尻から自然と流れ、さらに気持が昂ぶると唇が震え、それを止めようとして掛け布団の端を噛んだ。
壮平が仏壇の父親の遺影を見つめるのはこんなときだった。急に布団から飛び出して、隣の部屋の仏壇に近付いた。見慣れている父親の写真がそこにあった。
――お父ちゃん、なんで死んだんや。兄ちゃん、姉ちゃん、なんで死んだんや。
仏壇には壮平の父親だけでなく、疎開先の父親の郷里で戦時中に病死した兄や姉、弟も祀(まつ)ってあった。壮平は五人きょうだいであったが、三人が先に亡くなり、末の妹は母親の郷里の叔父宅に預けられていた。
戻って来てからの母親の立てる物音、お茶漬けをかき込む、煙草を喫うときのマッチ、お金を数えながら家計簿に記帳している、これらの物音を聞きながら壮平はいつの間にか寝入るのだった。
母親がダンスホールの仕事を休んで、一日中家に居てくれるたまの土曜日は、学校の教室に居ても胸の中は平穏だった。正午で学校が退けると足早にアパートに向った。早く戻ったからといって母親にずっとくっついているわけではなかったが、母親と一緒に簡単な昼食を採っているときは、気持が和み、安心してご飯をほうばることができた。
陽射しは路上に二人の濃い影を短く映し、その影には一メートル程の長さの竹槍が握られていた。割った竹の先端に押し込んだ五寸釘を、銅線で固くぐるぐる巻きにしてあった。堤防の土手に向かって白く焼け付いた石段を上ると、河川敷の叢(くさむら)へ下り、雑草をゴム靴で踏み分け、二人の背丈を超す葦の生い茂る葦原に潜った。
壮平と豊は先日作っておいた獣道のような道から葦原に分け入った。
ひと一人分の幅だけ葦が踏みしだかれていたが、もう一度ゴム靴で強引に踏みつけ、弾力のある壁のように前方に立ちはだかっている葦に躯ごとぶつからなければ前進できなかった。葦原に潜り込むと、下ってきた堤防の土手や十三(じゅうそう)大橋、長柄橋(ながらばし)はまったく見えなくなり、葦の群生に視界は遮(さえぎ)られた。
夏の河川敷は湿度の高い息苦しい熱気が、粘着(ねばつ)いたように充満していた。二人はすぐに額や首筋に汗が噴き出し、不快を覚え、そのためか葦原に突進しているときは、重たい憂欝を背負った老人のような気分に陥った。寡黙になった。だが一方、これから始める蟹突きの快感に囚われてもいた。胸の裡にぞくぞくする気分が昂(たか)まっていた。
数え切れない大小の蟹が、葦原の底に蠢(うごめ)いていた。壮平はそれを目にすると顔色が青ざめる恐怖におののき、攻撃の気持が怯(ひる)みそうになるのだが、このことが逆に蟹への殺意を募らせた。親蟹とも思える握り拳ほどの蟹は、赤い二つの爪を立てて身構え、不貞不貞しく突起した二つの目玉で壮平と対峙した。すると壮平の胸に、この野郎という感情が沸騰し、片っ端から竹槍で甲羅を貫き通した。硬い甲羅を破り、突き抜けていくときの手応えは、掌から脳髄へと伝わり、壮平を酔わせた。
突き殺しても突き殺しても、葦の根元でざわざわと地を這い、出現してくる蟹の群れを追って、二人は異臭が鼻をつく葦原にどんどん迷い込んで行った。すぐに二人は離ればなれになった。油断していると豊の姿を見失い、「おるか!」と壮平は、心細げな頼りない大声を上げなければならなかった。
顔の汗を手の甲で拭うために火照った顔を上げると、豊は草いきれの中で、狂気を帯びた瞳を輝かせ、蟹をぶすぶすと突き刺していた。
「毎日殺しとるのに、こいつら減らへんな」と豊は抗議めいた口振りで言った。
「穴からなんぼでも湧いてくるのや」
どちらかが休もかと言わないかぎり、蟹を見つけては燃えるような情熱で、甲羅に五寸釘を突き立てた。
限られた視界の頭上の空が灰色に染まり始め、カラスの鳴き声が遠くに聞こえると、さすがに二人の殺意は減退し、どちらからともなく、もう帰ろかと誘った。ゴム靴は泥を被り、顔や頭髪に泥が跳ねていた。
思いがけないところまで脚を伸ばしていた。葦原から抜け出すと、目前に十三大橋に並んで架かっている阪急電車の巨大な鉄橋があった。蟹を突き殺す殺意に、鉄橋を渡る電車の轟音すら耳に届かなかった。
