喜多圭介のブログ

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喜多圭介著『断崖に立つ女』

2008-04-18 04:22:32 | 自作小説(電子文庫本)
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『摩天崖――柳美里讃歌』 原稿500枚程度
作家柳美里(ゆ・みり)の文学に触れながらの投身自殺物語


『断崖に立つ女』 原稿480枚程度。B6書籍判。
【あらすじ】伊豆の弓ヶ浜で彫刻家として母娘の暮らしを支えてきた瑤子の店に、本宮という、京都の印刷会社の社長が、娘の姿と観音像を彫ってくれと頼みにきた。瑤子は本宮を観察するほどに彼に、越前岬から般若の能面を被って投身自殺した近藤の面影を見た。瑤子は一時期能面師近藤と同棲していた。
 近藤は瑤子を知る前に義姉との近親相姦の苦悩を抱えていた。このことで義姉は自殺、後追い自殺した近藤は手首を傷つけただけの未遂に終わった。
 本宮を知るにつけ、好みの酒の銘柄、能演会鑑賞、手首の白い傷痕と、まったく近藤と近似した重なりに瑤子は身震いするほどの怖気を覚えたが、同時に本宮の魅力に心身囚われていく。
 瑤子と本宮は娘の像を京都嵐山の神護寺に奉納したあと、桂川の水音の聞こえる宿で一夜を共にする。
 その本宮が隠岐の摩天崖から投身自殺することを、本宮を探偵のように観察していた娘の真美から告げられ、二人は慌ただしく羽田から隠岐に飛び立つ。
 能の原理、前シテ(現実)と後シテ(幻想)を交錯させて描く、作者渾身の男と女の物語。


【作品の経緯】
 馬場あき子様、
 何年前になりましょうか、冒頭にあなた様の短歌を置きましたので、その了解を求めるために、『断崖に立つ女』のオリジナルをお送りしました。
 数日経ってのこと、夜の十時頃卓上の電話が鳴り、受話器を耳元に当てたとき、馬場あき子です、という声が。一瞬、馬場あき子、どこのだれと迂闊にも訝ってしまいました。まさか短歌界はもとより文化人として著名な馬場あき子様からの電話、夢のような出来事でした。その頃までは『鬼の研究』を読んだことがあるくらいで、短歌のことはもとよりあなた様が、能や『源氏物語』に造詣の深いかたとも知らずにいたのです。
 おそらく『断崖に立つ女』をちらっと読まれ、内容が能面師のことであり、『源氏物語』ゆかりの武生のことがあり、それで関心をお持ちになりお電話をいただけたのではないかと推察しております。
 『断崖に立つ女』は冒頭の一首に出合わなかったら誕生していなかった作品です。この一首のおかげでいきなりイメージが沸き立ったのです。短歌一首の恐るべき力かと思います。
 もちろんあなた様がこの一首に籠められた魂と、私が『断崖に立つ女』に籠めた魂とは異なる物ですが、なんとか私なりの作品に仕上がりました。
 やっとその折りのお電話のご好意に、このような形で報いることができたかなと思っているしだいです。
                               喜多圭介拝

書籍判、一応完稿しました。
『断崖に立つ女』

喜多圭介著『摩天崖――柳美里讃歌』

2008-04-18 03:58:34 | 自作小説(電子文庫本)
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『摩天崖――柳美里讃歌』 原稿500枚程度
作家柳美里(ゆ・みり)の文学に触れながらの投身自殺物語


【あらすじ】 文学賞に応募する気持ちの薄らいだまま小説を創作して、インターネットのサイトに掲載していた家城のもとにある日、フリーカメラマンの人妻、飛鳥笙子(のちに家城が付けたペンネイム)から、自分の小説を読んで批評してもらいたいというメールを受信した。
 このことがきっかけで笙子が完成を目指している『腐草螢となる』のラストシーンを描くために、二人は島根県隠岐に渡り、肉体関係を結ぶ。ついでに家城が高校生のときに失恋の痛手から自殺未遂となった鳥取県伯耆大山に一泊、さらに岡山県の蒜山高原に一泊する。
 この間に二人は在日の女性作家柳美里や突然自殺した鷺沢萠の文学を語り合うことで、二人の関係が文学創作に基づいたものであることを確認しようとするが、笙子には子供の頃からの父親による虐待や高校生のときはクラブの教師から性関係を強いられたことなどからのトラウマを背負っていたことが障害となった。
 東京に戻った笙子は夫と離婚したが、離婚の後遺症でいっそう神経症を重くしてしまう。このことを心配した家城は上京、二泊を過ごして笙子との関係を確かめようとするが、笙子は隠岐に渡った頃の笙子とはどこか違っていた。このことは大阪に出て来たときも確認でき、家城は情けない思いに囚われた。
 別れてからのある日、家城はウェヴニュースで笙子が元夫に頭部を切断されて殺されたことを知る。このことが家城の自殺を早めることになり、家城は一人島根県隠岐の摩天崖に向かう。



