団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

四人組

2012年06月12日 | Weblog

 新聞の週刊誌の刷り込み広告に“民主党の4人組”と大きく書かれていた。4人組といえば、少し前に電車の中で遭遇した女性たちのことを思い出した。

 小田急線で東京へ定期健診に行った時のことだった。奮発してロマンスカーに乗った。小田原の駅前に切符の安売り販売所ができた。そこで株主優待乗車券を650円で買える。正規乗車賃は850円。片道200円安くなる。往復で400円の節約になる。ロマンスカーは特急代が870円かかるが、安売り販売所で70円引きの800円だ。帰りは町田で買い物があるので、行きだけロマンスカーにした。電車で本を読むのが好きだ。さっそくカバンから読みかけの本を出し、読み始めた。

 「お寺が・・・」「お墓が・・・」大きなよく通る女性の声が車内に響き渡る。電車の「ガタンゴトン」は、読書を心地良く進める推進力となる。しかし度を越した馬鹿話や声は、読書の大きな妨げとなる。気に障るので本から目を離し、声のする方をチラッと見た。箱根帰りらしい4人組の女性だ。年齢70代前半。何かのお稽古ごとの仲間とお見受けした。4人が満遍なく平等に喋っては笑った。

 電車は数少ない停車駅のひとつに止まった。車内はほぼ満員。痩せて足どりが重い背広に白いシャツ、今どき珍しくネクタイをきちんと締めている会社員が乗り込んできた。年齢20代後半か。切符を片手に4人組の相向きにされた席の脇でモジモジしている。電車が軽快に発車した。「あの~この席・・」やたら細い声で若者が尋ね始めた。多勢に無勢。「あらやだ~またダブルブッキング」「小田急ってよくこれをやるのよね」「これ箱根14号よ」「あなたの切符は何号なの?」 ま~実に手際よくというか、順番よく女性陣は次々に喋る。通路側の女性が若者の切符をひったくるように奪う。「ほらあなたの10号じゃない」 私は自分の切符を首賭けホルダーから取り出す。私の切符も10号だ。4人組以外の全乗客が自分の切符を確かめている仕草が水紋のように凄いスピードで車内を駆け巡った。そして全員自分の切符が10号であることを確認し終わった視線が、4人組の席に向かってレーザー光線のように収束して注がれた。

 その集中砲火のような視線を感じたのか、ひとりの女性が自分の切符を見て叫んだ。「やだ、小田原発車時刻まだ1時間後じゃない」「ハハハ」「ゲラゲラ」「オホホ」と笑い始めた。照れ隠し?謝ることもなく女性陣は棚からパンパンにふくらんだ荷物を乱暴に落とし真下で次々にキャッチする。席を元に戻すこともなく何故か前方へ足音をたてて移動した。

 一人残された若者は、目一杯後ろに倒された背もたれを戻し、席を回転させて窓側に座った。大きなため息をついたようだ。音は伝わらなかったが、若者の肩が大きく1回上下した。

 前方に移動した女性陣は左右に分かれて空いていた席に陣取った。車内の私を含めた乗客がやっと息を復活させた。あきれ果てた女性たちへの失望から若者への支持を表明する安堵の輪が穏やかに拡がった。

 やがて車掌が4人組が新たに陣取った席に乗客がいてはならないのを見抜いた。どうして前の席に4人が陣取っていた時、発覚しなかったのか。きっと本来乗るべき客が小田原で3人乗り遅れたか、それとも途中駅からの予約があったのか、偶然が重なって4人組が切符の号車座席の数字通りに座れたのだろう。車掌に問われる前に4人組は、順繰りに事情の説明を開始した。車両の後方の私にまで聞こえてきた。車掌は彼女たちに空いた席を指定して無罪放免して間違い切符を受理したらしい。きっとよくあることなのだろう。いまの世の中には不注意が溢れている。再び電車の中に「アハハ」「ウォホホ」「カッカッカ」「ヘラヘラ」が響き始めた。私の後ろの箱根の温泉の旅帰りの夫婦がひそりと「ああはなりたくないわね」「あ~あ」(夫の同意の返事らしい)とつぶやきあった。

 「三人寄れば文殊の知恵」という。ところが日本には、ロマンスカーの4人組のような、ただの「烏合の衆」ばかりが跋扈する。憲法の前文に『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通して行動し・・・自由をもたらす恵沢を確保し・・・』とある。そんな烏合のような代表を選ぶ選挙民にも問題があるが、多くの国会議員はその能力もなく責任もはたしていない。ただ運よく手に入れた特権だらけの特別仕立てのロマンスカーの座席を死守することに明け暮れている。そのさまは、電車の4人組の女性たちと重なる。一方国民は、あの若者のように普通のロマンスカーの特急指定席券すなわち自由のもたらす恵沢を確保する切符を持っていても、使えないでいる。若者が4人組から席を取り戻したように。次の選挙で正当な代表者を国会に送り、近い将来、安堵のため息を思い切り吐きたいものだ。それには、まず一人ひとりが自身の文殊を高め、ちりも積もれば山となって多勢になることだ。この国難に立ち向かい、元気出して、汗をかいて、被災を分かち合う。必要なら生活を切り詰め、節電してでも金も出す覚悟も多くの国民は持っている。尖閣諸島を東京都が買うための寄付金がよい例だ。特別席にふんぞり返る人たちは、声なき声の国民の実力を見て見ぬふりをして、うまく操作していると思い込んでいるのだろうが、そうは問屋が卸さない。

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