【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「メランコリア」

2012-02-23 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


キルティン・ダンスト、最初から最後までメランコリー。
結婚式当日なのに、メランコリー。
盛大な結婚式を挙げてもらってるのに、遅刻はするわ、席ははずすわ。
これには、さすがのシャルロット・ゲンスブールも辟易。
皺を刻んで、「なまいきシャルロット」の頃のツルツルお肌はどこへ。
って、何十年前の話よ。シャルロット14歳のときの映画よ。
キルティン・ダンストもうつろな目をして「スパイダーマン」の頃の元気はどこへ。
映画の質が違うわよ。
せっかく妹キルティンの結婚式を姉シャルロットがプロデュースしてあげたのに、式は滅茶苦茶。みんな、帰っちゃう。
結婚式の混乱って、映画に馴染みやすい題材よね。ロバート・アルトマンの「ウェディング」とか。
ラース・フォン・トリアー監督って、神経症ぽくって好きな人はほとんどいないと思うんだけど、演出の才能は凄いから、混乱をきちっと描いて見応えのある映画に仕上げてる。
でも、曲者ラース。それだけじゃ終わらない。
本当の話はそのあとで、惑星メランコリアが地球に衝突する。
ありゃ、この映画、SFだったのね。
すると、立場が逆転。メランコリーな妹が落ち着いて、しっかり者の姉のほうがうろたえる。
妹は、世界なんてどうなってもいいと思っているからね。
こわっ。
惑星が惑星に衝突するなんてあるのかしらと思うけど、二人がたたずむ庭園に惑星が近づく映像はやたら幻想的。
月が二つあるように見えたりして、これって「1Q84」かい。
なんだかんだ言って、黄色を基調にした映像は想像以上に美しいから、それだけでも観る価値がある。
本当は開巻の数分間ですべて語りつくされている映画なんだけどね。



「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」

2012-02-21 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


おばあさんがおじいさんとヨリを戻す場面。おばあさんはおじいさんの姿を見とめて自分が持っていたショッピングバッグをドカンと床に卸す。おじいさんはそれを持つ。ただ、それだけ。言葉は何もない。
なに、いきなりディテールから入ってるの。しかも本筋とは関係がないようなニッチな場面。
だから話してるんだ。本筋と関係ないならこれから観る人が聞いても大勢に影響がない。
なら、話す必要もないじゃない。
いや、これから観る人にはこういうシーンをこそ記憶に留めてほしいんだ。言葉ではなく仕草で伝える。仕草が伝える。映画の基本がここにはある。
わかりやす過ぎる事例だけどね。
この映画自体、とってもわかりやすい構造だけどな。
うん、9.11で父親を失った少年が、父親の形見を求めて町じゅうを探し回るうち、いろんな境遇の人々と出会って心を開いていく。
教科書のような展開だ。
って、誉めてるの、貶してるの?
難しい問題だな。9.11をどうとらえるかと同じくらい難しい問題だ。
9.11を素材にしちゃうといろんな意味を持ってしまうけど、単純に父親を失った少年の喪失感を巡る物語だと思えば余計な意味合いをはさまなくてすむんじゃない?
そう。親子の物語だと思えば、父親が残した言葉や思い出が少年の成長を促した普遍的な話だってわかって胸に迫る。
外へ出ること。そのために父親が工夫したことが、父親を亡くして内に籠った少年を結局救うことになる。
つくりすぎの感もあるけど、悪い気のする映画じゃない。
ほんとは人情話なのかもしれないけど、「めぐりあう時間たち」「愛を読むひと」のスティーブン・ダルドリー監督だから、いかにも文学風に仕上げている。
もとは文学だからな。
そういう意味じゃなくて、映画の感触のことよ。
誰の感触?
誰の、じゃなくて、映画の。
お前の感触じゃないのか。
どうして?
ものすごくうるさくて、ありえないほど近づきすぎ。


「J・エドガー」

2012-02-15 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


ディカプリオ、がんばるの巻。
初代FBI長官ジョン・エドガー・フーバーの一代記をぼてぼての老けメイクまでしてがんばる。
有名人の一代記としては、ハワード・ヒューズを描いた「アビエイター」があったけど、それに勝るとも劣らない熱演。
「アビエイター」でも、大物=変人を演じていたディカプリオ、ここでも大物=変人を演じてるんだど、演じっぷりがいよいよ堂に入ってきた。
でも、「アビエイター」はマーチン・スコセッシが相当ハッタリかましていたけど、「J・エドガー」は監督がイーストウッドなだけに、あくまで重厚なつくり。
チェンジリング」と同じように時代の雰囲気というのを大切にしているのがありあり。
風俗から、ファッションから、イーストウッド映画ならではの時代色が大いなる見もの。
セピアを基調に派手な色合いを押えた映像は、それだけで“映画”であることを感じさせる。
そんな中、いちばんの儲け役は、実はデカプリオじゃなくて、彼の片腕となるアーミー・ハマー。
端正な顔立ちといい、流麗な立ち居振る舞いといい、秘めたる怪しさを漂わせて、ディカプリオの傍らにいつも寄り添う。
始終イライラした様相で性格破綻を感じさせる小柄なディカプリオと対照的にすらりとした風情で涼しげにたたずむ姿は、なんとも言えない微妙な波風を映画の中に際立たせる。
だけど、歴代大統領が醜聞を握られていたとはいえ、政府の要職を50年近くも1人の人間に任せていたなんて、アメリカっていう国もおかしな国ね。
政府の要職がコロコロ変わる国とどっちがまともかな。




