喜多圭介のブログ

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淀川河川敷2

2008-09-30 19:19:47 | 淀川河川敷
     *


陽射しは路上に二人の濃い影を短く映し、その影には一メートル程の長さの竹槍が握られていた。割った竹の先端に押し込んだ五寸釘を、銅線で固くぐるぐる巻きにしてあった。堤防の土手に向かって白く焼け付いた石段を上ると、河川敷の叢(くさむら)へ下り、雑草をゴム靴で踏み分け、二人の背丈を超す葦の生い茂る葦原に潜った。

壮平と豊は先日作っておいた獣道のような道から葦原に分け入った。

ひと一人分の幅だけ葦が踏みしだかれていたが、もう一度ゴム靴で強引に踏みつけ、弾力のある壁のように前方に立ちはだかっている葦に躯ごとぶつからなければ前進できなかった。葦原に潜り込むと、下ってきた堤防の土手や十三(じゅうそう)大橋、長柄橋(ながらばし)はまったく見えなくなり、葦の群生に視界は遮(さえぎ)られた。

夏の河川敷は湿度の高い息苦しい熱気が、粘着(ねばつ)いたように充満していた。二人はすぐに額や首筋に汗が噴き出し、不快を覚え、そのためか葦原に突進しているときは、重たい憂欝を背負った老人のような気分に陥った。寡黙になった。だが一方、これから始める蟹突きの快感に囚われてもいた。胸の裡にぞくぞくする気分が昂(たか)まっていた。

数え切れない大小の蟹が、葦原の底に蠢(うごめ)いていた。壮平はそれを目にすると顔色が青ざめる恐怖におののき、攻撃の気持が怯(ひる)みそうになるのだが、このことが逆に蟹への殺意を募らせた。親蟹とも思える握り拳ほどの蟹は、赤い二つの爪を立てて身構え、不貞不貞しく突起した二つの目玉で壮平と対峙した。すると壮平の胸に、この野郎という感情が沸騰し、片っ端から竹槍で甲羅を貫き通した。硬い甲羅を破り、突き抜けていくときの手応えは、掌から脳髄へと伝わり、壮平を酔わせた。

突き殺しても突き殺しても、葦の根元でざわざわと地を這い、出現してくる蟹の群れを追って、二人は異臭が鼻をつく葦原にどんどん迷い込んで行った。すぐに二人は離ればなれになった。油断していると豊の姿を見失い、「おるか!」と壮平は、心細げな頼りない大声を上げなければならなかった。

顔の汗を手の甲で拭うために火照った顔を上げると、豊は草いきれの中で、狂気を帯びた瞳を輝かせ、蟹をぶすぶすと突き刺していた。
「毎日殺しとるのに、こいつら減らへんな」と豊は抗議めいた口振りで言った。
「穴からなんぼでも湧いてくるのや」

どちらかが休もかと言わないかぎり、蟹を見つけては燃えるような情熱で、甲羅に五寸釘を突き立てた。

限られた視界の頭上の空が灰色に染まり始め、カラスの鳴き声が遠くに聞こえると、さすがに二人の殺意は減退し、どちらからともなく、もう帰ろかと誘った。ゴム靴は泥を被り、顔や頭髪に泥が跳ねていた。

思いがけないところまで脚を伸ばしていた。葦原から抜け出すと、目前に十三大橋に並んで架かっている阪急電車の巨大な鉄橋があった。蟹を突き殺す殺意に、鉄橋を渡る電車の轟音すら耳に届かなかった。

そこから空きっ腹の躯を抱え、くたくたに痺れた脚でアパートに戻るには、一時間以上もかかった。うっすらと紫紺混じりの夕空を眺めて歩いていると、壮平はこのまま何処か遠くに行ってしまいたい気持に襲われたが、行き先が浮かんでこなかった。

赤煉瓦造りの教会のある養護施設に戻る気持はなかった。明日学校に行けば、貴子を殴ったことで、クラスの女子に囃し立てられるだろう。担任に職員室に呼び出されるかもしれない。人の姿もない昏(くら)く淋しい土手道を、壮平は出口の塞がった胸を抱え、押し黙って歩いた。淀川の向こう側、梅田方面にネオンの明かりがぼちぼち点り始めた。

日頃、壮平の母親の帰宅は終電車の十二時前後だった。木造アパートの二階の六畳の北窓の下には、伊丹空港に通じる広い産業道路が延びていた。産業道路の向こう側に阪急電車の架線の柱が錆色に並んでいた。

入口近くの四畳半の部屋の真ん中に小さな膳が置かれ、壮平一人分の夕食のおかずが小皿に盛られ、布巾が被さっていた。時々おかずの代わりに母親の筆跡のメモ――ソーセージか天麩羅を買いなさい――と、五十円玉が載っていることもあった。

夕食を食べてしまうと、壮平は押入から枕を出してきて六畳の間に寝転び、駅前の貸本屋で借りてきた漫画雑誌を開いた。窓の外が暗くなっても布団を敷いて眠る気にはなれず、窓ぎわに勉強机の椅子を置き、所在なげな顔付きで夜景を眺めた。

沿線の向こう側に小さな繁華街があるので、いつの夜も空は死んだ魚の鱗のようにほの白く広がり、手前の道路沿いに並ぶ民家は、どの家も蝋燭の炎を灯しているような、頼りなげな寂しさに沈んでいた。物静かな、それでいてこの事自体が壮平の心を苛立たせる夜景の中を、十五分間隔程度に阪急電車が螢光色の帯となって流れた。

流れ去って行く電車の窓明かりを見つめていると、いつも無性に淋しくなった。昼間いくら蟹を突き殺しても、夜になると話し相手のいない物寂しい思いに変わりはなかった。安息感が部屋のどこにもなかった。大声で「お母ちゃん」と呼んでみたくなった。

柱時計の針が十一時を回ると、仕方なく布団を敷き横たわった。明りを消した部屋の天井に眼をやっていると、母親の帰りを待っている、いまの時刻と母親の帰ってくる時刻とが、直線の両端で向かい合い移動する点のように近寄ってくるのが感じられた。

終電車かその一つ前の電車で、母親は難波、宗右衛門町のダンスホールから地下鉄、阪急電車の乗り継ぎで、一時間かかるアパートに戻ってきた。アパートの潜り戸を開ける物音が聞こえると、壮平は枕元で読んでいた漫画雑誌を急いで閉じ、掛け布団に顔を埋めて狸寝入りをした。壮平は階段を上ってくる母親の足音に、布団の温りのなかで安堵した。

母親が駅前の銭湯に寄ったりすると、潜り戸を開ける音は十二時を回ってからでないと聞こえない。こんなとき壮平は、母親が戻って来ないのでないかと思い巡らせ、胸が張り裂けそうになり、動悸が急速に高まった。涙が目尻から自然と流れ、さらに気持が昂ぶると唇が震え、それを止めようとして掛け布団の端を噛んだ。

壮平が仏壇の父親の遺影を見つめるのはこんなときだった。急に布団から飛び出して、隣の部屋の仏壇に近付いた。見慣れている父親の写真がそこにあった。

――お父ちゃん、なんで死んだんや。兄ちゃん、姉ちゃん、なんで死んだんや。

仏壇には壮平の父親だけでなく、疎開先の父親の郷里で戦時中に病死した兄や姉、弟も祀(まつ)ってあった。壮平は五人きょうだいであったが、三人が先に亡くなり、末の妹は母親の郷里の叔父宅に預けられていた。

戻って来てからの母親の立てる物音、お茶漬けをかき込む、煙草を喫うときのマッチ、お金を数えながら家計簿に記帳している、これらの物音を聞きながら壮平はいつの間にか寝入るのだった。

母親がダンスホールの仕事を休んで、一日中家に居てくれるたまの土曜日は、学校の教室に居ても胸の中は平穏だった。正午で学校が退けると足早にアパートに向った。早く戻ったからといって母親にずっとくっついているわけではなかったが、母親と一緒に簡単な昼食を採っているときは、気持が和み、安心してご飯をほうばることができた。
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淀川河川敷1

2008-09-30 14:24:13 | 淀川河川敷
葦は「悪し」に通じ、
   また「善し」とも呼ばれる。

     一


夏休み前から、壮平と豊の遊びは蟹突きであった。小学校から戻ってくると、ランドセルを六畳の間に放り投げ、階下の豊を誘って淀川の土手に向かった。貴子の頬に平手打ちを食らわせた右の掌が、まだじぃーんと熱っぽかった。むしゃくしゃした気分が納まっていなかった。
「壮平ちゃん、あいつら明日(あした)先生に言いつけるやろか」
「そんなん知らん」

壮平は水平に線を引いたように伸びている土手を見つめたまま、ぶっきらぼうに言った。
「壮平ちゃん、職員室に呼び出されるのと違う?」
「そんなんわかるか!」

壮平の声に怒気が含まれた。ずっと気に病んでいたことを豊に指摘されると、虫歯の神経に触れて飛び上がったときのように、自然と無性に腹が立った。

校庭を見下ろす窓ぎわの三列目の席には、壮平と副級長の大串貴子が横に並んでいた。貴子は医者の子供で、ほかの女の子に比べると、いつもお洒落な服装で登校していた。壮平は身綺麗で品のある顔立ちの貴子を仄かに好きであった。しかし貴子のこころの視野には壮平は存在しないらしく、授業と授業の合間の休憩時間はすぐに席を立って、後部席の仲の良いクラスメートと喋り合っていた。その中には坊ちゃん坊ちゃん然の男の子が二、三名は含まれていた。

