喜多圭介のブログ

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上坂冬子の雑駁な歴史認識に反論

2006-04-04 18:59:21 | 歴史随想

ヒトラー引き合いに出した中国外相も粗雑だが、上坂冬子の以下の文章も雑駁(ざっぱく)。

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 「正論」平成18年5月号  第19回 今月の自問自答「無知にして頑迷固陋な国よ」 

◇李肇星外相の暴論 手に負えないもの、それは無知にして頑迷固陋な思い込みを発言しまくる人である。 「そりゃそうだけど、あんたからいわれたくない」 といわれるかもしれない。 たしかに、かくいう私こそ思い込みをブチまけてハタ迷惑な暴論を吐いたりすることがおおいけど、筋を通して説得され納得しさえすれば百八十度の転換だっていとわない。困るのは思い込んだらテコでも動かず、我こそは真理ナリとばかり延々と自説を吹聴する輩である。 具体例をあげよう。 さしあたって中国の李肇星外相がその筆頭だ。二〇〇六年三月六日、全人代後の記者会見で彼はヒツトラーを引き合いにして日本のA級戦犯を批判してみせた。 バカも休み休みいえとはこのことだろう。 かつて戦犯裁判の法廷でさえ日本の指導者とドイツのヒットラーとは違うと、はっきり区別して論じられた記録が残っているのを、外相たるものが知らないのか。 そもそも、この程度の認識で靖国参拝に反対しているなら、日本としでは歯牙にもかけず聞きながすしか無いと、今度という今度こそ私も呆れ果てた。もっとも、中華人民共和国はA級戦犯が処刑されたあとに誕生した国である。それまでは存在しなかったし、ましてや李肇星外相は戦争を知らない年代であろう。不勉強にはちがいないが、無理もないといえば無理もない面もあるし、じやあ、お前ンとこはどうなのかと反論されれば、こちらとしてもチト分が悪い。 たとえば麻生太郎外相は(三月八日)、日本記者クラブで記者を相手に、靖国神社には戦死者ではない人も祀られているのが問題だ、と発言してA級戦犯の分祀の必要をほのめかしたと伝えられた。分祀の必要をほのめかした云々は、それこそ記者の思い込み解釈だろうが、麻生さん、靖国神社に戦死者でない人が祀られているのがどうして問題なのか。靖国神社が戦死者だけを祀る場所と限られていないことは、すでに常識となっている。たとえば沖縄のひめゆり部隊の乙女たちや、沖縄から鹿児島まで学童疎開のために対馬丸にのっていて遭難した児童たち、古くは日露戦争にまきこまれて日本船の船長として遭難したイギリス人など、国家的見地からみて日本の犠牲になったと思われる人々で、氏名のはっきりしている人の霊は靖国に祀られているの知らないのか。  靖国問題の矢面に立つべき外相が、もし事実として靖国神社を戦死者のみを祀る場所として認識していたとすれば、李肇星外相をあざ笑えまい。

◇東条英機は悪人か そういえば、東条は悪人だという思い込みもかなり行き渡っている。  勝ち目のない戦争を始めた無謀な首相、白旗をかかげるタイミングを外して目本をとことんまで窮地に追い込んだ強引なりーダー、などと位置づけられている。 しかし半世紀前、東京裁判が始まったころに「東条見直し論」が、ひそかに蔓延していた。朝日新聞の「天声人語」でさえ、 「電車の中などで『東条は人気をとりもどしたね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東条礼賛のものを時に見受ける」(昭和二十三年一月八日)と書いている。 おそらく東京裁判法廷で天皇をかばいぬいた東条の証言に人々は好感をもったのであろう。もっとも朝日新聞のことだから、締めくくりは東条の陳述に共鳴してはならないとしているが。 二十年ほど前、A級戦犯を裁いた「東京裁判」のドキュメンタリー映画が、戦後はじめて日本で上映されたが、このころにも東条見直し論がかなり取り沙汰された。 四時間半におよぶこの映画は、昭和天皇がいかに心ならずも開戦の決断を下したかを東条が証言した様子を浮かび上がらせているし、敗戦国のトップとしてプライドに満ちた態度で証言した様子もつぶさに写し出されている。人々は、ここでそれまでの思い込みをたださずにいられなかったのであろう。 毎日グラフの柏木辰興記者によれば、「A級戦犯として絞首刑になった東条英機を見直す気運が強まっている。戦史専門家の間でも、東条英機は首相になって対米戦回避に尽力しており生硬な主戦論者ではないとか、当時は天皇、統帥部の強い権限があり、独裁者ではあり得なかったなどというものだ」(昭和五十八年八月二十一日) とあるから、世論はドキュメンタリー映画にかなり刺激されたものと思われる。さらに、この後がいい。柏木記者の見解として、「東条内閣の成立を伝えた当時の新聞は『一億国民の総司令官、東条さんしっかり頼みます』『実行家のカミソリ宰相に期待』などの見出しが躍っていた。田中角栄を『今太閤』『学歴なしの庶民宰相』と持ち上げた比ではない。どこぞの政党は別としてマスコミ、文化人、財界をはじめ国民こぞってが東条に期待、戦意高揚を助けた」 と述べて、マスコミが作り上げる風潮の恐ろしさを伝えていた。私の年代だと、ここで拍手喝采したくなる。

◇それが戦争というもの 東条が悪い、日本の指導者の罪だ、などというけれど、悪いといえば一丸となって戦った日本中が悪い。  「生きては帰りません。この次に会うときは靖国神社で」 と、男たちは私心を捨てて戦場に向かい、家族はそれを喜んで見送った時代が日本にあったのだ。そんなバカなとはいまだからいえることで、当時、子供だった私はお国のためには命もいらぬと思ったし、私の周辺の大人も迷うことなくそう思っていたかに見える。ウソだと思ったら戦時中の新聞を開いてみるがいい。ひとり息子を迷うことなく戦場に送った母親や、三人の息子が立派にお国のために死んだのを喜ぶ両親の話が連日のように美談として紹介されている。 見方を変えると、日本人は当然のこととして愛国心を持ち戦争が始まった以上、四の五のいってないで勝たなきやならぬと思い詰めていた。いまだから歴史認識だの侵略だのと丘の上から景色をみるような思いで、いっぱしの論戦を交わすけれど、当時は自分の国を愛し守るという美学に反論の余地などなかったのである。それが戦争というものだ。戦争は狂気に支えられて進行するものであり、いったんはじまった以上、人道的に戦うなどということはあり得ないと私は思っている。 視野がせまいといわれればそれまでだが、当時の国民にとってそれは爽快で、すっきりと心おちつく境地であった。すくなくとも少女だった私は、当時を思い出して後悔や反省など微塵も感じない。近代化を目ざした国家として、国民として一度は通らねばならなかった通適地点てあったとさえ思っている。 戦争を知っている私が通過地点として切り離した過去を、戦争を知りもしない人が事あるごとにもっともらしく論理づけて、日本人の歴史認識の誤りにむすびつけるのは自由だが、私は受け付けない。

