経済学の著者の宇野弘蔵は1975年に亡くなっております。マルクス派の経済学者の中にあって、ある意味異端の人でした。そもそもマルクス経済学とマルクス主義経済学を分けて考えておられた。当然後者の方は発展段階主義として革命を前提とした経済学になるわけで、ソ連が崩壊するまではこの経済学は当時の大学の経済学部の半分を占めていたのではと思われますな。しかし、今ではこの経済学を教えているところはほとんど無いのではと思います。でも宇野弘蔵のマルクス経済学は資本主義の歴史構造がよく書かれていて、新鮮なところもあります。
ウェッジ5月号の残ったところを読みました。コロナ禍はいろいろな雑誌で特集されていますし、ネットを見れば腐るほど情報が溢れています。この頃は安倍首相の対応力に批判が出たりしていますが、安倍首相にしたところで医療のことはズブの素人ですから、厚労省の技官の言うことをそのまま繰り返すしか無いわけですね。全般に厚労省の対応の仕方が今一つで、硬直した考え方で対応が遅くなったというところではないでしょうか。この頃は文科省と厚労省がどうもいけてません。
ウェッジのあとは、窓から吹き込む気持ちいい風にあたりながら(コロナが空気感染でなくて良かったですよ)、経済論を読んでいました。
藤沢周平に取り掛かりました。橋ものがたりという短編集で、藤沢ファンではベストチョイスだということです。当然ながら、舞台は江戸時代。男と女の機微を描いたものです。江戸時代は運河がいっぱい作られたので、ここかしこに橋がありました。そこを舞台にした話ですが、4編ほど読みましたが、うむ、確かにいい話が続きます。人情物ですね。
在宅勤務の一日でした。前にも書きましたが、テレワークの仕組みが無いものですから、強制的な自宅待機のようなものです。とはいえ、遊んでいるわけではなく、仕事に関わることはしておりましたよ。8時間全部ではないですけれど。全部でないという時間帯は経済論を読んでいました。
外出自粛令が出ておりますが、やんごとなき理由で八王子まで行ってきました。泊まりだったので朝ランは近くの滝山城跡を走ってきました。戦国時代、北条氏照の開いた山城で、続日本100名城に選ばれています。武田信玄もこの城を攻め立てた記録もあります。遺構もしっかり残っていて、広くて城跡を見るだけでも見ごたえがあります。麓から50m位登ったところにあります。氏照は信玄との戦いのあと、八王子城(こちらは日本100名城)を作って移ります。本丸跡から多摩川越しにいい風景が広がります。でもこのご時世、来る方は本当に地元の人だけ。それもほんの少し。自宅に帰ってからネットで滝山城跡の記録を漁りました。まぁ、歴史好きの人でしたら、時勢が改まったら一見の価値はあります。但し、夏は避けたほうがいいですな。
月刊誌ウェッジ5月号を読んでいました。この雑誌は電子版がないので買うしかありません。元々は東海道新幹線の車内誌から始まった(のだと思う)のですが、大きくなったものです。ネットとも連動はしています。毎日メール配信されてます。月刊誌はたまに面白い特集をするのですね。今月はもちろんコロナなのですが、次なる強敵「疾病X」に備えるというタイトルに惹かれました。
天平の甍を読了。甍(いらか)とは瓦屋根のこと。聖武天皇の時代の遣唐使の話でした。主人公の僧、普照(ふしょう)だけが第9次遣唐使で唐に渡った僧として帰国します。そして何回も渡日に失敗した鑑真とその弟子の一行も一緒に第10次遣唐使の帰りの船で渡日に成功します。その時は失明していました。唐きっての高僧鑑真の来日は日本仏教界の一大エポックとなりました。聖武天皇の崩御後孝謙天皇によって、鑑真に寺が贈られますが、それが今に残る唐招提寺でした。唐招とはそういう意味であったかと納得した次第。唐招提寺に行きたくなりました。タイトルの天平の甍とは、帰国して落ち着いた普照に遣渤海使から1個の甍が届きます。差出人はなく唐から渤海を経て来たものでした。その甍は鴟尾(しび)という大棟の両端に載せる、城でいう鯱のようなものです。恐らく唐に残った一緒に渡った僧だと推察されました。鴟尾は金堂に使われたといいます。
「天平の甍」井上靖 新潮文庫電子版
隔日出勤の在宅勤務日ですが、午後からちょいと病院へ行って(コロナではありません)、初診だったので予約者のために待たされて、結局諦めて出直すことにして、でも1時間たっぷりと本を読んでおりました。天平の甍はあと少しまできました。遣唐使に同行した日本の僧と鑑真和上来日に関わる話ですが、この時代の航海というものが本当に大変だったことがよくわかります。大きくした手こぎボートで渡るようなもので、当時の船は船室が密閉されていなかったことが難破の大きな理由でしょうね。