コンスタティノープルの陥落はその攻防も50日間を越えたところで、ギリシャ人+ラテン人(ヴェネチア人、ジェノバ人)混成チーム対オスマントルコの戦いはあと一日を残すところまで読みました。トルコは先日大きな地震があって、今日現在600人が亡くなったという報道が出ています。ギリシャはヨーロッパの金融危機の源です。ビザンチン帝国の戦争の主体はラテン人(それもヴェネチア人)で、ギリシャ人は最後の皇帝コンスタンティン11世くらいが光りますが、宮廷は判断を誤り続けます。どうもこの時代からギリシャ人はうまくいかないようです。一方のトルコは長らくの王制から共和制への変更はあったものの、国造りは進んでいます。親日国家ですよね。さて明日はいよいよビザンチン帝国がこの世から消える時を読みます。
歴史というのは光の当て方で色々な解釈が出来ます。学校で習ってきた日本史はどちらかというと戦後の左翼ベースの日本史観(マルクス主義歴史観)であったことが一つの特徴だと思います。最近は本来の日本を見直そうという動きが出てきて、新しい歴史教科書を作る会(これは分裂してしまいましたが)などもその動きの一つでしょう。これは右翼史観というのともまた違うものだと思われます。左翼でなければ右翼だというのもステレオタイプであり、もう少し柔軟な思想が必要かと思い、その新しい歴史教科書を作る会の幹事だった西尾幹二(洒落ではありません)の国民の歴史をかじり始めました。これはブックオフで(1800だったのが)200円で買ったものです。まぁ人気の無さを物語っているとも言えますが、一部では名著とも言われています。
庭の柿の木の葉っぱがすっかり色づいてきれいなのを横目にしながら、先日買った山と渓谷11月号の残りを読んで、次は文庫を読み始めました。
ローマ人の物語を読み終えた後なのですが、ローマ史というのはどうも西ローマ帝国が終わった段階で終わるようで、東ローマ帝国はその後15世紀まで続いたものの、こちらは別の歴史になるということです。ビザンチン帝国とも言われるので、西ローマ帝国が終わった段階で東ローマ帝国はそちらに名称変更ということになるわけですね。で、そのビザンチン帝国の最後の様子、つまりコンスタンティノープルがトルコによって陥落したというところを読みたくなって、引き続き塩野七生の作品を読み始めました。コンスタンティノープルの陥落という作品で、ローマ人の物語が山積みに置いてあった隣にあったので一緒にゲットしてしまった次第。
知らなかったのですが、弦楽器は純正調という調律なのだそうで、音階は弦の振動の数の比になっているそうです。ですから、揃うととても澄んだ響きになります。演奏者は澄んだ響きになるように微妙に調整しながら弾いているのだそうです。ところこれだと転調がむずかしい。そこで開発されたのが平均律。今のピアノをはじめとする楽器はみな平均律で調律されているのですね。ところがこれは微妙に濁る。指揮者はこのあたりの弦楽器とその他の楽器との微妙な差を汲みながら全体の調和を取るように指揮をするのだそうです。したがって古楽というジャンルの音楽は純正調なのでとてもきれいな響きがするのだそうです。指揮者の仕事術は指揮者の仕事を解説しつつ、その音楽的背景までかかれた評論家の本とは違う内容で面白かったです。
「指揮者の仕事術」伊東乾 光文社新書
指揮者の仕事術という本に入りました。伊東乾という東大教授にして指揮者の本です。東大初の音楽教授だとのことです。バーンスタインとブーレーズに感銘と影響を受けた方で、指揮者でありながら音楽だけに限らない幅広い発言と著述を行っていますね。東大で同級生だったサリン事件実行犯豊田亨のことを書いた本で開健ノンフィクション賞をもらっています。黛俊郎亡き後の題名のない音楽会も引き継いだこともあります。指揮者とはどういう仕事かということは何冊かの本が出ていて、そういう本は読んだことがありますが、この本は仕事「術」であります。なかなか興味深い指摘と指揮者の現実の仕事ぶりが書かれていて面白いです。
