奥さんやなんて、と思ったが、 「ほんとにいいお湯で躯が温もりました」と応え、夜の化粧直しをした。 その間にもう一人の仲居が、孝夫を相手に、 「こちらが鱸(すずき)の奉書焼、こちらが白魚の酢味噌、これは公魚(あまさぎ)の照り焼。あとのものを合わせて宍道湖七珍と呼ばれています郷土料理です。それとこれは松葉がにのかに鍋です。お酒はお電話でご注文いただいたようにお銚子二本用意いたしました。奥さん、ご飯はこちらです。それではごゆっくり召し上がってください。お食事済んでからお布団用意させて貰います。このお宿にはバーも居酒屋もカラオケもありますので、あとで楽しんでください」と説明した。 説明し終わると、仲居二人は部屋の入口で膝を着けて頭を下げたあと、出て行った。 「沢山あるな。まずお酒を味見して」 「お注ぎします」 「ありがとう」 孝夫が佳恵の盃に注いでから、二人は盃を合わせた。 「美味しい。お酒をこんなに美味しいと思ったの初めて」 そう言って、佳恵は微笑んだ。 「きょうは運転ご苦労様でした」 「楽しかったです。奉書焼、地元の人でもめったに食べませんね」 「ぼくも一度だけ宍道湖畔の一流料亭に連れて行かれて食べただけです。これは観光客向けでしょう」 孝夫は醤油たれに薬味を加えると、白身を箸でほぐし、その中に軽く浸けてから口に入れた。 「なんとなく紙の香りがするな」 「がんばって食べないと残ってしまいます」 「お客さん、かなり泊まってますね。男風呂に二十数人浴(はい)ってましたから」 「そうですか。明日までは多いかも」 「お子さんたち、大丈夫?」 「はい、お風呂に行く前に電話しました。聡実が心配ないから二日でも三日でも泊まってきて、と言ってました」 「お母さん用無しってわけか」 孝夫は佳恵を見て笑った。 「もうお母さん役卒業します。そうしないと子どもたちに嫌われますから」 「親はそういうものですね」 昼食が割子蕎麦だけだったので、二人とも食欲旺盛だった。 「お酒一本ずつにしたのは、あとでバーに行こうかと考えて」 孝夫は佳恵の盃に注ぎながら言った。 「孝夫さんはカラオケされるの?」 「ぼくはまったく駄目です」 「お母さんはダンサー当時ステージで歌っておられたとか聞きましたが」 「ぼくは母とはなんでもかでも逆な生き方ですね。佳恵さんはカラオケは?」 「会社の同僚に引っ張られて行ったときは仕方なく付き合ってます」 「ここはバーとカラオケルームは別になっているそうです」 「それのほうが静かでいいですわ」 * バーは一階の庭園の一角を利用して架かっている朱塗りの橋を渡った別館にあった。暗くてよく見えなかったが、橋の下には白い玉砂利が川のように配置されていた。 「趣向を凝らせているね」と孝夫が言ったとき、佳恵は胸の裡でアッと声を上げた。 あの女の歌手が歌っていた歌詞、一生一度の竹の花、の中に、渡って懲りない渡月橋、というフレーズがあったことを思い出した。 ――これがその橋なのかも……。 さらに驚いたのは橋の中央部の庭園の反対側に、目隠し用の竹垣を背景に、見上げるほどの高さの寒椿がすくっと立ち、赤い花を咲かせていたことだった。そして根元にも無数の花弁が散っていた。 孝夫も珍しく思ったのか、そこで立ち止まった。そして独り言のように呟いた。 「宿の経営者はなかなかの趣味人だな」 佳恵は花弁の蕊(しべ)が黄色くほどけているのを見つめた瞬間、胸裡がカッと燃え立ち、腰から下が熱くなり、感覚を無くしよろけそうになった。狼狽えて横に立っている孝夫の手を初めて握り締めた。孝夫の言葉に応答する余裕はなかった。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 最初から読まれるかたは以下より。 一章 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 ![]() ★以下赤字をクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 ★「現代小説」にクリックを是非! |
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