一学期初めに養護施設から転校してきた壮平は、未だに教室の雰囲気に慣れなかった。六年生になるこれまでに小学校を四度転校していたので、友達を作ることができなかった。給食後の昼休み時間も級友に交わらずに独り、運動場端の鉄棒のところから男子のソフトボール、女子のドッヂボールをぼんやりと眺めていたり、松の木陰にしゃがみ込み、地面を忙しそうに動き回る蟻を一握りの石で潰したりして時間を過ごした。

給食時間のことだった。机の上の金属製の皿にはコロッケ一個と野菜サラダ、もう一つの皿にはさいころ型のパンが載っていた。深い器には粉ミルクが溶けていた。授業と違って、授業中は静かであった教室の空気が、パンを配ったりミルクをしゃもじで注いで回る四、五人の給食当番によって掻き乱され、生徒たちの話し声でざわついた。担任の先生と一緒の給食だった。俯き加減の姿勢で壮平は四角いパンの真ん中を指先でほじくり、口に放り込んでいた。黙りこくった壮平を貴子が、ちらちらと窺っているのを頬に熱く感じていた。いきなり貴子は声を張り上げた。
「みんな、大内くんがなんで喋れへんのか、理由知っているか」

壮平は名指しされて頭に血が上った。クラス全員の視線が自分に集中しているのを、火焔に焙(あぶ)られたように感じた。中年の女の担任は何事かと、教壇から離れた教務机から丸い顔を上げていた。
「わたし知ってるで。家でお母ちゃんに訊いてきてん。お母ちゃん言うてた、家で話し相手がないのやろと」

壮平は貴子のこの言葉に腸(はらわた)が煮えくり返った。自分の好きな貴子が、どうしてこんな腹の立つことを、いきなり大声で皆に話し出したのか、訳がわからなかった。白熱の太陽を直視したときのようにこころが灼け、一瞬、教室全体が白くなった。

壮平と貴子は帰り道が同じ方向にあった。同じ町内に壮平の住んでいるアパートと貴子の父親の個人病院があった。普段から人通りの少ない通りだった。

左右に住宅が並ぶ町の一角に、病院は家族の住宅と棟続きになっていた。入口に「内科・小児科」と黒ペンキで書かれた白い看板が出ていた。土曜、日曜日に壮平がこの前の道を通り過ぎようとすると、家族の住んでいそうな建物からピアノの音色が聞こえてくることがあった。否応なくそれを耳にすると、貴子を好きであったが、壮平はなぜか心中穏やかでない気分に襲われた。

貴子が友達と帰宅するまでには、車一台分幅の十字路が数ヵ所あった。この日、壮平は豊を誘って、十字路の一つで貴子たちの下校を待ち伏せた。前方の様子を窺っていた豊が、
「来たで。三人や。壮平ちゃん、あいつらどないすんのや」
「……」

豊に尋ねられてもなんのために貴子たちを待ち伏せているのか、不明瞭な、それでいて、胸の裡には火事場の跡の煙のように貴子への憎たらしさが燻(くすぶ)り続けていた。至近距離に近付いてきたのか、豊も急いで壮平の立っているコンクリートの万年塀に隠れた。明るい笑い声が壮平の耳に伝わった。壮平はその笑い声にかぁーとなって、三人の前に飛び出した。豊が続いた。
「なんやの、あんたら」

三人のうちの一人がびっくりして叫んだ。貴子は真ん中に立って、黒目がちな目を瞠り、壮平を冷たく見つめていた。壮平はいきなり貴子の白い頬を右手で思い切り一打ちすると、貴子の表情を確認しないで、先程まで隠れていた右側の万年塀に沿って息遣い荒々しく駆け出した。壮平と豊のランドセルが背中でガラガラと音立てた。
「あんたら、先生に言うたる」

誰の声がわからない憤激した声が、背後から追ってきたが、壮平は振り返らずに直射日光に漂白された、ちかちかと眼に眩しい路上を懸命に走った。壮平の右の掌がじんじんと焼けていた。走りながら壮平は、貴子に取り返しのつかないひどいことをしてしまったという悔いが、胸に拡がり、心臓が破裂寸前まで躍っていた。
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魔多羅神61――【完】

2008-09-30 12:57:37 | 魔多羅神

 年末に新潟県中越地震、スマトラ沖地震・津波と続き、そのうえ南インド旅行に出掛けた周平と両角慶子の安否が掴めない状況では、翔平夫婦と啓治夫婦、生方珠子にとって、正月の用意をして新年を祝う気分にはなれなかった。翔平はチェンナイの総領事館に何度も国際電話をかけたが、電話回線の寸断と混雑でなかなか繋がらなかった。総領事館のほうも日本からの被災者支援団体受け入れに繁忙をきわめ、二人の安否確認だけに奔走するわけにもいかなかった。
 翔平たちが後藤綾子に逢ったのは一月二十三日の日曜日だった。綾子がクアラルンプール経由で取りあえず帰国したのは、一月二十日だった。独身の彼女は大阪市内に両親と暮らしていた。
 待ち合わせたのは新神戸駅近くの、高層ホテルのレストランだった。一方がガラス張りで、そこから三宮の街並みと遠くに神戸港が一望できた。昼食を兼ねて、そこで初対面の綾子の話を聞く段取りで、翔平は妻の英恵と啓治夫婦、生方珠子を連れてきた。ウェイターが奥まった場所の、朱塗りの円形テーブルに案内した。
 約束の十一時半に後藤綾子が姿を見せた。ウェイターに案内されてテーブルに近付いてきた。赤いセーターに光沢を抑えたキルティングコートを重ね着し、グレーのパンツの、見るからに颯爽とした女性だった。翔平は三十代だろうと思った。
「帰国まもなくでお疲れのところ、申し訳ありません」
 と、翔平は椅子にゆっくりと腰を下ろした綾子に言った。
「お役に立てるかどうか……」
 綾子はやや緊張した面持ちだった。
 翔平だけでなく、英恵、啓治、佐代子、生方珠子も緊張した顔付きで、綾子を待ち構えていた。
「兄の顔を最後に見たのは、どうもあなた一人のようですので、そのときの話だけでも聞かせて貰えば、手掛かりが得られるかと思いまして」
「何処で父を見られたのですか」
 啓治が単刀直入な態度でたずねた。
「ウータカマンド、コーティとも呼んでいますが、そこにあるホテルのレストランです」
「三十一日とか聞いてますが」
 と、啓治は言葉を重ねた。
「そうです。私、そのホテルに三十一日から三日まで滞在していました。四日からはケララ州のコーチン、ゴア、ムンバイと廻って、ムンバイからクアラルンプール経由で帰国しました」
「NGOのお仕事をされているとか」
 翔平が言葉を挟んだ。
「はい。インドの女性、とくに農村部の女性の暮らしを女性差別の観点から調査しています」物静かな、それでいて淀みのない口調だった。
「兄はどんな様子でしたか」
「いかにも日本人という印象でしたので、失礼とは思いながら、ちらちらと眼が行きまして……お元気なご様子でした」
「日本の女性と一緒だったと思いますが」
「いえ、日本の女性でなくインド人女性二人とでした」
「インド人女性……」
「どんな女性の人たち?」
 英恵が訊ねた。
「普通の感じの……一人は四十代、一人は二十代の印象でした。私のほうに背中を向けられていましたので、はっきりとは」
「ホントに日本の女性はいませんでした?」
 佐代子が身を乗り出して念を押した。
「いえ、インドの女性二人だけでした」
「ふぅーん、父は二人のインド人とどうやって知り合ったのかなぁ」
「さぁ?」
「三十一日に逢っておられるので、兄たちは津波に巻き込まれたとは考えられないのだが、安否がずっとわからない」
「ご心配ですね。私のほうもずっと東海岸沿いの村々を廻っていましたので、今回の津波被害についてはそんなに詳しくはないのです」
「東海岸のほうは?」
「これといったひどい影響はありませんでした。東は椰子が密生しているところが多いですし、西海岸と違って、一気に津波に浚われにくい地形ですので」
「私たちは兄たちは犯罪に巻き込まれたのではないかと考えてます」
「犯罪に?」
 綾子は訝しげな眼差しを翔平に向けた。
「実は兄の銀行口座から多額の預金が引き出されており、どうも犯罪に巻き込まれた疑いがあるのです」
「え! そうだったのですか」
 綾子は眼を丸くした。
「インド旅行で何百万といったお金が必要とは思われませんので」
「全然要りませんよ、物価も低いのに」
 綾子はとんでもないといった口吻だった。
「昨年の二十七日帰国予定でした。それが何の連絡もないまま……」
「そうでしたか……私がその二人のインド人女性の顔写真でも撮っておれば」
「探偵でないからなァ」
 啓治が呟いた。
「三十万近い被害者のなかには行方不明者も多いですね。それに親をなくした子供、とくに少女の人身売買が心配です」
「津波被害のどさくさに犯罪もあるかもしれない」
「それも心配です。すでに津波避難所で女性へのレイプやセクハラがあるようです。どさくさだけにお手上げの状況のようです。戦争と同じ、女・子供に……」
「殺して海に投げ込んでおかれたら津波被害者になりますから。どさくさだけに殺人への疑惑など考えもしないでしょ」
 啓治はむっとした口振りだった。
「現地人の外国人への犯罪は、国際的支援ムードのなかでは表向きにしずらいだろな」
 と、翔平が言った
「もしかしたら二十代の女性のほうはコーティ在住かも」
「それホントですか!」
 啓治は身を乗り出し気味になった。
「同じ年頃のウェイトレスと親しそうに話してましたから。地元でないにしても、何度かそのホテルに出入りしている雰囲気でした……たしかウェイトレスがアミーシャと呼んでました」
「叔父さん、手掛かりが掴めるかも」
 啓治はその名前を手帳に記入しながら翔平に言った。
「うん、そのウェイトレスに逢えばな」
「行きましょう。総領事館から地元の警察への協力依頼を出して貰い、係員に同行して貰ってコーティに行けば、きっと何かが掴める筈です」
 生方珠子は佐代子の頭越しに、ガラス窓に向かい合う場所に座っていた。会話を聞きながら青空に浮かぶ綿菓子のような白雲を、珠子の視線はぼんやりと追っていた。しかし頭の中はとりとめもなく何かを、ずっと考え込んでいた。
 白狐は何処に行ったのか? 呪的パワーを持つ白狐が、犯罪に巻き込まれることはあり得ない。逆にそういった連中を殺し、周平院長を助け、何処かに姿をくらましているのではないか。それは何処だろう? あるいはとっくに帰国して、両角慶子の姿のまま、周平院長と暮らしているのではないか、と思い巡らせていた。
 するとそのとき、焦点を喪っていた、小さな眼に黒い物体が映った。
 ――あれは?
 珠子の視線の先の大空に、ライトグレーの靄を素材にして形を成したような、不可思議なものが、みるみると自分のほうに向かってくるのだった。
 ――あ、あ、あ、あれ!
 珠子は息を呑んだ。
 珠子が若い頃に東京国立博物館で観た、托枳尼天像がゆっくりと近付いてくるのだった。見つめている珠子の胸は、爆発しそうだった。椅子から転げ落ちそうになった。托枳尼の背に跨っているのは、無邪気な笑顔の、それでいてどこか勇ましい姿の周平院長だった。
 周平院長は大きな口を開け、右手で東の方向を指し、叫んでいた。
 ――え! 何? ……ふ・じ・さ・ん……富士山。