【作品の経緯】
 柳美里様、
 あなた様にぶしつけながらお手紙を差し上げ、その後その返事を期待していたようないなかったような心境でありました。あなた様の裁判沙汰があり、一部の日本人から嫌がらせめいたことの起こった後でもあり、日本人の私からのいきなりの手紙に警戒心をお持ちになったのは、当然なことです。
 失礼ながらお手紙を差し出したことさえ忘れていた頃、数ヶ月後のことですが、郵便受けに柳美里という差出人の、上品な体裁のやや分厚い封書が届いていました。そのとき迂闊にも柳美里、だれのことかと自分の知っている女性名を思い浮かべ、訝ったほどでしたが、内容をお読みして、作家の柳美里様であることを知り、びっくりもし、感激もしたしだいです。
 私の状況はあの頃も現在も変わっていません。生きるか死ぬかの瀬戸際で、覚悟を決めて創作に専念しております。覚悟を決めたことで気持ちがより清澄になった気もします。ここまで生き延びられてこられたのは、神仏のご加護と古くからの友人、知人の叱咤激励と支援のおかげです。
 『摩天崖――柳美里讃歌』のオリジナルをお送りしてから数年経ちました。当時とは内容が大幅に変わっておりますが、今日の日本の世相なども折り込み、私なりになんとか他人様に読んで貰えるレベルに到達したのでは、と考えております。
 在日問題とアフガン空爆の社会性を時代背景に、小説家志望の神経症の在日ハーフの若い女に翻弄される、厭世観の強い、創作一筋の熟年男が、島根県隠岐の摩天崖、鳥取県伯耆大山、岡山県蒜山高原を舞台に展開するドラマとして描いてみました。
 もしこの作品があなた様の目に留まる機会を得たのであれば、とても嬉しい。あなた様のご好意に一つ報いることができたかな、とも思い、現世への肩の荷が一つ減ったかなとも思います。
                                喜多圭介拝


書籍判、一応完稿しました。
『摩天崖――柳美里讃歌』



辻邦生著『永遠の狩人』

2008-04-12 17:53:24 | 文学随想
辻邦生は1963年『廻廊にて』で第4回近代文学賞、1968年『安土往還記』で芸術選奨新人賞、1972年『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞、1995年『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞。

おそらく作者が息子の役をして、アーネスト・ヘミングウェーの小説作法や文学精神を語ったのだと想像するのだが、あるいは息子の著書からの創作かも知れない。これも原稿40枚ほどの短編。

  そのくせ決して仕事をしていないというわけではない。海が白々と明けてくる頃、起き出して、冷たいシャワーを浴びると、すぐ書斎に入る。それから十時頃まで鉛筆で白い原稿用紙に、直立した、頭でっかちな書体で、なぐり書き風に書いてゆく。そんなとき、行が右下りになるのが普通だ。若い頃、新聞記者をしていたときから、原稿は、一度ハンドライティングで書き、それからタイプライターで打ち直す。もちろんそれがパパの推敲の方法だ。決してハンドライティングの初稿を渡すことはない。タイプ原稿も散々に手が入っている。まっ黒になって読めないとき、もう一度タイブライターで打ち直す。時には、それがまたまっ黒に訂正され、書き込みされる。
 パパの親しい編集者が無理に原稿を取ってゆかないと、結局いつまでも加筆訂正が繰り返される。パパは、それ以外に作品をよくする方法はない、と、ぼくにも語った。
「いいかい。君も作家になるんだったら、これ以外に、いい作品を書く方法がないことをよく知らなければ駄目だ。だからといって、いじけていてはいけない。多少乱暴でも滅茶苦茶でも構わないから、とにかく書きたいことを終りまで一息に書くのだ。一息に、だぜ。これが大事なんだ。長篇の場合には、一日二日というわけにはいかない。一年かかるか、二年かかるか、それはこちらの問題じゃなく、神さまの問題だ。こちらがやるべきことは、その期間、一息に、というあの呼吸を忘れないことだ。わたしが『武器よさらば』を書いたときは、毎朝起きると、原稿用紙にむかって、午前中、ひたすら書きつづけた。そして、ある塊りが吐き出されたところで、筆をとめた。が、その時は、明日書くことは胸の中にあるんだ。それを、その日のうちに書くなんてことはしない。エネルギーと書く素材を明日のために貯えておくんだ。そして明朝、新たな獲物に躍りかかるように、一息に、書いてゆく。こうして終りまで、毎日、一息に書く状態がつづいてゆく。そうすると、ある朝、終りが、むこうのほうから、勝手にやってくるんだな。そこで、こちらは、作品を書き終えたことに気がつく。だが、それはまず赤ん坊を産んだだけと同じだ。それからが、むしろ本当の創造かもしれない」
 パパが機嫌のいいときに喋ってくれたこの言葉は、ぼくには忘れられない。きっとパパは朝早くから書くのに没頭して、自分がどこにいるのかも忘れていたのだろう。ぼくはたしかパパが〈書く至福〉と言ったような気がするが聞き誤りだったろうか。とにかくそのときは、パパは書いていて至福を手に入れていたのだと思うり パパがハンドライティングで、一息に書くという書き方をその後もずっと守ってきたのは、この〈至福〉の思い出があったからではなかろうか。