◇怒るほうが悪い ともあれ靖国問題をめぐって、いまや日中互いに頑迷な思い込みを抱えて暗礁に乗り上げている。この状態を脱却する方策は政府の仕事で私ごときが口を出すべきではないが、私の結論ははっきりしている。日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国神社に参拝するからといって他国が怒るのは、怒るほうが悪い。なぜなら彼らはA級戦犯の処刑後に誕生した国家のトップとして、無知を思い込みで埋めて恥ずかしげもなく発言しているからだ。 さきの記者会見で李肇星外相は、 「アメリカとマレーシアの政府当局も『日本の侵略者を忘れてはいない』と話した。ドイツ人も日本の靖国参拝を『愚かで不道徳なこと』といっている」 などとも話している。 まるで十二歳の少年の論法だ。戦後、日本はマッカーサーから十二歳の少年と郷楡された時期があるが、いまここで中国にこの言葉をお返ししておこう。出来の悪い少年が仲間の行状を批難する場合、必ず口にするのが、「ダレちゃんが、こう言っていたよ」「ソレちゃんも、ああ言っていたよ」という論法である。タチの悪いのは「ボクは別にどうも思っていないけど」などと先天的卑怯さをあらわにしたりする。 十二歳の李肇星よ。公の席で詰るなら、せめて自分の調べた結果では日本のことを、こう糾弾したいとなぜいえぬ。ダレちゃんも、ソレちゃんも、みんながこういっていたよという論法が国際社会で通ると思っているところが、見苦しくも可愛い。 ああ、ヤダヤダ。日本はこんな論法を真に受けて、場合によっては次期首相に靖国参拝を止めさせるつもりであろうか。小泉首相を含めて戦争を知らない人が、いまや日本の人口の八○%と聞いた。ならば戦争や戦時体制を多少なりとも知っている私は私なりに調べた結論を、くどいようだが事あるごとに繰り返さねば ならぬ。 日本は連合国四十八か国を相手に平和条約を締結し、戦犯問題などの取り決めを済ませて独立した。ざっくばらんにいうと、その平和条約には条約締結にあたって署名していない国は日本の戦犯問題に関して発言したり、日本に損な、あるいは日本を害するような行動をおこす権利はないと書いてある。実は中国も韓国も、四十五年前の条約締結の場から外されており、署名も批准もしていない。つまり、この問題に関して門外漢なのだ。  で、最後にもう一度繰り返そう。 手に負えないもの、それは無知にして頑迷固陋な思い込みを発言しまくる国である。 ◎かみさか・ふゆこ ノンフィクション作家。昭和五年(一九三○年)、東京都生まれ。名古屋文化学園卒。著書は『巣鴨プリズン13号鉄扉』『「北方領土」上陸記』『「生体解剖」事件』など多数。平成五年、第四十一回菊池賞、第九回正論大賞を受賞。最新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』

上坂の雑駁な見解に反論する前に靖国神社の本質を客観的に見てみる。小学館「大日本百科全書」引用。

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 ■靖国神社東京都千代田区九段北に鎮座。1869年(明治2)戊辰(ぼしん)戦争の戦没者を招魂鎮斎するために、明治新政府により創祀(そうし)された「東京招魂社」がおこり。のち各府藩県で設けられていた地方の招魂社が廃藩置県以後、国家的な統制を受けるに伴い、中央の招魂社としての東京招魂社も正式な神社として整備が進められ、79年には靖国神社と改称、別格官幣社に列格した。陸・海軍両者の所管になるが、その管理は創建の由来からおもに陸軍省があたった。別格官幣社の制は72年に始まるが、国家的な功績のあった人を祭神とすることを特色とした。当社の祭神はその後、53年(嘉永6)以降の国内の戦乱、また対外戦争である日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争などの戦没者(軍人、民間人ほか)を合祀し、現在約246万人(女性祭神約6万人)。例大祭(4月22日、10月18日)には天皇からの勅使が遣わされ、またその前夜には祭神としての合祀祭が行われる慣例である。国家との関係は、戦後は全面的に断たれたが、「靖国神社問題」として国家護持、首相の公式参拝、A級戦犯合祀問題など、神社の歴史的性格と国家、政府との関係をどう扱うか、未解決のままである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も詳しく記載してあるので、一部引用。

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靖国神社(?國神社、やすくに・じんじゃ)は、東京都千代田区にある神社で、近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、慰霊・顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない単立神社である。東京の九段に鎮座する事から、単に「九段」あるいは「九段下」などと通称される事も多い。

神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省ではなく、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、国家との関係は断たれた。

靖国神社本殿に祀られている「祭神」は神話に登場する神や天皇などではなく、「日本の為に命を捧げた」戦没者、英霊(英でた霊)であり、246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。国籍は日本国民及び死亡時に日本国民であった人(戦前の台湾・朝鮮半島などの出身者)に限られている。

靖国神社は、合祀について以下の規定がある。(2004年10月17日現在)

■軍人・軍属 ○戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、戦死、戦傷死、戦病死した者。 ○戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、公務に基因して受傷罹病し、内地に帰還療養中に受傷罹病が原因により死亡した者。 ○満州事変以降、内地勤務中公務のため、受傷罹病し、受傷罹病が原因で死亡した者。サンフランシスコ講和条約第11条により死亡した者(戦争裁判受刑者のことで、政府では「法務死者」、靖国神社では「昭和殉難者」という。ABC級に関わらず死刑になった者)。 ○「未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務上、負傷や疾病にかかり、それが原因で死亡したとみなされた者。

■準軍属およびその他 ○軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。(満州開拓団員・満州開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満州開発要員・洋上魚漁監視員) ○特別未帰還者の死没者。(ソビエト連邦・樺太・満州・中国に抑留中、死亡した者・戦時死亡宣告により死亡とみなされた者) ○国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者。(学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦) ○船舶運営会の運航する船舶の乗務員で死亡した者。 ○国民義勇隊員で、その業務に従事中に死亡した者。(学域組織隊・地域組織隊・職域組織隊) ○旧防空法により防空従事中の警防団員。 ○交換船沈没により死亡した乗員。(つまり、「阿波丸事件」のことを指す。) ○沖縄の疎開学童死没者。(つまり、「対馬丸」のことを指す。) ○外務省等職員。(関東局職員・朝鮮総督府職員・台湾総督府職員・樺太庁職員。)