     *

 数日後、インターポールの事務総局に派遣されている警察庁職員が、コーチンで宮本を見かけた女性、後藤綾子に面会したことを付記しておく。
                                    【完】



参考文献
真鍋俊照著『邪教・立川流』(ちくま学芸文庫)
中沢新一著『精霊の王』(講談社)
藤巻一保著『日本秘教全書』(学習研究社刊)
森本達雄著『ヒンドゥー教』(中公新書)
笹間良彦著『怪異・きつね百物語』(雄山閣)


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魔多羅神60

2008-09-29 20:33:58 | 魔多羅神

「慶子はカジュラホに着いたのか」
「とっくに着いている。だけど総裁に逢えなかった。宮本と一緒でなければ面会しないようだ」
「金を見せないと駄目ということだろう」
「本部は様々な事業を世界中で行っている。私のような五芒星人とは別に評議員が五十名ほどいる。彼らは秘術の修行はしないが、財政面で寄与している。ビッグな企業のオーナーたちだ」
「一億円くらい寄付しているのか」
「そうだと想像するが、彼らへの見返りも大きい」
「どんな見返りが」
「私やチューリヤーの秘術を企業の発展に活用できるメリットは大きい」
「そういうことか」
「ぐっすり眠ったので顔色が良くなっている。夕食後マリーナ・ビーチに出掛けてみない?」
「そうだな。チェンナイで過ごすのも今夜だけか……ぜひ行ってみたい」
 宮本の頭に、日本からインドに飛んで来て慶子と最初に過ごした、マリーナ・ビーチの景色が展がっていた。
 ――早く慶子に逢いたい。
 その思いに胸が熱くなった。
「どんな風に変わってしまったのか」
「昼間見てきたら、おおかた片付いていたけれど、砂浜が汚れていた」
「遺体は?」
「軍のトラックが遺体処理施設に運んで、身元確認の歯形などを確認したあと、どこか違う場所に穴を掘って埋めたようだ。腐敗が早く進んでいたらしい。伝染病の蔓延を防ぐ処置」
「全然知らなかったなぁ……そんなことが起こっていたとは」
 ウルミラはチェンナイの知人から、手回しよく車を借りてきた。
「夜は危険だから歩けない」
 車を運転しながら言った。
 すぐに夜のマリーナ・ビーチに沿うところに着いた。あの巨大な町が総なめになって跡形もなかった。ところどころ道路沿いの高い椰子の木が、黒い海月のように宙に浮かんでいるだけだった。
「これはひどい……ぼくは東京大空襲も大阪の空襲も知らないが、それに広島、長崎の原爆被害も知らないが、まるで焼け跡のようだ」
 宮本の頭脳は薬で冒されていたが、この有様を見渡すと、以前写真集で見た日本の焼け跡を思い出した。人々の暮らしが掻き消えるとは、こういうことなのか、と覚った。
「南はひどい。昼間この車で見てきたわ」
「そう」
 車から外に出たが、暗かったので砂浜には向かわなかった。慶子と来たときは、夜でもインド人家族や観光客が大勢騒いでいたし、屋台の明かりも点いていたが、いまは一切が消えて、軍の兵士や沿岸警備隊だろう、歩哨のように動き回ったり、何か作業をしていた。夜になって厚い雲が空を覆っているのか月明かりがなくて、海は暗かった。
「もう少し南に走るわ」
「ああ」
 ゆっくりと暗い海岸沿いを眺めながら走った。海岸に小舟の残骸の黒い影がいくつも見られた。南に行くほど道路脇の電柱が傾き、家屋の倒壊は海岸だけでなく、道路の反対側にまでひろがっていた。
「海岸から一キロ以内の人たちがいちばん被害を受けたようよ」
「奥まで波が来たんだな」
「この辺りは貧しい猟師が暮らしていたところ。生き残った人たちは奥地に避難していて、また津波に襲われると思って、怖がってるそうよ。もう漁師に戻らない」
「日本と違って地震即津波なんて考えないからな」
「この辺の海岸はマリーナ・ビーチと違ってあちこちに窪地がある。逃げまどって窪地に転げ落ちたところに津波がきて、そのまま砂に生き埋めになったひともいる。サリーが木の枝に引っ掛かって転んだところに波がきて死んでしまったひとも」
 ウルミラは車を停めた。
「ちょっと下りてみない。ここは小さい砂浜で椰子の木があるだけで、人家はなかったところ」
 二人は外に出て、海岸に近付いた。五百メートルほどの間隔で、両側に岩礁が小さな岬のように海に突き出てた。湾曲の砂浜のようだった。
「ここなら死体はないわよ。歩いてみない?」
「暗くて転ばないか」
「大丈夫よ」
 宮本は砂浜に入る前に道路の反対側、五十メートルほど先にトラックのような影があるのを眼に留めたが、津波で使い物にならなくなったのだろうと思い、特別な注意を払わず、物怖じしないで先に歩いて行くウルミラの後ろを追った。波打ち際まで百メートルほどの小さな砂浜だった。波打ち際に近付くにしたがって、潮騒が不気味なほど荒い音で騒いでいた。
「この波が大勢の人たちを呑み込んだのだわ」ウルミラはその場に屈み、片手で海水を掬った。
 宮本はこの女にしては感傷的な行為をするものだと、奇妙な気がした。ウルミラとも何度かセックスに耽ったが、彼女の氏素性は慶子がイギリス生まれと教えてくれただけで、何も知らなかった。
 インドばかりでなく、東南アジアの国々はまだまだ貧困である。貧困のしわ寄せは女、子供に押し付けられる。その分、子供の頃から不幸を背負う。いまだに人身売買も行われている。ウルミラはイギリス生まれであってもインドとの関わりからは逃れられないだろう。この女も不幸を背負っているのかもしれない、と後ろ姿の影を見つめながら、ぼんやりと考えていた。
 佇んでいる宮本の背後に、姿勢を低くして忍び寄る影があった。宮本はそれにまったく気付かなかった。突然、宮本の眼に一瞬閃光が走った。頭部に強烈なきな臭い衝撃を感じたと思ったら、そのまま遠くに旅立つように意識を喪い、インドの砂地にゆっくりと頽れた。
 ウルミラが立ち上がって振り返ったとき、そこに二人の男の影が立っていた。
 無言で、宮本の体を、頭のほうと脚のほうに分かれて持ち上げると、一方の岩礁の近くまで運んで行った。そこには一メートルほどの深さの細長い穴が掘られてあった。底に両角慶子の死体があった。男たちは一度宮本の体を砂地に横たえた。着用している服から持ち物を探った。手に当たった物を数メートル離れたところに黙然と立っている、ウルミラに手渡した。それから二人は肩と脚を掴むと宮本の体を持ち上げ、一度左右に振ると、うっと呻いて、手を離した。宮本の体は、両角慶子の死体の上に、どさっと音立てて被さった。
 二人は背後に用意していた二本のスコップで、掘り上げてあった砂の山を手際よく埋め戻していった。
 すべての行動が影絵の無言劇だった。