  しかしパパが人なかを避けたのは、人嫌いからでもなく、傲慢さからでもなかった。パパの考えによれば、都会や人混みは詩をもたらすことがあまりにすくないのだ。パパはつねに詩を求めて生きていたといっていい。そしてその詩とは、パパにとっては〈至福の時〉を感じることだった。それは〈至福の時〉と言い直してもいいだろう。パパがぼくにそう言ったことがあるのだから。
「君はいきなり作品を書くべきではないね」あるときぼくが短篇を書きあぐねていると告白すると、パパはウイスキー・ソーダを飲みながら言った。「君は小説を書く前に、人生を生きなければいけない。だが、誤解して貰っては困る。わたしは世の小説家が言っているように、人生の雑多な経験を積めと言っているんじゃない。ホテルのドアマンをやったり、タクシー・ドライヴアを経験したり、女郎屋のマネージャーをしたりすることは、小説家にとってマイナスになることはない。だが、それが普通の人間たちがやるように、単に経験を積むだけだったら、そんなことはやらなくたって構わない。小説家にとって最も大事なことは、プルーストのように、生というものを深く生きることなのだ。わたしがアフリカで猛獣を追ったり、スペインで闘牛に酔いしれたり、ここで釣りに熱中したりするのは、生を垂直に深く生きるためなんだ。人は小説家の贅沢な道楽というだろう。だが、ここには、他人が入りこむ隙間がない。わたしは死と直面している。ここでは、死は孤独の別名だ。わたしがいう生の深みとは、そこでしか顔を現わさない。だから、わたしはあえてアフリカで狩猟に熱中した。ハバナでは釣りにのめり込んでいる」



  パパの短いシンプルなフレーズはセザンヌの短い力強い筆触(タッチ)を思わせた。セザンヌの筆触(タッチ)も一つ一つは並べられているだけだが、それは物の決定的な面を表わし、相互に堅固に結びつけられている。林檎がごつごつした粗い筆触(タッチ)で描かれると、その林檎は、存在する物の壮麗な輝きに見える。林檎は単なる果実を超え、水晶のように硬くきらめく存在の歓喜の結晶に変ってゆく。セザンヌの静物画は結晶する歓喜の歌なのだ。パパの短いシンプルな文章も、同じように、フレーズの流れのなかに、パパが陶酔と呼んだ生の高揚感が脈縛っている。それがこちらに直接(じか)に伝わってくる。
 パパがずっと前に、これも機嫌がいいとき(しかしそのとき海はかならずしも機嫌がよくなくて、堤防にもの凄い波を打ち寄せていた)ぼくに話してくれたことは、この高揚感の直接の伝達と関連があるのだろう。
「いいかね。君が物を書くときには」とパパはテーブルに身を乗りだすようにして言った。対象を描写するようなことをしてはいけない。わたしたち小説家は何か物語を語る人間と考えられている。たしかにそういう面を持っている。だが、ストーリーテラーであるだけでは、小説家は十分ではない。ストーリーを書くのは、それが強い感動を伝えてくれるマシンだからなんだ。物だって人物だって、それが感動伝達体であるから、それを書くんだ。物をうまく描写したって、感動を盛りこんだ容器でなければ、何にもならない。小説家とは、感動をストーリーや物で表わす人間なんだ。わたしが永遠を生きるように言ったことがあるね。それは、永遠とは、陶酔の中に開いている青空のようなものだからだ」



『摩天崖――柳美里讃歌』(2)

2008-04-09 14:16:46 | 自作小説(電子文庫本)
深夜に後半部のとっぱち、「離婚の章」を改稿し終えた。

私は初稿の筆致は、そのときの気運と気魄で執筆するのだが、それだけに乱雑、ミスも多い。文体も堅調であったり弛緩していたりと統一を欠いている。

こうした見るも無惨な有様を改稿によって自分なりの文体に整えていくのであるが、初稿の作業より神経の消耗は激しい。神経消耗の分だけ熟睡するという特典がある。

ひとによっては初稿から一日原稿一枚分のペースで、ほとんど完成した執筆をされる作家もいる。たとえば短編の名手と定評のある三浦哲郎は、何かに書いていたと思うが原稿一枚。少し速いペースの作家でも新聞連載の三枚半、この辺を一日の限度として執筆しているようであるが、一時期の松本清張や五木寛之のように、毎週あちこちの週刊誌や総合文藝雑誌に執筆していた流行作家は、一晩に二十枚、三十枚と書き飛ばしていた。

もちろん一日一枚と三十枚では質の違いは大きく、前者は純文学、後者は大衆小説ということになるが。

私も現在は物語を執筆しているので、大衆小説ということになるだろうが、さほど娯楽っぽい内容でもないので、中間小説とも呼べる。

したがって初稿はあえて一日十枚前後のペースで執筆している。それだけに乱雑であるが、初稿は創作のモチーフとも関係するが、気魄を重視している。私なりの言葉であるが〈一呼吸三枚半〉での執筆。つまり大きく息を吸い込み、執筆中にそれをゆっくり吐き出していく。息が切れたときが三枚半の執筆。これを一日に三回繰り返せばだいたい十枚である。

小説にかぎらない。どんな書き物、このブログでも一呼吸の分量にほぼなっている。ただし掲載するときは三分の一ずつ。これが私の文体のリズム、内在律とでもいうものである。