戦前においては、靖国神社への合祀は、陸・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席した時期もあり、合祀は死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。戦後になるとこのような合祀制度は形を改めたが、1952年当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。それに伴い、1956年、厚生省(当時)引揚援護局は、各都道府県に対し、「靖国神社合祀事務協力」という通知を出し、1953年8月に成立した恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法で「公務死」と認められた者を「合祀予定者」と選び、その名簿を厚生省から靖国神社に送付、合祀された。

合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、特に海外出身の被祀者について遺族が不満を抱く事例がまま見られ、中には裁判に至っているものもある。ただし、現在の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の解答がない場合に限って合祀している。

戊辰戦争の官軍側戦没者を祭ったことが靖国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作なども合祀されている。従って戊辰戦争で官軍に反抗した幕府軍、幕府側に立って戦った新選組や彰義隊、西南戦争を起こした西郷隆盛は(明治維新の立役者でありながら)、賊軍であるため祭られていない。そのため、結局祀られているのは戦前戦中の政府の為に死んだ軍人だけであり、死ねば全ての人間が神になるという論理からすれば、国家の為に戦死した軍人全てを祀っているとは言えない。また、明治期の軍人、乃木希典や東郷平八郎も戦死ではないため、祀られていない。

■元A級戦犯の合祀第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)において処刑された(特にA級戦犯を指す)人々が、1978年10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されていた事実が、1979年4月19日に大きく報道されて国民の広く知るところとなった。戦後昭和天皇は数年置きに参拝していたが、合祀以前の1975年(昭和50年)頃からマスメディアによって「私的・公的の別」や「玉串料の支払」等が問題となり、当時の三木武夫首相の「私的参拝」発言により憲法論議を招来し政治騒擾に巻き込む事になる。

側近によれば昭和天皇はA級戦犯合祀に反対だったそうであり、そのためもあってか天皇親拝は1975年11月21日、終戦30周年が最後となっている。それ以降、春秋の例大祭などにおいては勅使が遣わされている。しかし、2004年8月15日には石原慎太郎都知事が「天皇陛下による参拝を望む」と、マスメディアに発言するなど、天皇による靖国神社参拝を望む声も多々ある。 尚、靖国神社に合祀されている元A級戦犯は以下の14人である。

■刑死した者 東条英機(内閣総理大臣・陸軍大臣・陸軍大将・絞首刑) 広田弘毅(内閣総理大臣・外務大臣・駐ソヴィエト大使・絞首刑) 土肥原賢二(陸軍大将・奉天特務機関長・絞首刑) 板垣征四郎(陸軍大将・支那派遣軍総参謀長・絞首刑) 木村兵太郎(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官・絞首刑) 松井石根(陸軍大将・中支那方面軍司令官・絞首刑) 武藤章(陸軍中将・陸軍省軍務局長・絞首刑) 刑期中に病死した者 平沼騏一郎(内閣総理大臣・枢密院議長・終身刑) 白鳥敏夫(駐イタリア大使・終身刑) 小磯国昭(内閣総理大臣・朝鮮総督・陸軍大将・終身刑) 梅津美治郎(陸軍大将・関東軍司令官・陸軍参謀総長・終身刑) 東郷茂徳(外務大臣・駐ドイツ/駐ソヴィエト大使・禁固20年) 戦犯指定を受けながら判決前に病死した者 永野修身(海軍大臣・海軍大将・海軍軍令部総長) 松岡洋右(外務大臣・南満州鉄道総裁) ------------------------------------------------

靖国神社の本質は、天皇のために戦死した英霊を祭神として祀ることにあり、その他の戦没者を祀っているのは枝葉のことである。このことは先頃の麻生外務大臣の発言「祭られている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下の参拝なんだと思う。それが一番。」に見られるとおりである。このことを政治評論家の森田実氏は「麻生氏の祖父の吉田茂元首相は『天皇の臣』と言ってはばからなかった。麻生氏も小泉首相の靖国参拝を支持する立場から、『総理がダメなら』と天皇を持ち出して、総裁選での存在感をアピールしようとしたのだろうが、完全に裏目に出た」と話し、「麻生氏が総裁候補から外れるのは政治的には小さな問題だが、日本外交が孤立することは国益を損ない、大失点だ」と批判した。

またタカ派政治家として知られる東京都知事石原慎太郎氏は一昨年八月の参拝後、「ぜひ、天皇に私人として、一人の国民として、国民を代表して参拝していただきたい」と宮内庁ですら当惑するような発言をし、議論を呼んだ。ここに靖国の本質があることを上坂冬子は知らないとでも言うのか。

反論その1 上坂のこの主張、靖国神社に戦死者でない人が祀られているのがどうして問題なのか。靖国神社が戦死者だけを祀る場所と限られていないことは、すでに常識となっている。ならばなにゆえ西郷や乃木は祀られていないのか。主張の理屈と合わないではないか。靖国側は選別していて、常識にはなっていない。なぜならば国家的な功績のあった人を祭神とすることを特色としたことに靖国の大きな特色、つまり意図があるのであって、沖縄のひめゆり部隊の乙女たちらはついでに祀られた程度のことで、靖国の本質とはかかわりのないことである。これらをごっちゃにして論を立てるのは小児的右翼と変わらない雑駁な考えである。

反論その2 そういえば、東条は悪人だという思い込みもかなり行き渡っている。悪人という表現が適当かどうかだが、戦前の日本を太平洋戦争に引きずり込んだのは、東条内閣による国民金縛りの大政翼賛会組織作りと真珠湾奇襲攻撃の命令があったからであり、だから極東国際軍事裁判で絞首刑判決が出たことを忘れて貰っては困る。あの裁判は連合国側の勝手な裁判であるなどという、国際社会にすら通用しない抗弁は言われないと思うが、どうであろうか。戦争にかり出された戦没遺族の多くは、また広島、長崎の被爆者、各地の大空襲の被災者たちが、東条を悪人と憎んでも罰は当たらない。

反論その3 東条が悪い、日本の指導者の罪だ、などというけれど、悪いといえば一丸となって戦った日本中が悪い。これほど雑駁、無知識な考えはない。戦争に狩り出された人たちの遺族への重い哀しみに対する無神経さには呆れる。一度じっくりと大政翼賛会の国民への〈縛り〉を学習して貰いたい。