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魔多羅神59

2008-09-29 18:51:52 | 魔多羅神
 十章 托枳尼に跨って


 翌日一月二日の夕刻近い時間に、宮本とウルミラを乗せた山岳列車は、乗換駅のメットゥパラヤムに向かって高原を下っていた。空模様は昨日の晴天とはがらりと変わって、鉛色の厚い雲が空全体を被うように群がり、谷間からは靄が立ち昇り、高原は冷たい雨に煙っていた。雨滴が山岳列車の窓を濡らした。
 宮本は陰鬱な風景に眼をやり、数日間慶子と過ごしたウーティに無言の別れを告げていた。かたわらに慶子がいないことが、こんなにも淋しとは……。まさかこんな形で、おそらくもう二度と訪れることのない、ウーティを去るとは考えてもいなかった。胸壁が拭いようのない悲しみで濡れていた。
 ――托枳尼でも白狐でもいいのだ。慶子がぼくのすべてなのだ。
 車中でウルミラは、宮本、チェンナイはあなたが以前訪れたチェンナイとは様子が変わった、と言った。
「どうなったのだ?」
「昨年の二十六日にインドネシアのスマトラ沖で大地震が起こった。そして大津波がインド西海岸を襲った。インドネシア、スリランカ、インド、そのほかの国々含めて十七万人が死んだ。死者はまだまだ増える」
 弛緩していた頭脳であったが、宮本は驚いた顔になった。
「そんなに死んだのか」
「海沿いの街や村が破壊された」
「チェンナイもか」
「海岸沿いの低い土地は破壊された。だが街は破壊されていない」
「……」
 二人が山岳列車に乗った八時間前、保養所から一台の小型トラックが、荷台に棺のような恰好の木箱を積んで、ウーティの街並みを抜けてメットゥパラヤムに向かった。運転しているのは管理人の夫のほうで、助手席にチューリヤー・ワーレーが硬い表情で乗っていた。二人はインド陸軍の兵士の服装だった。
 万が一のことを考えて、木箱には大量の椰子の葉が山のように被せてあった。箱の中の麻袋には、傷み始めた両角慶子の死体が収納されていた。十数時間のドライブでチェンナイまで運ぶのだった。
 宮本とウルミラがチェンナイに到着したのは翌朝だった。太陽が眩しく照り、湿度の高い日本の夏の気温を思わせる暑さだった。暖炉の要る国から冷房の要る国に戻った気分で、宮本の体と頭脳は不快な疲労に鞭打たれ、今にも倒れそうだった。
 駅構内には巡査ばかりでなく、陸軍兵士まであちこちに立ち、駅の混雑は異様な雰囲気だった。どの顔も額の皺を深く刻み、悲愴な面持ちで目を血走らせ、昂奮していた。津波に襲われてから一週間経っていたが、チェンナイの人々の眼差しは虚ろで何かに脅え、浮き足立っていた。
 だが街の様子はそんなに混乱している風でもなく、兵士を満載したトラックが何台も往来しており、その排気ガスが路上に充満していた。タクシー、オートリキシャ、オートバイも初めて来たときよりは少なかったが走っていた。
 ウルミラが予約しておいた、丘のホテルにタクシーを走らせた。そのホテルの一室は、国際本部が年間契約で借り切っているらしかった。
「海に津波があること、学校で習わなかったよ」
 中年のインド人運転手が大仰な声を上げた。
「どうなったの?」
「無茶苦茶だ。マリーナ・ビーチの店やひとが持って行かれたよ。そしたら死体が散乱してたよ」
「ひどかった?」
「ああひどかった。街の中も車のタイヤが半分泥混じりの海水に浸かった。今は落ち着いてきた。だけど海岸沿いはひどい、駄目だよ。まだ海から死体が上がるよ」
 運転手は嘆息した。
「魚に食われてしまうのもあるわね」
「ああ魚の餌に。ワシの車はちょうどそのとき、高台のほうを走っていてセーフだったけど、車ごと海に浚われた奴がいるよ。インドでタミール・ナドゥ州は最大の被害だったよ。南に行くほどひどい。七千人以上死んだ。まだ見つかっていないのもいる。臭くって近付けない。海軍や沿岸警備隊が来て探してる。生き残った連中は海岸から十五キロ先の森に逃げたから、もう海岸には戻って来ない」
 ホテルに着いた。各国からの被害者支援団体のメンバーたちで、ロビーは混雑していた。その様子に宮本は緊張と不安の顔つきだった。宮本の顔はここ数日間で本人は気付いていなかったが、眼は落ち込んで力無く、頬は痩(こ)けていた。
 二人はすぐに部屋に入った。
「明日カジュラホに行かなければならない。だから今日中に三百万円、米ドルで用意しなければ。休憩したら昼から銀行に行ったほうがいい」
「わかった」
「シャワー浴びると気持ちよくなる」
「浴びる」
 宮本は昨日からしだいに口数が減った。薬の後遺症で判断力が低下していた。倦怠感と軽度の欝症状が見られた。シャワーだけ浴び、レストランでミルクティーだけ飲むと、タクシーでもう一度中心街に下りていった。
 銀行ではウルミラがキャッシュカードの使い方を説明してくれた。宮本は手帳にメモしてある暗証番号を打ち込み、米ドルで三百万を引き出した。ウルミラが用意していた牛革のボストンバッグに、それを詰めて、ホテルに戻って来た。
 宮本はくたくただった。
「しばらく眠ったほうがいい。私はもう一度街に行って来る」
 と、ウルミラは言うと、これは私が使っている催眠剤、と白い錠剤を一粒、宮本の手に載せた。
 ミネラルウォータと一緒に白い錠剤を飲み込むと、ベッドに横たわった。疲労感で体がぼろ雑巾のようになっていた。眼が不機嫌になるほど疲れていたが、頭脳は始終昂ぶった状態で眠ろうとしても眠れなかった。だがしばらくすると薬が効いてきて、宮本は眠りに落ちた。
 宮本は四時頃、ウルミラに肩を揺さぶられて眼を開けた。
 眼前に素っ裸のウルミラが立っていた。それを見ると宮本の思考よりも先に魔多羅神が、さあこれから四十二キロのフルマラソンだ、といった風な意気込みで奮い立った。それから一時間、宮本は何がなにやらわからないまま、ウルミラのリードで奔放なセックスに耽った。その恰好はまるで雌豹の口に急所を喰わえられ、振り回されている絶命寸前の子鹿のようだった。そして今度は二人とも同時に即身成仏したのだった。宮本にとっては、これが現世での最後のセックスになってしまった。
 熟睡と夕食前のセックスで、宮本は久し振りに空腹を覚えた。レストランではヒヨコ豆のカレー、マトンのカバブ・ジィラ風料理とインド独特のサラダであるじゃがいものライタ、ピーナッツご飯、あとはボルドー産フランスワインをワンボトル、オーダーした。これもまた宮本にとっては、この世での最後の晩餐であった。
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魔多羅神57