久しぶりに山と渓谷11月号を買いました。読図特集ということで、地形図の読み方特集です。最近は低山での道迷いが増えていて、ハイキング気取りで山に入ったものの、低山特有の獣道とか仕事道に迷い込んで遭難する人が多いそうです。そもそも低山は木が生い茂っていて視界が聞かず、道迷いになりやすいのですが、それでも事前の(地形図)読図をするかしないか、あるいは地形図の持参は大きなポイントのようです。山には入ったら目先ばかり見るのではなく、遠く、周囲をよく観察しながら歩かないといけないものです。山と渓谷は山岳写真も多く載っているので面白いです。
大震災とかが起こると過去の歴史から学ぶような本が後追いで出版されます。今回もそうでしたが、阪神淡路の時もそう、奥尻の大津波の時もそうでした。今回は83年出版で日本海中部地震を契機に(江戸時代の)元禄大地震から学ぶという房総地方専用のほんを読みました。この大震災を機に再版されたものを読みました。日本列島は太平洋戦争後の高度経済成長期に天からの恵みで大地震が起きませんでした。このことが経済成長の原動力の一因ともいえますが、これから低成長どころか貧乏になるかもしれないという時に向かって、地震活動期に入ってしまいました。日本海中部地震は1960年のチリ地震による津波被害以来の津波被害をもたらし、100人以上が亡くなりました。秋田の海岸で遠足に来ていた園児がさらわれたのはこの時でした。以来奥尻島での津波被害があり、今年の大災害となったわけですが、今後も襲ってくる南海地震などによる津波被害も甚大になることが予想されています。元禄大地震では九十九里浜で甚大な被害が起き、今回の仙台空港付近襲ったような津波があったのです。波高6~7mはあったようで、民家流出、田畑への泥の沈着と塩害などにしばらく悩まされたのです。過去も未来も地震そのものの揺れと津波と生きて行かなくてはならないのは日本列島に住む人間の宿命です。
「房総沖大地震」伊藤一男 崙書房出版
たそがれに還るを読了。何回も書いていますが、SFにとっての悩みはそこで描く未来社会の様子でしょう。書かれた時点では作者の想像限界の未来を書くのだと思いますが、64年のこの作品にたいしては、それでも現実が追い越している典型ですね。なににしてもエネルギー源は原子力であるというもの、64年当時の世相だと思います。そして専用の原子力発電所を併設した100階建てのビルを埋める電子頭脳(!)。その能力は数学者700人が4年半かかる計算量を8500秒で計算するというのですから、現代のパソコン並みではないかと思ったりします。それが35世紀の頃、冥王星に植民地がある時代のことなのですから。ムーアの法則を知っていたらと思います。と、ケチばかりつけていますが、太陽系叙事詩とでもいうようなそれなりに壮大な構想を持った作品です。そういう細かな描写に手を入れれば現代の作品としても通用するのではと思ったりします。30年以上も前に読んだ時はわくわくして読んだ記憶があります。
「たそがれに還る」光瀬龍 ハヤカワSF文庫
日曜日の今日は、先月買った男の隠れ家10月号を取りだして、週末、秋の山へという特集をぺらぺらとめくっていました。山登りをしたいのですが、週末はランニングの練習もあったりで、また山も近くにないのでなかなか行くことができません。
本の窓11月号の残りを読み、一昨日買って置いておいたビックコミックオリジナルをビールを飲みながら読みました。今週は黄昏流星群がオカルトストーリーの最終回で面白かったであります。岳はいよいよ岳がローツェへの単独登頂に入るところですが、今日はBSでマッキンリー登山やモンブラン周回トレイルランなどを見たりしたので、なんか大自然の中に入っていきたくなりましたね。