反論その4 日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国神社に参拝するからといって他国が怒るのは、怒るほうが悪い。これもまた呆れるほど雑駁な見解である。実は中国も韓国も、四十五年前の条約締結の場から外されており、署名も批准もしていない。つまり、この問題に関して門外漢なのだ。だから批判してはいけないのか。中国、韓国ともに日本軍に侵略、民族の誇りと権利を蹂躙された国であることを忘却したのか。それにこうした問題を論じるにはあまりにも稚拙な表現、ぼくの近所のオバサンたちだって上坂よりはまともな表現を使う。

上坂冬子の筆致はなまくらになったものだ。

 


樋口季一郎を巡る時代状況

2006-04-04 11:58:32 | 樋口季一郎

歴史を正確に把握するにはまず平凡社「世界大百科事典」などを調べましょう。扶桑社文庫『教科書が教えない歴史』などでは、真実の歴史を知ることはできません。以下は小学館「大日本百科全書」より引用。
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■東条英機(1884―1948)
 陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山(てつざん)らと一夕(いつせき)会を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の35年、関東憲兵司令官となり、37年には関東軍参謀長となった。蘆溝橋(ろこうきよう)事件が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。38年板垣征四郎(せいしろう)陸相のもとで陸軍次官となり、40年7月第2次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣の陸相に就任した。松岡洋右(ようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。41年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、43年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、44年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。


■東条英機内閣 (1941.10.18~1944.7・22 昭和16~19)
 第三次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣が対英米開戦方針をめぐる閣内不統一のため総辞職したあと、木戸幸一内大臣の推挙で東条英機が組織した内閣。木戸は、主戦論者の東条でなければ陸軍を抑えて戦争を回避することができないと判断したと日記に記しているが、東条内閣は逆に欧州大戦の好機に乗じて太平洋地域の制圧を目ざす内閣となった。東条は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁的権力をもち、外相東郷茂徳(とうごうしげのり)、蔵相賀屋興宣(かやおきのり)、海相嶋田繁太郎(しまだしげたろう)、法相岩村通世(みちよ)、農相井野碩哉(ひろや)、商工相岸信介(のぶすけ)らを任命した。41年11月5日の御前会議で対米英蘭(らん)開戦を12月初旬とすることを決定、他方で来栖(くるす)三郎を特派大使として米国との交渉を続けた。しかし米側がハル・ノートを提出して、日本の中国、仏印からの無条件即時撤退、多角的不可侵条約などを要求すると、12月8日ハワイの真珠湾に奇襲をかけて開戦に踏み切った。緒戦の勝利で戦争を太平洋全域に拡大、そのため戦争指導体制と国民統制の強化が必要となった。42年4月翼賛総選挙を実施し、5月には翼賛政治会を結成して政党の御用化を図るとともに、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団などによって院内外の政治活動を統制した。41年12月には「言論出版集会結社等臨時取締法」を公布して国民の自由を極端に制限し、42年8月には町内会、部落会、隣組に大政翼賛会の世話役を置き、翌年9月には大政翼賛会町内会部落会指導委員の設置を義務づけ、国民を完全に掌握、動員する体制をつくった。42年11月には大東亜省を設置、東郷外相はこれに反対して辞職した。43年11月、商工省、企画院などを統合し、軍需省を新設して航空機生産の急増を図った。他方、42年12月中国の汪兆銘(おうちようめい)政権を参戦させたのをはじめ、占領地の政権を戦争に協力させるため「独立」を約束し、43年11月、「戦争完遂と大東亜共栄圏確立との牢固(ろうこ)たる決意を闡明(せんめい)」(5月31日御前会議での東条の説明)するため、大東亜会議を開催した。戦局の悪化、とくに44年7月のサイパン陥落とともに重臣層の反東条機運が高まり、海軍部内の嶋田海相排撃の空気を利用して倒閣運動が展開され、7月18日総辞職し、22日小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立した。


■大政翼賛会(たいせいよくさんかい)
 日中戦争および太平洋戦争期の官製国民統合団体。近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動の結果、1940年(昭和15)10月12日に結成された。翼賛会は経済新体制(統制会)、勤労新体制(大日本産業報国会)と並ぶ「高度国防国家体制」の政治的中心組織であり、大政翼賛運動の推進組織として位置づけられた。「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンを掲げ、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ナチスの指導者原理をまねた「衆議統裁」方式を運営原則とし、総裁は首相が兼任(歴代総裁は近衛、東条英機、小磯国昭(こいそくにあき)、鈴木貫太郎)し、事務総長有馬頼寧(ありまよりやす)以下の全役員はすべて総裁の指名によって任命され、中央本部に総務、組織、政策、企画、議会の五局と23部が置かれた。地方行政区域に対応して支部が設置され、各支部長の多くは知事および市町村長が任命され、中央と地方組織のそれぞれに協力会議が付置された。しかし、軍部、内務官僚、財界、既成政党など支配層各グループはそれぞれ異なる思惑をもっており、呉越同舟的組織であった。そのため翼賛会は、結成直後から主導権争いが絶えず、1941年2月には公事結社と認定されて政治活動を禁止され、さらに4月までの間に有馬らの近衛側近グループが退陣させられ、内務官僚と警察が主導権を握る行政補助機関となっていった。
 東条内閣は太平洋戦争の初戦の勝利の圧力を利用し、1942年4月翼賛選挙を実施して翼賛政治体制の確立を図るとともに、6月大日本産業報国会、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会の官製国民運動六団体を翼賛会の傘下に収め、8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定した。しかも町内会などの末端組織は生活必需品などの配給機構を兼ねており、全国民は日常生活まで内務官僚と警察の支配を受けることになった。ここに翼賛会体制=日本ファシズムの国民支配組織が確立し、憲兵支配の強化と相まって、治安対策的にはほとんど完璧(かんぺき)な権力支配が実現した。しかし本土決戦体制への移行に伴い、翼賛会は45年6月13日に解散し、国民義勇隊へ発展的解消を遂げた。


■大東亜会議
 太平洋戦争中、占領地域の協力体制を強化するため東条英機内閣が開催した会議。日本の敗色が濃厚となった1943年(昭和18)11月5日から6日にかけて東京で開かれた。参加者は、東条首相のほか、「満州国」の張景恵(ちようけいけい)国務総理、南京(ナンキン)政府の汪兆銘(おうちようめい)行政院長、タイのワン・ワイタヤコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相といった占領地区の政権の代表で、このほかオブザーバーとしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班が加わっていた。会議は、各国代表の演説のあと、共存共栄、独立尊重、互恵提携などの五原則を内容とした「大東亜共同宣言」を採択した。しかし、タイが正式代表を送らなかったことに象徴されるように、各国の対日批判の姿勢は強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ず、この「大東亜会議」自体も、内実を伴わぬ日本の宣伝の枠を越えるものではなかった。