2008-09-29 14:21:55 | 魔多羅神
 翌朝になると管理人の娘アミーシャが、部屋に宮本の朝食を運んできた。赤いラズベリー色のパンジャビ・ドレスに、首にスカーフを巻いていた。
「ありがとう、アミーシャ。宮本、昨夜は何も食べてない。食べなさい」
 ウルミラはブラウスとスカートの上に、オレンジ色のサリーを巻きながら言った。
 宮本はそれを珍しい物でも眺める眼でぼんやりと見ていたが、頷いた。なぜ部屋で朝食をという疑問が浮かばなかった。アミーシャに視線を移した。なぜこの娘がここにやって来たのか、不思議な気分であったが、そのことも訊ねる意志が消失していた。
 精神科医である宮本は、慶子が白狐の化身であることを天井孔から目撃して以来、精神的ショックで、自分の精神に異常を来していることを漠然と意識し、正常な精神に復帰しなければならないと感じていた。だが立ち直ろうという気力がなかった。
 昨夜のウルミラとのセックスはひどかった。慶子との秘儀は事後に精気が充溢したが、ウルミラとのセックスでは精気を吸い取られた。
 それというのも慶子との秘儀ではいつも即身成仏していたが、ウルミラとではどちらも死にきれないのであった。仏になるための五階段の証金剛身辺りに留まり、仏身円満の境地に至らなかった。お互いに焦燥感が募り、やたら貪り合った結果、疲労だけが残った。インド女に慣れていないことに、原因があるかもしれないと考えてもみた。
「あとは頼んだわ」
 とウルミラはアミーシャに言うと、宮本を見て、夕刻に来るわ、と目配せするように告げ、片手を振って部屋を出てしまった。
「彼女戻ってくるかい?」
「ええ、ウルミラは国際本部の仕事をしなければならない。それが終わると来る」
「それまでアミーシャが居てくれるんだね」
「イエス、不満?」
 アミーシャはちょっと窺う眼になった。
「満足。それより慶子のこと、知らないか」
「元気。もしかしたらチューリヤーとカジュラホに行くかも」
「なぜ二人で?」
「慶子は宮本を日本のリーダーにしたがってる。総裁に頼みに行くのじゃない」
「慶子がそんなことを……」
「宮本も明日はウルミラと一緒にチェンナイに行き、そこからカジュラホに行く。だから私とはきょうでグッバイ」
「そう……アミーシャにも世話になった。ありがとう」
「チャイを貰ってくるよ」
 アミーシャは宮本にウィンクした。
 アミーシャが部屋を出て行くと、可愛い娘だ、と思い、宮本の気持ちが和んだ。
 ――リーダーになるのは案外早いかもしれないな。五芒星人になるための五段階の修行はぼちぼちとやり、別な面、財政面で国際本部に寄与すればなれるという道があるのではないかな。それまではチューリヤーが言っていたように、五芒星人としてウルミラを修行者の導師ということにしておけばいい。組織としてはぼくが総裁で慶子が副総裁ということになる。
 宮本は朦朧とした頭脳でこれだけのことを整理した。
 アミーシャがチャイのポットなど飲み物と菓子の一式をトレーにのせて運んできた。二人は紫煙に煙ったような山並みの眺望できる窓辺のソファに腰を下ろした。これまでの宮本は、若い娘と向かい合ったりすると、なぜか羞恥の感情を覚えるほうだったが、いまはそういったナイーブなものを喪っていた。
「宮本の仕事は何?」
「ドクター」
「わぁドクター! 素敵。私、日本に行ってみたいわ。ウーティは退屈よ。チェンナイに遊びに行くのも遠い」
「若いアミーシャだとそうだろう。この町は刺激がない」
「そうなのよ。シャワー使ってもいい。出しなにシャワー浴びる時間がなかったの」
「どうぞ」
「チャイ、沢山飲んで。喉渇くでしょ」
「高原はね」
 アミーシャはチャイは飲まずに、ボール状に丸めたラス・グッラという菓子を一個、口に放り込むとシャワー室に入った。
 宮本は外の景色を見ながら、チャイをゆっくりと飲んだ。慶子のことをひとときでも忘れることができた。もう長い時間逢っていない。そのことを思うと切なくなり、両眼が熱く潤んでくるのだった。そのうちまた逢えるのだ、と思うことにした。
 チャイを飲んでいると、なぜか高揚感と多幸感、自信といった気分が昂まってくるから不思議だ。すると慶子への心配が頭脳から拭われて楽になった。チャイには抗鬱剤の成分のようなものが含まれているのかもしれないと思った。
 だが真実はそうでなかった。チューリヤー・ワーレーの指示で、ウルミラとアミーシャは、昨夜からチャイやカレー料理に微量の大麻樹脂の粉末を混入して、宮本の思考を混乱させ、軽い幻覚を伴うようにしておいた。いまもアミーシャはチャイにそれを混入したのだった。
 オウム真理教はサリンという有毒ガスを密かに製造したが、五芒星国際本部も生半可な組織ではなかった。この組織の薬剤部は覚せい剤、マリファナ・大麻、LSD、ヘロイン、コカインを研究、製造していた。インド・チベットの山岳地帯に大麻栽培の土地を所有していた。単にこうした既存薬物を作るだけではなく、もっと進化した用途別薬物、たとえば慈善・博愛精神を高揚させるものとか、自分は虎であるといった妄想。幻覚・幻聴にしても恣意的なものではなく、白狐の姿と鳴き声だけ、狸の姿と鳴き声だけの幻覚・幻聴、限られた幻覚・幻聴操作を、可能にする研究が実現段階に来ていた。
 大がかりなものとしては電子部による、コンピューター開発・技術の蓄積であった。日本人だけが優秀な分野ではない。インド・中国・韓国にも金と時間を湯水のように使わせると、先端技術を開発する優れた若手が存在している。五芒星はすでに厚さ3ミリ以下の画面フィルム、あの電子新聞やポスター状のディスプレーなどに利用可能なものを製造していた。
 あのとき天井の孔から宮本が覗いた白狐というのは、あの孔にこのディスプレーと広角レンズフィルムが二重構造で嵌め込まれていたのだった。それに室内と白狐を映し出すように仕組まれていたのだった。
 エクスタシーに達したとき、二人の体から蒼白い光芒を放った仕掛けも簡単なものだった。チューリヤーが逝きそうになったとき、まったく逝く気分になっていなかったウルミラが、うんざりした気分で、枕元の噴霧器をプッシュしたのだった。そこからは蛍光塗料の原料に類似したものが噴霧し、体に附着したところが、体温によって蒼白い光を放つようになっていた。
 十五分ほど経つとアミーシャは、水色のバスローブに若々しいピンク色の体を隠し、宮本の眼前に、挑発するように誘惑する眼差しで立った。バスローブで隠していても、アミーシャの豊熟した乳房は一目瞭然だった。すると魔多羅神は、昨夜ウルミラと疲労困憊するほどの戦いを繰り広げたにも拘わらず、連鎖反応してしまうのだった。これも大麻樹脂の作用であった。それにこの部屋で若い娘と二人では、セックス以外に時間の潰しようがなかった。
 アミーシャの体は、太陽の恵みをいっぱい吸収して弾きれんばかりに豊熟した、あの硬い林檎だった。信州か青森県産林檎、いやここはインドだからインド林檎でもいいと思いながら、宮本はアミーシャの肉体を噛みしめた。ひと噛みするごとに甘酸っぱいジューシィな味覚が芳香と喘ぎ声を伴って、頭脳にひろがった。焦ってはいけない、ゆっくりと。どのみちアミーシャとはもうすぐ別れなければならない。未練の残らないように堪能しなければならない。
 その通りになった。ウルミラが午後五時にホテルに宮本の荷物を運んでくると、アミーシャは顔に浮かんでいたもの悲しい憂いを、快活な笑顔に変化させ、宮本にバイと言って片手を上げ、勢いよく部屋を出て行った。
 ――一期一会、もう再会することはないだろう。
 宮本は少し感傷的になった。
「明日の列車でチェンナイに行きます。チューリヤーと慶子は今日発ったわ」
「慶子がチェンナイに……」
 宮本の瞼の裏に慶子と過ごした、マリーナ・ビーチの風景が浮かんだ。
 若々しいアミーシャとのセックスもよかったが、宮本は幸せでなかった。幸せは慶子と過ごした時間の中にしか見出せなかった。高野山の霊宝館で言葉を交わしてから今日までの、数々の思い出の中にしかなかった。そのひととき、ひとときが秋の廻り灯籠の影絵のようによぎった。宮本の眼差しは悲哀をたたえた。
 ――ああ慶子と死ねばよかった。死ねば離れなくてすむのだ。そして二人一緒に生き返ることが出来たのに……。
「宮本、そんな哀しい顔をしないで。慶子とは本部で逢えるのよ」
「ソリー。そうだった」
 宮本はウルミラに弱々しい笑みを浮かべた。
「アミーシャはよかった」
「よかったよ」
「今夜私がもっとよくするわ」
 ウルミラは濃く眉を描いた両眼を、かっと見開いた。それは嫉妬に燃えた瞳だった。
 するとインド女の妖しい悩殺ムードが部屋に濃密になり、またも満足を知らない魔多羅神は、その空気に反応した。
 夜、果てしない熱闘を終えたあと、ウルミラは次のように話した。
「宮本はチェンナイの銀行で日本円で三百万の金額を引き出すことが可能か。総裁に面会するためには寄付しなければならない。宮本は日本のリーダーになるのだから、少なくとも三百万は必要。そうでないとチューリヤーと慶子が本部に出掛けても成功しない」
 宮本は了解した。宮本は国内の銀行口座に、その十倍の持ち金を預金していた。
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魔多羅神56

