団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

瓦屋根の家に住みたい

2017年03月08日 | Weblog

①    かや葺・わら葺き屋根

②    板葺き(シダーシェイク)・檜皮屋根

③    トタン屋根

①    離婚した後、母と二人で奥信濃をドライブした。母が突然「瓦屋根の家に住むのが夢だった」と窓の外を見ながら言った。私は母がどの家を見てそう言っているのかわからなかった。母は続けた。「生まれたのはわらぶきの屋根の家だった。町へ出ていくと大きな立派な家の瓦が光っていた。自分の家が貧乏なのでわら葺きの屋根なのだとずっと思っていた」と。私はかや葺きやわら葺きの屋根を美しいと思う。かややわらの屋根がどれほど作るにも維持するのにも経費が必要かを知っている。それでも美しい。イギリスに再婚した妻が留学していた時、二人でシェイクスピアの生誕地ストラトフォード・アボン・エイボンを訪ねた。シェイクスピアの生家は美しいわら屋根だった。街並みもエイボン川も川沿いの柳の並木も良かったが、多くのわら屋根の家々は、その景色の中で、調和しつつも際立っていた。芽吹きの春だったせいもあるが、忘れられない光景である。英国の首相だったマーガレット・サッチャーの苗字Thatcherは、英英辞書にsomeone skilled in making a roof from plant stalks or foliage(植物の茎や葉で屋根を葺くのに熟練した職人)とある。階級社会の英国で屋根職人の血をひく、しかも女性が英国の首相になったのだから、いかに英国において異例であったかわかる。私は、シェイクスピアの生家の美しいわら屋根と屋根職人という苗字を持つ女性首相を結び付けて悦に入る。ただ私の母親にこの話を母親がわかるうちに話してあげられなかったことを悔やむ。「わら屋根の家に生まれた人でも、屋根職人の末裔でも偉くなった人がいるんだよ」と。参考写真:白川郷のかやぶき屋根の葺き替え

②    シアトルの私の長女を預かってくれた家族は、大木が茂る森の中の家に住んでいた。その家の屋根は、板葺きの屋根(アメリカではシダーシェイクと呼ぶ。シダーは杉シェイクは木片)だった。家は森に同化して静かにたたずんでいた。時々煙突から上がる煙がなかったら太古の昔に戻ったような雰囲気だった。アメリカの住宅の屋根の多くは、アスファルトシングル(防水シート状の成形板)と呼ばれるものが圧倒的に多い。耐久性コストの面でも優れているらしい。わざわざ高価で傷みやすいので維持が大変な板葺きや木の皮葺きにする人は少ない。日本では伊勢神宮の屋根が檜皮葺きである。20年に一度の遷宮に耐えるのだから、その技術は相当なものだ。日本のような湿気の高い国では、板葺きや木の皮葺きは腐りやすい。それを20年持たせるのだからすごい。あの荘厳さは、檜皮葺きの屋根だからこそである。

③    私はトタン屋根の家で育った。雨漏りし始め父親がペンキ屋に屋根の塗装を頼むと言った。値段を知って母親は自分で塗ると言い、本当にペンキを買ってきて塗り始めた。2階建ての大きな家の屋根を一人で塗ってしまった。私も少し手伝った。2階の屋根は、怖かった。後ろで母が握る縄に支えられた私が屋根の先端にペンキを塗った。これがカナダの学校で役立った。学校での作業奉仕に私は迷うことなくペンキ塗りを選んだ。

 あのドライブから10年後、母はついに瓦屋根の家を立てそこに住んだ。母は自分の大きな夢を実現させた。江戸っ子を気取った見栄っ張りだった今は亡き父親と違い、堅実である。母は現在、施設にいるが、きっと施設の窓から瓦屋根の家を眺めて自分の人生を振り返っていることだろう。母よあなたは、私の内でサッチャーと同じくらい強かった。

 屋根には色々な種類がある、そのどの屋根も頭上にあって雨、雪、風、強い陽射しから人を守ってくれる。ホモサピエンスは、屋根の造り方を知ったから今日まで生き延びたと外の庭に降る雨を見ながら、私は思う。

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