ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「百鬼園随筆」

2004年01月23日 | 読書
百鬼園随筆
内田 百間著 : 新潮社(新潮文庫) 2002.5

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 内田百間(百鬼園)のユーモアのセンスや文体は師の夏目漱石譲りだと感じるのはあながち間違いではないだろう。自分自身を嗤い、世間を嗤う、そのユーモアには漱石と同じ、偏屈者の粋が感じられる。

 随筆集だから出来不出来が確かにあって、爆笑ものあり、含蓄深いもの、ハラハラドキドキものあり、かと思うとなんということなく読み飛ばしてしまうようなものもある。が、とにかく全編これ笑いに溢れていて、その笑いの向こうに寂寞感も漂い、読者の喜怒哀楽を誘う。

 随所に名言・迷言があり、また卓抜な社会観察眼が窺えるのにはうなってしまう。借金王百鬼園先生は、借りた金は別の借金の返済のために使うという、今で言えば「サラ金地獄」にはまっているのだが、この借金を描いたくだりは白眉である。

 「金は物質ではなく、現象である。……金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。……金とは、常に受け取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているのは悔恨である」

 内田百間がマルクスを読んでいたとは思えないが、貨幣の物神性をものの見事に言い当てている。しかもそれが、自らの借金生活の言い訳のために思いついた洞察というところがおもしろい。

 わたしはこの本を通勤電車の中で読んでいて、声を出して笑いそうなのをこらえるのに苦労した。「梨の腐ったのが林檎で、林檎の腐ったのがバナナ」などという噴飯ものの科白はどこから湧いて出るのだろうと可笑しくってしょうがない。
 と同時に、百間の随筆にはある不安が底付いている。ドストエフスキーの『二重人格』や『地下室の手記』を読んだときのような不安、言い換えれば、道を踏み外していきそうな不安、だ。百間本人は世の中を斜に構えて見ているのだが、そのはずし方が微妙で、「斜に構えられた世間」の目から見れば、危なっかしくてハラハラする。読者は「百間の目」と「世間の良識の目」の双方を行き来して感情移入してしまい、宙ぶらりんの不安感を味わう。
 偏屈を通そうとするにはそれなりの矜持が必要であり、百間の随筆には悲しきインテリの矜持と自嘲が垣間見える。

 新字体、新かなづかいに直された本書はたいへん読みやすく、お奨めの一冊といえよう。できれば、各随筆の初出年月を書いてほしかった。わたしは書かれた時代背景とクロスオーバーさせながら文章を読むたちなので、こういう情報があればありがたいと思う。
 そういう意味では、巻末の川上弘美の「解説」は全然解説になっていなくて、何の役にも立たない。有名作家に文庫本の解説を書かせることが流行っているのかしらないが、川上弘美の文章自体はおもしろいけど、内容は解説ではない。どうせなら作品解説、というか、「解題」を付してほしい。


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