2008-09-28 23:49:10 | 魔多羅神
 九章 二人のインド女


 その頃、慶子は四階のベッドでチューリヤー・ワーレーに強姦された後、絞殺されていた。
 昨夜来出口のない煩悶に雁字搦めになり、墓穴を掘り続けていたせいか、宮本は急に意識が遠のき、二人のインド女の姿を薄暮の中で見失っていった。
 こむらがえりの痛みに襲われて、少年の宮本は水中で必死になって親指を片手で掴んで上向きに反らせていた。そうやっているとこむらがえりが収まって、脹ら脛の痛みが消えていくことを経験で知っていた。しかし今回ばかりは痛みが去らなかった。渓谷の川の水温は氷のようだった。水を飲んでしまい、口を開けて水泡をごぼごぼと吐きながら水面のほうを見上げた。瑪瑙色の世界が眼に入ったが、水面の明かりからは遠く、浮き上がるどころかますます体が沈み、息苦しくなった。何度親指を反り返らせても痛みは強固だった。ふと死への恐怖がよみがえった途端、宮本は両眼を引き吊らせ、叫んだ。
 そのとき眼が醒めた。首筋に冷や汗が滲んでいた。
 ――夢か……。
 宮本は見知らぬ部屋のベッドに体を横たえていた。
 夜になっているようだった。何時間も深い眠りに落ちていた気がした。
 ――ここは何処なんだ?
 顔をゆっくりと左右に動かし、部屋の様子を確認していった。ピンクの壁にピンクの天井円形の白い照明、黄色のカーテン、ホテルの一室のようだった。足元の向こうの壁には大きなミラーが据えてあった。
 ――どうなっているのだ?
 いぶかっている宮本の眼の前にウルミラの顔が浮かんだ。
「気が付いたのね」
「ここは何処?」
「これを飲んで」
 チャイのカップを受け取った。喉が渇いていた。一息にごくごくと飲んだ。草っぽい味がしたから、山羊の乳でもミックスしてあるのだろう。
「ありがとう」
 カップを返した。
「慶子は?」
「レストランで食事してるわ」
「そう」
 と言っているうちに、もわっとした綿の塊のような気体が、喉から口中に拡がり、するとまた意識がぼやけていった。意識を喪う前に女同士の会話が聞こえたように思った。
 次に眼が醒めるとかたわらに、上半身赤みがかった葡萄色の地に、小さな白い花を遊ばせた刺繍のブラジャーを着けたウルミラが、悩殺する眼差しで宮本を見つめて微笑んでいた。
「慶子は?」
 宮本は部屋を見回した。
「居ないわ」
 母親が幼児を宥める顔で応えた。
「居ないって?」
 もう一つ意識がはっきりしていなかった。雲の上で喋っている気分だった。
「チューリヤーと一緒よ」
「どういうことだ? 一体全体いま何時?」
「夜よ、一時過ぎ」
「そんなに寝たのか」
 昼食を摂っていた場面が眼に浮かんだ。
「イエス、疲れすぎたのよ」
「慶子は何処に居るんだ?」
「保養所よ」
「今から戻ろう」
 宮本は半身を起こした。体が自分の持ち物でないほどに気怠い。
 ――どうなったんだ、これは?
「総裁に逢わないの」
「逢ってくれるのか」
「宮本が眠っているうちに国際本部に電話したわ。総裁が電話に出た」
「それで?」
「私が連れて行くと逢ってくれるわ」
 そう言いながら、ウルミラは自分の両手を背中に廻して、ブラジャーをポロリと外した。乳輪のくっきりとした乳房が露わになった。乳首が郵便ポストのように立っていた。
 それを見つめていると魔多羅神がむくっと立ち上がった。昨夜慶子と秘儀を行わなかったので、不機嫌な様子であったが、その分、逆に獰猛になっていた。宮本は救いようのない自己嫌悪に襲われた。慶子の安否が気懸かりな最中に、その心情を無視してというか蹂躙した形で、魔多羅神が自己主張をするのは許せなかった。
 ――こんなときに……どんな意味があるのか。
 ホテルの窓から我が身を地に叩きつけたい怒りさえ起こったが、すぐに悲嘆に暮れた。すると若い頃に読んだアウグスティヌスの書いた『告白』の一節を思い起こした。
 アウグスティヌスはローマ帝国が末期を迎えようとする三五四年に、北アフリカの海岸の町で、宗教には無関心な父パトリキウスと敬虔なクリスチャンであった母モニカを両親として生まれた、キリスト教的思想家であった。彼がキリスト教に近付いていった原因は、抑えがたい強い性欲の発露であった。十七、八歳で女と同棲、一子をもうけた。
 一節とは――おお、腐敗よ、奇怪なる生よ、死の深淵よ。してはならないことをしてよろこび、それがたのしいのは、してはならないからであるとは、何たることか――であった。
 魔多羅神もアウグスティヌスと同じ性情であった。
 あとの成り行きは、魔多羅神への忍従であった。ひとはなんと愚かしく、自らを裏切ってしまうのか――と嘆きつつ、宮本は、ウルミラのセクシーな肉体に麻薬を愛するように耽溺し、忘我していった。
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魔多羅神55

2008-09-28 14:50:10 | 魔多羅神
 獣の顔ははっきりとわからなかったが、慶子でないことは確実だった。宮本は五分も十分も瞬きを惜しむように、その様を凝視していた。しだいに眼が潤み、両眼から溢れる熱い涙を手の甲で拭い拭い、狐の本性を現した慶子の寝姿に見入っていた。
 沸騰した熱い感情が何度も胸底からこみ上げ、呼吸が出来ないくらいに喉を締め付けた。悲しいと一言では表せない、悲痛の慟哭の呻きであった。
 ――慶子が白狐、慶子が白狐……。
 どのように今の自分を整理してよいかわからなかった。ベッドから抜け出すと椅子に腰掛けて、顔を両手で覆った。涙が指をびしょびしょ濡らした。宮本は啜り泣いた。侑子が自殺したときでも、これほどの哀しみは覚えなかった。まるで身を八つ裂きにされている悲愁だった。このままあの湖に飛び込みたい思いに駆られた。
 ――あの慶子が……。
 宮本の膝の前に立ちはだかって、黒のワンピースは厳然と言った。
「殺さなければならない」
「どうして?」
 宮本は涙に濡れた顔を上げて、彼を抗議するように睨んだ。
「白狐は殺さなければならない」
「どうして殺さなければ……」
「白狐は托枳尼、あなたの精気を吸い尽くす。あなたは滅びる」
「いやそんなことはない。逆だ。ぼくは彼女から精気を貰っている」
「それはいっときの錯覚だ。首を絞められるとそのうち気持ちよくなる。失血もそうだ。だがそれは死に近付いているからだ。あなたは死に近付いているのだ」
「彼女はぼくを愛している。ぼくも彼女を愛している」
「托枳尼は愛しながら相手を殺す、それが托枳尼の哀しい性なんだ。托枳尼はあなたを殺そうと考えて取り憑いているのではない。あなたの言うようにあなたに懸想しているのかもしれない。だけどあなたは死ぬ」
「どうしてぼくに懸想したのだ?」
「それはわからない」
「だって高野山で逢ったんだ。白狐がなぜ高野山に上がるのだ」
「高野山に稲荷大明神が祀ってあれば、用事か遊びで行くことがあるだろう」
 宮本は高野山に稲荷大明神があるかを思い出そうとした。
 ――在る! 苅萱堂の横に清高稲荷大明神が。
 宮本は両手で顔を覆って呻いた。
「日本は伏見稲荷、豊川稲荷が有名。豊川稲荷は豊川托枳尼真天、白狐が祭神。あなたに取り憑いた白狐はおそらく伏見稲荷だと想像するが、殺さなければならない」
「そんなことはできない」
「白狐は三代に祟る」
「どういうことだ?」
「あなただけでなく、あなたを殺したら息子に祟り、孫に祟る」
「息子や孫に……」
「あなたのことはカジュラホの国際本部が調査した。そして総裁直々の指令が私にあった。あなたを日本のリーダーにするために、先ず取り憑いている托枳尼を抹殺しろと。このことは私にとっても命がけだ。私の秘術が勝つか托枳尼の悪霊が勝つかは、やってみないことにはわからない。もしかすると私の心臓は喰われてしまうかもしれない。托枳尼のパワーは侮れない」
「ぼくはどうしたらいいのだ……それにあなたは慶子に何をしたんだ。早くから眠ってしまった」
「強い催眠剤を白狐の食べる物に混ぜておいた」
「それで眠らせたのか」
「あなたの事業を成功させるには、ウルミラをパートーナーにしなければならない。あなたと一緒に彼女は日本に行く」
「……だって彼女はあなたのワイフではないか」
「ワイフではない。これまではパートーナーだった。五芒星人は男も女も結婚しない。家族を持たない。五芒星人は崇高な使命に生きている。もちろんその場その場で夫婦と見せかけることはある」
「……ぼくは日本のリーダーになれるのか」
「ウルミラをパートーナーにすればなれる。総裁が断言している」
「何がなにかさっぱりわからなくなった。あの慶子が狐だなんて……」
 部屋に戻っても一睡もできなかった。ベッドでは狐の姿ではない、いつも通りの慶子が眠っていた。虚脱した宮本はソファに腰を下ろして、慶子を眺めては考え込み、一晩中それを繰り返していた。