■大東亜共栄圏
 中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという主張。太平洋戦争期に日本の対アジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガンである。太平洋戦争勃発直前の第二次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣時の外務大臣松岡洋右(ようすけ)が最初に使ったことばだといわれるが、日本を盟主に東アジアに共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想は古くから主張されていた。満州事変期の「日満一体」は、日中戦争期には「東亜新秩序」とその名を変え、東南アジア諸国を侵略対象とする1940年代初頭には「大東亜共栄圏」が主張されるに至った。しかし、このスローガンも、太平洋戦争が日本の敗色濃厚になり、日本からの物資供給がとだえ、逆に諸国からの日本への物資収奪が強行されるなかで色あせ、「共栄圏」は「共貧圏」へとその姿を変えていったのである。


■大東亜省
 太平洋戦争による占領地域の拡大に伴い、「大東亜諸地域」の総力を戦争に動員することを目的に、1942年(昭和17)11月1日東条英機内閣のもとで設置された行政機関。拓務省の対満事務局、興亜院、興亜院連絡部、外務省の東亜局・南洋局などを廃止、統合して創設され、満州・中国、東南アジア占領地における一元的行政を目ざした。部局には大臣官房のほか、総務局、満州事務局、支那(しな)事務局、南方事務局の四局が置かれ、南方事務局の管轄には、タイ、インドシナも含まれた。「大東亜共栄圏」内における大公使館などの現地機関は大東亜省直轄官庁となった。所属官署に興亜錬成所、興亜錬成院があり、関係各官庁間の連絡機関として大東亜省連絡委員会が置かれた。東郷茂徳(とうごうしげのり)外相は、外務省の権限が縮小されることもあり、その新設に反対して辞任したが、軍の圧力で設置が強行された。青木一男が初代大東亜相となる。45年8月25日、東久邇(ひがしくに)稔彦(なるひこ)内閣のときに廃止された。


■大東亜戦争
 太平洋戦争に対する当時の日本指導者層による呼称。太平洋戦争開始直後の1941年(昭和16)12月12日、政府が「今次の対米英戦は、支那(しな)事変をも含め大東亜戦争と呼称す」としたことから生まれた。太平洋戦争という呼称がアメリカ側からみた呼称であるのに対し、中国を中心とする東アジアを主戦場とする日本の戦争目的により合致してはいるが、「大東亜」解放の「聖戦」とした日本側の宣伝臭が含まれているため、戦後はあまり使用されていない。


■石原莞爾(かんじ)(1889―1949)
 陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(ちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱(こくちゆう)会に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。22年陸大教官中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、28年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。35年参謀本部作戦課長となり、翌年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発して実現は阻まれた。その後東条英機と対立して41年3月第16師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。


 


樋口季一郎と北一輝の出会い

2006-04-03 19:48:44 | 樋口季一郎

先ず北一輝の人物紹介を。小学館「大日本百科全書」より引用する。
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北一輝(1883―1937)戦前右翼の理論的最高指導者。明治16年4月3日、新潟県佐渡島で酒造業を営む旧家の長男として生まれた。本名輝次郎(てるじろう)。中学4年で中退後多くの書籍を読破、18歳ごろから『佐渡新聞』を舞台とする地方論客となり、「咄(ああ)、非開戦を云ふ者」など、帝国主義と社会主義を合一する論陣を張った。1904年(明治37)秋上京、早稲田大学の聴講生となり、06年1000ページもの大著『国体論及び純正社会主義』を自費出版した。天皇の万世一系を否定し、天皇は国の最高機関の一構成員にすぎないとした国体論は、世に衝撃を与えた。この本は発禁となったが、彼を中国同盟会へ入党させる機縁をつくった。同盟会で北は孫文(そんぶん)と対立、国粋主義の宗教仁(そうきようじん)と結んだ。11年辛亥(しんがい)革命が起こると、中国に渡って革命に参加、帰国後『支那(しな)革命外史』を書き、日本の外交を論じた。16年(大正5)に第三革命が起こるとふたたび中国に渡り3年余活動したが、19年に勃発した五・四運動を正しく理解できず、とまどいのなか上海(シヤンハイ)で『国家改造案原理大綱』(1923年に『日本改造法案大綱』と改題して刊行)を一気に書き上げた。天皇大権による戒厳令、国家機構改造、アジア大帝国の建設を論じたこの本は、その後長く右翼のバイブルになった。同19年大川周明や満川亀太郎(みつかわかめたろう)と猶存社(ゆうぞんしや)を創立したが、北と大川の対立で23年解散。その後は右翼団体をつくらず黒幕的存在となり、西田税(みつぎ)を通じて青年将校を組織しながら軍隊内部の右翼運動の情報集めなどを行った。一方では「安田共済生命事件」などで「事件屋」として暗躍し、「朴烈(ぼくれつ)・文子(あやこ)怪写真事件」などの怪文書をばらまいた。牧野伸顕(のぶあき)らに汚職があるとした「宮内省怪文書事件」では、懲役5か月の実刑を受けた。なお、31年(昭和6)以降三井財閥から年額2~3万円の情報料を支給されている。以後、十月事件、五・一五事件などのクーデター計画やロンドン軍縮条約反対運動などに関与。36年の二・二六事件では、青年将校らの決起を事前に知ったものの、これを押さえることができないと知るや、助言、激励を与えた。これは叛乱幇助(ほうじよ)にすぎなかったが、『日本改造法案大綱』を危険思想とみなした軍部により、特設軍法会議で叛乱首魁(しゆかい)として死刑判決を受け、昭和12年8月19日、西田税とともに銃殺された。
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北一輝との出合いの項は相沢事件や桜会への読者の理解にも通じる内容であるから、樋口の回想録から丁寧に引用しておく。ただしこの内容はどこまでも樋口の見解である。