個性ある文体とは、まず自分の文体のリズムを持つということであろう。紫式部は紫式部の、清少納言は清少納言のリズムがある。

普段古典は目を通すほうである。古典から題材を得、それを現代小説にアレンジする練習もしているところ。二三のブロッガーに古典の在り場所を昨夜紹介した。古典に関心あるかたは以下のサイトに。美麗な縦組体裁。

平成花子の館

離婚を話題にするつもりが逸れてしまった。

ヒロインの飛鳥笙子(あすかしょうこ)は31歳、フリーカメラマンで神経症の作家志望という設定。神経症になった理由は子供のときからの父親の暴力、このことが起因して性暴力体験やAVまがいの性体験などによって神経症を背負い込んでしまった。

こうした女性の結婚はよほど男性側に理解がないと離婚も早い。タレント同士の離婚劇にも活動のすれ違いもあるが、女のタレントのほうに案外神経症を背負っていることもあるのではないか。芸術、芸能の世界は大なり小なりこのことによって特異なパフォーマンスを表現する傾向にあるから。

したがって若い笙子の離婚は扱いやすかったが、離婚には妻が4、50代、夫が5、60代という熟年離婚も増加している。こちらはだいたい夫が離婚原因(女性関係や経済破綻、たとえばサラ金から金を借りて競馬、競輪、競艇遊びやパチンコ)を作り、これに妻が悲鳴を上げてそのうち見限るというのが多い。

この場合も様々なケースがあるが分類としては子供がいない、子育て途上、子供が成人しているで、妻の採りうる態度は異なる。また夫の離婚原因によって妻の不倫(恋人を持つ)の有無のケースもあり、小説の題材としては、若い女性の離婚を扱うよりは深みがある。

本当は子育ても終えた夫婦が共白髪まで平穏な生涯を送れるのが理想であるが、現代社会ほど女性の自覚が高まり、このことが難しくなってきた。

夫の離婚原因だけが離婚の原因になるのではなく、夫と妻の性格、気質によって離婚原因への反応も異なる。夫の女遊びを男一般の病気と解釈して平然としている妻もおればそうでない妻もいる。夫のがわも遊びと妻を棄ててでもという真剣な女関係もありで、小説としての組み合わせにバライティーがある。

小説のタネは尽きない。

『摩天崖――柳美里讃歌』

2008-04-08 17:20:24 | 自作小説(電子文庫本)
初稿を執筆したまま2年近く放置してあった。目下改稿中。先日新風舎のことに触れたとき、向こうの文学賞の出版化推薦作に選ばれたのが、この作品。今回改めて通読、よくこんなレベルで推薦作になったものだと、自作の不出来に呆れもし、新風舎の女性編集の眼のなさにもあきれた。

初稿は原稿570枚だったが、読者の読みがもたつきそうな箇所を削りまくった。およそ70枚分削ったので、現状で500枚前後かも。まだ削る余地がありそう。

タイトルに柳美里(ゆ・みり)讃歌とあるが、最後に頭部切断されて殺されるヒロインが韓国人の父親と日本人の母親とのハーフということで柳美里や、執筆中にトイレ自殺した鷺沢萌のことを、男女の話に絡ませ、柳美里の執筆に敬意を払い、なおかつ自筆のお手紙も頂戴したことである私としては、讃歌せざるを得なかった面はある。

が、直接ストーリーには無関係である。

島根県隠岐の摩天崖を『断崖に立つ女』に引き続き利用したが、処理の仕方は異なる。登場人物もまったく異なるので、『断崖に立つ女』とはイメージ的にダブるところはない。

今日的な意味合いでの女性問題を扱っているので、私なりに冒険を少しはした作品である。

いま暫く推敲、改稿が続く。

初稿創作であろうと改稿であろうと、気分が執筆に集中しているときは、ほとんど徹夜作業。

やっと前半部が物になってきた形。

初稿段階はテーマに関係しそうなことを何でもかんでも盛り込んでおくのですが、アウトラインプロセッサーで執筆してますので、改稿のとき削る箇所はさらに一段下の階層にメモを作り、そこに保存しておきます。せっかく執筆した物を削除するのは勿体ないし、別な作品で活用することもありますから。

こうやって改稿したテキストを、今度は私の書籍スタイルにコピーして、二段組体裁や書籍体裁にして読者にお目にかけているのです。

いよいよ後半部、踏ん張りどころです。

幸い今回『断崖に立つ女』は企画出版されることになりましたが、刊行後の売れ行きのこともありますが、好意を示していただいた出版社とは運命共同体のつもりで儲けて貰いたいですしね(私は儲け欲も喪失してますが、出版社は事業だから利益を出さないといけない)、そのためには一冊刊行で喜んでいるわけにはいきません。一冊目の売れ行き好調ならば半年以内に二冊目刊行といかないとね、二冊目を刊行すると作者も出版社も世間に注目されますから。

そのためには一冊目、二冊目は売れる内容とタイトルで勝負かけないと。『摩天崖――柳美里讃歌』も刊行されたら売れます。こちらはタイトルで売れます(笑)。まず柳美里読者は、何だろうかと手に取りますし、柳美里さんも買うのでは(ただしお手紙添えて恵存の形にしますが)。