そこから空きっ腹の躯を抱え、くたくたに痺れた脚でアパートに戻るには、一時間以上もかかった。うっすらと紫紺混じりの夕空を眺めて歩いていると、壮平はこのまま何処か遠くに行ってしまいたい気持に襲われたが、行き先が浮かんでこなかった。
赤煉瓦造りの教会のある養護施設に戻る気持はなかった。明日学校に行けば、貴子を殴ったことで、クラスの女子に囃し立てられるだろう。担任に職員室に呼び出されるかもしれない。人の姿もない昏(くら)く淋しい土手道を、壮平は出口の塞がった胸を抱え、押し黙って歩いた。淀川の向こう側、梅田方面にネオンの明かりがぼちぼち点り始めた。
日頃、壮平の母親の帰宅は終電車の十二時前後だった。木造アパートの二階の六畳の北窓の下には、伊丹空港に通じる広い産業道路が延びていた。産業道路の向こう側に阪急電車の架線の柱が錆色に並んでいた。
入口近くの四畳半の部屋の真ん中に小さな膳が置かれ、壮平一人分の夕食のおかずが小皿に盛られ、布巾が被さっていた。時々おかずの代わりに母親の筆跡のメモ――ソーセージか天麩羅を買いなさい――と、五十円玉が載っていることもあった。
夕食を食べてしまうと、壮平は押入から枕を出してきて六畳の間に寝転び、駅前の貸本屋で借りてきた漫画雑誌を開いた。窓の外が暗くなっても布団を敷いて眠る気にはなれず、窓ぎわに勉強机の椅子を置き、所在なげな顔付きで夜景を眺めた。
沿線の向こう側に小さな繁華街があるので、いつの夜も空は死んだ魚の鱗のようにほの白く広がり、手前の道路沿いに並ぶ民家は、どの家も蝋燭の炎を灯しているような、頼りなげな寂しさに沈んでいた。物静かな、それでいてこの事自体が壮平の心を苛立たせる夜景の中を、十五分間隔程度に阪急電車が螢光色の帯となって流れた。
流れ去って行く電車の窓明かりを見つめていると、いつも無性に淋しくなった。昼間いくら蟹を突き殺しても、夜になると話し相手のいない物寂しい思いに変わりはなかった。安息感が部屋のどこにもなかった。大声で「お母ちゃん」と呼んでみたくなった。
柱時計の針が十一時を回ると、仕方なく布団を敷き横たわった。明りを消した部屋の天井に眼をやっていると、母親の帰りを待っている、いまの時刻と母親の帰ってくる時刻とが、直線の両端で向かい合い移動する点のように近寄ってくるのが感じられた。
終電車かその一つ前の電車で、母親は難波、宗右衛門町のダンスホールから地下鉄、阪急電車の乗り継ぎで、一時間かかるアパートに戻ってきた。アパートの潜り戸を開ける物音が聞こえると、壮平は枕元で読んでいた漫画雑誌を急いで閉じ、掛け布団に顔を埋めて狸寝入りをした。壮平は階段を上ってくる母親の足音に、布団の温りのなかで安堵した。
母親が駅前の銭湯に寄ったりすると、潜り戸を開ける音は十二時を回ってからでないと聞こえない。こんなとき壮平は、母親が戻って来ないのでないかと思い巡らせ、胸が張り裂けそうになり、動悸が急速に高まった。涙が目尻から自然と流れ、さらに気持が昂ぶると唇が震え、それを止めようとして掛け布団の端を噛んだ。
壮平が仏壇の父親の遺影を見つめるのはこんなときだった。急に布団から飛び出して、隣の部屋の仏壇に近付いた。見慣れている父親の写真がそこにあった。
――お父ちゃん、なんで死んだんや。兄ちゃん、姉ちゃん、なんで死んだんや。
仏壇には壮平の父親だけでなく、疎開先の父親の郷里で戦時中に病死した兄や姉、弟も祀(まつ)ってあった。壮平は五人きょうだいであったが、三人が先に亡くなり、末の妹は母親の郷里の叔父宅に預けられていた。
戻って来てからの母親の立てる物音、お茶漬けをかき込む、煙草を喫うときのマッチ、お金を数えながら家計簿に記帳している、これらの物音を聞きながら壮平はいつの間にか寝入るのだった。
母親がダンスホールの仕事を休んで、一日中家に居てくれるたまの土曜日は、学校の教室に居ても胸の中は平穏だった。正午で学校が退けると足早にアパートに向った。早く戻ったからといって母親にずっとくっついているわけではなかったが、母親と一緒に簡単な昼食を採っているときは、気持が和み、安心してご飯をほうばることができた。
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