     *

 チェンナイに戻る日になった。上空に波乱のない静かな水色の空がひろがっていた。
 朝食後だった。
「あなたメットゥパラヤムに出る列車は午後四時すぎよ。メットゥパラヤムからチェンナイ行は夜行で、チェンナイ到着は翌朝だから、慌てて支度することはないわ。私、チューリヤーさんから玄旨帰命壇のことを詳しく教えて欲しいと頼まれているので、午前中二時間ほどお話しするわ。あなたはシューティング・メドゥというとっても景色のいいところに行ってきて。ウルミラと管理人の娘さん、アミーシャが車でガイドしてくれる」
「遠いの?」
 宮本は慶子と離れがたく、寝不足の顔でたずねた。
「そんなに遠くない。お昼までに戻って来られる。あなた、疲れたお顔、どうしたの?」
「『ドン・キホーテ』を遅くまで読んでいたから」
「そうだったの。私昨夜はどうしたのかしら……寝過ぎるくらい寝てしまって」
 宮本は昨夜チューリヤーが言った、白狐は殺さなければならないが、耳に残っていた。しかし宮本の頭脳は、意志を喪失したように判断停止状態に陥っていた。胸の中になにもかも人任せにしていたい、自暴自棄の気分がひろがっていた。自殺した侑子の葬式の日と同じ状態だった。あのときもそうだった。
 二人が連れて行ってくれたシューティング・メドゥは、高原の取り留めもなくひろがった丘で、眼に掛かるものといえば、ゴルフ場の緑の芝生に似た景観だけだった。大都市チェンナイから訪れた新婚カップルにとっては素晴らしいところであるが、毎日大自然の中にいた宮本には感動の薄い景色であったし、なによりも慶子の動向が気に懸かっていた。しかし気持が言われた通りに動いてしまうのだった。
「慶子、とってもチャーミング」
 ウルミラが微笑みを湛えて静かに言った。
「ええ、インテリジェンスでアクティビテイィーな女性です」
 宮本は数歩先を行くアミーシャの健康そうなヒップを眺めながら応えた。
 ――昨夜の女はこの娘だったのか、それともウルミラだったのか……。
「宮本もベリーナイス」
「サンキュー。あなたはファンタスティックだ」
「サンキュー、ベリーマッチ」
 ウルミラは白い歯を見せて笑った。
「チェンナイからカジュラホは遠いか」
「ベナレスを朝出ると夜着く距離。どうして?」
「五芒星の国際本部で総裁に面会したい」
「とても難しい。信任のない人物とは逢わない」
「どうやったら信任を? あなたの紹介があればいいのか」
「方法があるから昼食のときに考えてみる。今は楽しむこと」
 と言って、にこやかな眼差しを宮本に向けた。
 宮本はウルミラの深い瞳に見つめられて、頭がクラクラした。
 いっときでも慶子が白狐であることを忘却していたかった。
 アミーシャは次にパイカラ湖に案内してくれた。ウーティ湖より広かったが、宮本の眼には奥入瀬渓谷の先にある十和田湖と似ていると思った。十和田湖には侑子と二月に出掛けて、寒々とした風景の思い出があった。
 ――もしぼくが侑子と死んでおれば、こんな苦悩を抱えることもなかった。
 昼食は野生動物保護区を巡った後に立ち寄ったホテルで、慶子、チューリヤーと落ち合って採ることになっていた。午後一時にホテルに着き、中に入ると、ロビーに二人の姿はまだ見えなかった。アミーシャがフロントから電話を掛けた。
「一時間遅れる。先に食事してくれ、とチューリヤーが言った」
 と、アミーシャがレストランのテーブルに小走りにやって来て言った。そして用事があるのか、もう一度フロントに戻って行った。
 宮本の斜め向かいのテーブルに中国人か韓国人か日本人か判別しにくい、三十代くらいの女が一人座って、外の景色を眺めたり、時々は宮本のテーブルのほうを見やったりしながら、ノートに書き物をしていた。白磁色のティーポットとカップ、スコーンの載った皿が眼についた。一人旅の女のようだった。
 チキンカレー、ポテトサラダ、チキンスープ、ナン、マンゴーのシャーベット、ミルクティーをウルミラがオーダーした。しばらくするとアミーシャが戻って来て、腰を下ろした。アミーシャの眼が昂奮気味にきらきらと活気付いていた。
「東京に行ってみたい」
 アミーシャが宮本に視線を向けて言った。
「目的は?」
 と、ウルミラがたずねた。
「ポップ・ソングを歌わせてくれるところで働きたい」
「そんな店があるの?」
「さあぼくはこういうことは詳しくない。だけどインド女性はセクシーだから働くところはあるでしょ」
「セクシー!」
 アミーシャは大仰な表情で笑った。
 料理が運ばれてきた。宮本はレストランから眺められる庭園に眼を向けた。透明感のある青空から暖かな陽光が芝生に拡がり、高原の妖精たちが大喜びしてダンスをしているようだった。だが宮本は苛々していた。なかなか慶子がやって来なかった。不吉な思いが脳裏によぎった。
――まさか……。
 宮本の胸中は居たたまれない寂寥にうらぶれていた。大声で絶叫してみたかった。惨めさの地獄を這いずり回っていた。
 胸にこもごもの感情が溢れて、食欲がなかった。それでもアミーシャが心配顔で勧めてくれたポテトサラダ、チキンスープは残さなかった。その後でミルクティーをゆっくりと飲んでいた。
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魔多羅神54

2008-09-27 18:50:43 | 魔多羅神
 階段を上り、チューリヤーが扉を開けてくれた部屋に入ったとき、宮本は自分の視界が急にぼやけたのかと狼狽した。ダニ・ノミアースレッドを使用したように、濃霧が渦巻いていた。しかもなにやら妖しい香が籠もっていた。
「インドの大麻・マリファナ系の香。秘儀のときに使う」
 黒ワンピースのチューリヤーは厳かな口調で言った。
 しだいに宮本の目が慣れてきた。部屋の広さは十畳ほど。壁の色は緑色。煙った部屋には三角屋根の広い天窓から、皓々と満月が差し込んでいた。部屋の明かりはこれだけだった。
「今夜は秘儀に最高の夜」
 チューリヤーは満月を見上げて囁いた。
 中央に寝台のようなものが据えてあった。通常のベッドよりは床の高めの、それも天蓋付、四隅に黒檀の柱が立ち、頭部のほうは黒檀の衝立で、そこにも金色の五茫星を印してあった。すでにだれかが毛布を全身に被って横たわっているようだった。
 ――彼女かな? それとも管理人の娘?
 チューリヤーは足音を立てずに、怪訝な面持ちの宮本に近付くと、もちろん、我々の秘儀はこれ一つではない。秘儀は五ステップで構成されている。今夜はワンステップ目でヨクセン体を体外に放出する秘儀、最終秘儀では霊視力を得る、霊視力を得てあなたは日本のリーダーとなる資格が与えられる、と重々しく説明した。
「あなたは蛍の光るところを見たことあるか」
「あります」
「我々が蛍になるところをあなたに見せる」
「蛍に?」
「蒼く光る。あなたはその壁の椅子に腰掛けて。秘儀が終わるまで絶対に立ち上がってはいけません」
「わかりました」
 宮本は神妙な気分になって、椅子に腰掛けた。
「その前にまずあなたは身を浄めるのに、これを飲まなければならない」
 チューリヤーは薄暗い部屋の片隅にある円卓から、吸い口の付いた小さな壺を、うやうやしい物腰で両手で運んできた。
「これは?」
「日本のお酒のようなものと牛乳と蜂蜜の混ざった浄めの飲み物です。一息に飲み干さなければならない」
 仕方なく宮本は草っぽい味覚の物を一息に飲んだ。
 ヒンドゥ教かイスラムの宗教音楽なのか、低音の響きの音楽が奏でられ始め、そのリズムに合わせて数人の女が、全身全霊で艶めかしくよがっている喘ぎ声が、波のうねりのように起伏して、宮本の頭に押し寄せた。聴衆をしだいにエロチックな興奮の坩堝に落し入れる音楽だった。
 宮本は音楽のムードとマリファナ系の香で、魂を抜かれたような物憂い気分に陥った。
「この部屋はヨクセン体が充ちている。あらゆる魑魅魍魎の悪巧みを排撃、侵入を遮断する」
 そう言ってからチューリヤーは、すぱっと黒ワンピースの裾を両手で掴むと、それを捲り上げて頭から脱いだ。視線の先に彼の素っ裸が、月光の中に暗黒の大黒天の塑像のようにぬぅと立ったので、宮本は朦朧とした気分であったが、驚愕した。彼はワンピースの下に何も着けていなかったのだ。宮本はそこに彼の直立した魔多羅神を見た。
 ――黒い魔多羅神!
 宮本の胸はびくっと震え、鼓動が烈しくなった。宮本の眼にはコールタールを固めたものが艶光りしていた。
 チューリヤーは緩慢な動作でベッドの上に上がり、もぞもぞと両手を動かしていた。毛布が剥ぎ取られたが、女の顔の部分は紫紺のサリーのようなもので隠されていた。
 女は大胆にも五茫星の形に、両手両脚を広げて、仰向けになっていた。
 遠目にも乳房の豊かな女であることが判然とした。が、乳房の豊かさだけではウルミラなのか、管理人の娘なのか決めかねた。腰掛けている場所からは女の様子がもう一つはっきりしなかったが、彼の両手が女の胸にあるのは見えていた。しだいに女体が悶え、喘ぎ声を高めていった。
 あぁぁぁぁぁあてぇぇぇぇぇ……。
 咄嗟にあのときの声だとわかった。
 ――そうか、ここで毎夜秘儀を繰り広げていたのだ!
 彼の行為は猛々しいものではなく、むしろ緩慢であった。ただ宮本の眼に黒い魔多羅神、暗黒の大黒天が憤怒の形相でいきり立っているのが見えていた。宮本は慶子の説明を思い出した。魔多羅神は魔■迦羅天と同体で秘儀では托枳尼を降伏すると言っていた。するといま彼に降伏されているのは托枳尼なのだ。
 まぁぁぁぁぁるぅぅぅぅぅくぅぅぅぅぅ……。
 彼も呻き声を発した。黒い魔多羅神は托枳尼の至宝に対して魂魄の秘術をかけているようだった。
 うぇぇぇぇぇげぇぇぇぇぇうぅぅぅぅぅげぇぇぇぇぇ……。
 あぁぁぁぁぁ……。
 うぅぅぅぅぅ……。
 ――阿吽の呼吸……。
 するとどうしたことか、ベッドで重なり合っている二人の体の輪郭から、蒼い光芒が放たれた。それは蛍の光と同じものだった。光っていた時間は五秒ほどだったが、宮本には信じられない光景だった。そして消えた。
 秘儀は終わった。部屋に静寂が訪れた。宮本にはベッドの上の托枳尼が、ウルミラなのか、管理人の娘なのかは、一度も彼女たちの裸体を見ていないので判然としなかった。托枳尼はすでに虫の息になっていた。
 チューリヤーはそそくさと黒ワンピースを頭から被って着用した。宮本に近付くと、光りましたか、とたずねた。宮本は言葉もなく頷いた。すると突然、
「あなたは白狐に取り憑かれている」
 と、冷ややかに言った。
 宮本は衝撃を受け、血の気が退いた。
「白狐があなたに取り憑いているのを目撃したのは、チェンナイのマリーナ・ビーチだった。我々はずっとあなたと白狐を追跡した」
「ちょっと待って」
 と、宮本は狼狽えて彼の言葉を制した。
「白狐というのは慶子のことですか」
「我々は白狐の化身を霊視できる」
「それは間違いです。彼女は白狐ではなくひとです。正真正銘のひとです」
「あなたが信じられないのは当然だ。あなたには霊視できない。証拠を見せてあげましょう。その前にこのマスクを口に着けて。これには和合水をしみ込ませてある」
「和合水?」
「男精と女精と香陰のミックスした精水。いま作ったものだから効き目が強い。このマスクをしておれば白狐の邪気が取り憑かない」
 マスクを着けると鼻孔にクンと刺激を覚えた。宮本はトレトレの和合水をしみ込ませてあれば当然なことだと考え、すぐに慣れた。しかしそれは和合水ではなかった。大麻の成分を抽出した微粉を、数枚のガーゼを重ねて作ったマスクのあいだに塗布しておいたものだった。マスクを掛けていると大麻を鼻孔で吸引しているのと同じであったが、エロチックな音楽とマリファナ系の香と生々しく目撃した秘儀によって、宮本の頭脳は幻覚症状の異常を来していた。
 それからチューリヤーは床に腹這いになると、ベッドの下に潜り込んだ。中から宮本を手招きした。宮本も腹這いになって潜り込んだ。
「ここを見なさい」
 囁くように言った。
 宮本はコーヒーカップほどの円形に顔を近付けて驚いた。宮本と慶子が泊まっている部屋が丸見えだった。慶子が眠っていたので部屋の明かりは消して出てきた。それなのに部屋は薄明かりを帯びていた。カーテン越しの月明かりのようだったが、もっと驚天動地したことは、ベッドの上だった。光芒を放っていた。獣らしきものが横たわっていた。体の光はぼうとしたものだったが、太い尻尾の光はまるで帚星のように輝いていた。
「ぼくは霊視できない筈だが」と宮本は呟いた。
「部屋にはヨクセン体が充満してある。そしてその孔にはヨクセン体を凝縮してものがゼラチン状になってレンズの役目を果たしているので、一時的だがあなたにも霊視ができるのだ」
 と、チューリヤーは小声で説明した。
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魔多羅神53

