「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

言葉あそび

2006年11月27日 | ああ!日本語
 今朝の朝日新聞の、“折々のうた“は、閑吟集からでした。
  「きづかさやよせさにしざひもお
 “室町歌謡が遊びの気分をたっぷり含んでいたことを一目瞭然示している歌謡。一体何を言っているのか、はじめはわからない。下から逆さに読めば意味は簡単。「思ひ差しに差せよや盃」。思ひ差しとは、わが思う相手に盃をさすこと。なんでもない事のようだが、男女の間の親密さが、こういうことば遊びにも見事に現れている。”と、大岡 信さんが、解説されていました。

 入院中、家族ぐるみのお付き合いがある夫の友人が、夫人同伴でお見舞いに来てくださいました。その折、閑吟集に造詣の深い夫人が、もう読み終わったので、古本だけど、よかったら退屈しのぎに。と持ってきてくださった本の中に、“ことば遊びの世界”小野恭靖著があったのを思い出して早速広げてみました。“折々のうた”に出ていたのと並んで、
むらあやでこもひよこたま」  閑吟集 273  が出ていました。
 「また今宵も来でやあらむ」となる“倒言”ということば遊びだそうです。恋人の訪れを願う一種の呪文として、意味内容の反転を願って、逆さまに歌ったもののようです。
 このほかにも、文字を並べ替えて別の新たな意味を持つ配列を作り出す”アナグラム“の「いろは歌」と多彩です。

 面白かったのは、“嘘字”と“鈍字”です。これはことば遊びというより、文字遊びです。
 古くは小野篁の十二の「子」の読解や、「無悪善」の読解にもみられるのですが、「木をかいて、春つばきに、夏ゑのき、秋はひさぎに、冬はひらぎよ」と椿、榎、楸、柊の漢字を短歌形式にしています。これをなぞったパロディーが、木偏を人偏に置き換えて、人偏に春で、うわき、人偏に夏でげんき、秋はふさぎ、冬はいんき、同じく人偏に暮は、まごつき、と、嘘字(うそじ)とよばれる創作漢字は、自分ならどう読むかと考えると、時間が経つのを忘れます。

 鈍字(どんじ)は、嘘字と並んで面白い漢字による文字遊びです。これは、実際の漢字の一部を細工改変して、面白おかしく読ませる趣向です。今でも、「社」ヤシロという字を,偏と旁の間をあけて「ネ 土」として、八代亜紀と読ませる遊びもあるようですから、日本語の表記に漢字が用いられる限りは、”浜の真砂は尽きるとも”でしょう。お江戸の鈍字から二つだけ引用します。御用とお急ぎでない方は、雨の日のつれずれにどうぞ。


鈍字では昔と言う漢字を「弘法大師」と読ませています。その解説は、「昔からご縁日」と記されています。
 漢字「昔」を分解すると、〔廾(二十)・一・日]21日は弘法さんの縁日です。

 瓦版なので、絵は墨の単色摺りで、極めて素朴なものです。


「次」を「男世帯」と読みます。
”女の姿が見えない。”と解説されています。
 「姿」という漢字から「女」を除いたものです。元の瓦版の刷り上がりが悪いので、見にくいです。
「内に人がない」ので、「留守」と読解させるものです。そのほか、口で、人名、田中十内などはわかりやすい鈍字です。