「はやぶさ 遥かなる帰還」

2012-02-14 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


「私はメーカーの人間です!」名セリフだな。
どこで誰が言うかはこれから映画を観る人のために伏せておくけど、サラリーマンなら誰もが身に覚えがあることばよね。
でも、劇的な対立の場面はその一瞬で、あとは淡々と事が運んで行く。
はやぶさの打ち上げから帰還までを丁寧に追っているんだけど、いろんな危機が訪れながらもドラマチックな展開というより、冷静に対処して乗り越えていくという印象。
主演の渡辺謙も現場のリーダーとして、指示や決断をするだけだから、どうしても静的な演技になって、手持無沙汰とは言わないけど、地味な見せ場に終始する。
まあ、実際のはやぶさのチームはプロフェッショナルの集まりなんだからそうかもしれないけど、もう少し熱い思いの噴出する場面や葛藤を表に現す場面があってもよかったかもしれない。
いまや、機器の操作はすべてコンピュータ上で行われるから、コンピュータの画面を眺めているばかりで映画的な見せ場にはならないというハンデもある。
通信の波形がひょいと上がったっていうのは、現場の技術者たちには凄いことなんだろうと想像はつくけど、それを画で見せられても素人は興奮できない。
下手な作為を施さず、あくまで誠実に映画をつくっているのは好感が持てるんだけど、そこをもうひとつ超えて行く表現がほしかった。
7年という途方もない時間の経過を何かで感じさせる工夫とか、60億キロという途方もない距離を感じさせる工夫とかあってもよかった。
そうまでしてサンプルを持ち帰ってくることの重要性を語る場面とか。
チーム員たちの家庭の事情とか人生模様とか、物語に起伏をもたらすためについつい手を出しがちな枝葉がいっさいなかったのは見苦しくなくてよかったけど、一方であまりにストイック過ぎる印象もある。
そういう意味では、不器用な映画なんだな。
技術は素晴らしいんだけど、それを飾り立てる術が足りない。
朴訥とした日本の技術開発者たちの姿そのままを体現しているような映画。
だからこそ、応援したくなっちゃうんだけどね。
瀧本智行監督、プロの仕事には間違いないからな。



「ドラゴン・タトゥーの女」

2012-02-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


さすがは、デビッド・フィンチャー。この手の映画を撮らせたら右に出る者はいない。
常軌を超えた主人公の造型の確かさ。スピーディかつ切れのある映像のみごとさ。複雑に入り組んだ話を整理する手さばきの良さ。
目をそむけたくなるような残虐なシーンを織り込みながらも、北欧に降り積もる雪のような静謐さをたたえたトーンが基調に流れている。
殺人事件の謎解きも興味を引くけれど、それ以上にドラゴン・タトゥーの女の冷やかな表情の奥にある深い心の傷。
凄惨な物語の解決の果てに待っていた、切なすぎるラスト・シーン。
鎧かぶとを纏わなければ生きてこれなかった少女の、その鎧かぶとを脱いだ瞬間が一瞬、垣間見え、そして・・・。
演じるのは、ルーニー・マーラ。
ほとんど馴染みのない女優だけど、ことば少ない中に、強靭さと繊細さを全身で表わしていて、いままでの女優にはないような新鮮な感じがある。
この難しい役を背負う女優を、デビッド・フィンチャー、よく探して来た。
そして、まったくブレないキャラクターを彼女に与えている。
ある意味、「家政婦のミタ」さんに通じるブレのなさ。
うーん、久しぶりに出たわね、ヘンな例え。
回想シーンに出てくる60年代の雰囲気つくりも怠りないし、猫の扱いも疎かにしない。
野良猫が出てきたときには、どこかのシチュエーションで生かすんだろうなと思ったら、やっぱり生かしてた。
生かしたというより・・・。
おっと、それ以上は言わぬが花よ。
そう、花。押し花のプレゼントで犯人に気づくべきだった。
いまごろ、遅過ぎ。
俺は、遅咲き。