一、二冊順調ならば三冊目はぼくなりの純文学、『秋止符』、『淀川河川敷』、『六甲山上ホテル』、『月の砂漠』の合本を計画しています。

どれかで受賞のチャンスも巡ってくるかも。

『摩天崖――柳美里讃歌』

無名でも企画出版にのりやすい原稿

2008-04-08 16:15:25 | 文学随想
こんなことがわかっていたら私もとっくに印税暮らししているのだが。

小説にかぎらず少し考察してみた。以下の5要素をぼちぼちと加筆。

■真剣味
お金持ちの手慰みで書いた物はどのジャンルであろうと、読者を魅了しない。むしろ自己顕示の嫌みが目立つ。

昨今、真剣味の親玉は車谷長吉だが、彼の真似の出来るひとは少ないし、する必要もない。彼は真剣味というよりは止めるに止まらない病的な異常執心。太宰治の躁鬱とも様子が異なる。「鹽壺の匙」で三島由紀夫賞、芸術選奨文部大臣新人賞受賞した2年後、50歳のときから幻聴、翌年「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受賞したころからは幻視、幻覚の強迫性障害。いまでも精神科医のアドバイスと薬を手放せない。だれもが異常になれるものでもない。彼の文学は彼の文学。奥さんによって自殺が抑止されている。

■斬新な題材
昨今は海外に常住している日本人も多く、この人たちの書き物はブログに多いのだが、こちらが興味惹くような内容は少ない。観光地のことはだれもが同じような内容を書いている。もっと視点を変えればと思うのだが。一貫性がないというかテーマがなく、つまみ食い。これでは本にならない。

小説も同様。似たり寄ったりの題材と似たり寄ったりのストーリー。個性が見られない。

世相は日々似たり寄ったりの現象が継続されているが、視点を変えると新奇な発見がある。

時を得た内容。いまならチベットの内情をえぐり出した物とか。ただし取材活動にいのちの保証がない。私が人物として書いてみたいのは、あの〈時のひと〉だったホリエモンの子ども時代から事業家になるまでのこと。書けば売れると思うが、こういうとき名刺代わりの本を一冊でも出していないと取材ができない。

小説にかぎらず、新聞の書評にピックアップされるレベル。

観光小説は売れやすい。なぜなら地元の読者が買うのと、地元の行政や観光協会の協力を得やすい。観光小説の先駆けは松本清張の社会派推理小説『ゼロの焦点』の能登金剛、これで能登半島ブームが興った。水上勉の『飢餓海峡』は下北半島ブームに。ただし陳腐な内容に地名を入れただけというのではブームにならないが。

読まれる本ということでは、出版社の編集担当の意見も参考になる。

■表現力
筆者の個性がどう表されているかにかかっている。平凡な表現では食いついて読もうという気にはならないが、こけおどかし的ではゲーム感覚、子どもには読めてもおとなは読まない。

■読ませる工夫
テクニックの要るところで、多読しているひとほどこのテクニックを修得できるかも。その眼で意識的に読書していれば。

■書店で手に取らせる工夫
出版社の仕事。製本としては表紙カバーのイラストと帯のキャッチコピー。強力な販売手法、コンタクト。

所得倍増計画以後の精神構造

2008-04-07 18:12:06 | 世相と政治随想
高度経済成長が国民の眼に見える形で本格的稼働するようになったのは、1960年の池田勇人内閣からであった。55年頃から躍進への基盤が整いだしていたが、池田内閣以前の岸信介内閣は、米国との安全保障条約改定の阻止運動の高揚に足を取られ、経済成長に着手するに至らなかった。

所得倍増計画以後の精神構造とは、これ以前に幼年期から少年・少女期(中学校卒)を過ごした人間と所得倍増計画後にこれらの時期を過ごした人間とは、精神の耐久力に差異があると見ている。もちろんこれはマス的観測であってミクロ的観測では例外はある。

なぜこのようなことを考えるかといえば、こうしたことが私の創作テーマの一貫だからである。私の男と女の物語の底流にはこのことの探求があり、だから一度も恋愛小説を創作している気持ちになったことはない。

駅前8人殺傷事件、駅構内突き落とし事件、ママを讃えた作文を書いた我が子を殺してしまった美人ママ事件などを考えていると、所得倍増計画以前に先に述べた成長期を過ごした人間とは精神構造、具体的に書くと精神の耐久性が違う、ある日突然にぽろっと壁が剥離するような状況、粘りがなくて脆いことを痛感する。

アクシデントに対してパニック、鬱などの精神障害に陥る。ひどくなると幻聴、幻視、幻覚の離人症、強迫性障害、その他で無差別殺傷事件や自殺を誘引しやすい人間になる。

駅前8人殺傷事件の犯人は「だれでもよかった」という台詞を吐いたが、この台詞は母親の生首を持ち歩いて警察に自首した少年も「だれでもよかった」、たまたま母親が部屋を掃除に来たのでやってしまったと、冷静に述べている。

このことをテレビや新聞で知った子を持つ母親たちは、幼稚園や小学低学年の我が子に「お母さんの首を切らないで」としつけているようだ。かなり奇妙な風景であるが、精神構造に深みのない若い母親ほど本気になって実行しているかも。

