ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

怪漢金俊平の生き様そのもののような骨太な文体「血と骨」

2004年11月08日 | 読書
 よくぞこんなすさまじい男もいたもんだと驚いてしまう波乱万丈の物語だ。

 骨太い文体は主人公金俊平のイメージそのものだ。暴力と酷薄と吝嗇だけに生きた男の生涯を、作家梁石日は叙情を排した文体で石に文字を刻み付けるように描いていく。作家自身の父のことだからだろうか、感情描写を極端に排した、<出来事の積み重ね>のみによって彼は父の生涯を物語にした。
 淡々とした文体には技巧も美しさもないのだが、性交の場面だけがどういうわけか入念に書き込まれていて、しかもその表現がけっこう陳腐なので苦笑を禁じえない。

 このような書きかたは、主人公金俊平に読者の誰もが感情移入も同化もできず、ましてや共感や同情など抱くことができないように仕組まれている。

 なぜこのような凶暴な男が存在するのか、その理由は誰にもわからない。金俊平の胸の内はほとんど描かれない。彼は最期まで謎の人物なのだ。

 こういう人間を見ると、わたしなどは「なぜこのような常軌を逸した心理を持つ人間が育つのか」とすぐに「原因」を求めたくなるのだが、そのような「生育歴に原因を求める」などという分析を一切あざ笑うかのような化け物として超然と金俊平は屹立する。

 なぜ梁石日は俊平の内面を描かなかったのだろう。なぜ彼をこのように粗暴なだけの男に描ききったのだろう。もちろん最後は孤老の憐れさを誘うのだが、作家は最後まで俊平に同情を寄せない。同情の気持ちをもてないのだ。
 しかし、この小説を最後まで読んだ読者は、金俊平の憐れな老醜に、自業自得という思いと同時に憐憫の情も抱いてしまうだろう。それは、最後まで誰にも心を開くことのなかった男の孤独があまりにも濁った光を放つからだ。

 家が貧しかったからとか被差別体験が金俊平をこのような怪物にしたなどという<解釈>の余地を許さないような、言語を絶する男の生涯にしばし呆然とするような小説だ。この怪物がけなげに寝たきりの愛人の世話をする場面だけが意外な心温まるエピソードとして挿入されているにもかかわらず、やはりその場面も淡々と描かれている。怪物の怪物たるゆえんか、このような場面ですら金俊平の毒は中和されたりしない。

 ところで、解放前の在阪朝鮮人の運動について描かれた場面は、わたし自身がかつて論文を書くために調べた事実が次々に頭に浮かび、懐かしさを覚えた。このあたりの描写は平板でおもしろみに欠ける。やはり直接作家が体験した戦後の朝鮮人長屋の描写ほどには生き生きとした魅力がない。

 映画「血と骨」のレビューはピピのシネマな日々をどうぞ。

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