現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

サード

2024-03-18 09:30:36 | 映画

 ふとしたことから少年院に入ることになった少年が、そこでさまざまな経験を通じて少しずつ大人へと成長していく姿を描いた青春映画の秀作です。
 映画のタイトルは、高校野球の3塁手として活躍していた主人公のニックネームからきています。
 サードは、友人のⅡBとクラスメートの女の子二人で、「どこか大きな町へ行こう」と話し合います。
 そのためにはお金が必要だと、四人は売春を始めます。
 しかし、ある日ヤクザにつかまったサードは、衝動的に殺人を起こしてしまい少年院へ入れられてしまいます。
 大人になりきれない少年の焦りや苛立ちを、朴訥ながら永島敏行がみごとに演じています。
 サードが入れられた関東朝日少年院は、三方を沼で囲まれています。
 鉄格子の中で、少年達は朝早くから点呼、掃除、食事、探索等の日課を黙々とこなしています。
 しかし、数日前、上級生のアキラがサードの優等生ぶりが気に入らずケンカをしかけたため、二人は単独室に入れられていました。
 ある日、サードの母が面会にやってきます。
 退院後の暮しをあれこれ心配する母に、サードは相変らず冷淡な態度を示しました。
 少年達が待ちこがれる社会福祉団体SBCがやってきます。
 三ヵ月に一度やって来るこの日だけが、若い女性に接する事ができるのです。
 SBCとのソフトボールの試合中、一人の少年が院に送られてきます。
 サードの友人の数学ⅡBが得意なのだけが取得なので、ⅡBと呼ばれている少年です。
 ある日、農場で一人の少年が逃走しました。
 誰とも口をきかなかった、緘黙と呼ばれる少年です。
 その騒ぎにまぎれて院の生活に馴じめないⅡBも逃走を図りますが、やがて連れ戻されます。
 サードはそんなⅡBを殴り倒します。
 走っていくなら何処までも走れと、無言で語るサードの表情には、確固とした決意が読みとれました。
 サードの頭の中に在るのは、ここへ護送される途中に垣間見た、祭りの町を走り抜ける夢でした。
 彼が「九月の町」と名付けたその町は、彼が少年から大人へと成長する時に、彷徨しながら通りすぎる青春の象徴でした。
 この作品は、サードの少年院での生活と、事件当時の男女二人ずつの高校生を描いた部分のタッチが違い、観る人によって印象が変わってしまいます。
 原作は軒上泊の『九月の街』でこれを寺山修司が脚色しているのですが、でき上がった脚本はほとんどオリジナルといってもいいほどの斬新さを見せています。
 その脚本を、東陽一が監督して映画にしています。
 前半のサードの少年院での暮らしの部分はドキュメンタリータッチに描かれ、登場人物も実名で呼ばれていて妙に現実感があります。
 そこで、主人公のサードは一見模範生を演じながら、面会に来る母親、教官の先生たち、他の収容生たち、ボランティアの人びとなどに、内面で強い反感を示しています。
 ただ、ところどころの幻想的なシーン(サードがいろいろな所を走る、収容されている少年たちが社会福祉団体SBCの若い女性たち(当時の日活ロマンポルノの女優たちが採用されていました)を強姦するところを夢想しながらマスターベーションをする、通りがかりの海辺の町の祭りの様子など)と、収容生の一人が時々つぶやく短歌などが、寺山修司ならではの感性のきらめきを感じさせます。
 それに対して、回想シーンでの四人の少年少女たちの姿は、どこか作り物めいて見えるほどドラマチックで、わざと現実感がないように描かれています。
 それを象徴するかのように、少年少女たちは、名前ではなく、サード、ⅡB、新聞部、テニス部と呼ばれています。
 狭い田舎町の閉塞感、大きな町へ出たいという夢、町を出るための資金稼ぎとして新聞部とテニス部からあっけらかんと提案された売春、四人ともセックスが未経験だったので売春の前に実際にしてみるぎこちない初体験、部活感覚でサードとⅡBが客引きをして新聞部とテニス部が一人二万円でするどこかこっけいな売春シーン、新聞部に三時間以上もしつこくセックスを強要するやくざ風の男をサードが衝動的に殺してしまった殺人など、どれもがむしろ空想の世界の中で行われたかのように現実感がありません。
 この映画は、1978年のキネマ旬報の邦画の第1位に選ばれています。
 別の記事で書いた「帰らざる日々」は、同じ年の5位(読者投票では1位)でした。
 サードを演じたのは永島敏行で、彼は委員選出と読者投票の二つのナンバーワン映画に主演していたことになります。
 当時の若者の閉塞感と過剰なエネルギーを表すのに、彼の暗い表情とたくましい肉体はうってつけだったのでしょう。
 惜しげもなくたびたび現れた新聞部を演じる森下愛子のフルヌードは、様々なアダルトビデオやかわいいアイドルたちがあふれている現在において見ても圧倒的に美しく、この映画の芸術性や思想性を理解できなくても、これだけでもこの映画を見る価値があります。
 ただ、「帰らざる日々」で竹田かほりを見た時の「悲しさ」を感じなかったのは、森下愛子が結婚後も芸能活動続けていて年をとってからの彼女の姿も見ているので、この「若く美しい」森下愛子の姿を自分の中ですでに葬っているからでしょう。
 現時点でこの映画を理解するためには、いくつかの予備知識が必要です。
 今はやりの社会学者の古市憲寿によると、日本では1973年ごろに政治運動や高度成長などのいわゆる「大きな物語」は終焉して、みんなが個別の「自分探し」を始める「後期近代」が始まったと言われています。
 また、古市によると、未来に希望が持てない現代の若者はむしろ「今」に対して幸福を感じていて、まだ未来に希望が持てた70年代の若者の方が「今」に対して不満が強かったとのことです。
 「サード」の少年少女たちが「大きな町へ行って自分の夢を探したい」というのも、現状(閉塞した今の町)に不満があり、他の世界に未来の「自分探し」を求めていたと考えることができます。
 また、脚本の寺山修司の存在も、この映画では無視できません。
 寺山修司は現在では忘れられかけていますが、当時は、短歌、詩、エッセイ、演劇、映画、競馬解説などで多面的に活躍していて、その作品世界や彼自身の独特の「暗さ」、「寂しさ」、「孤独感」、「土着性」、「閉塞感を打破するための挑発」などが、若者の心情にマッチしていて強く支持されていました。
 この映画の監督の東陽一は、その寺山修司の「美的感覚」や「世界観」を忠実に描いています。
 また、現在は「援助交際」としてありふれたものになっている女子高生売春が、まだ(特に田舎では)一般的でなくて、この映画が時代を先取りしていたことも付け加えておきたいと思います。
 現代児童文学の世界では、この映画の持つ大人への不信、アイデンティティの喪失、現状の閉塞感などは、やはり寺山修司に影響を受けている森忠明の作品などに表れています。

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