団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

50年遅れのひとり修学旅行

2014年06月10日 | Weblog

 奈良の法隆寺の山門近くに私はいた。続々と駐車場にバスが入る。修学旅行の学生たちである。旅行社の添乗員か教師か、旗を掲げて先導する。制服を着た男女生徒がペチャクチャ賑やかに、はしゃぎ、ふざけ、私の目の前を通過する。私は立っていられなかった.

  おおよそ50年という歳月を遡った。私は高校の修学旅行に参加できなかった。その修学旅行は関西方面だった。元気溌剌ピチピチと弾けるような若さが私に迫った。通り過ぎる生徒を50名の私の同級生に当てはめた。順番にアイウエオ順に。7名が鬼籍に入った。思い出すひとり一人の顔は高校の入学式の記念写真の時の顔である。ジーンと目頭が熱くなった。

   当時同級生も私も若かった。その後1年で大学受験や就職という転機を迎えた。長野県の一地方都市の県立高校から全国に散らばった。私は日本から飛び出してカナダにいた。皆、夢と希望でいっぱいだった。難関大学に進学した優秀な者も多かった。できる生徒も私のようにできなかった生徒も、それぞれがそれぞれの人生を歩んだ。あれから50年経ってしまったのである。

  ガヤガヤと法隆寺の五重の塔へ向かう生徒に同級生の名前をかぶせて数え終えた。それでも尚、列は続いた。旗に「横須賀」の文字を見つけた。生徒たちはこれから私や私の同級生と同じく世の中へ出てゆく。それぞれにそれぞれの人生が待ち受ける。50年前の私と私の同級生と同じように。

  私はぞろぞろ続く修学旅行の生徒の列とは逆に歩き始めた。路線バスに乗って駅に戻り、奈良駅に向かった。生徒たちのお蔭で50年前に戻れた。修学旅行に皆と一緒に来ることができなかった。カナダへ渡ることを選んだ。同級生とは違う変わった道を歩んだ。高校ですでに才能や学力を限られた時間内に見事に発揮できた同級生からはるか後方から追いかけた。学力、健康で遅れをとった私も時間はかかったが英語で生計を立てるまでになった。結婚して二人の子供に恵まれ、そして離婚した。二人の子供を引き取り育てた。再婚して妻と海外で暮らした。糖尿病の合併症で狭心症になり、心臓バイパス手術を受けた。近代医学によって救われた。今はオマケの人生を穏やかに機嫌良く生きようと妻と話し合って決め、日本に帰国した。

   日本に帰ってきて湘南の地に終の棲家を得た。10年が過ぎた。同級会に出るたびに、同級生たちと会うたびに私は懇願していたことがある。「私が皆と行けなかった修学旅行と同じ日数とコースで私を関西に連れて行ってくれ」何人かが賛同してくれた。期待して待った。時間は過ぎる。結局、何も起こらなかった。

   遂にひとり修学旅行を今回妻の大阪での学会に同行して実現できた。法隆寺の後、東大寺、若草山、春日神社を巡り、次の日、京都、姫路にも行った。観光名所、史跡が目当てではなかった。私の年表の中に抜け落ちていた項目があった。パズルを完成させる最終段階にどうしても埋められなかったピースがパチンと納まった。何ごとに於いても遅れをとっていた私だが、遅まきながらやっと追いつけた気がする。私の終活に弾みがついてきた。

 

 


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