私の年代ではちょっと考えにくいことが昨今日常化している。

たとえば60年以降とすれば、現在の55歳未満は危ない精神構造を保有しているひとが多いということになる。

東京小石川、印刷業の街で起きた製本業者による一家無理心中事件の犯人は、仕事に真面目、責任感のある42歳だったが、私は彼はなぜ家族を巻き添えにしたのか、死にたければ自分一人で死ねという気持ちが強い。一人で死なずに家族を巻き添えにするのは、死刑覚悟で無差別殺傷事件を起こした犯人らと、その精神構造にさほどの違いはないと思える。

しかしここまで拡げてしまうと私の小説のテーマとしては手に余るので、私の男と女の物語では、物語の底流に所得倍増計画以後の精神構造をセットしている。

女性の悲劇を救済しよう、という思いで執筆しているが、いかんせん、私には力がない、本も発刊していない、これではどうしようもない。

もしかしたら私のほうが悲劇かも。

Hのこと

2008-04-06 10:45:36 | 文学随想

30年来の文学の知人Hが、昨年7月に刊行した『海の声』という単行本を送ってくれていたのを、体調の悪かったこの三日間に読んだ。届いた当座に読まなかったのは創作に明け暮れていて、他人の本を読む気持ちでなかったからである。 30数年前英国から帰国した私は、無性に小説を創作してみたくなったが、今ひとつ創作のことが呑み込めていなく、新聞に大阪文学学校の生徒募集があったので、一年間昼間部に通ってみることにした。週に一回のクラスだった。この文学学校の事務局にいたのがHだった。 あるとき、おそらく一年間の卒業式の帰路のことではなかったかと思うが、梅新の喫茶店に北川荘平、竹内和夫、奥野忠昭、沢田閏(同志社文学部教授)、Hと私がいた。前者四人は文学学校のチューターで、北川、竹内、奥野の三名は芥川賞候補作家だった。 その夜私は西宮近くのHのアパートに泊めて貰った。それまで特別昵懇でもなかったが、阪急電車内で少し話していると、Hは出雲出身、私は一時期松江で育ったので、同県人意識というのか、彼が泊まっていく? と誘ってくれたので、2DKに泊まることになった。アパートに着くと女性が居たので、彼は結婚か同棲かしていたことになるが、詳しくは訊かなかった。 翌日二人が三宮の近代美術館にメキシコの画家「シケイロス」展を観に行くというので、それにお供した。シケイロスは社会主義者であった。 シケイロスの油絵を鑑賞後、三宮の喫茶でコーヒーを飲んで別れた。ただこれだけの付き合いだったが、彼と私は同県人意識と同年、文学に志す人物として、なぜか私の記憶から消えなかった。文学活動の場も違っていて、その後の交流はなかった。 それから十五年後頃のある夜、大阪で催されたパーティーの二次会でHと再会した。長身、痩身、頬の落ち込んだ長い顔の青年が、恰幅の良い体格になっていたので、再会したときはわからないほどの変貌だった。 Hはいまは父親の跡を継いで東本願寺の僧侶兼大阪文学学校の講師? でないか。 そのHからの本である。再会後、彼からは属している同人誌が何回か郵送されてきたので、彼の文章は読んできたが、小説らしき物はこの『海の声』が初めてで彼がどんな小説を創作したのかと愉しみでもあった。が長編『海の声』一本かと思っていたが、「海の声」、「群声」、「黄土断片」、「祭りの夜」の中・短編4本の合本、256頁、定価2200円。 読後の印象は期待はずれ。このうち「海の声」がいちばん読ませる内容であったが、ストーリー展開としては尻切れトンボ、なぜこれ一本で256頁を物にしなかったのかと、Hの根気のなさに落胆した。根気のなさは他の三本も同様で、小説として見た場合、とれもこれも中途半端、これでは読者を欺瞞したと酷評されても仕方がないのではないか。 彼の30年間の結実がこの程度だったかと思うと、実に残念な気持ち。 まず「海の声」の書き出しから。Hの文体は野間宏の影響がある。

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       1、峠

 

曲がりくねって長く、埃っぼい山道につづく峠を、いくつも越えた。あたりのまだ熱っぽい空気をふくむ山々から、カナカナ蝉の長く尾をひく、澄んだ鳴き声が湧きあがり、それは私の耳奥(みみおく)で幾重にも反響して、胸の奥へと落ちた。 敗戦後四年目、私が小学一年生のときであった。夏半ばすぎ、山陰・島根の父の郷里である、海辺の寺へ向かう最後の峠を越えたとき、空気のなかに急に潮の匂いが混じり、視界がいっべんに開け、そうして全身が解き放たれる感じが襲ってきた。私は大きく一息つくと、あたかも糸をたぐり寄せるように潮の匂いを鼻に引きよせ、坂道をいっさんに下った。すると後ろから「おーい…」と私の名を呼ぶ声がし、「そげん急がんでも、海は、もうそこだがね-」と、中学生になつて声変わりし始めた弘志(ひろし)おじの声が、風と風のあいだを縫うように聞こえてきた。