最初に当時青年将校らが騒ぎ始めた要因はどこにあるか、このことを樋口は書いているので、そこを見ておこう。
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私が新聞班、警備司令部在任中の四年間において、日本の国内情勢は平穏でなく一歩を誤れば容易ならぎる事態に追い込まれんとする様相を示していた。それは政治の腐敗が庶因であるが、陸海軍上層部が政界、財界の意思に翻弄せられ、自己の本領を喪失し、その結果として軍隊内部の結束が弛緩したことに原因する。しかしてその主なる原因は、海軍軍縮会議にあることは言うまでもない。
 さきにも述べたように、海軍軍縮会議がやむを得なかったとしても、もし直接それに関与した人物が、道義的事態はかくまでも悪化しなかったであろう。ところが無責任なる政治家連は、「外政」において「以夷制夷」の政策を持つごとく、この軍縮なる極めて危険なる政策遂行においても、やはりこれと同一の思想に基づいて処置したものであり、加藤大将をワシントン会議首席全権たらしめて問題を解決し、その後彼をして国政全般を処理せしめたことは、一見はなはだ賢明なるに似て、実は軍隊破壊の要因を作ったものであり実に嘆かわしき極みであった。
 その結果として、比較的外界の作用を受け嫌い安全地帯であるべき船上生活の海軍将校問においてすでに、上層部に対する信頼の念を喪失せしめたばかりでなく、陸軍においてもこれに近き事態が発生し、やがて陸軍上層部に対する信頼感を喪失せしめるに到ったのであった。かてて加えて、陸軍は地上生活であり、外界との接触容易なる結果として、一旦そのような萌芽が生れるとすれば海軍以上の危険が急速に発達するのである。いわんや陸軍においては、志願兵制度は制度上一部存在するとしても、実質的にはほとんどが強制的徴兵制度であり、しかも強健なる壮丁が富民より供給されず、貧民層より出づるとすれば、いよいよ以て若き青年将校の思想が危険性を帯びて来ることはやむなしとはいえ、悲しむべき現象であった。私の今の立論は、私の現在の老人としての所見に基づくものである。
 私自身としても当時齢すでに四十歳を越えていたにもかかわらず、日本の政界、財界、上層軍部に対し批判なきを得なかったのであり、この分では「日本よ、何処へ行く」と憤慨に堪えなかったのであった。もしこの際言論界、特にジャーナリズムが健全であり、我らを含む一般国民に何らか将来に対する希望を抱かしむる公正不偏の論陣を張ってくれたとすれば、また不平、不満も癒されたであろうが、当時のジャーナリズムは「軍縮の必要
と軍人侮辱」とを混同して扱い、それをもって言論の自由となし、ジャーナリズムの黄金時代と謳歌し、「政、財、言の一致」を楽しんだのであるから、言論の自由もなく政治参与を絶対に封殺された血の気の多い青年軍人は、何処に向ってその鬱積を晴らすべきであったか。
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海軍軍縮会議とはどういうものであったか。ここを見ておかないことには、樋口の憤慨を理解できない。小学館「大日本百科全書」より引用する。
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1922年2月6日にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアが調印したワシントン海軍軍備制限条約である。この条約では、五大海軍国の主力艦保有量の比率を、アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.67、イタリア1.67とすることなどを決めた。アメリカ、イギリスは、第一次大戦後、アジア・太平洋の海軍国として台頭してきた日本の軍備増強に歯止めをかける必要を感じていたし、他方日本は、新興の海軍国として、大規模海軍の建設に乗り出してはみたものの、財政への圧迫、物資の不足などの困難を抱えており、不平等な内容ながらとりあえずこの条約を受け入れざるをえなかった。この条約が、同時に結ばれた数多くの条約、協定、議定書からなるいわゆる「ワシントン体制」の一部として成立したことも付け加えておく必要がある。
 その後、ワシントン会議で合意できなかった巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の制限につき話し合いが行われた。まず、アメリカ大統領の提案で、1927年6月からジュネーブで、参加を拒否したフランス、イタリアを除く、アメリカ、イギリス、日本の三国会議が開催された。しかし、このときには米英対立が解けず、合意に至らなかった。ついで30年1月からロンドンで、今度はフランス、イタリアも参加して五国会議を開き、30年4月22日、ロンドン海軍軍備制限条約に調印した。ただし、フランスとイタリアは話し合いがつかず条約に加わらなかった。この条約は、日本の補助艦艇保有量を、小型巡洋艦は米英の7割、潜水艦は均等、これらを条件として大型巡洋艦を米英の6割にすることなどを決めた。
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この思いは軍人樋口のみならず若手将校のあいだに、日本はこれで持つのかという憤りを拡大していった。こういう次期に北一輝が『日本改造法案大綱』を提げて登場したものだから、若手将校の多くが北の考えに共鳴していった。