2008-09-27 14:21:52 | 魔多羅神
 八章 黒い魔多羅神



 翌朝、宮本はチューリヤーに退出することをどう切り出そうかと思案しながら、朝食後のリビングルームの暖炉の火に体を暖めていた。今朝も外は大降りの雨で冷たそうだった。こうなると臭い排気ガスに汚れたチェンナイの、むっとする暑さがインドらしくて懐かしく思えてくる。黒いワンピース姿のチューリヤーが近付いてきた。
「今夜は秘儀に立ち合ってください」と言った。
「秘儀を行うのですか」
「秘儀は毎夜行っています」
「毎夜行っていたのですか。お知らせいただければ見学させて貰ったのに」
 慶子がトイレから戻って来た。
「今夜秘儀を見せてくれるそうだ」
「ホント、よかったわね」
「いゃあ残念だけど、女性は参加できない。ご免なさい」
 チューリヤーは恐縮した顔を作った。
「宮本さんが見学できるのであれば、私は構いませんわ」
 と、慶子は屈託のない口調で応えた。
「これから何処かに出掛けますか」
 チューリヤーは宮本の表情を窺った。
「こんな大雨じゃ出掛けると言ってもね……本でも読んでます」
「わかりました」
 宮本と慶子は部屋に戻り、湖水の見えるソファにチャイを飲みながらくつろいだ。
「今夜秘儀を観たら、明日チェンナイに戻って帰国の段取りをしましょう」
「そうね。チェンナイで新年を祝う年越しね」
「ああそうだね」
「ほかに何処か行きたいところない? ガイドしますわ、北のベナレスとかブッダガヤとか」
「日本人のよく行くとこだね。そこは次にしよう。ぼくは今回南インドに来てよかったと思っている。南インドはインド文化のルーツじゃないだろうか。マドゥライのミーナークシ寺院を拝観してそう思った。コモリン岬もよかったし、コーチンもよかった」
「私も」
「やっと秘儀を見学できるか……きみが観られないのが残念だけど」
「秘儀ってほとんど女性は観られないものよ」
「そうなのか」
 宮本は雨に降られている湖面をじっと見つめた。湖面は寒天色に光っていた。
「ウーティは五月頃から来るところだろうね。その頃だったらバラ園も綺麗だろう。今はシーズンオフで淋しい」
「避暑地だから」
「彼女はいつも淑やかに微笑んではいるけどほとんど喋らないね。たしか慶子より二つ下だったかな?」
「ウルミラ?」
「そう」
「淑やかだけど野性的なボディーラインだわ」
「そうだな、眼もそうだけど体つきが雌豹だね」
「寝てみたい?」
 慶子は悪戯っぽい眼で宮本を窺った。
「そんなことないよ。慶子のほうがいいよ。もう一度昼まで寝直しますか」
 宮本は笑って受け流した。
「うん、それもいいわ。この部屋寒いもの」
 夕食後、なぜか慶子は早くから眠たそうにしていて、話していても、部屋に運んだチャイを全部を飲みきらないうちに居眠りを始めた。宮本は抱いてベッドに寝かしつけた。
 ――明日チェンナイに戻ることになったので、これまでの疲れが一度に出たのかもしれない。
 南インドに来てからもそうだったが日本にいるときも、慶子は車を運転して宮本をあちこちに連れて行ってくれた。京都だけでなく滋賀の琵琶湖の西岸に走り、瀬田の唐橋、石山寺、堅田の浮御堂などを案内してくれ、精一杯宮本に尽くした。
 ――こんな可愛い女は世界中の何処を探してもいる筈がない。
 慶子の寝顔を見つめて思った。
 宮本はソファで持参した岩波文庫のセルバンテス著『ドン・キホーテ』前編(一)を読んでいた。富士山麓に白と黒の魔多羅神と托枳尼を祀る道場を建設するには、後退することのないドン・キホーテの勇猛心に見習わなければならないと考え、出発前に買っておいた。
 かつてどこやらの新興宗教が――日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり――と、国立戒壇を目論んでいたことを宮本は知っていた。高田好胤は無一文から執念で薬師寺金堂を復興したことも知っていた。
 宮本の腹の中には、富士山麓の魔多羅神と托枳尼を国家安寧、人類救済の原子核と成し、総理大臣をもひれ伏せさせる、遠大な国立戒壇を夢見ていたのである。
 ――勇猛心の源泉は死ぬ覚悟。死ぬ覚悟がなければ木偶のぼうかぁ、そんな風になってまでは生きたくないぞ、駄目ならそのとき死ねばいいのだ。
 ミルクティーの好きだった宮本はチャイを何杯も飲んで読書に熱中し、ふと腕時計を見ると十時を少し過ぎていた。チューリヤーとの約束の時間は十一時だった。四階に上がる扉の前で待っているようにと言われた。あそこは物置でないかと思っていたが、どうもそうではないらしい。三角屋根の勾配を天井とした四階こそ、秘儀の祭壇の部屋であるらしかった。四階の階段に上るには、金色の五茫星を印した黒檀の重々しい扉を開けなければならないが、そこは鍵が掛かっていた。
 ――あと一時間か……。
 宮本は疲れた眼を休めるために、外を眺めた。雨は昼間に降るだけ降ったのか、夕刻には止んで、今は湖面にプラチナ色の満月を浮かべていた。空は星の瞬きが見えないほど澄み渡っていた。
 慶子は相変わらずぐっすりと寝入っていた。
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