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中程

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意識しようとしまいと、日に数回、その空間のところから、海辺の駅を発つ機関車の、あのピイーツという音が聞こえた。叫び声に似たその音は、鐘のない空間から、いくつもの束となってこちらへ流れこんできた。しかし空間を見やりながら、あの音が聞きたい、そろそろ叫べ! と待っているとき、決して聞こえてきはしない。松の葉を通り抜ける風が、鐘楼の石段を吹き抜け、幾本もの松葉を落してゆくだけだった。 私は何を考えていたのだろう。自分の体が、あの鐘のない空間のように感じていたに過ぎない。なぜ鐘がないのか、ぶら下がっていないのかということさえ、そのとき考えてはいなかった。日ごろ千恵子おばから、そこにあった鐘は戦時中、祖父が軍に供出したまま戻ってこないということを聞かされていた。供出ということ――私がもう五つ六つ歳を喰っておれば、軍に供出した鐘が、鉄砲の弾に化けたことくらい分かっていたかも知れない。あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない。

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彼らしい文体ではあるが未整理な、思わせぶりな文体。主人公である小学一年の「私」と作者である私が同化し、かつある思想を読者に押し付けている。たとえその思想が真実であっても主人公と作者が同化して、それを表現するとなれば、私の創作態度から見ると下手な小説であるということになる。――あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない――などの表現は、長編の中で自然な描写として描くべきことで、観念を述べるのであれば、小説の創作は楽な仕事となってしまう。 Hにこのことがわかっていないのか、そのことが残念である。

以下は「群声」のワンシーン。この表現も小学一年の子どものシーンとすれば思わせぶり、作者が同化した表現、文体である。
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このときだ―四方全山じゅうの、どことも言えぬ、ずっと遠くの隅のほうから、音が湧き起こったのは。最初、濁った、ちいさな音だった。やがてそれは雲の群れのあいだから、丸っこく、太く、粘っこい響きに変わって近付いてきた。年に二、三度しか聞くことのない異国の飛行機がもたらす金属的な響きであるのは、すぐ分かった。近付いてくるにつれ、あたかも雲と雲とのあいだに大きな洞があって、そこをかいくぐり発されるような、持続的で重苦しい、ぶきみな高音へと変わっていった。私は、機影が真上にくるその姿を確かめたいと待って、あせった。

響きが、いままで聞いたどの音よりも大きく、そして一つではなく複数のものであるのが分かった。待たせるな…待たせるな。私は長い時を耐える。…と、神戸川を両側からせめぐ、ついたてのような山と山との上に乗っかる、雲と雲とのあいだの隙間にキラリと輝く、十字型の翳(かげ)を見た。機体の上方は西陽に染まり、下方は影をひきずった。私が目を奪われ、「源おっつあん、あれ…」と言おうとした瞬間、光る機影は重苦しい高音とともに、分厚い雲の中へ飛び込んでいった。
「おっつあん!」私は短く発した。

声が源さんに届いたのを確かめ、ふたたび空を見上げたとき、こんどは二機が現われていた。二横はキラッと鋭い翳をはなって雲の向こう、青みを残した隙間を飛び、二磯もたちまち雲と雲とのあいだへ滑り込んでいった。ふたたび締め付ける高音が落ちてきた。

瞬時に消えた、三機。翳と重苦しい金属音とを残して去った、三機。あれはどこまで行くのだろう。山の上、雲の上、上空はるか、あれはどこへ行くのか。濁音と高音とが入り混じった響きは、神戸川をもっとも底とする盆地で跳ねかえり、ふねんご淵の面で弾け、山々のひだに当たって渦巻いた。

すると、数日前の陰翳がよみがえった。……雲のまったくない空を短時間、山の端から端まで飛び去った、光り飛ぶ一つの機影。それは、海辺の村、父の里の寺の、南に植わっている曲がりくねった松と松のあいだから見える、はるか向こうの空を横切り、去ってゆく黒い翳だった。本堂で営まれている葬儀―照代おばの魂は空のどこへゆくのだろうと私は考えながら、いちょうの樹のわきで、光る機影を日で追った。旧「満洲」から引揚げ貨物船の重苦しい船底で、不安をえびのように抱えて眠る私の手を、決して放さなかった照代おばの、その分厚い手さえも小さな骨となって壷に入ってしまった。照代おばの陰翳、おばの表情、おばの声は、どこへ行くのだろう。

結核で横たわっていた照代おばの苦しげな表情が、胸奥からよみがえるのを抑えこんで私は、いま馬車の上で、山々の連なり、雲の群れに目を走らせる。だんだん弱まる響きは、三機が向かった山並みの上空で、なお長く尾を引いた。

三瓶山! そう、あの三機が飛んでゆく先は、山並みがつづく果て、いま雲の中にあつて姿は見せないが、他のどの山よりもずっと高い三瓶山の方角に違いなかった。
「おっつあん! あれ、三瓶にゆくんか。もっと飛ぶんか。おっつあん!」
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Hはこのような場面に感情移入しすぎて、結果としては根気が続かず、尻切れトンボの作品にしてしまう。

これだけのなかに米軍戦闘機三機の出現と照代叔母の葬儀と照代叔母に手を引かれながら満州から帰国したこと、三機の戦闘機が三瓶山に飛んでいったことが詰め込んで書かれており、主に三機の出現にイメージのウェイトが占められており、他の二つとの関連が読者に伝わらず、混乱を与えているだけである。