以下の事柄は樋口が桜会に参加した経緯と桜会における彼の態度を表している。
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 この時、参謀本部ロシア班長に橋本欣五郎がいた。ロシア革命を研究し、トルコ革新の実際をも見た彼は、血の気の多いことも百パーセントを越していた。福岡県人であって、血の気の多い多数の民間人の同郷者とも往復し、大川周明博士とも深く交わっていた。
 一日、彼の首唱で大川博士の国家学に関する講演に百名ばかりの青年将校連が参会した。私もその席に連なった。それを契撥として、その年偕行社で若い者の会合が行なわれた。それが「桜会」である。その首唱者は橋本であり、私が最も古参青年将校であり、年から見れば立派な中年将校でもあった。数回会合して悲憤慷慨(こうがい)するうち誰ともなく、ただこのような無価値な慷慨的会合を反覆することは無意味であると叫ぶものがあり、何かそれに結論を与えよと要求するのであった。いかなる結論を出すべきであるか。ある者は一種の直接行動に出づべきであり、それ以外に結論があるべきではないと極論するのであった。私は「諸君の内のある者の主張が、もし直接行動を意味するならば反対する」と述べた。「それでは、あなたはこのままで可なりとするか」と詰め寄られた。私は「それで充分だと考える。もし現在の政治の運営、軍上層部の態度に対する我々の不満が、軍上層部に反映しそれが更に直接政治家を反省せしむるならば、それは大した効果であり、またそれで充分ではないか」と論じ更に、「もしそれ以上の行動を必要と考えるならば須く軍を去って自由の立場において何でもなすべきである」と極論したのであった。私の主張は大部分の共鳴を得たと信じている。
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樋口は改革派ではあったが、急進派ではなかった。ここに樋口の円熟した人格が表れている。次の箇所も彼のこうした態度を補強しうる箇所である。
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 いわゆる皇道派に属する人物で、しばしば私を訪問したものに香田、栗原、大倉、村中、磯部らの現役青年将校、その他西田、渋川等の旧軍人があった。大岸頼好も一、二度顔を見せたかと思う。
【中略】
 私はいつも彼らの所論を聴くに止め、彼らの企画に関し何ら深く立ち入らないことを方針とした。それは彼らの思想が私以上に深刻であり、少々な反駁、反論では彼らを翻意せしむることは無理であることを自覚したからである。ただ私は彼らに対し、「君たちの希望が合法的に達成される方法が見出されず、どうしても非合法に出る外、道がないとの信念に到達するならば、ぜひとも現役軍人たる立場を離脱すべきであり間違っても下士官兵を含む軍隊を使用してはならない。もしこの点に間違いを生じては、単に国体の本義を逸脱するのみならず、天皇の軍隊を崩壊せしむるであろう。さような場合は僕は僕の立場上当然諸君と対決するであろう」と、説得することを忘れなかった。彼らは大体においてそれを当然の説として聴取していたと信じている。私の説得に対抗し、青年将校を反対に使嗾するものに、北一輝があった。
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 樋口と北を会わせたのは相沢事件の相沢であった。次の下りはオウム真理教の麻原とその弟子の関係を重ねられる様子である。
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 元に戻るが、皇道派の青年将校が何故私の宅に出入したかについて更に思い当ることは、相沢と私との関係であった。彼は、中央幼年時代同中隊の一年後輩の男である。それ以後二十数年問何ら密接なる関係はなかった。彼はどの面で私を評価したかは知らない。ところが多分昭和六、七年の頃の秋と思うが、秋季演習地より大岸相好と一緒に上京して私を訪ねて来たのである。私は愕然としてその不届きをなじり、速かに帰隊して自分の処置を上司に仰ぐべきを説得したのであり、彼は私の忠言に従ったのであった。彼は感救居士であるから、なる程とわかればそれを直ちに実行するが、また他のよりよきまたは彼の見解に近き言に遭遇すれば、またそれに追随する。それを純なり粋なりと自認しており、それが禅の妙味なりと信じているのであった。私の言うロシア式ソーウェスチである。
 ある日、伐は私を田園調布の自宅に訪ねて来た。私は彼が許可なく上京したかと怖れたが、堂々許可を得ての上京の由であった.そのようなことに彼は虚偽を言わないのである。いな虚偽を持ち得ない程の子供のごとき純粋さが披の欠点であり危険性を持つゆえんであった。いずれにせよ、彼の革新熱は既に沸騰点に近かったのであり、特に軍隊の力、今で言えば問題の「戦力」を革新実行に利用するも、あえて不可なしと彼は主張するのであった。私は当時、懐疑的に北一輝の「日本改造法案」を研究して一個の結論に到達していた時であったから、彼に対し「それは北の革命学説による君の信念であろう。改造法案は日本の国体精神を尊重する”天皇中心の革命”のごとく見られるが、彼は革命の手段として単に”天皇の権威”を利用するものであり、建軍の本旨において我らは断じて北の原理と闘うべきてある」と説いたのである。これに対し彼は「あなたは北先生を誤解している。一度お目にかかれば北先生の真意が明瞭となる。先生は法華経の信者であり、毎日毎時法華経を読誦しておられ、常時、楠正成、西郷南洲、海舟先生などの霊との交渉があり、先生は事実生ける神であり生ける仏であり、断じて私心を内に蔵しない国士であり大哲学者である」と賞揚するのであった。私は「彼が法華経の行者であることには一応敬意を表すとするも、正成、南洲、海舟等の霊と談ずるなどということには無限の疑いを抱かざるを得ない。霊の交渉ということは、宗教的信念の高潮する時発する現象であり、本人はそれを自己の精神力のなすところと信じているとしても、職業的宗教家ならぎる限り、断じて他人に口外すべきではない。もしそれを君らに口外するとすれば、私は彼に私心ありと断ぜぎるを得ない」と駁したのであった。
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そして北一輝との出会いは次のようなものであった。
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 翌日の夕刻、相沢は何らの予告もなく北一輝を伴って再び私を訪ねて来たのである。北は相沢の紹介の後、「突然訪問したことをお許し騒いたい。私はあらかじめ貴殿のご都合を伺った上お訪ねするの礼儀は承知していますが、相沢が近く帰隊するにつき、ぜひ貴殿と私と一度会って置いてもらいたいとのことで、かく突然来訪した次第です。国家の現状を憂える心において貴殿も私も別に差異ありとは考えられませぬにつけ、今後共よろしくご交際願います」というのであった。私は「高名なる貴殿にお目にかかり欣快に堪えず云々」というような平凡な応答をなし、この日は二十分位の会見で、別に立ち入った話もせず彼は紅茶でも飲んで帰ったかと思う。
 翌日私は彼の都合を質し、答礼の意味で彼を大久保の屋敷に訪問したのであった。総檜の四、五年も経ったかと思われる、まずは広壮なる邸宅であった。私は国家改造に関する彼の思想につき一、二質問せる後、「天皇の軍隊を革命の道具に使用せざること。もしそれが誤用せらるる場合は、仮に北イズムに基づく国家改造が達成せられるとするも、必ずや第二、第三のクーデターが発生し永久に日本の国内平和は期待されないであろう」と私の信念を吐露して引き揚げたのであった。
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樋口季一郎と桜会

2006-04-01 21:38:13 | 樋口季一郎

樋口季一郎は桜会にも関係したが、回想録にはこの事柄は書かれていない。おそらく当時の役職が東京警備司令部参謀であったこと、樋口の風貌、年齢から橋本欣五郎らに強く加盟を勧められたものと思う。回想録を読むと樋口は文学青年の一面が見られるので、この面からラジカルな思想の持ち主と解されたのかもしれないが、橋本らとは肌合いが違ったのではないか。それに年譜によると樋口が東京警備司令部参謀に就任していたのは、昭和六年から七年の二年間で、翌年八月には福山に転任している。樋口の本意とは異なる名前貸しに終わったので、だから回想録で桜会にも触れなかったのでないか。



以下は小学館「日本大百科全書」より引用。
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陸軍省、参謀本部の中堅将校を中心に、国家改造を目的として結成された団体。1930年(昭和5)夏、橋本欣五郎(きんごろう)中佐(参謀本部ロシア班長)を中心に、坂田義朗(よしろう)中佐(陸軍省調査班長)、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)中佐(東京警備司令部参謀)ら二十数名の発起人により結成された。ロンドン軍縮条約に対する不満と政党政治への反感をもとに、「本会は国家改造を以(もつ)て終局の目的とし之(これ)が為(た)め要すれば武力を行使するも辞せず」との目的を掲げ、また満州侵略を不可欠と考えていた。31年5月ごろには会員150名に達し、同年7月には尉官級を中心とした小桜会も結成され、国家改造をめぐる将校の横断的組織となった。桜会内部には国家改造と対外侵略の方式に関する意見対立が存在したが、橋本らは満州侵略のためにも、まず国家改造が必要であると主張していた。橋本らは31年の三月事件および十月事件というクーデター計画で国家改造を実行しようとしたが、いずれも未遂に終わり、その後桜会は自然消滅した。 天皇制国家機構の中枢機関である陸軍内部に、初めて国家改造を指向する組織が結成されたことは、日本ファシズム形成過程に重要な意味をもった。
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橋本欣五郎(きんごろう)(1890―1957)陸軍軍人。福岡県出身。陸軍士官学校23期。陸軍大学校卒業。参謀本部や関東軍司令部に籍を置いた。1927年(昭和2)トルコ公使館付武官となり、ケマル・パシャの革命思想の影響を受ける。30年参謀本部ロシア班長となり、陸軍中堅将校を中心に桜会を結成する。31年、三月事件・一〇月事件を企て、軍の政治的進出を促した。36年、二・二六事件後の粛軍により砲兵大佐で予備役となるが、大日本青年党を組織し積極的にファシズム運動を展開する。37年日中戦争に召集され、同年12月、揚子江(ようすこう)上のイギリス砲艦レディバード号を砲撃拿捕(だほ)した事件により退役となる。40年大日本赤誠会を結成。42年衆議院議員初当選、翼賛政治会総務となる。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑となり、55年仮釈放。56年参議院全国区に出馬したが落選。




■三月事件 陸軍内部で企図され、未遂に終わったクーデター事件。1931年(昭和6)2月幣原喜重郎(しではらきじゆうろう)臨時首相代理は衆議院の答弁で、ロンドン海軍軍縮条約を天皇が承認したことを盾に批判を封じようとした。このいわゆる失言問題で議会は混乱した。それを背景に、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長)をリーダーとする桜会の幕僚将校は、民間右翼の大川周明(しゆうめい)の協力と軍首脳部の賛同を得て、陸相宇垣一成(うがきかずしげ)を首班とする軍部政府樹立を計画、国家改造の推進を目ざした。杉山元(はじめ)(陸軍次官)、二宮治重(にのみやはるしげ)(参謀次長)、小磯国昭(こいそくにあき)(陸軍省軍務局長)、建川美次(たてかわよしつぐ)(参謀本部第二部長)らがこの計画に賛成したといわれ、資金は徳川義親(よしちか)(貴族院議員)が援助した。計画は、大川が無産政党と連絡して3月20日ごろを期して民衆1万人動員による対議会デモを実行、軍隊が議会保護の名目で議会を包囲し、民政党内閣を総辞職させ、宇垣内閣を実現させるというものであった。宇垣がのちになって参加を拒否したため計画は挫折し、事件は闇(やみ)のなかに葬られたが、それは急進ファシズム運動の呼び水になり、同種の事件が頻発する契機をなした。




■十月事件 桜会の橋本欣五郎が首謀者となり計画、未遂に終わった本格的なファッショ的クーデター事件。錦旗(きんき)革命事件ともいう。1931年(昭和6)3月事件の失敗後、橋本らは関東軍の満州謀略計画と連携した国家改造クーデターを計画していたが、同年9月満州事変勃発後、それを具体化しようとした。計画には隊付青年将校らのグループも参加し、大川周明(しゆうめい)、北一輝(きたいつき)、西田税(みつぐ)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)らの右翼勢力も加わった。計画の内容は、10月21日を期して、桜会の将校が率いる十数個中隊の兵力を動員し、閣議の席などを襲撃して全閣僚、政党幹部、財界人を殺害、戒厳令を布告し、荒木貞夫中将(教育総監部本部長)を首班とする軍部政権を樹立しようとするものであった。しかし計画は事前に発覚し、10月17日、橋本ら13名前後が憲兵隊に検挙され、クーデターは未発に終わった。以後青年将校グループは、幕僚将校らの運動に不信感をもち、彼らから離脱して直接行動による国家改造運動を展開するようになっていった。
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桜会での樋口の姿については回想録末尾に──跋──として、稲葉正夫氏が次のようなことを書いている。

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 なおこの桜会に関係深く、唯一の政策参謀でもあった前記田中清少佐は昭和七年一月、有名な「所謂十月事件二関スル手記」をひそかに発表している。これによれば、発起人は橋本、坂田および樋口季一郎(21期-東京警備参謀)の三中佐で、発会当時は二十数名の会員であった。そしてその志すところは、国家改造を終局の目的とし、これがためには、要すれば武力行使も辞せずというのである。会員は、中佐以下の現役将校で私心なき者に眠られた。
 目的達成の準備行動としては、
 一切の手段をつくして国軍将校に国家改造の必要なる意識を注入
 二 会員の拡大強化(昭和六年五月ころには会員約一五〇名あり)
 三 国家改造のための具体案作成
などであったが、会員の目的を本質的に考察すれば建設当時から既に、(一) 破壊第一義、(二) 建設を主とする、(三) 中間浮動、にわかれていたという。
 樋口、坂田、橋本三中佐はいずれもロシア班に奉職した因縁あり、同憂同志であっても不思議ではない。当時、重厚な樋口中佐を発起人の筆頭に推戴したというのが本筋ではなかったか。土橋少佐手記にも結成時、樋口中佐の名はあがっていない。さらに田中少佐手記の三月事件および十月事件には、樋口中佐活動の記事は一切ないのみならず、かえって「十月十五日(全員逮捕は十七日)警備参謀樋口中佐ハ桜会ニ於ケル関係ヨリ個人的ニ橋本中佐ヲ説得セントシ遂二激論ヲ交へ終レリ」とある。
 要するに、トルコ武官から帰った橋本中佐は桜会を根城にして、トルコの例にならい最初からクーデターによる革新を狙ったもので、三月事件から十月事件まで終始、橋本中佐を中心にロシア班の小原重厚大尉、田中弥大尉およが支那班の長勇少佐等の少数過激派の盲動によるものであったようであるが、樋口中佐はじめ桜会多数の会員とは、根本において異なるものであった。ともあれ、桜会の少数過激派の行動が、のちの五・一五及び二・二六事件とあわせて軍部に武力革命の意図ありとして日本の朝野にショッタを与えたことは否めない事実であった。
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稲葉正夫氏については以下を参照されたし。
http://ww1.m78.com/topix-2/army%20officers.html


http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no72.htm




近年、故人樋口季一郎を冒涜するような形で担ぎ出してきたのは、桜会関係者ではないかといううがった見方もできるのである。必ずしも樋口季一郎にとっては好ましいことではない。