書くのであればそれぞれのことをもっと丁寧に書かなければ、読者にこのシーンの意味が伝わらない。

それと三機の出現をこれほど重厚に描く意味合いもわからない。私なら「三機の米軍戦闘機が飛来し、不気味な爆音をあげ、三瓶山に消えていった。その先には朝鮮半島がある」程度にしたかも。


なかにし礼の直木賞受賞

2008-04-05 22:01:43 | 文学随想

私が長編小説の創作に取り組んだのは、なかにし礼が『長崎ぶらぶら節』で第122回受賞したときからであった。この小説を『オール讀物』平成10年/1998年7月号で読んだ。このときなかにし礼は61歳であった。


作詞家なかにし礼はとみに有名であったが、作家デビューはこの作品の一年か二年前に執筆した『兄弟』で、この作品も第119回直木賞最終選考に残ったが、受賞にいたらなかった。なかにし礼には強烈な個性、破滅的生活の兄がいて、この兄との骨肉の争い、悲哀を描いた物だが、肉親をこういう形で描いた作品は作者自身が消化しきれなく受賞するには難しい面がある。この辺の事情を選者の黒岩重吾は「この作品も受賞圏内だったが、最終決で推しかねたのは、兄に対する主人公の愛憎が少し不鮮明だったからである。もっと裸になって欲しかった」と述べた。


受賞作『長崎ぶらぶら節』については、黒岩重吾は「人間に真っ向から取り組んだのが、なかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」である」と述べ、渡辺淳一は「正直いって、強い作品ではない。(中略)他の四作の、あまりにゲーム感覚的な小説に比べて、この小説はたしかに人間を見詰め、人間とは何かと考える姿勢があり、それが結果として他を大きく引き離す原因となった」と述べた。


私も『長崎ぶらぶら節』に特別な感銘はなかったが、長崎ぶらぶら節の歌詞を発掘する男と協力する芸者の人間関係や一人の芸者の姿がくっきりと浮き彫りされていたこと、芸者がお座敷で四股を踏む見せ場があったことなどが、受賞に繋がったのは確かだった。


なかにし礼が渾身を籠めて描きたかった世界は受賞後の満州での体験である『赤い月』であっただろう。この作品には私も感銘を受けた。


作詞家だけに読者への見せ場、酔わせ処を心得ているのはさすが。長編小説は一本調子では駄目で、二箇所くらいは見せ場を作り、それに向かって上り詰めるように描いていく、それが大きなポイント。


このときから私も純文学的な意味での表現とは何かではなく、大きな物語をそのときどきの私の心理をベースに描いてみたくなった。


本当の創作という物をやってみたくなった。そのために主人公を私に似た男ではなく女にした。女を描いた第一作が『断崖に立つ女』であったが、歌人馬場あき子さんの一首に巡り合ったことが、作者の私を超える予想外の展開になった。


なかにし礼の受賞は、新世紀に入ってからの私の生きる支えになったような気がする。


春先の風邪

2008-04-05 13:15:46 | 文学随想
若い頃は風邪を引かない、花粉症もないを自慢していたが、五十歳を超えてからは、春先にたまに風邪を引くようになった。昨年は肺炎気味でちっとしんどかった。今年は大阪の出版社に出掛け、土産に原稿のゲラの半分を頂戴したので、戻ってから毎日ゲラ校正をしているうちに首筋が凝り始め、そのうち風邪引き症状で、ここ二三日、頭がどんより、熱っぽい体である。

こういうときは無理をしないで布団に横になり、本を開くようにしているが、十五分もすると眠っている。体に疲れが溜まっているのだろう。眠ると少し体が軽くなるが本調子ではない。

ゲラ校正に根を詰めすぎたこともあるが、ゲラ校正は一字一句のミスも許されない、製本作業一歩手前の段階であるから、根を詰めて当然でもあるが。

本になりさえすればよい、という気分ではなかった。初めて本にする以上、せめて直木賞の候補作くらいには行って欲しい、そのためには細心の努力を惜しんでは悔いを残す。余分な字句の削除、改行、ちょっとした加筆。

さらに出版社の編集長から二箇所ほどの指摘があったので、そこの補強を思案した。

ゲラ原稿に赤字を入れながらの作業だったが悪筆なものだから、これでは出版社の担当が困惑するだろうと考え、アウトラインプロセッサーで校正したものをWORD原稿にもして電送しておいた。

目下出版社のほうの書籍スタイルに流し込んでいる作業。

万全を期したつもりでも一人の人間のやること、おそらく数ヵ所はミスが残っているかもしれない。

本は唯我独尊、一人で完成する物ではない。

風邪は薬を服用しながらの日にち薬と気長に構えている。数年前に若い作家の鷺沢萌が突然トイレで首吊りして死んでしまったが、ちょうどあの頃、鷺沢は風邪を引いており、ドリンク剤や錠剤を濫用気味に服用していた。薬のチャンポン、頭脳が錯乱気味になり、衝動的自殺かもしれない。マンションで犬一匹との共同生活、犬は彼女の危機を救えなかった。

これからいい作品を創作するだろうと思っていただけに、惜しい死に方だった。